2009.9.23

 それで次はなにに没頭するのかと言えば、やはり宇佐木学園である。宇佐木学園について考えるのがいますごく愉しい。今日の午前中もずっとやっていた。エクセルで表を作り、複数の視点からの日付ごとの事柄を書き出す作業をいまやっている。朝勃ち当番はもうすべての日付が埋まっていて、たとえば大神先生が3年すこやか組のボニータチェックをした6月20日の朝勃ち当番は4年ほがらか組の広瀬小梅で、新がみちるから朝勃ち当番について初めて聞いた6月1日の当番は、2年きよらか組の日野茜である。その場面自体は書かない可能性が大きいのだけど、たとえば体育祭を書く場合、その日の朝の朝勃ち当番が誰か、っていうのは重要になってくる。そういう意味で全ての日の朝勃ち当番を規定した。これが夢のように愉しい作業だった。セルに名前を書き込んだ生徒から、印刷した一覧表の名前の所にチェックを入れてゆくのだけど、キーボードを叩いてはペンを持ち、名前をせっせと消してゆく、その作業中たまににファルマンと目が合うと、ちょっとだけもの哀しい気持ちに襲われたけどきっと錯覚だろうなと思った。
 ちなみに夏服をクラスごとに変えるという話で、ブラウス、ポロシャツ、キャミソール、Tシャツと、残りの2種類の制服をどうするかという話があったのだけど、考えた結果、「ワンピース」と「ビキニ」に決定しました。パチパチパチ。各学年のすこやか組の生徒は、6月25日からはビキニで授業です。やったね!
 そんな感じで僕のシルバーウィークは終わった。

2009.9.23

 5日中4日働いたシルバーウィークの最終日。出勤は午後からだったので、ファルマンとともにそれまではのんびり過ごす。でもファルマンは昨日、事前に「シルバーウィークの間は専業主婦だけん」宣言をしていたのに、ぜんぜん、まったく、普段以上になんにも家事をせず、僕が労働を終わらせて駅で電話を掛けたら話し中で繋がらず、そんでもって最寄駅に着き、そこから歩いて家に到着する5分くらい前に、「晩ごはん、食べたいもの買ってきてね」ってメールを送ってきて、つまり晩ごはんを用意しておらず、と言うかごはんさえ炊いておらず、そのメールがもう少し早くてたとえ僕が(ヘロヘロだったのに)スーパーで食材を買って帰ったとしても、お前ごはん炊いてねえじゃねえかっていう、そんでもってこのゴミ溜めのようなテーブルの上に置かれたままの皿はお前が昼に喰った冷凍のピラフの皿だろうがっていう、もうそういう状態だったので、僕はあんまり機嫌がよくなく、そんな機嫌がよくない僕を、ファルマンは罪の意識で必死になってなだめればいいものを、決してそんなことはせず、むしろ話しかけてもろくに返事をせず、ことあるごとにすぐに横になってしまう感じで、調子が悪いのかと僕が訊ねたら、「日曜病だけん」とか言いやがって、5日間休んで! 家事をせず! そしてお前は最終日に日曜病になって俺の精神を掻き乱すか! 5日中4日! 5日中4日働いた俺が、5連休の! 5連休のお前の日曜病を同情して! 慮らなければならないのか! 阿呆! 阿呆阿呆阿呆! ってなって、まあそんな感じでずいぶんとムカついた。
 まあ今日はさすがに労働から帰ってきたらそれなりに部屋が片付いていて、洗濯もしてあって、夕食にオムライスも作っていたので、多少は救われた。とは言えファルマンは5連休について「まばたきするみたいに一瞬だった」とか抜かすので、やはりだいぶムカつく。阿呆に余暇を与えても精神が衰退するだけだ。そして精神の衰退が肉体を衰退させインフルエンザを流行させるのだ。愛する奥さんを見てそんな風に思ったシルバーウィークでした。

2009.9.22

 ファルマンが帰ってきたのだった。おみやげなしに。ファルマンは20日、岡山で両親と下の妹と合流した際、「今日パピロウの誕生日なんだよ」と言って心配されたという。下の妹には「なんでここにおるん?」と訊ねられたそうだ。俺もそう思う。でももうファルマンが帰ってきたので大丈夫。嬉しい。まあおみやげはなかったけども。
 ファルマンから伝え聞いた下の妹のサークルの話がおもしろかった。新歓コンパで水鉄砲を撃ち合いびしょ濡れでバーベキューしたという話は前にも書いて、それに関連する最低なぞなぞも書いたが、そのサークルでまたしてもとんでもないゲームが繰り広げられたという。その名もクッキーゲーム。これはどういうゲームかと言えば、ポッキーゲームのポッキーが、クッキーであるゲームだという。「イヤー!」と叫んだ。ポッキーゲームは、棒状のポッキーだから成立するのであって、そのポッキーがクッキーでは、たとえ「お菓子」という共通点があって、また語感が似ていたとしても、大いに問題があるだろう。だって、クッキーは長くないじゃないか。たかだか3、4cmだろう。3、4cmと言うか、これは単に長さだけの問題ではなくて、ポッキーがだいたい10cmだとすればそれは紛うことなく10cmだが、クッキーの場合の3、4cmというのは辺の長さに過ぎないのであって、それはcmじゃなくて平方cmで言い表されるべき対象だろうと思う。ラインじゃない。スクエアなのだ。スクエアじゃダメだろう。スクエアとスクエアを繋ぐのがラインなのであって、つまり唇と唇を繋ぐポッキーとして成立しているのに、そのポッキーがクッキー、すなわちスクエアになってしまったら、渡り廊下もなしにビルとビルは連結してしまって、それは要するにキスじゃないか、と思う。だからもう、クッキーゲームはゲームなんかじゃなくて、キスなのだ。キスをしたのか。下の妹はもちろんしていないと言い、信じたいが、そのサークルではそのようなことが行なわれているのか。すばらしいな。「キスしようぜ」じゃ女の子は首を縦に振らないけど、「クッキーゲームしようぜ」なら7回に2回くらいはオッケーがもらえるんじゃないかと思う。とにかくクッキーゲームという名称がいい。結果的にそれがキスのおしゃれな言い方だ、という部分が特にいいと思う。吉住渉とかが普通に描きそうだ。「ママレードボーイ」みたいなノリで。
「まあポッキーがなかったから代わりだったらしいんだけどね」
 でもそういう、しょうがなしの代替で生まれた人類の智恵って、例は特に浮かばないけどたくさんあると思う。人類だってまた、神によるしょうがなしの代替かもしれんのんだけんね……。
 あと同じくサークルの話で、夏に海に行ったそうなのだが、そのときひとりの男子が砂浜に寝そべったので、みんなで強襲し砂を被せ、身体を拘束したあと、女子も含めたそのメンバーで、彼の股間の部分に砂を高く盛って、みんなで愉快に笑ったのだそうである。まあお約束だけど、お約束だけどね、でもさ、その陰茎部分が猛々しく盛り上がっている様を見て女の子たちがはしゃぎ、あまつさえその建造に参戦し、途中で崩れたりせぬよう手のひらでその塔の形を整えさえしたのだとすれば、それはもう完璧なるマリモッコトピアじゃないか。マリモッコトピアは言い換えれば勃起ユートピアであり、ユートピアということは夢物語なのに、ここでは実現してしまっている。この実現には打ちひしがれるしかない。だって砂に埋められ股間の所だけ盛り上げられた男子を女子を含めたメンバーで笑う彼らには、宇佐木学園なんてまるで必要ないんだ。僕が一生懸命に到達しようとしているゴールに、彼らは現実世界で易々とたどり着いてしまっている。じゃあいったい宇佐木学園ってなんだろう? 宇佐木学園なんて必要あるのかな。どうなんだろう。
 悩む。でも悩むけど挫けない。俺は悩むけど挫けないのだ。
 ファルマンにそう言ったらファルマン曰く。
「彼らは、悩まず挫けて励ましてもらうそして絆が深まる、だよ」
 NAYAMAZUKUZIKETEHAGEMASHITEMORAUSOSHITEKIZUNAGAHUKAMARU!
 そんな消しゴムはんこを彫ることはこんなカス26歳にはできないよ。文字数が多いし。というわけで「NAYAMUKEDOKUZIKENAI」はんこと「MOTTAINAIDESUYONEARUIMI(S)」はんこ。
 自分のスローガンを消しゴムに彫るしあわせ。自分じゃない自分からの励まし。そんな自分自身との絆。心と体、人間の全部。猫とアヒルが力を合わせてみんなの幸せを招き猫ダック。

2009.9.21

 ブログも1記事追加した。大神版8月4日午後11時30分。実はこれはこの日記の今年の5月15日のほぼそのままだったりする。えっ、じゃあ大神先生はパピロウ自身ってこと? てことん? てことんってなに? パピロウオリジナルギャグ? まあそれはいいけど、じゃあぴょんぴょんブログの作者の「おむすび三太」って何者? えっ? 学年題俳人? 学年題俳句ってなに? パピロウオリジナルの俳句形式? 学年題6姉妹について詠む? 学年題6姉妹ってなに? 心、茜、郁、環、瞳、円? えっ? その6人が宇佐木学園にも登場してるの? 環のペンフレンドはまひろ? まひろって誰? 学年題俳句に参加している北海道の女子高生? ボーイフレンドの彰介は名津川若葉と幼なじみ? 名津川若葉って誰? 宇佐木学園の生徒にしてレターズガールズの一員? レターズガールズってなに? ずっと前にやっていた足ながおじさん企画? えっ、なに言ってんの? ぜんぶ繋がってんの? まひろはおむすび三太の玄孫? そしておむすび三太は故人? 102歳の大往生? なんで故人がブログをやるの? 結局だれがパピロウなの? 大神なの? 新なの? おむすび三太なの? えっ、ぜんぶパピロウ? 強いて言えば理事長がパピロウ? なんで急に理事長が出てきたの? 宇佐木学園の理事長? と同時に私立バイブレーション学園の理事長? は? 私立バイブレーション学園ってなに? ずっと前にやった官能小説ブログで1話だけ書いた、女生徒全員の膣に遠隔バイブが入っていて、その操作リモコンを理事長が握っている学園? えっ、なに言ってるの? それ誰が覚えているの? 弟はカサノヴァ学園の理事長? えっ、今月の長歌ともリンクさせるの? 宇佐木学園の話をしているのになんでバイブレーション学園とカサノヴァ学園を出してきたの? って言うかパピロウがバイブレーション学園の理事長なら、パピロウに弟がいるの? あ、いないの? いないのになんで弟って言ったの? そういう設定? あ、ぜんぶ設定ってこと? 設定だけど存在? なに、なんか存在って言うとなんでもそれっぽくなると思ってる? なってないからね? ぜんぜん意味が解んないからね。そんなに意味が解んなくて勝手で、コメントは汚れとか言ってると、誰からも誕生日のお祝い言ってもらえないんだからね…………ウチ以外からは。えっ? ちゅっ。な、なにすんだよ急に? 誕生日プレゼントに決まってるでしょ、1日遅れちゃったけど。えっ、マジかよお前……、お前もまた俺の一人格でしかないのに、本当にいいのか? いいも悪いもないじゃない。それでもウチは……ウチはパピロウのことが本当に大好きなんだけんね。お前っ(そして俺)。

2009.9.20

 そのあとは「HAPPY 26 BIRTHDAY PUROPE★PAPIRO」という、今日しか使えないはんこ図案を独りで過ごす誕生日当日の今日にしこしこと彫ろうかとも考えるが、ファルマンがあとから知ったら泣きそうなのでやめる。妻思い。
 というわけでブログを作りました。
 自分への誕生日プレゼントブログは2年ぶり。
 「存在しないという存在が存在するブログの存在」という超次元的な存在だと言われていたこのブログを、ついには実際に開設してしまう。
 そう、宇佐木学園ぴょんぴょんブログである。
 今回のこれに関しては事前にけっこう準備をしたので、タイトルだけの見切り発車とかじゃない。設定だけでA4用紙10枚近くになった。それくらい満を持しての船出である。
 しかもその船と来たら、港に2隻もあるじゃないか。
 大神版宇佐木学園ぴょんぴょんブログと、中埜版宇佐木学園ぴょんぴょんブログ。
 いろいろ一生懸命がんばった25歳の自分へのご褒美として、ブログ1個じゃぜんぜん足りない。だから2個。ふたつの視点から、宇佐木学園の2012年の6月1日から8月31日までの日々を描いてゆこうと思う。そういうブログです。もう現実と日記と創作とブログと友愛と破壊の区別がつかなくなってきている感がある。

2009.9.19

 カップラーメンのお昼ごはんのあとは、ファルマンがケーキ作りなんぞを始める。明日が僕の誕生日で、明日はファルマンは岡山の下の妹の所に1泊2日で遊びに行ってしまうので、今日にお祝いしてくれるのである。それで最近のお菓子作りの勢いそのままに、バースデーケーキも作ってくれるということなのだった。なんと昨晩にはハンドミキサーまで買ってしまった。
 作ったのはチョコのふわふわしたケーキ。僕がリクエストした。使用するチョコレートはもちろんガーナ。ファルマンは決して味の好みではなく雰囲気で「明治がいい」と主張したけれど無視した。
 製作は、なにぶんファルマンなので難航したけど、途中で見兼ねた僕の手助けもあってなんとかなった。あのままファルマンがひとりでやっていたら、まだ飲むヨーグルトぐらいの感じの卵白を、メレンゲとして生地と混ぜ合わせてしまうところだった。
 焼き上がりは、多少表面が焦げてしまったけど、それ以外は本当にふわふわに仕上がった。これに粉砂糖を振りかければ完成。ファルマンが冷めないうちから粉砂糖を掛けよう掛けようとするのを制止し、ふたりで近所のコンビニに散歩に行ったりした。
 帰ってきたら冷めていたのでケーキに粉砂糖を振りかけた。粉砂糖を振りかけると急にらしくなる。最後の仕上げで急にらしくなるものって世の中にけっこうあるなと思う。
 肉にコーンバターにフライドポテトに玉ねぎのスープという、なかなかベタに誕生日っぽいメニューの晩ごはんを食べながら、「思ひ出ぽろぽろ」を観る。またちょっと前から観たい気持ちが湧き上がってきていて、ようやく観ることができた。毎年誕生日の前夜には「思ひ出ぽろぽろ」を観るという決まりにしようかな。本当にこの映画は観るたびにおもしろくなる。それとファルマンが日常の中でよく柳葉敏郎の彼のモノマネをし、それがすごい似ていると思っていたのだが、実際に観てみたらファルマンがいつも唱えるセリフをとうとう柳葉敏郎は発せず、こういう現象は「耳をすませば」の際にもあったな、と思い出した。ジブリがいっぱいだ。
 食事を終えてデザートにケーキ。今年のバースデーソングは福山雅治(の坂本竜馬)風にやってもらう。まあまあの出来だった。だがおととしの綾戸智恵、去年の宇多田ヒカルほどのクオリティではない。やはり本物がまだ公開されていない、というのがモノマネをする上で大きな障壁となったと思う。やはり今年は中島みゆきにして、来年を福山にするべきだったか。ケーキはおいしかった。ふわふわで軽いのでいくらでも食べてしまえる感じ。気に入った。

