お金が湯水のようにあれば、仙人みたいに生きることが可能なのだなと思う。武者小路や志賀や里見など白樺派の人たちは、家にお金が湯水のようにあったから、それができていた。しかし武者小路の思想に共鳴した人たちはそうではなかったから、食べものを自分たちの力で作るほかなくて、それで苦労する羽目になった。
要はお金である。あくせく働くことなくお金が手元に集まればいい。その機構さえ実現すれば「新しき村」は間違いなく成立する。そのためにはどうすればいいか。
答えは明白である。白樺派の彼らに倣えばよいのである。つまり、おうちがお金持ちであればいいのだ。あるいは特別お金持ちでなくても、自分が普通に暮らせる分だけのお金を、親が毎月くれさえすればそれでいい。
これはつまるところニートである。ニートにはもしかしたら武者小路が目指していた理想なのかもしれない。かもしれないと言うかきっとそうだ。結局みんなニートになりたいのだ。
でも親というのは自分より先にいなくなってしまう。ニートというのはどうしたってここらへんがネックなのである。親の養いで生きると決意した者の宿命だ。この問題を一体どうすればよいか。
僕はその問題を解決するための、画期的な解決法を思いついた。
親が死んだ老齢ニートは、村に新しくやってきたばかりの若者ニートの、その親(おそらく老齢ニートと同世代ぐらいだろう)に養ってもらえばよいのだ。そして若者ニートが年をとり、親が死んだ際には、また新しい世代のニートの親に養ってもらう。そうやって村の歴史を脈々と重ねてゆく。
結局は年金と同じようなシステムということになるだろう。
共同体を作り、親からの潤沢な援助を得て、ネット環境を整備し、プランターでラディッシュとかを栽培すれば、ニートたちの未来もかなり明るいのではないかと思う。
ここに僕は新しきニート村の開村を宣言する。