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2009.9.19

 カップラーメンのお昼ごはんのあとは、ファルマンがケーキ作りなんぞを始める。明日が僕の誕生日で、明日はファルマンは岡山の下の妹の所に1泊2日で遊びに行ってしまうので、今日にお祝いしてくれるのである。それで最近のお菓子作りの勢いそのままに、バースデーケーキも作ってくれるということなのだった。なんと昨晩にはハンドミキサーまで買ってしまった。
 作ったのはチョコのふわふわしたケーキ。僕がリクエストした。使用するチョコレートはもちろんガーナ。ファルマンは決して味の好みではなく雰囲気で「明治がいい」と主張したけれど無視した。
 製作は、なにぶんファルマンなので難航したけど、途中で見兼ねた僕の手助けもあってなんとかなった。あのままファルマンがひとりでやっていたら、まだ飲むヨーグルトぐらいの感じの卵白を、メレンゲとして生地と混ぜ合わせてしまうところだった。
 焼き上がりは、多少表面が焦げてしまったけど、それ以外は本当にふわふわに仕上がった。これに粉砂糖を振りかければ完成。ファルマンが冷めないうちから粉砂糖を掛けよう掛けようとするのを制止し、ふたりで近所のコンビニに散歩に行ったりした。
 帰ってきたら冷めていたのでケーキに粉砂糖を振りかけた。粉砂糖を振りかけると急にらしくなる。最後の仕上げで急にらしくなるものって世の中にけっこうあるなと思う。
 肉にコーンバターにフライドポテトに玉ねぎのスープという、なかなかベタに誕生日っぽいメニューの晩ごはんを食べながら、「思ひ出ぽろぽろ」を観る。またちょっと前から観たい気持ちが湧き上がってきていて、ようやく観ることができた。毎年誕生日の前夜には「思ひ出ぽろぽろ」を観るという決まりにしようかな。本当にこの映画は観るたびにおもしろくなる。それとファルマンが日常の中でよく柳葉敏郎の彼のモノマネをし、それがすごい似ていると思っていたのだが、実際に観てみたらファルマンがいつも唱えるセリフをとうとう柳葉敏郎は発せず、こういう現象は「耳をすませば」の際にもあったな、と思い出した。ジブリがいっぱいだ。
 食事を終えてデザートにケーキ。今年のバースデーソングは福山雅治(の坂本竜馬)風にやってもらう。まあまあの出来だった。だがおととしの綾戸智恵、去年の宇多田ヒカルほどのクオリティではない。やはり本物がまだ公開されていない、というのがモノマネをする上で大きな障壁となったと思う。やはり今年は中島みゆきにして、来年を福山にするべきだったか。ケーキはおいしかった。ふわふわで軽いのでいくらでも食べてしまえる感じ。気に入った。

2009.9.18

 そう言えば学校の制服ってなんで帽子がないんだろうね。私立の小学生とかカツオが被ってるああいうんじゃなくて、女子中高生の紫外線避けのために、制服に帽子は採用するべきじゃないかと思った。だとしたら形はやっぱりキャップかキャスケットがいい。
 それとトップスに関して夏はポロシャツも可、みたいな学校はあって、ミニスカートにポロシャツでキャップ、というのはもちろんかわいいなと思うけど、製本日記を読んでいたら「Tシャツはどうだ」「キャミソールはどうだ」ということも言っていて、ああそれもいいと思ったのだけど、しかしその過去の記事の後半で「しかしやっぱりシャツもいいのだ」とも言っていて、現在の僕もまたそれを読んで、「なるほどシャツも悪くない」と思ったのだった。
 じゃあそんなに優柔不断で宇佐木学園では一体どれを正式採用するのかという話だが、宇佐木学園は中1から高3までの6学年がそれぞれ6クラスに分かれているので、クラス縦割りで、A組はシャツ、B組はポロシャツ、C組はTシャツ、D組はキャミソール、みたいな感じで、あとのE組とF組はこれから考えればいいとして、こうすれば所属クラスも一目瞭然で利便性もあるし、そんな風にひとつの学校でいろいろな夏制服が愉しめる機構になっていればいいと思う。