2009.9.18

 そう言えば学校の制服ってなんで帽子がないんだろうね。私立の小学生とかカツオが被ってるああいうんじゃなくて、女子中高生の紫外線避けのために、制服に帽子は採用するべきじゃないかと思った。だとしたら形はやっぱりキャップかキャスケットがいい。
 それとトップスに関して夏はポロシャツも可、みたいな学校はあって、ミニスカートにポロシャツでキャップ、というのはもちろんかわいいなと思うけど、製本日記を読んでいたら「Tシャツはどうだ」「キャミソールはどうだ」ということも言っていて、ああそれもいいと思ったのだけど、しかしその過去の記事の後半で「しかしやっぱりシャツもいいのだ」とも言っていて、現在の僕もまたそれを読んで、「なるほどシャツも悪くない」と思ったのだった。
 じゃあそんなに優柔不断で宇佐木学園では一体どれを正式採用するのかという話だが、宇佐木学園は中1から高3までの6学年がそれぞれ6クラスに分かれているので、クラス縦割りで、A組はシャツ、B組はポロシャツ、C組はTシャツ、D組はキャミソール、みたいな感じで、あとのE組とF組はこれから考えればいいとして、こうすれば所属クラスも一目瞭然で利便性もあるし、そんな風にひとつの学校でいろいろな夏制服が愉しめる機構になっていればいいと思う。

2009.9.15

 今日は作業的な労働をやって、その際に埃対策としてマスクが配られたので着けたのだけど、そうしたらマスクが非常に臭くて往生した。あんな狭い空間で息を吸ったり吐いたりして、唾が飛んで唾液が攪拌されたら、それは臭くもなろう。後半など大便のようなにおいさえしはじめ、なんだか哀しくなった。(たぶん)僕の口は基本的には臭くなくて、でも空気に触れた唾液にはどうしたって若干の臭さはあり、その小刻みのジャブがマスクの繊維に蓄積してゆくことによって、強烈ストレートな大便の臭さに昇華された感じだった。インフルエンザ予防って言ってあいつらみんなこんな大便のにおいを嗅いで生活してんのな。ありえんわ。臭さに呼吸が整わず、意識が朦朧として、体調が崩れるかと思った。やはりマスクの奨励には大いに欺瞞を感じる。
 それとファルマンの歯痛が続いていて厄介だ。痛くて眠りが浅かったりもするようで、「じゃあ痛み止めの薬を飲めよ」と僕は言うのだが、「薬はなるべく飲みたくない」と拒み、その一方で「インフルエンザが怖い」とか言うのだからどうしようもない。結局ファルマンは僕の言うことはぜんぜん聞かず、どこの馬の骨が書いたか知れないネットの意見ばかりを信用する。
 昨晩など寝る際に歯痛対策として「枕だと頭が高すぎて顎に負担が掛かるからタオル程度のものを敷いて寝るとよい」みたいな阿呆な記述に騙されたらしく、実行していて、そしてそれはどう見ても寝心地が悪そうで、ムカついたのでタオルを没収して枕を置き、ついでに痛み止めの薬を飲ませて寝かせた。インフルエンザが怖いのならどうか安眠して万全の体調でいてほしい。どうか軽薄な矛盾した行動は取らないでほしい。
 ちなみにファルマンの会社ではインフルエンザ対策として「人ごみに近付くな」というお触れが出ているそうで、それには販売業の人間としてひどく憤りが湧いてくるのだった。「地球最後の日になにがしたい?」「最高級フルコースが食べたい」みたいな、誰が地球最後の日にお前に料理なんか作るよ、という厚顔さを感じる。高速道路無料化に反対する「高速道路を使わない人間の税金も使って賄うのはおかしい」論法の、じゃあもうお前は近所の牧場に行って肉をもらい近所の畑に行って野菜をもらって、地方産のものは一切享受せずに生活しろよ、という感じにも近い。その人が強欲で奔放なキャラクターを標榜するならまだしも、「人ごみに近付くな」も「最高級フルコース」も「高速道路を使わない」も、正論のようにいけしゃあしゃあと、なんかしらのことを自分は言っているみたいな顔で唱えるから嫌だ。

2009.9.14

 「君に届け」の新刊を読んでしあわせな気持ちになる。
 風早くんがいいなあ。本当に風早くんがいい。俺は風早くんみたいになりたいよ。男子校じゃなかったらたぶん風早くんキャラは間違いなかったのだろうが、なんせ男子校だったからなあ。本当にもったいないことをした。みすみす君に届く射程圏内から外れてしまった。
 とりあえず風早くんに敬意を表し、パッピーナの永遠のテーマ、purope★papiroの真ん中の「★」はなんと発音すればよいのかという問いについて、「風早だ」という答えをここに掲出したい。長年のコン・クラーベで導き出された結論を、ここで信者の方々に煙でお伝えしたい。
 正しい発音は「ぷろぺ、かぜはや、ぱぴろう」である、と。

2009.9.12

 前に読んだ本にカサノヴァの話が書いてあって、それによるとカサノヴァは、清純な女学生をふたり同時に水揚げしたことがあるそうである。ひとりでも難しいのにふたりなんてどんな神業だと思うが、実は逆で、女の子は同性が同じ場所にいると安心したり競争心が生まれたりで、むしろ篭絡しやすくなるという、そういう仕組みなのだ。
 カサノヴァの言うところの、これが「性愛の複数式」なのだそうだ。
 これを読んだときはびっくりして、なぜならこれを読むずっと前に僕は、「女の子の許容する露出度は女の子の人数に比例する」という法則を喝破していただろう。この貧しい少年は学校に通っていないはずなのに廃屋の壁に相対性理論の数式を石灰で記して解いていただろう。ふたり同時破瓜という武勇伝のカサノヴァに比べ、グループで下校している少女ははしゃいだりする分だけスカートが持ち上がりやすいしそれを気にしなさやすいと気付いた僕は嫌になるくらいつましいけれど、それでも言っていることは同じだ。
 女の子って集団でいたほうがエロいのだ。多くなればなるほどエロく、さらに言えば「絶対に男の子に負けない人数」が揃えばそのエロさは無敵。すぐ脱ぐ。すぐに脱いで男の子をみんなで捕まえて陰茎とか陰嚢とかで遊んじゃう。右陰嚢担当と左陰嚢担当が声を合わせて「せーの!」ってやっちゃう。「う、うわはぁっ!」ってなっちゃう。ちなみに宇佐木学園の生徒数は中高合わせて1200人あまりで、漢文の大神先生は授業のために赴いた教室で、クラスの全生徒から弄ばれることもしばしばなんだぜ。

2009.9.11

 射精する夢を見た。
 その射精がすごかったのである。どんなかと言うと、純粋理性批判の主人公の射精だ。「ずびゅっ、ぶばぱっ、どっどっ、どびゅびゅううぅぅぅっ、っぱぶ、ぶ、ぶぶぃゆふびゅぅぅっ」っていう感じの、とんでもないやつ。小便よりもはるかに激しい勢いで、どどん波みたいな光線状に白濁液が伸びていた。すっさまじい爽快感だった。
 目が覚めてから確認したけど、別に夢精とかじゃなかった。どうやら僕はずいぶんとフラットな感覚でその夢を見たようだ。起きた直後もすごく冷静な気持ちでその夢の内容を反芻していた。
 実際得られたのは純粋なる爽快感のみだったわけで、だとすればこれは数学者が難解な数式を解けた夢や、サッカー少年がレアルマドリード相手にボカスカとゴールを決める夢とかと、種類としては一緒なんじゃないかと思った。それが僕の場合はたまたま射精だったのだ。あの憧れの、液体が中空で筋となって、空気を切り裂く効果音(シャノマトペ)があって、コップが満杯になるくらいの量がある、放精の夢だったのだ。
 そしてこれはとてもいい作用だと思う。
 数学者やサッカー少年は、夢の中で一瞬だけ垣間見た頂点を、今後は具体的なイメージとして抱き、現実世界でふたたびそれが味わえるよう、さらに努力を重ねるのだろう。僕も同じだと思う。僕が現実であの射精ができるようになることはないが、なんて言うか、夢とは言えあれを体験として持っているっていうのは、これから純粋理性批判を読んでゆく上で大きなプラスになる気がするのだ。主人公の射精シーンにおいて、その勢いをまったく非現実的なことと揶揄するのではなく、<まああんな感じなんだろうな>とこれからの僕なら思える。あのすさまじい射精の感覚を、僕は獲得することに成功したのだ。勝者のイメージと言っていい。

2009.9.10

 ファルマンからひと足早く誕生日プレゼントをもらう。iPod shuffle(4G)だ。小さい!
 音楽の入れ替えができなくなったSDウォークマンを固執して使うことは、結局あまりなかった。割とすんなりとiPodに移ってしまった。だってひと晩充電して50分くらいしか動かないんだもの。移るほかないだろう。でもpapiroのそういう柔軟さ、僕は好きだな。
 アップルストアで注文して今日届いたのだが、そんな今日にちょうどアップルのiPod新バージョン発表ニュースがあってびびった。幸いなことに僕のもらった4Gのシャッフルは、いちばんショックが少なかったんじゃないかと思う。8800円だったものが7800円になったようで、1000円分のショック。色が3色追加されたことに関しては、それでも僕はシルバーを選んだろうから被害はない。買うとき1Gと4Gで迷ったのだが、1Gにしていたら同じ値段で今日から2Gになったみたいだから、これは割と哀しかったろうと思う。とは言えその哀しさも、nanoにしていた場合ほどではないだろう。nanoはそもそも選択肢になかったが、本当にこのタイミングで買わなくてよかった。
 ところでアップルストアで購入したため、刻印サービスというのがあるのだ。と言うか割とそれにひかれてオンラインで買った面がある。入れた文字は言うまでもないだろう。「ファルマン I LOVE YOU」だ。嘘だ。「NAYAMUKEDOKUZIKENAI」です。クリップの鏡面部分、リンゴのマークの下らへんに刻印されている。素敵。Apple×NAYAMUKEDOKUZIKENAIの、世界にたった1台のコラボモデル。iTunesの操作はまったく解らなくてムカつくのだけど、大事にしてゆこうと思う。

2009.9.9

 今月の純粋理性批判2冊を購入する。まだ読んでないけど、非常に期待が持てない。ひとつはほぼピンヒロインのようだし、もうひとつは開始から5つ目までのイラストが、エロシーンじゃなかった。普通のティーンズ文庫の挿絵だった。これには怒りが湧いた。なんだそれは。舐めてんのか。エロじゃない場面になんでイラストが必要なんだ。そのイラストがあることによって、読者がどうなるというのだ。編集者の観念が本当に理解できない。
 もう本当にダメ。最近の純粋理性批判のダメさはすごい。猛スピードでダメになってきている。社会契約論が「えすかれ」でエロを追求している(失敗ももちろんあるが)のに対し、もしかして純粋理性批判はティーンズ文庫を目指しているのか。たしかに純粋理性批判のキャッチフレーズは「ちょっとエッチなライトノベル」ではある。それで一時期は「どこがちょっとだよ」とツッコミの対象にもなったろう。でもだからと言って、本当に「ちょっとエッチなライトノベル」を目指してもしょうがないじゃないか。ティーンズ文庫の安定した売れ行きを考えれば、その道はたしかに安全かもしれない。その足元はさぞしっかりと舗装されていることだろう。だけど実はその道には奥行きがないのだ。と言うか輪になっているのだ。同じ所をぐるぐる回っているだけ。ライトノベルというのは全体的にそうだ。あれは永遠に同じことをやる所。それに対してエロは、一時期の純粋理性批判ががむしゃらに邁進していたエロ道は、同じ道を下調べしながら慎重に進む社会契約論さえ寄せ付けず、ずんずんと圧倒的な興奮に満ち溢れていたじゃないか。それはまさに開拓であり冒険だった。前方には無限の可能性があって、きらきら輝いていて、僕は本気で純粋理性批判が芥川賞を取る日がやってくるだろうと確信していた。それがこんなことになるなんて、いったい誰が予想しただろう。哀しい。あまりにも哀しい。志があまりにもあからさまに消失してしまった。

2009.9.8

 web2.0みたいなことを今もう誰も言わなくなっていて、ホワイトバンドのときとおんなじで、稼ぎたい人が稼ぎたいだけ稼いだから、その言葉はもう必要なくなったんだな、と思う(「環境保護」に関してはまだまだビジネスチャンスが残っているらしく未だ言われ続けている)。大人の世界って本当に欺瞞だらけだよ。25歳、今月の20日には26歳になるというのに、なお言うよ。無自覚な欺瞞からの逃避だよ。最近ちょっとこの言葉好きなんだよ。
 そんな情勢の中で、と言うかそんな情勢だからこそ、僕はそろそろwebマイナス3.0を宣言したいと思う。そもそも世間で本家のプラスのほうの2.0が忘れ去られているから、それゆえのマイナス3.0宣言である。マイナス3.0ともなれば、堂々と世間で「3.0の時代が来た!」と叫ばれているタイミングで言ってはいけない。だってそれは逆に目立つじゃないか。それが許されるのはマイナス2.0までの時代。マイナス3.0は、このプラス2.0のことをみんなすっかり忘れているタイミングでこそ唱えなければいけない。それでポカーンとされなければいけない。さあ言おうじゃないか。
 僕はwebマイナス3.0の世界に突入した、と。
 そもそもpuropediaを作りはじめたところらへんがその序曲だったと思う。なにしろweb2.0の最大特徴というのは「集合知」だった。みんなで知識やデータを持ち寄って、wikipediaなりYouTubeなりの巨大データバンクを作り上げる時代、それが2.0ってことだったろう。だからそれに対してのpuropedia。パピフェス。宇佐木学園ぴょんぴょんブログ。
 一向に全貌が明らかにならない宇佐木学園ぴょんぴょんブログだが、実を言うとこれは架空のブログであり、ガーターリングテイオクオフショーツソックスやランジェリー期末試験など、学校にまつわる言葉がこのクチバシダイアリーで出た際、「あはっ、これ宇佐木学園ぴょんぴょんブログの校則にしようっと」と言うときに名前だけ登場する、そういう存在なのである。
 このブログは新しい。画期的だと思う。ブログと言いつつ実はブログじゃないのだ。幽玄の存在。web2.0とか3.0とかそういう次元じゃない。だってweb上には存在しないブログなのだ。それは僕の心の中にだけある。こんなブログ見たことない。でもあるいは逆に、誰もがこんなブログを抱えて生きているのかもしれない。みんな誰かの愛しいブログなのかもしれないね。
 そんなわけで、webマイナス3.0、開幕です。

