2008.12.19

 何日か前に、義妹を思って「こうしちゃいられない」気持ちになり、純粋理性批判を読んで、それによって得た資材で、脳内に性欲大伽藍を建立し、その中庭には芝生があり、義妹はふたりともそこでしあわせそうに微笑んでいる、というようなことを書いた。
 それに加えて昨日書いた、方向性のない様式美としての勃起の話。
 今日になってこれらの事柄が、ひとつの線にまとまったので記しておく。
 つまり僕のこの、愉しく朗らかな勃起というのは、「芝生」なのである。その勃起を他の言葉で言い換えるとすれば、「芝生」以外にない。一面に生え揃い、爽快感を感じさせ、ヒーリング効果があり、転んでも怪我をせず、思わずその上に腰を下ろし、童謡でも歌いたくなるような、これはそういう勃起だろうと思う。通常の勃起が樹木だとすれば、僕によるこの勃起は間違いなく「芝生」だ。
 そして「芝生」であるがゆえに、「萌え」なのではないか。
 そうなのだ。勃起という直接的な反応が、ちょっと事態を分かりにくくしていたけれど、欲望を吐き出す必要性のない勃起、これは性的欲求で括ってしまうよりも、「萌え」として捉えたほうがよほどしっくりと来る。
 つまり「萌え」というのは、例えば猫耳なら猫耳でいいのだけど、その猫耳の少女が、脳内性欲御殿の中庭の、敷きつめられた芝生の上で、なんの憂いもなくくつろいでいてほしいと感じること、つまりそういうことなのではないだろうか。もちろん建物全体としては性欲によって造り上げられたユートピアであるから、中庭と言えど基本的には性欲で彩られている。でもそれじゃあセックスをしたいかと言えば決してそうではない。そういうんじゃなく、堅苦しい儀式の執り行われている建物からは一緒に抜け出してしまって、僕ら中庭で草笛でもしながら乳首をいじくりあおうぜくらいの、「萌え」というのはそういうものなのではないか。
 つまり図式としては、「義妹→こうしちゃいられない→性欲→建立→パーティー→脱出→芝生→萌え」という、そういう感じになるのではないかと思う。この論についてはそのうち、「「萌え」とは何の植物が生えているのか」という新書を上梓し、きちんと説明したいと思う。