2009.9.15

 今日は作業的な労働をやって、その際に埃対策としてマスクが配られたので着けたのだけど、そうしたらマスクが非常に臭くて往生した。あんな狭い空間で息を吸ったり吐いたりして、唾が飛んで唾液が攪拌されたら、それは臭くもなろう。後半など大便のようなにおいさえしはじめ、なんだか哀しくなった。(たぶん)僕の口は基本的には臭くなくて、でも空気に触れた唾液にはどうしたって若干の臭さはあり、その小刻みのジャブがマスクの繊維に蓄積してゆくことによって、強烈ストレートな大便の臭さに昇華された感じだった。インフルエンザ予防って言ってあいつらみんなこんな大便のにおいを嗅いで生活してんのな。ありえんわ。臭さに呼吸が整わず、意識が朦朧として、体調が崩れるかと思った。やはりマスクの奨励には大いに欺瞞を感じる。
 それとファルマンの歯痛が続いていて厄介だ。痛くて眠りが浅かったりもするようで、「じゃあ痛み止めの薬を飲めよ」と僕は言うのだが、「薬はなるべく飲みたくない」と拒み、その一方で「インフルエンザが怖い」とか言うのだからどうしようもない。結局ファルマンは僕の言うことはぜんぜん聞かず、どこの馬の骨が書いたか知れないネットの意見ばかりを信用する。
 昨晩など寝る際に歯痛対策として「枕だと頭が高すぎて顎に負担が掛かるからタオル程度のものを敷いて寝るとよい」みたいな阿呆な記述に騙されたらしく、実行していて、そしてそれはどう見ても寝心地が悪そうで、ムカついたのでタオルを没収して枕を置き、ついでに痛み止めの薬を飲ませて寝かせた。インフルエンザが怖いのならどうか安眠して万全の体調でいてほしい。どうか軽薄な矛盾した行動は取らないでほしい。
 ちなみにファルマンの会社ではインフルエンザ対策として「人ごみに近付くな」というお触れが出ているそうで、それには販売業の人間としてひどく憤りが湧いてくるのだった。「地球最後の日になにがしたい?」「最高級フルコースが食べたい」みたいな、誰が地球最後の日にお前に料理なんか作るよ、という厚顔さを感じる。高速道路無料化に反対する「高速道路を使わない人間の税金も使って賄うのはおかしい」論法の、じゃあもうお前は近所の牧場に行って肉をもらい近所の畑に行って野菜をもらって、地方産のものは一切享受せずに生活しろよ、という感じにも近い。その人が強欲で奔放なキャラクターを標榜するならまだしも、「人ごみに近付くな」も「最高級フルコース」も「高速道路を使わない」も、正論のようにいけしゃあしゃあと、なんかしらのことを自分は言っているみたいな顔で唱えるから嫌だ。

2009.9.14

 「君に届け」の新刊を読んでしあわせな気持ちになる。
 風早くんがいいなあ。本当に風早くんがいい。俺は風早くんみたいになりたいよ。男子校じゃなかったらたぶん風早くんキャラは間違いなかったのだろうが、なんせ男子校だったからなあ。本当にもったいないことをした。みすみす君に届く射程圏内から外れてしまった。
 とりあえず風早くんに敬意を表し、パッピーナの永遠のテーマ、purope★papiroの真ん中の「★」はなんと発音すればよいのかという問いについて、「風早だ」という答えをここに掲出したい。長年のコン・クラーベで導き出された結論を、ここで信者の方々に煙でお伝えしたい。
 正しい発音は「ぷろぺ、かぜはや、ぱぴろう」である、と。

2009.9.12

 前に読んだ本にカサノヴァの話が書いてあって、それによるとカサノヴァは、清純な女学生をふたり同時に水揚げしたことがあるそうである。ひとりでも難しいのにふたりなんてどんな神業だと思うが、実は逆で、女の子は同性が同じ場所にいると安心したり競争心が生まれたりで、むしろ篭絡しやすくなるという、そういう仕組みなのだ。
 カサノヴァの言うところの、これが「性愛の複数式」なのだそうだ。
 これを読んだときはびっくりして、なぜならこれを読むずっと前に僕は、「女の子の許容する露出度は女の子の人数に比例する」という法則を喝破していただろう。この貧しい少年は学校に通っていないはずなのに廃屋の壁に相対性理論の数式を石灰で記して解いていただろう。ふたり同時破瓜という武勇伝のカサノヴァに比べ、グループで下校している少女ははしゃいだりする分だけスカートが持ち上がりやすいしそれを気にしなさやすいと気付いた僕は嫌になるくらいつましいけれど、それでも言っていることは同じだ。
 女の子って集団でいたほうがエロいのだ。多くなればなるほどエロく、さらに言えば「絶対に男の子に負けない人数」が揃えばそのエロさは無敵。すぐ脱ぐ。すぐに脱いで男の子をみんなで捕まえて陰茎とか陰嚢とかで遊んじゃう。右陰嚢担当と左陰嚢担当が声を合わせて「せーの!」ってやっちゃう。「う、うわはぁっ!」ってなっちゃう。ちなみに宇佐木学園の生徒数は中高合わせて1200人あまりで、漢文の大神先生は授業のために赴いた教室で、クラスの全生徒から弄ばれることもしばしばなんだぜ。