2009.9.7

 何日か前にヤフーの記事で読んだのだけど、ランジェリーフットボールというのがあるらしいじゃないか。最低限の防具だけ着け、基本的にランジェリー姿で女性たちがフットボールをするやつ。そもそもはスーパーボールのハーフタイムショーで行なっていたものが、人気だったため、この度ちゃんとした興行として独立したらしい。
 スーパーボールってアメリカの国民的スポーツイベントなんだろうに、そこでランジェリーフットボールってすごい。さすがだ。外国の人って本当にこういうところが解らない。神様とか信じてて、コンドームも禁止で、避妊はオギノ式だけ、みたいな人たちとかも、ランジェリーフットボールを観るのだろうか。ダメなものといいものの基準がまるで理解できない。絶対に友達になりたくない。
 それにしたってランジェリーフットボールだよ。写真や映像で見た実際のそれは、なにしろ選手がパワフルな外国人女性ばかりで、僕の精神になんの恩恵ももたらさなかったのだけど、とにかくランジェリーフットボールという字面から湧き上がってくる情趣、頭の中のニューロンがシナップする感触、これがこの話題を看過できない原因だと思う。
 結局はランジェリーなのだ。ランジェリー○○という発想。ここに夢が広がる。
 そこでファルマンに「他にどんなランジェリー○○が考えられるだろう」と訊ねたところ、
「ランジェリー期末試験」
 と回答され、僕はこのやり取りはもうちょっと長い時間かけてやるつもりだったのだけど、きっとこのあと話を続け、いろいろな答えを出したとしても、結果的にランジェリー期末試験がいちばんおもしろかったという結論になるだろうと思ったので、1発目の答えで会話が終わってしまった。妻の才気が溢れすぎているのも考えものだ。
 しかしいいなあ、ランジェリー期末試験。俺がなあ、理事長ならばなあ、カンニング防止の名目で会議の議題にかけるのだけどなあ。しょうがないのでこれも「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」だな。宇佐木学園の校則が着々と定まってきていて嬉しい。知らねえよ。

2009.9.6

 パピロウフェスティバル、略してパピフェスっていうのはどうだろう。
 ほらあの、夏とかによく開かれるロックフェスっていうのがあるじゃない。あのいけ好かないやつ。参戦とか言うやつ。なんで観覧することを参戦って言うのかよく解らないやつ。
 あれに対抗してのパピフェス。
 ついでに言えばコミケっていうのもあるじゃない。あのいけ好かないやつ。ちゃんとした出版社から出ているやつのほうが安くておもしろいよ、っていうやつ。
 それに対抗してのパピフェス。
 それらがなんでいけ好かないかと言えば、なんかすぐに集団を形成して、ルールが出来上がって、先輩面する輩が出てきて、独自の用語を使い始めて、伝説の存在とかが出てきたりするからだと思う。その感じがうざったくていけ好かない。
 でもなんて言うんですか、ハレとケと言いますか、地域の結束とかが希薄になって、祭りがきわめて一部の、ちょっと不良っぽかった感じの、体育会系の部活(だいたい野球部)に所属していた人たちだけのものになってしまった現代、そういうのの必要性っていうのも理解できないこともない。たぶん参加者も結局のところ中身はなんでもよくて、案内状にミスがあって、夏フェス行きたい人がコミケに、コミケに行きたい人が夏フェスにたどり着いてしまっても、そこそこ満足して帰ってくるのだろうと思う。要はみんな、暑い時期にがむしゃらになりたいだけなんだ。
 かくいう僕にもそういう気持ちはある。ストイックでばかりもいられない。帰省の際に義妹らと同じ部屋で眠るという展開に、「祭りの夜は性の無法地帯」的な、そういうハレが得られるのではないかと期待していたが、実現しなかったため、僕の日常は解放されないまま堆積されている。堆積は堆積で充足感があっていいのだけど、パーッとやりたい気持ちもやはり捨てきれない。
 そこでパピフェスである。
 これはcozy rippleに登場したいろいろなキャラクターたちが一同に会する、1年にいちどきりの大イベントである。パッピーナ(俺)にとっては本当にもう、たまらないイベントだ。
 プロッペッパッピローニ(俺)、まひろ(俺)、学年題6姉妹(俺)は言うに及ばず、故人であるはずの嘴亭萌え狼師匠(俺)、おむすび三太(俺)も夢の参戦。さらには存在自体が疑われていた残念和尚(俺)、老師(俺)も参戦するとかしないとか。フェスのラストには出演者(俺)および観客全員(俺)でcozy rippleのテーマソング「WE ARE THE NAYAMUKEDOKUZIKENAI」の大合唱。夢のような1日をあなた(俺)にプレゼント。そういうやつ。
 そんなパピフェスを、思いついたのが昨日だったので、いまさらだけど今年の8月某日に行なわれたことにして、そのうちpuropediaに「第1回パピフェス」の項を作り、出演者一覧やエピソード、実際にイベントを行なってみての、運営における移動や騒音などの反省点や、環境保護への取り組み、来年以降の展望などについて書こうと思う。そうすれば記念すべき第1回パピフェスはたしかに行なわれたことになろう。ぺディアに書けばそれは真実なのだから。

2009.9.5

 ファルマンが「うわのそら」に書いた内容に関し、知らない人からメールで苦言を呈されたそうで、荒れていた。その荒れはそのまま一緒に暮らす僕のほうにやってくるので、いい迷惑だ。
 それにしてもファルマンの日記に苦言を呈するとは怖いものなしだ。怖いものなしと言うか、そのメールの送り主は名前もメアドも記載していなかった(メールフォームからの投稿)らしいから、ずいぶんと無責任な話だと思う。明日からカナダに引っ越す寺井君が出発前の最後の日にグループ内の陰口をぜんぶぶちまけていった、みたいな、そのくらいの無責任さ。めんどくさいことになるに決まってるじゃないか。ファルマンがどれだけ「うわのそら」に依存していると思っているんだ。それによって迷惑を被った立場として、どうしたって文句のひとつも言いたくなる。
 ネットは開かれた場なのでネチケットを、とか、そういうのは、交流目的サイトのみでどうか適用していただいて、そうやって誰にもに不満の存在しない調和世界を構築していっていただいて、悪い部分を糾弾廃絶してゆくことにより空間はどんどん浄化され、嫌われ役を買って出たあなたはいつの日か聖人と崇められればいいのであって、どうか「うわのそら」や僕のサイトのような、コメント禁止の放言日記ブログのことは放っておいてほしいと思う。なにかひとつ頑迷な常識を持っている人っていうのは、個別の事例に関して柔軟に捉え方を分けることができず、その作業をすぐに怠けようとするから、バラつく無数の事例を混同してしまい、おかしなことを言い出す。
 じゃあネットで公開せずにノートに書けばいいだろう、というのはよくある反論で、さらに、じゃあなんでメールフォームを設置しているんだ、コメント禁止を誇らしげに唱えつつ閲覧者との交流を完全には閉じていないのは中途半端じゃないか、というのもすぐに思い浮かぶ安易な否定なのだけど、このふたつのピーチクパーチクには同時に答えることが可能である。
 つまり僕らはウェブ上に公開することによって褒められたいのであり、メールフォームはそのための、閲覧者が褒め言葉を送るための場所である。そういうことなのだ。さらに言えばこれは僕のみの意見だけど、褒めるという言葉さえも嫌いで、なぜかと言えば、それだと褒める側の人のほうが上みたいになってしまうからで、俺のことは褒めるんじゃなくてむしろ称賛してほしいとさえ、以前にも言っている。だからとにかくメールフォームって言うのは、決して内容に関して気分を害した人が苦言を呈するためのツールではない。
 そもそも個人ブログというのは、書いている人の心の中が表出されたものだろう。普通、他人の心の中は覗けないが、いろいろな条件が満たされることにより、文章化され目に見えるようになる場合がある。それが個人ブログである。だとすればそれを糾弾されるのはおかしい。もしも他人の心が覗けるようになったとして、街に出た場合、道行くまじめそうなサラリーマンが、心の中で女子高生へのレイプ願望をたぎらせていたとしても、それを口に出して責めていては、自分のほうが狂ったと思われてしまう。人なんて心の中では非道徳的なことをいくらでも考えているのだ。そんなこと当然で、だってそれが本能なのだし、それを責められるのだとしたら人類なんて存在できなくなってしまう。個人ブログへの苦言とはつまりそんな、アクロバティックな筋違いの離れ業をやっているということなのだ。実はサーカスでいちばんテクニックが必要なのはピエロなのだ。
 でもこんなこと、ずいぶん時代遅れな話だよな。なんでいまさらこんな低レベルな話なのだ。まったく恥ずかしい。高校2年生の書く小論文のようだな、この文章はまるで。
 でも「うわのそら」に依存している(「うわのそら」はファルマンの心なのだからしょうがないが)ファルマンは、あのメールのせいで相当に精神を掻き乱されたようで、それがどれほどかと言えば、歯をだいぶ食いしばってしまったため歯が痛み出し、今日の午前中に歯医者に行くはめになるほどだったので、他人の心に対して一方的に苦言を呈するということがどういうことか、その人に伝えるためではぜんぜんなくて、妻をなぐさめるためにこうして書いた。優しい夫だと称賛されたい。

2009.9.2

 モーニングを読んでいたら福満しげゆきの妻が妊娠していて、うわあ、と思った。火曜日のアクションのほうで「次号重大発表!」となっていたから、<ドラマにでもなるのかな>と考えていたのだけど、まさか妊娠とは思わなかった。僕は「僕の小規模な生活」から入って、「僕の小規模な失敗」とかを最近まとめて読んだ人間なので、作者の冴えない青年時代がまだぜんぜん最近のことのように思えていて、作者が今ではアクションとモーニングで連載を抱えている割と売れっ子漫画家だ、というイメージをまだあまり掴めていなく、そのために奥さんが妊娠という発想がまるで浮かばなかったのだった。しかしめでたい。嬉しい。青年時代の冴えなさを漫画で見ているだけに、今週号のモーニングのしあわせな妊娠発表はよかった。きれいに人間讃歌が決まった感じで、もう最終回でいいんじゃないかとさえ思った。だって漫画の性質上、出産後は子どもと3人での生活が描かれるのだろう。それってなんか違う気がする。もちろん愉しみな部分もあるけど、子育てコミックエッセイでは違和感も大きい。さてどうなるのかな。
 それと今日は僕がどんだけ週刊誌を読んでるんだって話なのだが、女性セブンに衝撃的な記事があったので記しておく。あのTBSで放送していた大家族の青木一家があるだろう、あれの長女のあざみちゃんが、とうとう父親からの性的暴行を告発したというのだ。あざみちゃんと父親は血が繋がってないという噂なのに、あざみちゃんが正体不明の男性との間に作ったとされる赤ん坊の顔は、本当にあまりにも父親に似すぎていて、バレバレと言えばバレバレだったのだけど、ついに、という感じだ。なんだかなあ、という気持ちになった。

2009.9.1

 つまりインプットっていうのはなにかを「入れる」ことではなくて、自分の中に「入る」ことなんだよ、っていううまいことを昨日の記事をアップしたあとに思いつき、眠る直前のファルマンにパピロートークしたら、「かんめーをうけた……ZZZ」と言ってくれたので、こうしてわざわざ書いた。
 新しいブログを作ることにし、その準備を開始した。
 でも開設されないのかな、とも思う。製本日記を読んでいたら、僕のブログを作ること作ること。しかし結局のところ主要なもの以外は残ってないし、驚くべきことには、たかだかここ1、2年の話なのに、もうそれがどんな試みのものだったのかぜんぜん思い出せないブログさえある。そういうのは大抵の場合もうページ自体を削除してしまっていて、確認することもできない。
 なので「開設する準備を始めた」とここで呟いただけのブログなんて、2年後にはタイトルも含めて一切の記憶がなくなってしまっているような気がする。自分はいったいこのときどんなブログを始めようとしていて、そのまま開設せずに終わったのだろうな、と15秒くらいだけ悩む気がする。なのでその2年後の僕のために、ヒントとしてタイトルだけ記しておく。
 始めようとしているブログのタイトルは「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」です。
 思い出した? そうそう、例のあれですよ。ちょっと、どんだけ準備してんすか。マジ勘弁してくださいよ。さすがにそろそろ開設してくださいよ。年上なので丁寧語。
 ブログってたまに閲覧者に向かって話しかけたりするやつがあって、はあ? とか思うけど、製本して読んでいるだろう未来の自分に向けて話しかけるっていうのは新しい気がする。

2009.8.31

  製本日記を読んでいたら、昔の自分が、本を読めなくなってきている自分を憂い、その原因をこの日記にしていた。曰く、毎日ここに文章を書かなければならないから本を読む時間がなく、アウトプットばかりでインプットがまるでないから、このままでは自分は薄っぺらな人間になってしまう、ということだった。若い。「インプット」「アウトプット」という言葉が大学生っぽくて恥ずかしい。
 その頃よりもさらに本を読まなくなった現在の自分から、当時の自分へのメッセージとして、「自分」というのは必死に本を読んで保たれるような、そんな薄っぺらいものではなく、むしろアウトプットすればするほど、世界で他の誰も研究していないpurope★papiroという人格は掘り下げられ、そこから無限のインプットが生まれてくるのだ、と言いたい。
 言ったら23歳の僕はドン引きするだろうな。
 約3年後の俺、どんだけ自分のこと好きなんだよ、と。

