2009.1.16

 言うても性に興味のある少女たちにとり、僕の勃起は魅力的に映らないものだろうか。奇っ怪な男性器の構造を、愛するヒロとの実地の前に、リアルに学んでおく必要性に、少女たちは駆られないものなのだろうか。
 どうもここには大きな需要が眠っているような気がしてならない。ビジネスチャンスと言ってもいい。中学時代の僕がまさにそういう状況にあったように、少女たちもこの点に関して、需要ばかりが募っているのではないだろうか。実は彼女たちの頭の中には、(ちんこが見たい)(ちんこが見たい)という欲求が渦巻いているんじゃないか。そうに違いない。
 それが結果的に少女たちへの性の堕落へと結びつく。(ちんこが見たい)という欲求は、つまりは好奇心である。少女に好奇心を持たせたらロクなことにならない。練習後のラグビー部の部室なり、いとこのお兄さんの部屋なりに赴いた少女は、ちんこを見せてもらう替わりに、必ずや大事なものを失う結果になるだろう。
 これはゆゆしき事態である。思えばずっとゆゆしくて、をとめごらのゆゆしい哀しみを生んできたのだ。それなのにクソ教育委員会は、なんの処置もしてこなかったのだ。
 今こそ改革の時である。
 ちんこを見させてもらう替わりに処女を失ってしまう、というこれまでのシステムは、一応は需要と供給が成り立っている。ただし客観的な価値基準から鑑みて、少女のほうが大いに割を食っているのは言うまでもない。ちんこの公開が少女の純潔と対価であった時代など、有史以前を振り返ってみても存在しない。つまり、もはやこれは詐欺なのだ。開国直後の明治の日本で、やってきた外人が日本人とお互いの硬貨を両替したらしいが、日本人がつかまされた外国の貨幣の価値に比べ、日本のお金は金や銀の純度が高く、国へ持って帰るとすごい高値で引き取ってもらえたという。ちんこと処女は、だいたいそんな感じであろうと思う。
 僕はこの偏りを是正したい。つまり、ちんこが稀少であるからいけないのだ。少女にとって生のちんこがもっと身近な存在であれば、少女も危険を冒してちんこを求めたりしなくなる。昔はたぶん祭りとかが果たしていたこの是正を、いかにして成し遂げるか。
 もちろん、裸の上にトレンチコートのみを羽織り町を闊歩するわけにはいかない。どうして僕が逮捕されなければいけないのだ。少女たちの流れるはずだった涙をせき止める役割を果たす僕が、逮捕などされていいはずがない。
 ではどうするか。これはやはりクソ教育委員会が決心するほかない。すなわち、少女たちへの性教育カリキュラムに、僕という教材を用いる許可を彼らが出す、ということだ。
 イラストやビデオ、あるいは人形など、いかにリアルに努めようと、結局は作りものである。それらがもたらすちんこは、とても少女たちの好奇心を満足させるものではない。むしろますますかき立てさえするだろう。本物のちんこってじゃあ!? となる。逆効果なのだ。
 その点、僕ならば本物である。サイズとか角度とか、そういうのは今はいいじゃない。とりあえず少女たちは本物のちんこを、間近でつぶさに観察することができる。これによって少女たちはちんこに対し親近感が持て、いたずらに妄想を膨らませることがなくなる。すばらしい。
 これまでの町の乱暴者たちが、ちんこ公開の代償として少女に破瓜を求めてたのに対し、わきまえている僕はそんなこと言わない。ただ制服を脱いで下着になってくれればいい。これは自然学習で泥まみれになるから、水着とか捨ててもいいTシャツとかを用意してきなさい、と同じようなテイストでの下着ということである。格別そのような流れを求めるというわけでもないが、どうしたって場合によっては僕が射精へと至るケースも出てくるだろう。学校の偏差値によってはそういうこともありうるはずだ。そうしたとき、制服に掛けるよりは下着に出したほうが被害は少ない。それゆえの下着ということである。ユッコのブラかーわーいーいー。
 ちなみにこの役割というのは、そこらへんにいる男性教諭ではいけないのである。そのことも強く主張しておきたい。なぜなら男性教諭は、ちんこにあてられてエロい気分になった少女が、授業が終わったあと交渉を求めてきた場合、抱いてしまうからである。これでは意味がない。
 その点、僕は安心だ。なぜか。なぜなら僕の勃起は芝生だからである。ただ五月の風にそよぐだけだからである。この仕事は、勃起にそんな風な芝生性がなければ勤まらない。選ばれた仕事なのだ。職業に貴賎はないが、この仕事だけは尊いと思う。
 そういったことも含めて、今後クソ教育委員会には協議を進めていってほしいと思う。