2009.9.11

 射精する夢を見た。
 その射精がすごかったのである。どんなかと言うと、純粋理性批判の主人公の射精だ。「ずびゅっ、ぶばぱっ、どっどっ、どびゅびゅううぅぅぅっ、っぱぶ、ぶ、ぶぶぃゆふびゅぅぅっ」っていう感じの、とんでもないやつ。小便よりもはるかに激しい勢いで、どどん波みたいな光線状に白濁液が伸びていた。すっさまじい爽快感だった。
 目が覚めてから確認したけど、別に夢精とかじゃなかった。どうやら僕はずいぶんとフラットな感覚でその夢を見たようだ。起きた直後もすごく冷静な気持ちでその夢の内容を反芻していた。
 実際得られたのは純粋なる爽快感のみだったわけで、だとすればこれは数学者が難解な数式を解けた夢や、サッカー少年がレアルマドリード相手にボカスカとゴールを決める夢とかと、種類としては一緒なんじゃないかと思った。それが僕の場合はたまたま射精だったのだ。あの憧れの、液体が中空で筋となって、空気を切り裂く効果音(シャノマトペ)があって、コップが満杯になるくらいの量がある、放精の夢だったのだ。
 そしてこれはとてもいい作用だと思う。
 数学者やサッカー少年は、夢の中で一瞬だけ垣間見た頂点を、今後は具体的なイメージとして抱き、現実世界でふたたびそれが味わえるよう、さらに努力を重ねるのだろう。僕も同じだと思う。僕が現実であの射精ができるようになることはないが、なんて言うか、夢とは言えあれを体験として持っているっていうのは、これから純粋理性批判を読んでゆく上で大きなプラスになる気がするのだ。主人公の射精シーンにおいて、その勢いをまったく非現実的なことと揶揄するのではなく、<まああんな感じなんだろうな>とこれからの僕なら思える。あのすさまじい射精の感覚を、僕は獲得することに成功したのだ。勝者のイメージと言っていい。

2009.9.10

 ファルマンからひと足早く誕生日プレゼントをもらう。iPod shuffle(4G)だ。小さい!
 音楽の入れ替えができなくなったSDウォークマンを固執して使うことは、結局あまりなかった。割とすんなりとiPodに移ってしまった。だってひと晩充電して50分くらいしか動かないんだもの。移るほかないだろう。でもpapiroのそういう柔軟さ、僕は好きだな。
 アップルストアで注文して今日届いたのだが、そんな今日にちょうどアップルのiPod新バージョン発表ニュースがあってびびった。幸いなことに僕のもらった4Gのシャッフルは、いちばんショックが少なかったんじゃないかと思う。8800円だったものが7800円になったようで、1000円分のショック。色が3色追加されたことに関しては、それでも僕はシルバーを選んだろうから被害はない。買うとき1Gと4Gで迷ったのだが、1Gにしていたら同じ値段で今日から2Gになったみたいだから、これは割と哀しかったろうと思う。とは言えその哀しさも、nanoにしていた場合ほどではないだろう。nanoはそもそも選択肢になかったが、本当にこのタイミングで買わなくてよかった。
 ところでアップルストアで購入したため、刻印サービスというのがあるのだ。と言うか割とそれにひかれてオンラインで買った面がある。入れた文字は言うまでもないだろう。「ファルマン I LOVE YOU」だ。嘘だ。「NAYAMUKEDOKUZIKENAI」です。クリップの鏡面部分、リンゴのマークの下らへんに刻印されている。素敵。Apple×NAYAMUKEDOKUZIKENAIの、世界にたった1台のコラボモデル。iTunesの操作はまったく解らなくてムカつくのだけど、大事にしてゆこうと思う。

2009.9.9

 今月の純粋理性批判2冊を購入する。まだ読んでないけど、非常に期待が持てない。ひとつはほぼピンヒロインのようだし、もうひとつは開始から5つ目までのイラストが、エロシーンじゃなかった。普通のティーンズ文庫の挿絵だった。これには怒りが湧いた。なんだそれは。舐めてんのか。エロじゃない場面になんでイラストが必要なんだ。そのイラストがあることによって、読者がどうなるというのだ。編集者の観念が本当に理解できない。
 もう本当にダメ。最近の純粋理性批判のダメさはすごい。猛スピードでダメになってきている。社会契約論が「えすかれ」でエロを追求している(失敗ももちろんあるが)のに対し、もしかして純粋理性批判はティーンズ文庫を目指しているのか。たしかに純粋理性批判のキャッチフレーズは「ちょっとエッチなライトノベル」ではある。それで一時期は「どこがちょっとだよ」とツッコミの対象にもなったろう。でもだからと言って、本当に「ちょっとエッチなライトノベル」を目指してもしょうがないじゃないか。ティーンズ文庫の安定した売れ行きを考えれば、その道はたしかに安全かもしれない。その足元はさぞしっかりと舗装されていることだろう。だけど実はその道には奥行きがないのだ。と言うか輪になっているのだ。同じ所をぐるぐる回っているだけ。ライトノベルというのは全体的にそうだ。あれは永遠に同じことをやる所。それに対してエロは、一時期の純粋理性批判ががむしゃらに邁進していたエロ道は、同じ道を下調べしながら慎重に進む社会契約論さえ寄せ付けず、ずんずんと圧倒的な興奮に満ち溢れていたじゃないか。それはまさに開拓であり冒険だった。前方には無限の可能性があって、きらきら輝いていて、僕は本気で純粋理性批判が芥川賞を取る日がやってくるだろうと確信していた。それがこんなことになるなんて、いったい誰が予想しただろう。哀しい。あまりにも哀しい。志があまりにもあからさまに消失してしまった。