2009.8.27

 今日ふとした瞬間、設定を変えていない職場のエアコンが少し涼しすぎに感じられて、しかし外に出てみたら割と陽射しがジリッと来て、顔を一瞬しかめたものの、しかし落ち着いて受け止めてみると、それはどう考えてみても夏のピークのより弱々しくて、やっぱり夏の終わりを痛感した、そんな瞬間に唐突に強い気持ちで思った。
 俺はもっとちんこのこととかを考えなければダメだ。
 女の子がちんこを欲しがることについて、もっと真面目に考えないと、世界は輪郭を失って茫洋としてしまう。世界を形作ってゆくために、僕は女の子とちんこのことを熱心に考えるべきだ。夏が終わったとか理由にならない。たしかに薄着の女の子はいいだろう、水着の女の子はいいだろう。でもこれから寒くなってどれほど女の子たちのパピロー率が下がったとしても、決して忘れてはならないのは、冬でも女の子はちんこが好きだし、厚着の服も脱げば下着だ、ということだ。服なんて目くらましに過ぎない。裸の女の子はいつだってそこにいるんだ。カーディガンだってブレザーだってピーコートだって、さらに言えばババシャツだって、僕には自由に脱がせるはずだ。そうだろう? これまで純粋理性批判で、僕は何百人もの女の子を抱いてきたじゃないか。そしてその中には、決して脱ぎそうもない子もいたじゃないか。でもその子たちも結局は脱いで、結局はちんこが好きだったじゃない。100%の確率だったじゃない。つまり抱けない女の子なんていないんだ。抱けない季節もないんだ。夏休みだからスクールガールが街に少ない? 錯覚だよ。いるじゃないか。いると思ったら女の子はそこにいるんだ。いない女の子はいないんだ。僕はその子たちがどれほどちんこが好きか、なぜ好きか、特にどういう部分で好きか、残念なことにその子たちはインタビューには答えてくれないから、悟っていってあげたい。あなたを苦しめるすべてのことから悟ってあげたい。ソーユードントハフトゥウォーリ。俺にしか見えないけどたしかにそこにいる女の子のちんこ好き具合を悟って、今後もここに書き記してゆきたい。
 夏の終わりにこそ声高に叫びたい。「芝生!」そして「マリモッコトピア!」

2009.8.25

 ウォークマンが壊れた。パナソニックのSDウォークマン。それの初期のほうのやつだから、なんだかんだでかなり使った。直接ポケットに入れたり鞄に入れたり、扱いはぜんぜん丁寧じゃなかったのに、ずいぶんもったものだと思う。次に買うとしたらやっぱりipodなのかな。そもそもパナソニックはウォークマンやめたっぽいし。カセットやMDの世代として、意地でもSDに固執したい気持ちがあったが、でもそういうのの魅力ってなにかと言えば、自分で編集したベストソング集の入った記憶媒体を、友達とかクラスメイト同士でやりとりするみたいな、そういう点にあるわけで、こんなにもSDウォークマンが流行っていない状況ではそれがままならず、もちろん僕もこのウォークマンを使っていた数年間で、いちどもそんなことはできず終いで、だとしたらこれはただの、ipodほど便利じゃないポータブルプレイヤーに過ぎないので、どうしようもない。ちなみに故障具合は、充電はできるのだけど、パソコンに接続してデータを落とすことができない状態。つまり今SDに入っている曲だけでずっと満足するほかない。構わないよ。ある意味これは、飽きっぽい、音楽作品を使い捨てする、てめえらipod野郎たちへのアンチテーゼだよ。このウォークマンを使うってことは、まるでボロボロの学ランを羽織っているような気分だ。エリート私立校に転入してきたバンカラのような気持ちで、しばらくは街を闊歩したい。そしてそのうちipod買おう。

2009.8.24

 本日記のvol.2を読み終えた。vol.2は2007年の下半期で、そのため上半期のvol.1ほどおもしろくない。どうしたって作者の精神が沈んでいる。2ヶ月近くにわたって1行しか書かない期間とかがある。ひどい。それでも出来事はいろいろ充実していて、今の住まいに引っ越したり、例の夫妻に娘が生まれたり、義兄の店がオープンしたりしている。そして実はこの3つのイベントは、9月の後半という2週間くらいの間にすべて起こったのだった。懐かしい。今日からはvol.3に進む。2008年上半期である。vol.2に比べて60ページほども多く、上半期の勢いを感じさせる。とても愉しみだ。永遠にエロ小説と自分の日記だけを読んで生きてゆきたい。

2009.8.20

 ヒット君4コマ第4弾を引き続いてやる。平日で労働したのに3篇もやる。偉い。人志のスーツが非常にめんどくさかった。それとその中でフェラチオとか言ってしまった。こういう言葉を出してしまうから、友達伝いに紹介されてゆかないのだ。でもしょうがない。ファルマンにもさっき言われた。「あなたは褒められようと思ってやってもぜんぜんおもしろくなくなるから、自分がおもしろいと思ったことだけやりなさい」って。いい妻。いい妻ゆめ気分。それと誰も褒めなくていいから(褒められると作品の質が落ちるからむしろ褒められないことで価値が上がるって言うか、人に簡単に理解されない作品のほうが偉いって思うしマジで俺)自分で褒めるけど、6篇目と7篇目は話がまったく同じ構成になっていて、技巧的だと思う。これは漢詩における対句につながる部分があり、なるほどパピロウ氏はかつて齧っていたことがあるのだった。だとすればひとつのシリーズを12篇と規定していることも、漢詩的なイメージをパピロウ氏は持っているのかもしれない。褒めるどころか研究。テーマも作者も読者も研究者も、すべて俺が俺でまかなえばいいんだな。至ったわ。
 批判だけ私がしてあげる、とファルマンが言った。

2009.8.17

 普通の生活が戻ってきたので、製本した自分のブログを移動中に読む、というのをついに始めた。紙製のカバーと布製のカバーをダブルに掛けて、大事にvol.1から読み始めた。
 vol.1なので、やっぱりけっこう照れ臭い部分がある。2年半前、23歳の自分。どうしたって若い。読書記録とか創作論とか、なかなか語る。彼は今の僕よりもはるかに真面目だ。
 でも負け惜しみとかじゃなくて、その真面目さに羨望の気持ちは湧いてこない。結局それは、若くて、いろいろ確定していなくて、不安だったから、模索して、掘削して、ちょっとでも前進しようと、必死にもがいていたのだ。全身にかゆみがあって、それを掻くように、消してゆくように、がむしゃらにがんばっていたのだ。
 それは必要なことだったんだろうけど、またそこに身を置きたくは決してない。今の僕にはかゆい部分がなくて、だからがんばって掻く必要がなくて、安穏と過ごせていて、すごく心地よい。
 しあわせなことだと思う。
 クチバシダイアリーのテーマは人間(特に俺)讃歌。
 1月1日から始まるvol.1を現在5月2日まで読んでいて、貼った付箋の数は16枚。純粋理性批判以外の本でこんなに付箋を貼ったのは初めての経験だ。そう考えると結局これも、射精シーンに貼っているようなものかもしれない。
 そもそも日記なんてマスターベーションなのだから。

2009.8.15

 最終日の3日目はまたあまり天気がよくない。結局プールや海は実現しなかった。残念和尚。
 次女は今日から仕事ということで、午前中に出掛ける。僕らが帰る夕方までにはたぶん帰って来られるだろう、とのことだった。残ったメンバーで墓参りなどに行く。
 墓参りでは、ファルマンが線香を逆に持つという、いまどき幼児でもあまりやらないミスをして、手に火傷を負っていた。昨日の焼肉でも違うほうの手を火傷し、夕方の犬の世話では出っ張りに頭を強打したんこぶを作っていたため、「残りは脚だ」とかほざいていた。どういう発想だろう。昨日だいぶ頭を強打したんじゃないかと思った。
 墓参りのあとは近所の中華料理屋でお昼。天津飯。
 そのあとちょっと海を見に行く。小雨の止まない海は寂れていて、ほとんど人がいなく、5人でビーチサンダルに履き替え、つましく砂浜でペショペショとだけした。海の水は冷たく、まったく今年の海の商売はあがったりだろうね、などと話した。
 それから近所のスーパーにまた立ち寄り、今晩の帰途で食べるものを買い出す。適当に弁当を買おうかとも思ったが、まだ時間があるので、具をいろいろ買っておにぎりを作ることにした。我ながらナイスアイディア。
 家に帰って、ファルマンを助手にして、握る。鮭とか明太子とかツナマヨとか、僕ら夫婦のと、ほぼ同時刻にバスで岡山まで帰る予定の三女のと、頼まれた家用のとで、けっこうな数を握った。
 やがて次女も帰ってきて、さてそろそろ行くか、というタイミングで三女が「調子が悪い」と言い出す。この子はなにを言ってるんだろう、と思うも、具合が悪いのは本当らしく、結局バスはキャンセルして岡山に戻るのは延期、もうちょっと実家にとどまることに。
 なので三女は家で横になって留守番で、義父母と次女で、駅まで僕ら夫婦の見送り。
 今回の帰りは寝台車。もちろん初めての経験だ。部屋はツインで、いい感じのサイズ。7時から8時まで、13時間かけて出雲市と東京を繋ぐ列車の時間を、のんびりと過ごした。

2009.8.14

 健全に寝たが朝勃ちはした。それはするだろう。布団の中で朝勃ちを持て余しつつ、3姉妹がすぐ横で寝ているのに朝勃ちしている俺、という事実にひそかに興奮した。
 起きると2日目の天気は快晴で、義父が窓から見える景色をすごく教えてくれる。本当に、すごく教えてくれた。なので「あれが大山だ」とか「あれが弓ヶ浜だ」とか言われるたびに僕は、「あー」と気のない相槌を打たなければいけなかった。「あー」ってなんだ。わかるわかるー、か。自然を尊ぶ意味なんて、なにもわからないくせにね。
 パンとゆで卵の朝食。キャベツも食卓に出ていたが僕は食べず。僕のためにレンジに入れて、しんなりさせてくれたらしいが、マヨネーズがなければやはり食べられない。これにはさすがに義母がちょっとムカついていたっぽかった。申し訳ないと思うが、これによって僕と家の冷蔵庫がどれほど親和性が高いのか理解していただければ幸いだと思う。
 午前中にチェックアウトし、大山の麓町にある牧場や牧場へ。
 ひとつ目の牧場は牛がいて野原があってソフトクリームがおいしい、ごく普通の牧場。農学部に通う三女は牛に喜んでいたが、僕は車を降りた途端に鼻を襲った強烈な臭気に、頭がくらくらして気分が悪くなった。鼻も口も極限まで塞いだので、普通に酸欠状態だったのだと思う。ヘロヘロになりながら牛らとは離れたほうに行き、ソフトクリームを食べ、野原を駆けた。なにしろ芝生男子なので、臭くない限り野原はけっこう好きなのだ。小沢健二好きとしてはフリスビーとかしたくなる。やっぱりこういう、いい部分だけ見せてくれる整備された自然がいい。見晴らしもよかったので気持ちよかった。「ほら、あれが弓ヶ浜だ」「あー(わかるわかる)」
 次に行った牧場は、牧場と言うよりは触れ合い動物園みたいな感じ。ポニーとか犬とかヤギとかがたくさんいた。上野動物園よりも高い入場料、ひとり800円はどうかと思った(6人で4800円!)が、犬はまあまあかわいかった。もっとも牧場にしろ動物園にしろ犬のかわいさで800円っていうのも非常にどうかと思うけれど。しかもそのあと喫茶コーナーで食事までしてしまった。ずいぶんとこの牧場にお金を落としたことだな。
 それにしても快晴で陽射しが強い。実際もうフラフラだ。義父の運転が怖いこともあり、もういっそ寝てしまおうと思って、帰りの車の中では眠りに就いた(でもたまに前の車を煽るために変な動きをするので、そのたびに起こされた)。
 家に帰って荷物を置いたあと、倒れるように布団で眠る。夜はまたおすすめの魚料理屋に食べに行くというので、それまでなるべく体力を回復させておこうと思った。このままだと確実に最初の一杯で寝てしまう。2時間近く寝てすっきり。
 起きたらすぐに移動開始。今回は祖父も参加し、車の編成も義父の車に祖父と義妹ら、義母の車にファルマンと僕、となる。義母の運転はさすがに義父よりはちょっと大丈夫だった。
 こっちの感覚ではだいぶ行動範囲内じゃないくらいの時間を掛けて店に到着。途中まで、「店の近くにいい夕日のスポットがあるからそこにも寄ろう」という話があったのだが、雲が多かったのと店の予約時間が迫っていたのとで取りやめになった。夕日にいいリアクションができる自信もまるでなかったので、これはすごく救われた。
 店では刺身や海鮮の網焼きなどを食べる。さすがにおいしかった。もったりした刺身醤油があまり好きじゃないので、それは残念だったが、それ以外は不満もなく食べた。
 帰りは、義父は酒を飲んだので、義母の車(義父と祖父乗車)と次女の車(姉妹と僕)に分かれる。次女は道が不案内のため途中でファルマンと義父が交代し、義父のナビで家まで帰った。
 この運転の途中から次女はピタッと言葉を発しなくなり、帰ったら少し泣いていた。知らない暗い夜道で、かなりプレッシャーがあったらしい。かわいそうに。そもそもちょっと食事の行動範囲にしては店が遠すぎるのだ。大山もそうだったが、せっかくの帰省なのに今回はかなりの時間を車での移動に消費してしまった。次回からはどうか家を堪能させてもらいたい。
 帰ってから、店でもらってきた魚のアラでアラ汁を作った。とてもおいしかった。こうして書くと、イベントに振り回される中で、必死に食事に価値を見出そうとしているな、僕は。

