というわけで出雲行き。手荷物以外のすべてがキャリーバッグに収まったとは言え駅までの道がつらいなあと思っていたら、家から出てすぐの所でタクシーが拾え、すごく助かった。
羽田空港へは大門で乗り換えて京急。
11時発の飛行機で、空港到着は10時10分くらい。まあまあちょうどの時間。羽田は母と行った去年の夏以来だ。
ここでキャリーバッグを預けていると、ファルマンが声を掛けられた。なんと結婚式にも出席していただく、ファルマンの父親の妹さん、正月に一家でやってきた、その叔母さんだったのだ。話を聞くと、息子の大学が決まり、東京で部屋探しをしてきた帰りなのだという。あのモテそうなファルマンのいとこの青年も一緒だった。JALの羽田から出雲空港の便が1日に5便ぐらいなので、翌々日に結婚式があることを考えればそれほどの偶然でもない気もするが、それでも驚いた。
飛行機に乗り込んで緊張する。たった1時間半だというのは解っているのだが、それでもやはり慣れない。どの集団にも絶対に弱い人間というのはいて、パイロットなんてエリートたちの集まりのように思えるが、僕の乗った便のパイロットだけは、心が割と簡単に折れてしまう人のような気がいつもする。でもやっぱり飛行機はいつものように飛んだ。そして昇りつめて安定し、ちょっとしたらもう降ってゆくムードなのも前回通りだった。
様相が変化したのはここからだ。やけに揺れる。ぐわんぐわん揺れて、ぐいんぐいん機体が斜めになる。はじめの頃は割とジョークだったファルマンへのしがみつきが、次第に冗談じゃ済まなくなってきた。島根の街は眼下にはっきりと見えているのだが、それは「自分が空中にいるのだ」ということを知らしめ恐怖をかき立てるだけの効果しかない。ただただ怖い。それでも身体を斜めにして震えているような人は僕以外いなかったのだが、いちど本格的にガタリと揺れ、クールを決め込んでいた乗客たちが「うわっ」とか「きゃっ」とか短く声をあげた瞬間、言うまでもなく僕の恐怖もピークで、心臓がキュウゥーっと締め付けられた。老人らが安穏としているなかで、僕だけが乗客の中にいらっしゃるお医者様を呼びかけられるところだった。アナウンスによると、風が強く、いま着陸を試みたのだが、風の強さが規定値を超えていて、しょうがないからもういちどいま上がったところで、タイミング見計らってこのあともう1回挑戦してみたいと思うけど、無理だったら大阪の空港に行くからその時はごめんね、みたいな感じらしく、「いま米子上空を旋回しております」とかアナウンスが入り僕は椅子の手すりを必死に掴みながら、なんとかなれ、嘘のように風がやめ、と心の底から祈った。
でもなんとかならなかった。僕の期待したことは大抵の場合なんとかなるのだけど、今回はなんとかならなかった。「大阪空港に参ります」という無情のアナウンスが流れ、急に機体のバランスが整った。嘘のようだった。
出雲に行こうとしているのに大阪なんて、実際ありえないと思う。でもあの大揺れの恐怖を味わった身としては、出雲だろうと大阪だろうと無事に地面を踏めるだけで割と御の字だった。ただしもちろん予定は崩れる。昼過ぎに出雲に到着したら、午後は食事会の会場の旅館の人と打ち合わせをする予定だったのだが、それはキャンセルするほかなかった。明日は別の結婚式があるとのことで支配人側からNGが出ているので、打ち合わせなしで本番に臨むことになってしまった。
30分ほど飛んだあと、さっきのことが嘘のようにスウウゥッと伊丹空港に到着してからは、前述の叔母親子と合流し、「怖かったねえ」「えらいことになったねえ」などと話しながら、とりあえず昼食として空港内の蕎麦屋で蕎麦を食べた。時刻は13時半ぐらい。
それから高速バスで新大阪駅へ移動。島根に陸路で行く際に通過したことはあるが、大阪の街で実際に活動をしたのは初めて。とは言え大阪も広いんだろう。東京人の僕が期待するようなそれっぽい風景はまるでなく、虎柄のハッピを羽織った人もひとりもいなかった。