2009.9.8

 web2.0みたいなことを今もう誰も言わなくなっていて、ホワイトバンドのときとおんなじで、稼ぎたい人が稼ぎたいだけ稼いだから、その言葉はもう必要なくなったんだな、と思う(「環境保護」に関してはまだまだビジネスチャンスが残っているらしく未だ言われ続けている)。大人の世界って本当に欺瞞だらけだよ。25歳、今月の20日には26歳になるというのに、なお言うよ。無自覚な欺瞞からの逃避だよ。最近ちょっとこの言葉好きなんだよ。
 そんな情勢の中で、と言うかそんな情勢だからこそ、僕はそろそろwebマイナス3.0を宣言したいと思う。そもそも世間で本家のプラスのほうの2.0が忘れ去られているから、それゆえのマイナス3.0宣言である。マイナス3.0ともなれば、堂々と世間で「3.0の時代が来た!」と叫ばれているタイミングで言ってはいけない。だってそれは逆に目立つじゃないか。それが許されるのはマイナス2.0までの時代。マイナス3.0は、このプラス2.0のことをみんなすっかり忘れているタイミングでこそ唱えなければいけない。それでポカーンとされなければいけない。さあ言おうじゃないか。
 僕はwebマイナス3.0の世界に突入した、と。
 そもそもpuropediaを作りはじめたところらへんがその序曲だったと思う。なにしろweb2.0の最大特徴というのは「集合知」だった。みんなで知識やデータを持ち寄って、wikipediaなりYouTubeなりの巨大データバンクを作り上げる時代、それが2.0ってことだったろう。だからそれに対してのpuropedia。パピフェス。宇佐木学園ぴょんぴょんブログ。
 一向に全貌が明らかにならない宇佐木学園ぴょんぴょんブログだが、実を言うとこれは架空のブログであり、ガーターリングテイオクオフショーツソックスやランジェリー期末試験など、学校にまつわる言葉がこのクチバシダイアリーで出た際、「あはっ、これ宇佐木学園ぴょんぴょんブログの校則にしようっと」と言うときに名前だけ登場する、そういう存在なのである。
 このブログは新しい。画期的だと思う。ブログと言いつつ実はブログじゃないのだ。幽玄の存在。web2.0とか3.0とかそういう次元じゃない。だってweb上には存在しないブログなのだ。それは僕の心の中にだけある。こんなブログ見たことない。でもあるいは逆に、誰もがこんなブログを抱えて生きているのかもしれない。みんな誰かの愛しいブログなのかもしれないね。
 そんなわけで、webマイナス3.0、開幕です。

2009.9.7

 何日か前にヤフーの記事で読んだのだけど、ランジェリーフットボールというのがあるらしいじゃないか。最低限の防具だけ着け、基本的にランジェリー姿で女性たちがフットボールをするやつ。そもそもはスーパーボールのハーフタイムショーで行なっていたものが、人気だったため、この度ちゃんとした興行として独立したらしい。
 スーパーボールってアメリカの国民的スポーツイベントなんだろうに、そこでランジェリーフットボールってすごい。さすがだ。外国の人って本当にこういうところが解らない。神様とか信じてて、コンドームも禁止で、避妊はオギノ式だけ、みたいな人たちとかも、ランジェリーフットボールを観るのだろうか。ダメなものといいものの基準がまるで理解できない。絶対に友達になりたくない。
 それにしたってランジェリーフットボールだよ。写真や映像で見た実際のそれは、なにしろ選手がパワフルな外国人女性ばかりで、僕の精神になんの恩恵ももたらさなかったのだけど、とにかくランジェリーフットボールという字面から湧き上がってくる情趣、頭の中のニューロンがシナップする感触、これがこの話題を看過できない原因だと思う。
 結局はランジェリーなのだ。ランジェリー○○という発想。ここに夢が広がる。
 そこでファルマンに「他にどんなランジェリー○○が考えられるだろう」と訊ねたところ、
「ランジェリー期末試験」
 と回答され、僕はこのやり取りはもうちょっと長い時間かけてやるつもりだったのだけど、きっとこのあと話を続け、いろいろな答えを出したとしても、結果的にランジェリー期末試験がいちばんおもしろかったという結論になるだろうと思ったので、1発目の答えで会話が終わってしまった。妻の才気が溢れすぎているのも考えものだ。
 しかしいいなあ、ランジェリー期末試験。俺がなあ、理事長ならばなあ、カンニング防止の名目で会議の議題にかけるのだけどなあ。しょうがないのでこれも「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」だな。宇佐木学園の校則が着々と定まってきていて嬉しい。知らねえよ。