2009.8.13

 夜に到着したので1泊2日の2日目なのだが、気持ち的には今日が出雲1日目だろう。
 初日にして今日は外泊。鳥取県は大山のあたりに行き、義父の会社の保養所的な所に泊まるのである。これを当日いきなり言われたら憤っていたが、事前に告知されていたので大丈夫。義妹らと同じ部屋で寝ることになるらしい、という情報に、ここひと月ほど僕がどれほど心を躍らせたかは、今さら言うまでもないだろう。
 義父の車(ファルマンと僕乗車)と義母の車(義妹ら乗車)に分かれて午前中に出発。まずは近所のスーパーに立ち寄り、夜に部屋で行なう予定の焼肉の材料を買い込む。スーパーでの買い物は僕の大いに得意とするところ。義父母は忘れ物があったとかで2度ほど次々に家に帰っていき、3姉妹は自分が食べたいものに関して意識が低いので、自分の采配で材料を選べ、とてもよかった。どうしたって自宅じゃない不自由さはあるけれど、これで少しは救われた。
 買い物を終えて再び車に乗り込み、いよいよ本格的に移動。しかしこれがつらかった。なにがつらいって義父の運転がだ。義父(義母もだが)の運転は典型的な田舎の人の運転で、基本的にやけにスピードが速いし、スピードが遅い車が前にいるとイラつくし、イラつくどころか煽りさえする(煽る人なんてこの世に実在するのだな)し、ちょっとでもまごつくとクラクションを鳴らすしで、乗っていると怖いのを通り越して気分が悪くなるのだった。自分の乗っている車が道路にものすごい悪い成分を振りまいて走っている、という事実に落ち込むのである。しかし残念なことに今回の帰省ではやけに父親の車での移動が多かったのだった。
 こっちの感覚ではちょっと行動範囲内じゃないくらいの時間を掛け、やっと目的地に到着。保養所は割とホテル的な立派な建物で、たしかファルマンの口から出たんだったはずの「ペンション」とはぜんぜん違うものだった。通された部屋は、いかにも保養所的なリゾートっぽい感じで、中2階とかのある凝った造り。話で聞いていた通り2LDKで、しかし想像ではリビングを挟むように北と南、あるいは東と西に和室と洋室がある、みたいな感じだったのに、実際はリビングの隣に和室、その隣に洋室、という感じで、つまり3姉妹と僕の寝る和室と、義父母が寝る洋室は隣り合っており、僕がここ1ヶ月でさんざん夢想した、3姉妹との純粋理性批判的な展開は、とてもじゃないけど実現不可能だった。まあ現実ってこんなもんだよな。
 到着が昼過ぎになったので、とりあえずすごい空腹だった。それでお昼はどうするつもりなんだろうと思っていたらノープランだったらしく、たまたま僕が買い物カゴに入れていたチルドの焼きうどんがあって、それを食べようということになった。無計画だな! その焼きうどんは僕が焼肉のあとにやるという確固たる計画のもとに買ったものだ。しかも2玉しかない。でも本当にそれをみんなでお昼ごはんとして食べた。お腹を空かせる効果しかない感じの切ない量だった。
 そのあとみんなでWii。グーパーで分かれ、義父・ファルマン・三女チームと、義母・次女・僕チームで、スポーツのやつで対戦。僕は三女とボーリングで対決し、普通に負けた。三女と来たらターキーとか繰り出すので勝てっこない。でも僕以外のふたりが勝ったので、チーム的にはこちらの勝利だった。スポーツのやつのあとは、アマゾンで注文しファルマンの実家に送品してもらったメジャマジマーチをやる。期待していた通りのおもしろさ。チェックするたびにどんどん値段が下がっていき、あまりいい評判も聞かなかったこのゲームだが、Wiiリモコンがマーチングバンドの指揮棒になるというそれだけの要素で、買う価値は十分にあると思う。すっごく愉しかった。マリオカートのざっと20分の1くらいは愉しかったと思う。
 Wiiをやって汗をかいたこともあり、夕食前にお風呂ということになった。大浴場らしいので、義父と裸の付き合いなんて考えられない僕はもちろん行かない。それで僕だけ留守番かと思ったら、次女も行かなかったので、ふたりで部屋に残る。ふたりになったので、昨日に引き続いてふたたび照れた。これまで100冊以上読んできた純粋理性批判だったら、義妹と部屋でふたりきりになったら間違いなくエロい展開となるのに、現実的には難しいな。そして義父と大浴場はどうしても嫌だが、たしかに夕食前に風呂は入りたかったので、部屋のごく普通のお風呂でシャワーを浴びることにし、「じゃあ俺シャワー浴びるわ」と声を掛けるも、義妹は「じゃあ私も一緒に入っていい?」などとは一切訊いてこない。おかしいな。小説では義妹っていうのはそうじゃないんだけど。
 ザザっとシャワーを浴びるも、まだ大浴場組は帰ってこない。仕方ないので焼肉の下準備を始める。ファルマン家のだらだらした支度を待っていたら確実に空腹でイライラしてしまう。こちとらお昼の焼きうどんのことがいまだに水に流せていないのだ。勝手にやらせてもらおう。玉ねぎを切ったりかぼちゃを切ったりピーマンをぞんざいに切ったりしていたら、ファルマンと三女が帰ってきて、義父母はビリヤードをしていてまだ帰ってこないと言う。そうかそうか。義父母は俺の空腹についていかがお考えか。果たして本当にいまビリヤードか。
 そのあとも準備を続け、かなり終盤になったところで義父母が帰ってくる。いちおう帰ってきたならもう待つ必要はない。義父の音頭とか気にせず、義妹らがWiiをやめるのとか気にせず、僕は勝手にごはんをよそい、ホットプレートで肉を焼き、食べた。僕はお腹が空いていたのだ、それで準備をして、焼いて食べたのだ、誰にも文句は言わせない。
 焼肉はおいしかった。ビールもおいしい。「焼肉だけじゃあれだから」みたいなよく解らない理由で、食卓にはトマトをカットしただけのものも出され、「パピロウ君も食べられる?」と訊かれるも、もちろん喰えない。「オーブンで焼いてチーズかマヨネーズがあれば……」と答える。でもここは自宅ではないので、オーブンもなければマヨネーズもない。「そういうのが嫌だからキャンプは考えられないんだ」という僕の言葉に、「あるもので済ますのがキャンプの醍醐味だ」と義父が反論し、話はいつまでも平行線だった。せっかく自宅には、長い年月をかけて揃えた、お気に入りの調味料とお気に入りの調理用具があるのに、それを放棄して不便な状況に身を置く理由が、僕には本当に解らない。きっと一生解らないんだと思う。
 焼肉を食べたあと、僕だけ大浴場に。義父との接触はとにかく避けたかったものの、実は広い風呂は何気に好きだ。人が微妙にけっこういて、僕は男の身体が嫌いなので、そこがちょっと不愉快だったけど、まあお湯は気持ちよかった。
 部屋に帰るともうけっこうくたくた。適当にWiiをやったあと、お布団を敷いて寝ることに。部屋が何畳だったのかよく覚えていないが、まず3姉妹が布団を川の字に敷き、その川の頭に横棒を置く感じで僕の布団を敷いた。近い。義妹らかなり近い。興奮する。興奮するものの、なにかが起きるということはなかった。すぐ隣で義父母が寝ているため、照明を消してからのひそひそ話などもほとんどなし。残念だ。すごく得意なんだけどなあ、照明を消してからのひそひそ話。
 しょうがないので健全に寝た。

2009.8.12

 短めに労働を切り上げて、品川駅に移動を開始する。途中の駅のトイレで着替えた。スラックス(黒)・ワイシャツ(白)から、ハーフパンツ(黄)・ポロシャツ(オレンジ)に。バカンス。
 品川駅には新幹線の発車20分前に到着。ファルマンはこれが時間ギリギリだったらしい。新幹線に時間ギリギリとか信じられない。どういう度胸かと思う。駅の売店でお弁当と缶チューハイを購入。最近やっと気付いたことに、缶からそのまま飲む場合、ビールはぜんぜんおいしくない。なのでビールではなくチューハイ。
 ホームで10分以上待ち、やって来た新幹線に乗り込む。ふたり席の窓側の席。通路側に人はやって来ず、悠々と缶チューハイを開けた。冷たくておいしい。隣席は横浜でも乗って来ず、名古屋でも来ず、結局岡山まで無人だった。8月12日の新幹線のこと、他の席はだいたい埋まっていたのに、僕の横だけずっと誰もいなくて、まあよかったのだが、なんとなく決まりが悪かった。
 岡山で乗り換え。労働が朝早かったので割と眠く、しかも堪えきれずにお酒を飲んだため、新幹線内かなり眠かったのだが、眠りこけた場合は博多に着いてしまうため、けっこうな緊張感だった。無事に乗り換えができてよかった。
 岡山からの特急やくもでは、隣の席に人も来て、寝たりもした。夜になったこともあるが、相変わらず窓から見える風景が寂しい。こんなに寂しいと田舎は人間関係が密になって噂話とかが蔓延して村内での繋がりとかが大事になってくるのだろうな、と思った。
 出雲市駅到着は23時過ぎ。ファルマンと、運転者の次女と、おまけで三女が駅まで迎えに来てくれる。はるばる出雲市に来て、妻と義妹らが出迎えてくれる喜び。このとき勢いでハグとかすればよかったのだけど、半年ぶりくらいに会った義妹らに普通に照れる気持ちがあり、とてもじゃないけどできなかった。肝心なところでシャイでいけない。
 義妹の運転する車に乗って実家へ。まだ起きてくれていた両親とも挨拶し、おみやげを渡し、僕だけ食事とビール。明日以降の計画を話しながら、おじいさんが釣ったというヤマメなどをいただいた。義妹らはWiiをやり始め、華やか。若い女の子はいいなあ。ゲームはマリオカートで、これがむちゃくちゃ愉しそう。明日以降やらせてもらおう。
 そのあとシャワーなど浴びていたらもう1時近い。眠った。

2009.8.11

  職場で上司から、
「明日から休みか。いいなあ。海で泳いだりするの?」と訊かれたので、
「はい。義理の妹の水着姿が愉しみでしょうがないんです」と答えた。
 答えたところ、
「へえ、妹さんいくつ?」
「19と22です」
「ほほほー。一緒に泳ぎに行ったりしてくれるんだ?」
「そこは交渉次第ですよ。がんばります」
「でも見るんだったら海じゃなくてプールだろう、海の水なんて濁っててぜんぜん見通せないぞ」
 という話になり、そのあと、前方で平泳ぎをする女の子の尻にどうやったら自然に顔を押し付けられるか、そして押し付けたあとどうフォローをどうすればいいかをレクチャーされた。
 どうすればいいかと言えば、
「「ごめんねー」って言えばいいんだよ」
 とのこと。人生の先達はためになることを言うなあ。

2009.8.10

 昨晩なんと僕は寝室の電気を消して眠ることができたのだった。
 これはすごい成長である。そもそも寝室に行けたことをまず褒めたい。当初の予想では、リビングの机に突っ伏して、授業中のような感じで眠るのではないかと言われていた。もちろん電気もテレビも点けっ放しでだ。それが寝室で電気を消して眠れたのだから偉い。枕元に純粋理性批判を10冊くらい積み重ねて置いておいたらなんか平気だった。そのことをファルマンに報告したら、「その作用についてはよく解らんけどまあよかったよ」と言っていた。

2009.8.9

 日曜日の短めの労働の出勤と同時にファルマンも出発する。してしまう。これで労働から帰宅してもファルマンはいない。ファルマンおらんて。意味わからんしマジで。
 労働しながらファルマンからメールが来、無事に新幹線に乗っただの岡山に着いただの報告を受ける。そして僕の労働が終わる3時前に、無事に出雲市に到着したという。いいなあ、出雲か。俺も行きてえよ。外国生活が長かったフリして義妹にCHUしてえよ。
 誰もいない家に帰るため、駅から歩く。
 道の途中で、手負いの鳩に2匹のカラスが襲い掛かるという、都会における最大級の劇的シーンが展開される。こんなの初めて。住宅街だったため僕以外に人はいなく、僕の3メートル横くらいでそれは激しく展開された。カラスが肉をつついてくるのか、鳩が激しく抵抗し、鳩の羽が何十本も道路に散った。なぜこのタイミングでこんなことが巻き起こるか。ファルマンが家にいたら帰ってすぐにしゃべるのに、家には誰もいない。どうしようもない気持ちで走って逃げた。
 走っていたら夕立に遭う。ぽつぽつと降り始めた雨が、みるみるうちに勢いを増し、ガーッという音がするほどの雨になった。家まであと200mくらいの地点でそうなったので、しょうがなく全力疾走した。200mダッシュ。マスターベーションの疲労感か。皮肉なことに、カバンのなかには買ったばかりの今月の純粋理性批判が3冊入っていた。これが重い。重いエロ小説を抱えて、マスターベーションと同等の疲労感を獲得する俺。もちろんそれなりに身体を濡らしながら。
 そして帰るとファルマンがいない。さんざんだ。
 寂しくシャワーを浴び、寂しくウトウトしていたら、電話が掛かる。
 いつもの一家だった。なんかいま近くまで買い物で出てて、よければうちにある桃太郎電鉄を貸してくれないか、そしてついでに晩ごはん一緒に食べないか、と誘われる。桃鉄は別にいいよ、でも外で食べるのは嫌だから、うちで食べようよ、と提案した。
 そんなわけでいつもの一家が来訪した。そもそもがファルマンの繋がりでの交友なので、ひとりで迎えるのはもちろん初めて。パスタを買ってきてもらい、それと冷凍していた母のピザを焼いて食べ、夕食にする。娘が相変わらずかわいい。しかももうほとんど2歳なだけあって、けっこうしゃべる。今回初めてはっきりと名前を呼んでもらった。感慨深いな。
 途中で大きな地震があったらしい。歩いていたので、僕は気付かなかった。
 PS2本体も貸してくれ、とのことでちょうど別の部屋に探しに行こうとしていたところだったのだ。「桃鉄を貸してくれ」と言ったので、てっきり本体は持ってるのかと思ったら、ないのだという。PS2も借りる場合、はじめに「貸してくれ」と唱えるのはソフトじゃなくて本体のほうなんじゃないか、とちょっと思った。でもそのおかげで地震に気付かなかったのだからよしとするか。そもそも一家が来てなかったら、ひとりでどれほど地震が恐ろしかったことか。ファルマンがいないこのタイミングで、鳥の格闘、夕立ち、そこそこ大きい地震、といろいろ起きすぎだ。世界と俺の精神は連動しているのかもしれない。新たなる神話だろうか。
 9時近くになって、一家を近所のコンビニまで見送る。
 そこで夫が唐突に桃鉄をやりたくなった経緯の話を聞き、この一家はファルマンと僕の日記をそこそこ読んでくれているらしいから、ファルマンが先に帰省してしまって僕が寂しくしてるんじゃないかと心配し、気を遣って今日は来てくれたんじゃないかな、とちょっと疑っていた気持ちが真っ向から否定される。夫は普通に唐突に桃鉄がやりたくなったらしい。そうかい。
 まあでも本当に地震の件は助かった。持つべきものは友達だな。
 持つべきものは友達だな、って僕が言うと、まるで金八先生が絶対に言わない言葉モノマネみたいだな。試しに検索したら、2年半以上やってるこの日記で、今日が初めてだった。つまりそれは、持つべきものは友達だな、と思ったのが少なくとも2年半以上ぶりということか。2年半。あのお腹の中にいた子が、ちょっとした文章をしゃべり始めるようになっているというのに。