新大阪から新幹線で岡山。ちなみに飛行機を降りた際に航空会社からは伊丹・出雲間の航空代金に相当する金額を貰い受けており、とは言え伊丹・出雲間の飛行機が飛ぶはずはなくて陸路なわけで、陸路で新大阪から岡山、岡山から特急やくもで出雲市というルートだと、航空会社からもらったひとり分の代金で、ふたり分まかなえる計算となり、実はだいぶ儲かったのだった。しかもチケット自体は早割で取っていたため、返してもらった金額は払った金額よりもむしろ大きかった。そういう意味でちょっとテンションは上がったのだが、それにしたって昼過ぎに出雲に着けていたほうがよっぽどいいのは間違いなかった。
しかしこの日の出雲の天候のひどさはどうしようもなかった。岡山駅に到着し、8分後ぐらいに発車するやくもの乗り場まで急ごうとしていたら、僕らの乗ろうとしていた(新大阪でチケットを購入した)便は、強風によるダイヤの乱れにより運休となっていて、そのひとつ前、1時間前に発車しているはずの15時すぎ発車予定の電車に、16時すぎに飛び乗ったのだった。
そしてこんな状態の電車が空いているはずもなく、指定席が取れないのは新大阪の時点で判明していたのだが、自由席のほうも人がいっぱいで、接続部分にまで人が溢れ、B3のウェルカムボードが入る海外旅行用の巨大なキャリーバッグを持っている僕らが近づける雰囲気ではまるでなく、しょうがないので指定席のほうの接続部分に避難した。これだと途中で座れる可能性はないが、自由席のほうの様子を見れば、そちらにいても望みはなく、だとすればこちらのほうが人が少ないだけよかった。もちろんつらかったけど。肉体的にも精神的にも。だって昼過ぎには出雲に着いて、あさってに迫った結婚式の打ち合わせをして、成田空港で買ったフルーツのロールケーキをおやつに食べているはずだったのだ。なのになんで僕らは揺れるやくもの接続部分に立ってうなだれているのか。花嫁のファルマンなんて床に座りはじめちゃってるじゃないか。ここへ来て叔母を含めた僕らの合い言葉は、「思い出になる」「一生忘れられない結婚式になる」以外になかった。
そしてこれで終わりではない。途中で車内アナウンスが入り、「出雲市駅行きのこの電車だが、また折り返して岡山駅発の電車にならなければならず、そのためには出雲市駅まではどうしても行けないんですよ、なので松江までで勘弁してください、ごめんなさい」みたいなことを伝えてきたのである。ええええ、となった。まあ出雲と松江なので悲劇的な距離でないのはたしかで、叔母親子とワリカンにすればタクシーでもいいかとも思ったのだが、それにしたってひどかった。いちど出雲上空まで来て追い返され、いまふたたび6時間後に出雲寸前まで来て、なおも拒まれるとは。なにかの呪いだろうかと思った。
時刻は18時過ぎとなっていた。そのときちょうど仕事が終わったらしい義父から、「どんな具合だ」みたいなメールが来て、ファルマンと叔母で「これに迎えに来てもらおう!」と意見が合致する。実際叔母親子にもそれなりに荷物があり、果たして1台のタクシーで4人まかなえるだろうかという不安があったのだが、義父の車なら大きめなので心配ない。よっしゃよっしゃと話がまとまる。
松江駅に到着したら、外は台風のような雨だった。まったく本当にとんでもない日だ。義父の車を探しながら、この間ほとんど言葉を交わさなかった(みんなつらくって割と無言だったのだ)叔母の息子(僕にとって義理のいとこになるのか)に、「おなか空いたねー」と話しかける。彼は「ホント空きましたね!」と、こいつレモンでもかじってんじゃねえのかっていうくらい爽やかに頷いてくれて、ちょっと好きになりかけた。
義父の車に乗り込んで、ファルマンの実家と叔母の住まいのある町までは30分ぐらい。「大変だったなあ」「うちの会社の駐車場では、車の窓ガラスに木が刺さったりしたらしいぞ」などと義父は話し、僕らも飛行機ややくもがどれほどつらかったかを切々と語った。
戦友の叔母親子と別れ、7時間遅れのようやくの到着でファルマンの実家へ。実家では義母と実家在住の次女がお出迎え。岡山の三女は明日の到着になるらしい。
やれやれだった。時間的にも体力的にも、今日は丸ごと潰れてしまった。義母の手料理を食べ、おいしいビール(義父の好きなプレミアムだったのが残念だったけど)を飲み、ファルマンと風呂に入り、早々に寝てしまった。実を言えばまだ絵本が仕上がってない。本当は今日終わらせる予定だったのだ。まったくなんという日だったろう。一生忘れられない。