2009.9.6

 パピロウフェスティバル、略してパピフェスっていうのはどうだろう。
 ほらあの、夏とかによく開かれるロックフェスっていうのがあるじゃない。あのいけ好かないやつ。参戦とか言うやつ。なんで観覧することを参戦って言うのかよく解らないやつ。
 あれに対抗してのパピフェス。
 ついでに言えばコミケっていうのもあるじゃない。あのいけ好かないやつ。ちゃんとした出版社から出ているやつのほうが安くておもしろいよ、っていうやつ。
 それに対抗してのパピフェス。
 それらがなんでいけ好かないかと言えば、なんかすぐに集団を形成して、ルールが出来上がって、先輩面する輩が出てきて、独自の用語を使い始めて、伝説の存在とかが出てきたりするからだと思う。その感じがうざったくていけ好かない。
 でもなんて言うんですか、ハレとケと言いますか、地域の結束とかが希薄になって、祭りがきわめて一部の、ちょっと不良っぽかった感じの、体育会系の部活(だいたい野球部)に所属していた人たちだけのものになってしまった現代、そういうのの必要性っていうのも理解できないこともない。たぶん参加者も結局のところ中身はなんでもよくて、案内状にミスがあって、夏フェス行きたい人がコミケに、コミケに行きたい人が夏フェスにたどり着いてしまっても、そこそこ満足して帰ってくるのだろうと思う。要はみんな、暑い時期にがむしゃらになりたいだけなんだ。
 かくいう僕にもそういう気持ちはある。ストイックでばかりもいられない。帰省の際に義妹らと同じ部屋で眠るという展開に、「祭りの夜は性の無法地帯」的な、そういうハレが得られるのではないかと期待していたが、実現しなかったため、僕の日常は解放されないまま堆積されている。堆積は堆積で充足感があっていいのだけど、パーッとやりたい気持ちもやはり捨てきれない。
 そこでパピフェスである。
 これはcozy rippleに登場したいろいろなキャラクターたちが一同に会する、1年にいちどきりの大イベントである。パッピーナ(俺)にとっては本当にもう、たまらないイベントだ。
 プロッペッパッピローニ(俺)、まひろ(俺)、学年題6姉妹(俺)は言うに及ばず、故人であるはずの嘴亭萌え狼師匠(俺)、おむすび三太(俺)も夢の参戦。さらには存在自体が疑われていた残念和尚(俺)、老師(俺)も参戦するとかしないとか。フェスのラストには出演者(俺)および観客全員(俺)でcozy rippleのテーマソング「WE ARE THE NAYAMUKEDOKUZIKENAI」の大合唱。夢のような1日をあなた(俺)にプレゼント。そういうやつ。
 そんなパピフェスを、思いついたのが昨日だったので、いまさらだけど今年の8月某日に行なわれたことにして、そのうちpuropediaに「第1回パピフェス」の項を作り、出演者一覧やエピソード、実際にイベントを行なってみての、運営における移動や騒音などの反省点や、環境保護への取り組み、来年以降の展望などについて書こうと思う。そうすれば記念すべき第1回パピフェスはたしかに行なわれたことになろう。ぺディアに書けばそれは真実なのだから。