2009.8.8

 結婚1周年だった。もう1年経ったか。新婚期間というのは一般的に1年間だろうか。そもそもこれまでが新婚期間だったのかと考えると怪しい。ただしこの1年で僕らはさらに、互いに交友関係を狭め、互いへの依存度が上がったことは間違いない。愛し合ってるとか、ラブラブとか、そういうんじゃ決してなくて、本当に話し相手がお互いしかいない感じ。研ぎ澄まされてるな、という感触がある。触れたら痛みもなく肉が斬れてしまうような。まあこれがいわゆる夫婦の空気というやつかもしれない。だとすれば僕らというのは割と順当な夫婦なのかもしれないと思う。
 1周年で、しかもファルマンは明日からひと足早く帰省するということもあり、出掛けた。
 まず行ったのは久々の阿佐ヶ谷。なんかちょうど七夕祭り的なことをしているとのことで行ってみた。そうしたらすごい人だった。商店街がそのまま出店のようになっていて、いろいろなものを売っていた(フランクフルトが異様に多かったけど)。遅めの朝食しか食べていない午後1時過ぎ、という状態だったのでなにか食べたいような気もしたが、美味しいはずもないだろうパックの焼きそばが350円とか言われると、あまり触手が伸びなかった。長い商店街を、ほぼ端から端まで往復し、祭り的な雰囲気を存分に浴び、満足し、阿佐ヶ谷を辞す。
 次に行ったのは吉祥寺。ここではさすがに確実に空腹だったので、ちゃんと食べる。ラーメン屋。なんか昨日からやけにチャーシュー麺が食べたかったので、とんこつチャーシュー麺なんていう重量系のメニューを頼んでしまう。期待したほどじゃなかったけどまあ美味しかった。しかしここで、祭りのときから異変には気が付いていたけれど、ファルマンの精神が限界になり、その態度の悪さに僕の限界も来て、喧嘩となる。祭りの喧騒や、頼んだ炒飯のおいしくなさ、使用したトイレの汚さなどについて怨嗟の言葉をぶつぶつと呟くので、お前は本当に気持ちがよくない人間だ! と叱った。なんともひどい結婚1周年であると思う。
 互いにすっかり機嫌を損ねて店を出ると、雲行きがとんでもなく怪しい。今にも雨が降り出しそうだ。これはまずい。まあ大丈夫だろうということで、洗濯物をベランダに干したまま出てきてしまったからだ。ファルマンは肉体も精神も優れないこともあり「帰りたい」と主張し、僕はせっかく吉祥寺まで来てラーメンだけ食べて帰るのかと主張し、それから、じゃあ私は帰るからひとりで買い物しなさいよ、とか、結婚記念日になに言ってんだ、とか、じゃあもういいよ買い物しようよ、とか、こんな状態(互いの機嫌、体調、天候)で買い物なんかできるはずないだろ、とか、じゃああなただけ帰って洗濯物を取り込んでよ私は買い物するから、とか、それいちばん意味わかんねえよ、とか、まあいろいろあって、でもしょうがないので一緒に帰った。結果的に、吉祥寺にラーメンを食べるためだけに来てしまった。高いラーメンだこと。
 割とむすっとしたまま最寄り駅に到着し、ファルマンが「私が払うから」と言ってタクシーに乗り込んだ。ここでタクシーの運転手がいきなりしゃべり始め、
「いやあ、お客さん、私さっき、いま籍を入れてきたばかり、っていうカップルを乗せたんですよ」
 とか嬉しそうに言う。あまりの絶妙なタイミングに、なんか気が抜けた。僕は、<ここで「実は僕らはちょうど1周年のデートだったんですよ」とか言ったら、この運転手は今日1日すごくハッピーになるんだろうな>と思ったのであえて言わず、
「……ああ、ゾロ目ですもんねぇ」
 とだけ答えた。もちろんファルマンがタクシー運転手に向かって目的地以外の言葉を発せられるはずもなく、そのままタクシーを降りた。相手が明らかに喜ぶだろうことをしゃべらず、ふたりしてハッピーな輪っかに加わろうとしないこの姿勢が、1周年を迎えた僕ら夫婦の姿を如実に示しているな、と思った。そういう1周年だった。
 そのあとはなんかどっちらけな感じになり、仲直りして、一緒にスーパーに買い物に行き、お鮨とか買ってきて食べた。おいしかった。
 そして明日からはファルマンが帰省してしまう。3日間ひとりだ。ひどい。ひとり暮らしって本当に意味が分からない。いったいどうすればいいのだろう。途方に暮れる。

2009.8.7

 下着が好きだ。おっぱいについてもさんざん書いてきたけれど、ホックとか、ショーツとか、ボニータとか、やっぱり下着についてたくさん言及してきたように思う。
 ビキニが好きなのも、結局はそれが下着だからだと思う。パーリェ・ゾーカでも書いた。

「あのぅ先生、僕この前気が付いたんですけど」
「なんだ、言ってみろ」
「女の子の水着なんですけど、特にその中でもビキニ……あれって、おかしくないですか」
「どうしてだ」
「だってあれどう考えても下着じゃ──」
「おい! それより先は口に出すな!」
「でも先生、ダブルデートとかすると、友達の彼女が、彼氏の友達である僕に下着姿を見せつけることになるわけで、それってすごく背徳的じゃ──」
「うるさい! あんまり言うな! 女の子にかけてる催眠術が解けちゃうだろうが!」

 ああ、本当に下着が好きだ。
 裸って結局みんな同じような気がするし、乳首の様子で幻滅したりすることも多い。それに対し下着と来たら。街に溢れる何万もの下着の中から、女の子たちが自分のセンスでかわいいと思うもの、この色が自分には似合うだろうとか、実際に試着してみておっぱいの形に合うなとか、そういうことを判断して選び、そして服の下に着けて街を闊歩しているのだ。すばらしいじゃないか、下着。ピーチジョン的な下着のカタログには一切心を奪われず、僕が見たいのはJILLEのストリートスナップ的な感じでの女の子の下着姿なんだ、でもその企画は実現したらなぜか週刊大衆的になってしまう、ということは1年半前に書いた。
 たぶん何万人もの裸を見たら飽きるに違いないが、下着だったらいつまでもいける。(ほほぉ、そのブラにそのショーツを合わせますか、なるほどねぇ)みたいな感じで、いついつまでも感心できるに違いないと思う。
 こんなにも女の子の下着が好きなので、下着屋で働きたい。原宿の竹下通りの下着屋とかで働けたら、いったいどれほどの幸せが待っているだろう。そのグランドラインには、じょっちゅとじょっこに関するすべての謎を解き明かす、ひとつなぎの財宝が隠されているとか隠されていないとか。ああ、悩めるをとめごらに男視点でのアドバイスを差し上げたい。
 でも既存の下着販売会社では、おそらく僕が店頭に立つことはできないのだろう。仮に採用されたとしても男子は裏方だ。裏方で、「男性社員の意見も取り入れた」的な感じで、開発に意見を挟むくらいがせいぜいだろう。実際そういうドキュメントを前に見たことがある。
 僕がしたいのはそういうんじゃない。実際にお店にやってきた女の子に、マンツーマンで似合う下着を選んであげたいのだ。
 だからと言って普通に僕が下着屋を開いても繁盛しないだろう。やっぱり下着を異性の店員に選んでもらうのって抵抗があると思う。と言うかそういうのに抵抗を感じない、羞恥心のないギャルっぽい子には店に来てほしくなくて、抵抗を感じる女の子だけを相手に商売したい。
 そこで考えた。いま執事喫茶というのが流行ってるでしょう。そして喫茶店以外にもいろいろな業種でそういうのがあるらしいじゃないですか。そこで、あれの下着屋版というのはどうか。
 つまり執事下着屋である。
 客はお嬢様となって、執事に下着を見立ててもらう。これはいい。なにしろ、「お嬢様は下賤の者に裸を見られても恥ずかしさを覚えない」という例の法則があるだろう。女の子ならいちどくらいこれをやってみたいはずなのである。男子が湯浴みの世話をしてくれる女官になんの反応も示さないのをやってみたいように、女子も絶対に潜在的にその願望を持っている。この願望によって営業は実にスムーズに進行すると思う。うん、非常にいい。
 ひとつ問題点があるとすれば、執事なんやら、みたいのに行くような女子はちょっとなあ……、という部分だろう。そういうのって結局は同人誌とか買う人が行くんでしょう? スカートの丈が長い人たちが行くんでしょう? じゃあダメじゃない。
 男性店員がアドバイスをくれる下着屋に抵抗なく行けてしまうようなギャルは嫌で、執事下着屋で自己陶酔プレイに興ぜられるようなオタクは嫌で、結局のところ、普通の下着屋に行って普通に下着を選ぶ子がいい。そういう、下着選びにおいて男子の存在を一切挟ませない子が好みで、そういう子の下着選びを手伝いたい。この因果。どう生きればいいのだろう。

2009.8.6


 

2009.8.5

  なんと製本KUCHIBASHI DIARYが届く。早い。たった1週間じゃないか。
 喜び勇んで箱を開けたら、想像以上に感動的な出来上がりだった。
 「俺ばかりが正論を言っている」に5冊の表紙の感じを邁進する。1冊ごとのデザインは、501、502、503、504、505にそれぞれ載せた。背表紙はこんな感じ。かっこいい。そして中身はこう。
 そう、背表紙の写真からも判るように、中身は横書きなのだ。やっぱりそもそもが横書きとして書いていて、数字もアラビア数字を使っているし、ブログ名などのアルファベッドも半角英数を使っているので、縦書きだと違和感があるだろうと思って横書きにした。そう言ったら縦書きで製本したファルマンに怒られた。図書カード500円のことも含めて、本当にファルマンを踏み台にして、僕はいい形が取れたと思う。感謝。これは宝物だな。
 ファルマンは僕のこれを忌々しげにパラパラ眺めては、しきりに僕の頬をペチペチとぶってきて、「ねえ、私の読みにくいと思う? 私も教科書体なんかじゃなくてゴシック体にすればよかったかな……?」などと訊いてくる。実に病んでいる。製本した日記が読みにくいかどうかって、いったい誰にとって読みにくいっていうんだ。こんなもの、絶対に自分以外は読まないのである。ならば自分が思うようにやった結果が間違っているはずがない。もしも読むとすれば我々の子どもぐらいだろう。と言うか子どもには読ませる。死んだあとに引き出しから出てくるとかじゃなくて、普通に生前に読ませる。むしろ読み聞かせる。子どもはこの日記によって言葉を習得してゆけばよい。日記は両親が代わる代わる、自分のほうの日記を持ってくる。果たしてこどもはどっちの作風に染まるのか。なんと哀しい宿命を背負わされた子どもか。

2009.8.4

 ところでファルマンは僕よりも休みが長く、そのため僕より3日早く帰省するのである。帰りがひとりというパターンよりはいい気もするが、どちらにせよ3日間ひとりという事実に変わりはない。
 寂しいじゃないか。
 ひとり暮らしとか本当に意味が分からない。僕がどれだけ寂しがりやだと思ってるんだ。寂しがり大相撲の伝説の横綱だぞ。きっと寂しさのあまり夜ファルマンに電話したりするのだろうが、するとファルマンは、いまこの瞬間まで妹とバカ話してチョー盛り上がってたんだけどなんか用? 感を隠すこともせず、「もしもし?」って陽気な声を出してくるから、僕はそれでいつも余計に寂しくなる。僕が落ち込んでいるのだから、そっちもちょっとは陰気にしていてほしい。ああでも陰気にされたらされたで、<実家が愉しくて俺なんかと電話する時間が惜しいものだから不満げなのかな>と思ってしまってダメだ。要するにどうしてもダメだ。この状況に対抗する手段としては、こちらも友人らとすごく盛り上がっている、というのしかないが、それが不可能なのは言うまでもない。この前、飲み会をやっているらしい大学の頃の友達から電話が掛かってきて、ちょっとだけしゃべって、それだけですごく気持ちが落ち込んだ。
 つまり3日間、海の底の泥のように過ごすほかない。

2009.8.3

昨日の甚平の話に関連するのだけど、女の子の、小学校5年生くらいから中学2年生くらいまでの、ビジュアル的に崩れる時期というのがあるだろう。
 あの時期をなんと名付けるか、ファルマンと一緒に考えた。
 ファルマンは最初「さなぎ期」と言い、僕が「それはあまりにもつまらない」として却下した。そこで次に繰り出してきたのがなかなかよかった。
 「ためい期」
 なるほどね、という感じ。たしかに、次から次へと出てくるニキビとか、安定しない生理とか、その時期の女の子たちっていうのは溜め息のオンパレードなんだろうな、思う。さらに言えばその時期は反抗期とも重なるわけで、なんでうちの子はこんなに言うことを聞いてくれないのかしら、という親視点からの溜め息というのもある。うん、なかなかいい。
 そして「ためい期」でももちろんいいのだけど、それ以外にいろいろな漢字の表記が考えられそうなのもいいな、と思った。
 はじめに考えたのは「為意期」。女の子としての意識を高める為の時期。
 「為移期」もいいな、と思う。移る為の時期。これは意味的に「さなぎ期」にすごく近い。
 4文字にすると暴走族っぽくなってあんまりよくない。「他雌畏期」。他の雌を畏れる時期。意味的にはけっこういい線いっている気もするが、いかんせん洗練されていない。
 「期」ではなく「域」はどうだろう、ということで「他女域」というのも考えた。二次性徴を経るそれっていうのは、もうほとんど他の女になる域だよね、肌荒れに悩んでいる君も、そのうち絶対にきれいになるよ、という希望に溢れた言葉。思春期っぽくて割といい。
 がらっと作風を変えて「溜慰期」というのはどうか。慰めばかりが溜まる時期。詩的。
 さらに「為為期」もちょっとふざけてておしゃれ。明日の為、未来の為の時期。
 そんな風に、いろいろ考えた。でもいちばんうまいのは断然これだ。
 「多迷期」。
 うますぎて可愛げがないくらいうまい。迷ってばっかの時期。

