2009.4.17

 昨日の自転車旅の帰り道、ある高校の前を通ったのだけど、その時ちょうど下校の時間だったようで、高校生たちがわんさか校門から出てきていた。ちなみに学校は共学である。
 そして学校から出てきたその少女たちを見て、僕はハッとしたのである。
 なぜか。それはその少女たちの表情が、普段見ている少女たちよりも、明らかにいきいきと輝いていたからである。今日はこのことについて書きたい。
 この理由について走りながら考え、やがて僕は学校の存在に思い至った。
 そう言えばこの少女たちは校門から出てきたばかりで、隣には一緒に教室を出てきたクラスメイトの男子グループも、機会があればちょっかいも出せうる感じの絶妙の距離感でいたりする。
 だとすればこの子たちっていうのは、「今まだ校内にいる」のだ。つまり僕はいま校内に侵入し、学校生活を過ごしている本物の女子高生を目にしているのだ。警備員の立つ校門を抜けた先でしか展開されないと思っていたリアルな女子高生ライフが、校門を出て100mぐらいのここらへんでは、まだぎりぎりで泡が弾けず保たれていて、僕は運良くそれを目撃できているのだ。
 これが駅に着いてしまうと、少女らは僕がさんざん見てきた「街の女子高生」になってしまって、これまでそんな認識というのはなかったけど、その子たちというのは実は、学校生活を核とした女子高生の本質をけっこう失ってしまっている。
 これは魚介類と似ている。鮮度が命なのだ。本当においしいお魚というのは、漁師が船の上で食べる魚(校門の内側の女子高生)か、あるいは港に着いてお母さんがたが作ってくれる漁師料理(校門から出て100mぐらいまでの女子高生)ということ。
 またこの「校門を出てからの距離」というのは、「女の子の許容する露出度は女の子の人数に比例する」の例の法則と同じで、人数が多ければ多いほど伸びてゆくのだろうと推測される。おそらくひとりにつき60mぐらいの計算で数字を導き出せる。たとえば7人で校門を出た場合、その7人組は、校門から420m地点までは「すごく学校生活の空気を保っている」に違いない。
 さらに言えばこの距離は、グループ内にひとりでも男子が含まれることによって、1.5倍換算くらいになるんじゃないかと思う。5限のHRでは話し終わらなかった文化祭の話を、男女混合で15人ぐらいで話しながら帰ってたりすると、60×15×1.5で、1350mぐらいはそいつらは学校の雰囲気を身に纏っているだろうと思う。
 ここに男子生徒の存在価値もようやく生まれるというものだ。次代の核である卵子に、精子はほぼ遺伝子情報を託すだけ、というのと一緒で、男子生徒というのは「女子高生のその距離」を伸ばすためだけに存在するのかもしれない。あと高い場所にあるものを持つ時。