2009.9.5

 ファルマンが「うわのそら」に書いた内容に関し、知らない人からメールで苦言を呈されたそうで、荒れていた。その荒れはそのまま一緒に暮らす僕のほうにやってくるので、いい迷惑だ。
 それにしてもファルマンの日記に苦言を呈するとは怖いものなしだ。怖いものなしと言うか、そのメールの送り主は名前もメアドも記載していなかった(メールフォームからの投稿)らしいから、ずいぶんと無責任な話だと思う。明日からカナダに引っ越す寺井君が出発前の最後の日にグループ内の陰口をぜんぶぶちまけていった、みたいな、そのくらいの無責任さ。めんどくさいことになるに決まってるじゃないか。ファルマンがどれだけ「うわのそら」に依存していると思っているんだ。それによって迷惑を被った立場として、どうしたって文句のひとつも言いたくなる。
 ネットは開かれた場なのでネチケットを、とか、そういうのは、交流目的サイトのみでどうか適用していただいて、そうやって誰にもに不満の存在しない調和世界を構築していっていただいて、悪い部分を糾弾廃絶してゆくことにより空間はどんどん浄化され、嫌われ役を買って出たあなたはいつの日か聖人と崇められればいいのであって、どうか「うわのそら」や僕のサイトのような、コメント禁止の放言日記ブログのことは放っておいてほしいと思う。なにかひとつ頑迷な常識を持っている人っていうのは、個別の事例に関して柔軟に捉え方を分けることができず、その作業をすぐに怠けようとするから、バラつく無数の事例を混同してしまい、おかしなことを言い出す。
 じゃあネットで公開せずにノートに書けばいいだろう、というのはよくある反論で、さらに、じゃあなんでメールフォームを設置しているんだ、コメント禁止を誇らしげに唱えつつ閲覧者との交流を完全には閉じていないのは中途半端じゃないか、というのもすぐに思い浮かぶ安易な否定なのだけど、このふたつのピーチクパーチクには同時に答えることが可能である。
 つまり僕らはウェブ上に公開することによって褒められたいのであり、メールフォームはそのための、閲覧者が褒め言葉を送るための場所である。そういうことなのだ。さらに言えばこれは僕のみの意見だけど、褒めるという言葉さえも嫌いで、なぜかと言えば、それだと褒める側の人のほうが上みたいになってしまうからで、俺のことは褒めるんじゃなくてむしろ称賛してほしいとさえ、以前にも言っている。だからとにかくメールフォームって言うのは、決して内容に関して気分を害した人が苦言を呈するためのツールではない。
 そもそも個人ブログというのは、書いている人の心の中が表出されたものだろう。普通、他人の心の中は覗けないが、いろいろな条件が満たされることにより、文章化され目に見えるようになる場合がある。それが個人ブログである。だとすればそれを糾弾されるのはおかしい。もしも他人の心が覗けるようになったとして、街に出た場合、道行くまじめそうなサラリーマンが、心の中で女子高生へのレイプ願望をたぎらせていたとしても、それを口に出して責めていては、自分のほうが狂ったと思われてしまう。人なんて心の中では非道徳的なことをいくらでも考えているのだ。そんなこと当然で、だってそれが本能なのだし、それを責められるのだとしたら人類なんて存在できなくなってしまう。個人ブログへの苦言とはつまりそんな、アクロバティックな筋違いの離れ業をやっているということなのだ。実はサーカスでいちばんテクニックが必要なのはピエロなのだ。
 でもこんなこと、ずいぶん時代遅れな話だよな。なんでいまさらこんな低レベルな話なのだ。まったく恥ずかしい。高校2年生の書く小論文のようだな、この文章はまるで。
 でも「うわのそら」に依存している(「うわのそら」はファルマンの心なのだからしょうがないが)ファルマンは、あのメールのせいで相当に精神を掻き乱されたようで、それがどれほどかと言えば、歯をだいぶ食いしばってしまったため歯が痛み出し、今日の午前中に歯医者に行くはめになるほどだったので、他人の心に対して一方的に苦言を呈するということがどういうことか、その人に伝えるためではぜんぜんなくて、妻をなぐさめるためにこうして書いた。優しい夫だと称賛されたい。

2009.9.2

 モーニングを読んでいたら福満しげゆきの妻が妊娠していて、うわあ、と思った。火曜日のアクションのほうで「次号重大発表!」となっていたから、<ドラマにでもなるのかな>と考えていたのだけど、まさか妊娠とは思わなかった。僕は「僕の小規模な生活」から入って、「僕の小規模な失敗」とかを最近まとめて読んだ人間なので、作者の冴えない青年時代がまだぜんぜん最近のことのように思えていて、作者が今ではアクションとモーニングで連載を抱えている割と売れっ子漫画家だ、というイメージをまだあまり掴めていなく、そのために奥さんが妊娠という発想がまるで浮かばなかったのだった。しかしめでたい。嬉しい。青年時代の冴えなさを漫画で見ているだけに、今週号のモーニングのしあわせな妊娠発表はよかった。きれいに人間讃歌が決まった感じで、もう最終回でいいんじゃないかとさえ思った。だって漫画の性質上、出産後は子どもと3人での生活が描かれるのだろう。それってなんか違う気がする。もちろん愉しみな部分もあるけど、子育てコミックエッセイでは違和感も大きい。さてどうなるのかな。
 それと今日は僕がどんだけ週刊誌を読んでるんだって話なのだが、女性セブンに衝撃的な記事があったので記しておく。あのTBSで放送していた大家族の青木一家があるだろう、あれの長女のあざみちゃんが、とうとう父親からの性的暴行を告発したというのだ。あざみちゃんと父親は血が繋がってないという噂なのに、あざみちゃんが正体不明の男性との間に作ったとされる赤ん坊の顔は、本当にあまりにも父親に似すぎていて、バレバレと言えばバレバレだったのだけど、ついに、という感じだ。なんだかなあ、という気持ちになった。