2009.8.2

 職場のほうの街で祭りがあったらしく、浴衣の女の子が割といた。しかし浴衣はいいのだが、中学2年生くらいなのに甚平の子というのもいて、あれは非常にいただけなかった。同僚と、「好きな子を夏休みのお祭りで見かけて、その子がハイビスカス柄のピンク色の甚平だったら、一体どれほど哀しいだろうね」と、しみじみ語り合った。甚平は違うだろう。浴衣だろう。浴衣なんていまどき高くないから、つまりあの子たちっていうのは、予算の都合じゃなくて、浴衣と甚平というふたつの選択肢がある中で、甚平を選択していることになる。どういうことだ。まあ思春期の阿呆な少女なので、そんなこともあるかもしれない。だとすれば親だ。それを許容する親がどうかしている。祭りに行くときに着るものを買いに行くと言ってお金を渡してやった娘が甚平を買ってきたら、親はその日のうちに返品しに行くべきだ。放任すぎるだろう。甚平って本当にない。

2009.7.31

 今日は女の子の膨らみかけのおっぱいに思いを馳せた。
 おっぱいがだんだん膨らんでくるって、男子の僕らが想像するよりはるかに、とんでもないことなんじゃないか。男子における勃起とは比べものにならない。勃起は一時的なものだし、それに思春期になって初めて起こる現象でもない。それに対しておっぱいの膨らみと来たら。ある日突然やってくる、萎まないおっぱいの勃起。想像がつかない。女の子がふんわりとそれを受け止め、それどころか手のひらを胸の前で合わせ、おっぱいがおっきくなる体操をしさえする精神が、まるで理解できない。おっぱい勃起チョー怖い。女の子すごい。
 ところでおっぱい勃起ということは、すなわちおっぱい芝生だな、と考えて、そう言えば芝生ってちんこよりむしろおっぱいに親和性が高いよな、と思った。すなわち、『芝生→乳牛→おっぱい』という流れである。ちんこのことを芝生と呼ぶようになった経緯は非常に回りくどく、まだpuropediaにもまとめていないので、絶賛製本中の「KUCHIBASHI DIARY」なんかを読んでいただければ幸いなのだが、とにかく重要なのは、ここへ来て芝生はちんこよりもおっぱい的だ、という見方が出てきた事実である。芝生男子アイデンティティの危機である。
 しかしここで先ほどの式を思い出してほしいのだが、『芝生→乳牛→おっぱい』となっているこのあとは、実は『おっぱい→ミルク』と続き、そのミルクに対しては『ミルク←ちんこ』と、逆向きの矢印が伸びるのである。つまりミルクを中心にして、おっぱいからもちんこからもアプローチがあるわけである(もっとも両者のミルクは母乳と精液でまったくの別物だが)。だとすれば式のいちばん右に位置するちんこから、『ちんこ→芝生』という矢印が伸びることも至って自然だ。つまりいっぺんに示すと、『芝生→乳牛→おっぱい→ミルク←ちんこ→芝生』となり、左と右の芝生は重なって、ひとつの円となるのだ。わあ! なにこれ宗教? うまくできた神話?
 そんなわけで何が言いたいかと言うと、芝生男子っていうのは、つまりミルク男子なのであって、おっぱい男子なんじゃないか、ということだ。芝生とはいちおう勃起だが、しかしその勃起は攻撃的なものじゃなく、春の陽射しのようなものだ、ということをこれまでさんざん語ってきたわけで、膣内をがしがしやって発射、とかいうんじゃなくて、ミルキーな、恒常的に勃起している女の子のおっぱいみたいな、要するにやっぱりそういう存在なんじゃないかな、ということ。僕がなにを言っているのか解っている人いるのかな。僕でさえ解らないのだけど。でもここまで書いて、以前に将来の夢として、「女の子にとっての女の子のおっぱい」になりたい、と書いたことを思い出した。ミルクと芝生を軸にした輪っかは、実は前からもうできてたんだな。

2009.7.30

 そう言えば純粋理性批判についてひとつ思ったことがあるのだが、これってストーリー部分いらない気がする。100冊以上読んで至った結論。この前ラストのハーレム部分だけ何冊も続けて読んでいったら、割と普通に愉しめた。なのでツンデレの子がまだツンツンしかしていないときのこととか、別に描く必要ないんじゃないかな、と思った。それよりも基本的にラストに1回しかないハーレム部分を、全編で7回くらいやったほうがいいと思う。ツンデレの子に関しては、登場人物表のところで「直樹のことが昔から好きだがなかなか素直になれないでいる」くらいだけチラッと言っておき、冒頭からいきなり始まるハーレムシーンの中で、チンポを咥えつつ、「こ、こんなことするの直樹にだけなんだからねっ」程度の台詞を吐かせればそれでいいと思う。

2009.7.29

 ファルマンがこの前、団塊ジュニアのことを男根ジュニアと言い間違え、とてもおもしろかった。男根ジュニア、それはつまり精子だろう。

2009.7.27

 勃起ちんぽを押し付けられるかもしれない(Wii Fitとかの最中に)義妹と言えば、おそらく高頻度でSJSをやっているんだろう、サークル活動お盛んな大学生の下の義妹が、この前ちょっと男性恐怖症の気がある上の義妹に向かって、恋愛アドバイスをぶったらしい。教えてもらったその内容がおもしろかった。
 「好きな人とふたりでお酒を飲んでたらいい感じになるよ」
 これはすごい。すさまじい。数多の哲学者や詩人と並んで、この言葉と義妹の名前が歴史に残ってもおかしくないと思う。数日前に女の子がノーパンである理由として、「なぜなら女の子はエッチな生きものだから」という真理に到達したが、これはそれと関連する話だと思う。世界は単純なようで、奥深いようで、でもやっぱり単純なようで、愛しい。

2009.7.25

 ちなみにそんな会場だったから高校生は見たところいなかったが、中学生はいた。浴衣のが。しかしあれだな、浴衣の女子中学生なんて見たのは、ほぼ自分が中学生のとき以来だったが、実にどうということもない存在だな。女子に限らずもちろん男子もだが、すごく味わいがない感じだった。まあそれはそうだ。まだ14年しか生きてないし、性に目覚めたのもつい最近だろう。愉しい要素なんてひとつもない。そんなもの同士が恋とかするのだから、ティーンは滑稽で愉快だなと思った。そして若者ののことを「味わいがない」とか言うようだと、僕ももうずいぶんつまらない大人になったものだなと思った。現実ってやっぱり見ないほうがいいな。

2009.7.23

 ベース音が子宮を震わすのが許せない。
 だってどう考えてもずるい。ゲームを改造してレベル99にして簡単にクリアするような、そういう種類のずるさだ。それをやっていいなら話は簡単だけどなんか違くねえ? ドーピングじゃねえ? と思う。俺たちの必死の努力とか完全に無視して、ベーシストはただ弦を弾くだけで、ろくにしゃべりもせず、こっちの数百倍の効果を得るのだ。絶対に許せない。
 そう言ったら世の中の60人のベーシストたちはコードを揃えてこう反論するだろう。
「じゃあお前も文章で女の子の子宮を震わせればいいだろう(Am)」
 違うのだ。ぜんぜん解ってない。文章を読むのが好きで、主人公に感情移入して、感動して、レビューを書いて、コミュニティに加盟して、「ダ・ヴィンチ」を購読するような輩は、嫌いなのだ。そいつらの子宮を震わせたってなんのメリットもないじゃないか。
 そういうんじゃなくて、中学までは体育会系の部活をやってて、高校生になってからはファーストフードでバイトしてて、けっこう電話帳には男子の番号も入ってて、気分がよくなるとキスくらいしちゃう感じのボーイフレンドが複数いる少女を、文化祭のライブに招待して、演奏を聴かせて、それで子宮を震わせたいのだ。わかりますか。
 だけど僕にはベースがない。君に聴かせる腕もない。
 そこで考えたのだけど、後世トーマス・パピソンの三大発明のひとつとされる発明品を発表するのだが、いま僕がこうして叩いているパソコンのキーボード、これのひとつひとつのキーの底にベースの弦を張るというのはどうだろう。これにより、キーを叩くたびに「ヴォーン、ヴィーン、ドァーン」とベース音が響き渡る。なんならネット上にアップされるのは文章じゃなくて、このベース音でいい。このベース音に合わせて光るパットの順番を覚えてどんな文章なのか読者は当てればいい。30点の回答をパスしてもういちど光の順番を覚え直します。10万円相当の金貨をダーツの矢と交換し、運が良ければこちらの賞品を獲得できます。
 ベースキーボード。はじめはジョークのつもりだったのだけど、意外と本当にいけるんじゃないか。もしも僕らの言葉がベース音であったならば。イフワーランゲッジイズベースパフォーマンス、ガールズオープンドレッグオブレッグ。女の子たちは脚という脚を開くだろうに。
 以上、僕の話でした。
 話はがらりと変わって僕の話なのだけど、僕は自分のブログを読み返すのが趣味なのだが、昨日はこのKUCHIBASHI DIARYの昔の記事を読み返していて、そうしたら「パピロー率」という言葉が出ていたので興味を引かれた(2008年8月26日)。
 「パピロー率」とは、女の子のブラウスからホック(ブラ)が透ける確率を表す数字だという。
 えっ、そうなんだ? という感じ。軽い驚きとともに、その言葉は僕の心にしっくりと入り込んだ。つい最近もそこらへんの、ブラウス越しに見えるホックのことについて書いていたけど、残念ながら「パピロー率」という言葉はすっかり忘れていたので、一切使用しなかった。でも使えばよかったな。あの日記のテーマはすなわち「パピロー率」だったんだ。
 二度とこんなことがないよう、puropediaに「パピロー率」の項を作成した。
 それにしても「パピロー率」か。科学の分野では、発見した概念に自分の名前をつけて、自分の名前が一生残るようにするけれど、この「パピロー率」は、女の子に関する事象における、それと同じ展開の可能性を示唆しているんじゃないかと思った。
 そして、名前が付けられる事象はもっとたくさんあると思う。過去のKUCHIBASHI DIARYとかを読めばいくらでも出てくる。これにひとつひとつ、「この単位はpurope」とか、「これをプロッペッパッピローニ現象という」とかいう風に、この誰にも踏み荒らされてない(ふたつの意味での)処女世界に、これから僕は無数の足跡を残してゆこうと思う。
 この功績により400年後にもなおこの学問でパピローは巨人として君臨し、パーピニズムは学者たちの主流で、しかしパーピニズムでは説明しきれない進化システムを補完する理論として、ネオパーピニズムの台頭もまた目覚ましくなってくるものと思われる。それでよい。一生懸命やりなさい。若き才能のある研究者のために、基金から賞金を出し、毎年ひとつの優れた研究を対象にパピロー賞を捧げようじゃないか。これでこの学問が活発になれば言うことはない。

2009.7.22

 興味がなかった皆既日食が、割と日本列島の広範囲で曇りだったようで、痛快だった。何週間も前から心待ちにして、専用グラスを用意して、なんなら自由研究のテーマにしてしまおうか、という感じだった小学生の落胆とかを考えると、ぞっくぞくする。大人になるとだんだんと他人の不幸をスカッと愉しめなくなってくるけれど、今回は久々にきれいに決まった。「愉しみにしていた皆既日食が曇りで見られない」って、すごく上質の、笑い飛ばしてよい他人の哀しみであると思った。そういう意味では皆既日食は愉しめた。でもやっぱり全体的には気持ち悪かったな。なんでみんな空を眺めて宇宙のロマンを感じようとしたりしてんの。卑弥呼とかの時代の人? もういまさらそういうのよしてほしい。支配者に心酔し、国益のための戦争に奮起しそう。こわいこわい。

2009.7.21

 義妹らとプールに行くことを想像し、義妹らの水着姿を夢想して、そのおっぱい部分に思いを馳せた。ファルマン曰く、「3姉妹で私がいちばん胸が小さい」のだという。もっともこれでファルマンがCカップとかならば話は大いに盛り上がってくるのだが、残念なことに(非常に残念なことに)AAカップなわけで、<AAカップより下ってことはそりゃあねえだろうよ>とも思うのだが、そうは言っても妻よりも大きなおっぱいの義妹らという事実に変わりはない。妻よりも大きなおっぱいの義妹ふたりが水着姿で僕に向かって手を振ってくる。なんとも夢が膨らむじゃあないか。
「しかもそれって俺、揉んでいいわけでしょう?」
 とファルマンに言ったら、
「なんでだよ」
 とすごく冷たくツッコまれたのだけど、でもやっぱり揉んでいいと思う。
 たしかに義妹のおっぱいを義兄が揉むのは、普通に考えたらダメだ。それは解ってる。でも視点をもうちょっと拡げてみたらどうだろう。つまり世の中にある約30億のおっぱい(60億人の半分。またおっぱいはふたつでひとつとカウントするものとする)のうち、僕の揉んでよいおっぱいをAおっぱい、揉んではいけないおっぱいをZおっぱいとしたとき、Aおっぱいにはもちろんファルマンが来て、Zおっぱいにはいろんな意味でライス元国務長官とかが来ると思われるが、じゃあその論でいくと義妹らのおっぱいはどこに振り分けられるか、と言えば、Bおっぱいだろうと思うのである。逆に言えば、義妹ら以外の誰のおっぱいがBおっぱいだと言うのか。
 だから義妹らのおっぱいを、僕は揉むと思う。
 なぜならばBおっぱいだから、義妹らのおっぱいらを僕は揉むんじゃないかな、とたしかな予感を抱きながら実家の日々を過ごしたい。