2009.9.1

 つまりインプットっていうのはなにかを「入れる」ことではなくて、自分の中に「入る」ことなんだよ、っていううまいことを昨日の記事をアップしたあとに思いつき、眠る直前のファルマンにパピロートークしたら、「かんめーをうけた……ZZZ」と言ってくれたので、こうしてわざわざ書いた。
 新しいブログを作ることにし、その準備を開始した。
 でも開設されないのかな、とも思う。製本日記を読んでいたら、僕のブログを作ること作ること。しかし結局のところ主要なもの以外は残ってないし、驚くべきことには、たかだかここ1、2年の話なのに、もうそれがどんな試みのものだったのかぜんぜん思い出せないブログさえある。そういうのは大抵の場合もうページ自体を削除してしまっていて、確認することもできない。
 なので「開設する準備を始めた」とここで呟いただけのブログなんて、2年後にはタイトルも含めて一切の記憶がなくなってしまっているような気がする。自分はいったいこのときどんなブログを始めようとしていて、そのまま開設せずに終わったのだろうな、と15秒くらいだけ悩む気がする。なのでその2年後の僕のために、ヒントとしてタイトルだけ記しておく。
 始めようとしているブログのタイトルは「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」です。
 思い出した? そうそう、例のあれですよ。ちょっと、どんだけ準備してんすか。マジ勘弁してくださいよ。さすがにそろそろ開設してくださいよ。年上なので丁寧語。
 ブログってたまに閲覧者に向かって話しかけたりするやつがあって、はあ? とか思うけど、製本して読んでいるだろう未来の自分に向けて話しかけるっていうのは新しい気がする。

2009.8.31

  製本日記を読んでいたら、昔の自分が、本を読めなくなってきている自分を憂い、その原因をこの日記にしていた。曰く、毎日ここに文章を書かなければならないから本を読む時間がなく、アウトプットばかりでインプットがまるでないから、このままでは自分は薄っぺらな人間になってしまう、ということだった。若い。「インプット」「アウトプット」という言葉が大学生っぽくて恥ずかしい。
 その頃よりもさらに本を読まなくなった現在の自分から、当時の自分へのメッセージとして、「自分」というのは必死に本を読んで保たれるような、そんな薄っぺらいものではなく、むしろアウトプットすればするほど、世界で他の誰も研究していないpurope★papiroという人格は掘り下げられ、そこから無限のインプットが生まれてくるのだ、と言いたい。
 言ったら23歳の僕はドン引きするだろうな。
 約3年後の俺、どんだけ自分のこと好きなんだよ、と。

2009.8.27

 今日ふとした瞬間、設定を変えていない職場のエアコンが少し涼しすぎに感じられて、しかし外に出てみたら割と陽射しがジリッと来て、顔を一瞬しかめたものの、しかし落ち着いて受け止めてみると、それはどう考えてみても夏のピークのより弱々しくて、やっぱり夏の終わりを痛感した、そんな瞬間に唐突に強い気持ちで思った。
 俺はもっとちんこのこととかを考えなければダメだ。
 女の子がちんこを欲しがることについて、もっと真面目に考えないと、世界は輪郭を失って茫洋としてしまう。世界を形作ってゆくために、僕は女の子とちんこのことを熱心に考えるべきだ。夏が終わったとか理由にならない。たしかに薄着の女の子はいいだろう、水着の女の子はいいだろう。でもこれから寒くなってどれほど女の子たちのパピロー率が下がったとしても、決して忘れてはならないのは、冬でも女の子はちんこが好きだし、厚着の服も脱げば下着だ、ということだ。服なんて目くらましに過ぎない。裸の女の子はいつだってそこにいるんだ。カーディガンだってブレザーだってピーコートだって、さらに言えばババシャツだって、僕には自由に脱がせるはずだ。そうだろう? これまで純粋理性批判で、僕は何百人もの女の子を抱いてきたじゃないか。そしてその中には、決して脱ぎそうもない子もいたじゃないか。でもその子たちも結局は脱いで、結局はちんこが好きだったじゃない。100%の確率だったじゃない。つまり抱けない女の子なんていないんだ。抱けない季節もないんだ。夏休みだからスクールガールが街に少ない? 錯覚だよ。いるじゃないか。いると思ったら女の子はそこにいるんだ。いない女の子はいないんだ。僕はその子たちがどれほどちんこが好きか、なぜ好きか、特にどういう部分で好きか、残念なことにその子たちはインタビューには答えてくれないから、悟っていってあげたい。あなたを苦しめるすべてのことから悟ってあげたい。ソーユードントハフトゥウォーリ。俺にしか見えないけどたしかにそこにいる女の子のちんこ好き具合を悟って、今後もここに書き記してゆきたい。
 夏の終わりにこそ声高に叫びたい。「芝生!」そして「マリモッコトピア!」

2009.8.25

 ウォークマンが壊れた。パナソニックのSDウォークマン。それの初期のほうのやつだから、なんだかんだでかなり使った。直接ポケットに入れたり鞄に入れたり、扱いはぜんぜん丁寧じゃなかったのに、ずいぶんもったものだと思う。次に買うとしたらやっぱりipodなのかな。そもそもパナソニックはウォークマンやめたっぽいし。カセットやMDの世代として、意地でもSDに固執したい気持ちがあったが、でもそういうのの魅力ってなにかと言えば、自分で編集したベストソング集の入った記憶媒体を、友達とかクラスメイト同士でやりとりするみたいな、そういう点にあるわけで、こんなにもSDウォークマンが流行っていない状況ではそれがままならず、もちろん僕もこのウォークマンを使っていた数年間で、いちどもそんなことはできず終いで、だとしたらこれはただの、ipodほど便利じゃないポータブルプレイヤーに過ぎないので、どうしようもない。ちなみに故障具合は、充電はできるのだけど、パソコンに接続してデータを落とすことができない状態。つまり今SDに入っている曲だけでずっと満足するほかない。構わないよ。ある意味これは、飽きっぽい、音楽作品を使い捨てする、てめえらipod野郎たちへのアンチテーゼだよ。このウォークマンを使うってことは、まるでボロボロの学ランを羽織っているような気分だ。エリート私立校に転入してきたバンカラのような気持ちで、しばらくは街を闊歩したい。そしてそのうちipod買おう。

2009.8.24

 本日記のvol.2を読み終えた。vol.2は2007年の下半期で、そのため上半期のvol.1ほどおもしろくない。どうしたって作者の精神が沈んでいる。2ヶ月近くにわたって1行しか書かない期間とかがある。ひどい。それでも出来事はいろいろ充実していて、今の住まいに引っ越したり、例の夫妻に娘が生まれたり、義兄の店がオープンしたりしている。そして実はこの3つのイベントは、9月の後半という2週間くらいの間にすべて起こったのだった。懐かしい。今日からはvol.3に進む。2008年上半期である。vol.2に比べて60ページほども多く、上半期の勢いを感じさせる。とても愉しみだ。永遠にエロ小説と自分の日記だけを読んで生きてゆきたい。

2009.8.20

 ヒット君4コマ第4弾を引き続いてやる。平日で労働したのに3篇もやる。偉い。人志のスーツが非常にめんどくさかった。それとその中でフェラチオとか言ってしまった。こういう言葉を出してしまうから、友達伝いに紹介されてゆかないのだ。でもしょうがない。ファルマンにもさっき言われた。「あなたは褒められようと思ってやってもぜんぜんおもしろくなくなるから、自分がおもしろいと思ったことだけやりなさい」って。いい妻。いい妻ゆめ気分。それと誰も褒めなくていいから(褒められると作品の質が落ちるからむしろ褒められないことで価値が上がるって言うか、人に簡単に理解されない作品のほうが偉いって思うしマジで俺)自分で褒めるけど、6篇目と7篇目は話がまったく同じ構成になっていて、技巧的だと思う。これは漢詩における対句につながる部分があり、なるほどパピロウ氏はかつて齧っていたことがあるのだった。だとすればひとつのシリーズを12篇と規定していることも、漢詩的なイメージをパピロウ氏は持っているのかもしれない。褒めるどころか研究。テーマも作者も読者も研究者も、すべて俺が俺でまかなえばいいんだな。至ったわ。
 批判だけ私がしてあげる、とファルマンが言った。

2009.8.17

 普通の生活が戻ってきたので、製本した自分のブログを移動中に読む、というのをついに始めた。紙製のカバーと布製のカバーをダブルに掛けて、大事にvol.1から読み始めた。
 vol.1なので、やっぱりけっこう照れ臭い部分がある。2年半前、23歳の自分。どうしたって若い。読書記録とか創作論とか、なかなか語る。彼は今の僕よりもはるかに真面目だ。
 でも負け惜しみとかじゃなくて、その真面目さに羨望の気持ちは湧いてこない。結局それは、若くて、いろいろ確定していなくて、不安だったから、模索して、掘削して、ちょっとでも前進しようと、必死にもがいていたのだ。全身にかゆみがあって、それを掻くように、消してゆくように、がむしゃらにがんばっていたのだ。
 それは必要なことだったんだろうけど、またそこに身を置きたくは決してない。今の僕にはかゆい部分がなくて、だからがんばって掻く必要がなくて、安穏と過ごせていて、すごく心地よい。
 しあわせなことだと思う。
 クチバシダイアリーのテーマは人間(特に俺)讃歌。
 1月1日から始まるvol.1を現在5月2日まで読んでいて、貼った付箋の数は16枚。純粋理性批判以外の本でこんなに付箋を貼ったのは初めての経験だ。そう考えると結局これも、射精シーンに貼っているようなものかもしれない。
 そもそも日記なんてマスターベーションなのだから。