2009.7.20

 バラエティ番組で、「ブログのランキング1位を目指す」というのをやっていて、僕はそれをファルマンと見ていて、はじめのうちは「ファルマン、イライラしてるでしょー」などとファルマンのことをいじりながら気楽に見ていたのだけど、そのうちに澱のようなものが僕の(容量のきわめて小さな)心にそろそろと沈殿していって、見終えたときには、すっかり気持ちが落ち込んでいたのだった。そして落ち込んだ僕はむしろファルマンから、「あれは私たちがやっているのとは別のものだから」と、大人の対応で慰められたのだった。
 たしかに別物だというのは解っている。携帯電話の画像に2行ほどの絵文字満載の文を乗っけただけの記事(「ネタ」って言うんだっけ)が、1画面でひとつしか表示されないあれが、僕やファルマンのそれと同じものだとは思わない。そもそも僕はランキング1位を目指しているわけでもない。それどころか参加さえしていない。コメントだって、数を競うどころか禁止じゃないか。
 でも、どうしたってなんて言うんだろう、やるせなさみたいなものが払拭できないのだ。ふざけるなよひどいじゃないか、と思うのだ。番組では、企画に挑戦している芸能人が、「うわあ、5位かー。くそう、1位は遠いなー」みたいなことを言っていて、その5位を悔しがる気持ちというのが、同じランキングに参加して毎日ブログを真面目にやっている24562位の人とかに失礼だろう、と思うのだ。もっともそれを言えば企画自体が大いに失礼である。おちょくっている。お前はいったい何様なんだと言われればそれまでだけど、ブログの文化そのものを冒涜しているんじゃないかと思った。ブログというのはね、誰にも邪魔されず自由で、なんと言うか救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。お前のところの番組は居酒屋のメニューのベスト10を、毎週ブラマヨがおもしろいことを言いながら当てていればそれでいいじゃないかと思った。
 まだまだだな。「余裕」とか言っておきながらこの取り乱し具合。それに比べて「うわのそら」の気にしなさと来たらすごいじゃないか。自分の精神と体調にしか興味がない。俺も早くそこまで行かなくちゃ。行かなくちゃ希美と太陽のようになれないじゃないか。

2009.7.19

 お盆のファルマンの実家への帰省が愉しみでしょうがない。
 最近は残りひと月を切ったそのことばかりを考え、日々を淡々とこなしている感じ。あまりに愉しみなので、終わったあとのことを考えるともうすでに寂しい気持ちになる。それほどだ。
 一緒の部屋で寝ることになりそうだ、というのは前にも書いた。
 今日それに加えて、「プール行くっていうのはどうだろう?」とファルマンに提案してみた。お義兄さん、もうあんまり下心とか隠さない感じになった。義妹の水着姿が見たい。そりゃ見たいだろう。いったい誰がそのピュアな感情を否定できるというのか。誰にも文句など言わせない。ファルマンとの付き合いはもう6年、ファルマンの水着姿を僕はいちども見たことがないが、このお義兄さんと来たらにわかにプール企画を猛プッシュし始めている。
 なにしろ実際に体験する前から予見していることとして、この夏というのは、「僕の羞恥心の低下曲線」と、「義妹らの若さ曲線」と、「義妹らがまだ特定の男性を実家に連れてくるような感じじゃなく若者の男性は僕だけ曲線」が、きっと人生のなかでいちばんいい具合で配置される、皆既日食なんかとは比べものにならないくらいレアな夏になるはずなのだ。来年くらいになると、次女あたりが地元で作った彼氏なんかを家に招待するようになっていて、筋肉質で爽やかな彼は野菜も肉も気持ちよく食べる好青年で、僕の立場は完全になくなるはずなのだ。彼の輝きを前にしたら、僕が一同でのプールを提案することはまずない。むしろ友人とたまにサーフィンなんかもやってしまう彼を中心に自然に持ち上がってくるその企画を、僕自身が頑なに固辞し、中止に追いやるだろう。来年以降は僕はそういうキャラ。だからこそ今年を思う存分に愉しむほかないのだ。私にはもうあとがないのです。
 ああ、想像するだけで甘美な気持ちなる。22歳と19歳の義妹の水着。ピチピチギャルやないすか。もちろん水着はビキニだ。もっともわざわざビキニなんて言う必要もない。女の子の水着はビキニしか存在しないのだから。ワンピース? なにそれウケる。

2009.7.14

 マリモッコトピアとか完全にpuropediaを意識してオリジナルの言葉を作ろう、作ろうとして発言してるよね、みたいな小生意気なことをファルマンから言われる。なんと失礼な奴か。
 最近のバラエティ番組はギャグとかをすぐに着ボイスにして配信し、そこでけっこうなお金が動いているようで、芸人たちも意識的にそういうのを生み出そうとしているのが窺えて、なんか釈然としない気持ちになるが、僕のマリモッコトピアとpuropediaの関係は、それとはぜんぜん違うと思う。だってお金が発生していない。ただリンクからpuropedia内マリモッコトピアのページに世界中で7人くらいが移動し、「ははん」となるだけの話である。僕にメリットはまるでない。でもそれでもやっているのだ。そこのところをしっかり理解してほしいと思う。
 僕のこの行為はバラエティ番組のそれではなくて、新興宗教団体が独自の用語を使うことで信者の結束を高める、そっちのほうに似ていると思う。ただし宗教法人として届出をしていないし信者は存在しないため(パッピーナ募集中です)(メールフォームからのお申し込みも可能です)、図式としてはただただ教祖の自己満足で終始している。
 だとすればこの行為は、金にまみれたテレビ業界はもちろんのこと、正道を求め突き進む宗教よりもさらに、純粋で尊いんじゃないかと思う。内申点のために花瓶の水を取り替えてるんじゃない。俺はただ、このきれいな花ができるだけ長生きしてほしいだけなんだよ……。

2009.7.10

 これは前々から思っていたことで、世間的にもすっかり色褪せてしまった時代遅れな話だと思うのだが、じょっちゅやじょっこが、まりもっこりのキーホルダーを提げているのを、やはりどうしても冷静な気持ちで見られない。肩を掴んで、相対して、お互いの目をちゃんと見つめ合って、真意を問い質したい気持ちになる。いっそのこと僕のまりもっこりを取り出して、「つまりこういうことなんだよ!」ということを解らせてあげたい。そんなキーホルダー提げてたら、変なお兄さんに肩掴まれて、ちんこ見せつけられちゃうんだよ! いいの? いいんならお言葉に甘えちゃうよ!
 まあ今日たまたま久しぶりにスクールバッグに提げている子を見かけたからそんなことを思ったのだけど、でも実際まりもっこりはもうブームとして下火なんだろうな、とも思う。一時期に比べぜんぜん見なくなった。みんな最近はケアベアとかなんでしょ。
 だから放っといてもまりもっこりに対する僕の懸念は自然と解決されてゆくはずなのだ。これでもなお、まりもっこりを提げる子っていうのは、僕が心配するまでもなく本物なんだと思う。本当にちんこが好きなんだと思う。それならそれでいい。誰も不幸になってない。
 でも下火になったら下火になったでちょっとした残念さもあって、女の子がまりもっこりを提げることに対する僕の懸念というのは、<この子はまりもっこりがどういう意味か解ってるのか、無自覚なんじゃないのか、いつか意味に気が付いたとき、スクールガール時代の自分が、勃起をモチーフにしたキャラクターを提げて街を闊歩していた、田辺先輩に告ったときも、私の鞄には勃起のキャラが付いてたのだ、という事実に、ショックを受けて拒食症とかになっちゃうんじゃないか>という不安から来るものであって、これが無自覚じゃなく、しっかり意味を把握してた上でのブームがまた来るのだとすれば、それならそれでぜんぜんいいのだ。むしろそれは大いに期待したいのである。そのとき天界への扉が開かれ、勃起がかわいいとされる千年世界が到来し、女子中学生の集団が、帰り道の僕を待ち伏せして、一斉に襲い掛かり、拘束して、木陰に連れ込み、数人掛りで組み伏し、猿ぐつわを噛ませ、がちゃがちゃとベルトのバックルを外し、ズボンを下げ、同時にシャツも脱がし、露出した乳首をふたりの少女が左右同時に舐め、僕の下着が徐々にまりもっこりしてゆく様を、歓声をあげながら、他の子たちはムービーで撮って、部活で来れなかったクラスの子にも、メールに添付して送ってあげる、そんなマリモッコトピアの午後の情事が展開されるのではないかと思う。以前PUREREASONCRITICISMにも、「勃起かわいい仮説」については書いた。まりもっこりはこの仮説を証明するマリモッコトピアへ辿り着くための通行切符なんじゃないか。父さんは嘘つきなんかじゃない。バルス!
 流行れ。流行れよ流行れ、まりもっこり。勃起ブーム、ひいては芝生ブームを巻き起こすんだ。去年のタイトル短歌で「大きくも小さくもなく陰唇はかわいいものと俺は思います」というのがあるが(10月1日)、男根もまたそうなのだと思った。天津木村のエロ詩吟に、「セックスが終わったあとのちんこをいじって遊んでいる女の子を見て、この子、子どもが好きなんだろうなって思う」みたいなのがあって、これは勃起じゃなくて萎んでるわけだけど、でも共通する部分はある。NHKでも最近「かわいい」をテーマにした番組をやっていて、日本のかわいいは世界の最先端、みたいなことを言っているが、そのかわいい先進国日本のさらに最先端は、実はここにあるのだと思う。男根かわいい。今夜のゲストは、じょっちゅとじょっこを中心とする男根ブームの火付け役、芝生男子でもありますpurope★papiroさんです。もうわけがわからん。SJS。

2009.7.9

  異動のためいまの職場で夏を迎えるのは初めてなのだが、職場のある町の女子高生がすごいことになっている。前々からスカートの短さがすごいとは思っていたのだが、夏の気運の高まりに沿って、このところ凄みを増してきた感がある。
 凄みを増してきたと言うか、端的に言うとみんなブラが透けている。普通に透けているのだ。
 女子高生って夏でも薄手のベストを着るか、あるいはキャミ的なものをブラとブラウスの間に挟ませるかして、決してブラを大っぴらに晒したりしないもんだと思っていたが、どうやらこの土地では決してそんなことはないらしい。つまりこの日記でさんざん書いてきたようなこれまでの僕の認識、「梅雨の時期は登校時が肌寒かったりするからカーディガンを着てきたりするけど、下校時には晴れて暑くなってるから堪らずカーディガンを脱いでしまう。もちろんカーディガン仕様だからキャミなんて用意してない。じゃあブラが透けちゃうって? でも初夏のこの爽快感、躍動感を前にして、それが一体なんだっていうの?」といった、そういう常識は通用しない。このグランドラインじゃ、夏の間じょっこのブラは透けているのが当たり前なのだ。本当にこれまでの自分が低レベルのイーストブルーにいたことを痛感する。エースの処刑まであと7時間。海賊王に俺はなるよ。
 これとは機構が違うのだけど、じょっこのブラ透けに関し、じょっこから関心をなくされきったら、逆にじょっこに対してなんでもし放題なんじゃないか、と思った。石コロ帽子願望にも通じる考え方である。かつて西洋人はアジア人のことを猿扱いしていたので、アジア人の前では何にも気にせず裸になったという。そういうのをじょっこと僕の関係にも応用できないだろうか。じょっこたちが俺のことを空気みたいな存在、風的な存在だと受け止め、僕がスカートをめくったとしても、「きゃっ、いたずらな風ね」と慌ててスカートを押さえ、クラスメイトの男子にいまの場面を見られていないかキョロキョロするような、そういう関係だ。俺のことは完全にスルー。今後の人生をかけてそういうのを築いていきたい。要するに煩悩や我を捨てるということなので、これはまったくもって「修行」に他ならない。一般的には、変に色気を持ってじょっこと対面するから、じょっこの思春期センサーに引っ掛かって拒まれる。しかしこちらから発する波動を無にしたら、じょっこだってフラットに現象を受け止めるに違いないはずなのである(波動とか言うと途端に話が胡散臭くなって素敵だ)。山に篭もってるような輩というのも、結局はじょっこのスカートを自由にめくることが目的なのだと思う。サンは森で、私はたたら場で、そのくらいの境地で女子高生と相対して、共に生きよう。僕は本気だ。あいつ、本気で女子高生に無視されるつもりだぜ……でっけえよ、かなわねえよ。って町のチンピラが遠巻きに噂すればいい。完全に風として扱われ、存在を無視されたとき、僕は日本的なアニミズム思想から、神と崇め奉られるのだろうと思う。
 SANJIKAINOSHOYA!

2009.7.6

 柄にもないことをしてみる。メールフォームの設置だ。
 左のサイドバーにある。これはこのKUCHIBASHI DIARYのほか、俺ばかりが正論を言っている、STITCHTALK、NAYAMUKEDOKUZIKENAIに共通のもの。つまりこれによりどのブログからも僕と交流を持つことが可能となった。やったじゃん、みんな、夢かなったじゃん。
 メールフォームでは自由選択で好きなブログを選ぶ項目があって、上記の4つに「うわのそら」を足した5つから複数選択できるので、みんなどしどし「うわのそら」以外の4つにチェックを入れて投票したらいいと思う。本当に待ってます。
 パピロウってネットでの交流を拒んでる感じだからメッセージとか感想とか別にいらないのかな、ってみんな勘違いしてると思うんだけど、言っとくけど僕は褒められるの大好きだからね。ミクシィやってる人の5万倍は好きだからね。なのでみんな褒めちぎればいい。ちぎってちぎって、世界は分断され、小さな政府が濫立すればいい。たとえばcozy rippleトップページのモジャジャかわいい、とかでいいのだ。これは誰も言ってくれないから俺ばかりが言っている。俺ばかりが正論を言っている。暇さえあればトップページを眺め、モジャジャかわいいってステッチトーク(ひとりごと)してる。なやむけどくじけないよ。
 ちなみに返信はJCかJKでもない限りしないです。甘く見んな。

2009.7.5

 女の子について熱心に考える時期と、それほど考えない時期があって、いまはあまり考えない時期に入っている。でも最近気付いたことに、この女の子についてあまり熱心に考えない時期もまた、僕の心は女の子とともにあり、空気みたいな存在としていつでもすぐ近くに女の子はいて、それはかつて女の子だった女性が記憶としてすぐ手許に置いているとかいうのとも違って、それよりはもっと生々しく、女の子という存在がイデアとして僕にぴたりと張り付いているような、そういうイメージ。

2009.7.3

 なんだかんだで絵日記ブログを始めてしまう。
 タイトルはNAYAMUKEDOKUZIKENAI。ブランド名と一緒なのがややこしいが、このタイトル以外ないと思ったのだからしょうがない。puropediaに、「NAYAMUKEDOKUZIKENAI(ブログ)」、「NAYAMUKEDOKUZIKENAI(ブランド)」としてそれぞれページを作った。あいまいさ回避だ。
 絵日記ブログなので、けっこう日常の出来事とかを書いてゆくのだろうと思う。でもだとしたらこのKUCHIBASHI DIARYはどうなるのだろう。役割分担をちゃんと明確にしないとな。
 もっとも最近KUCHIBASHI DIARYはそれほどダイアリーじゃなくなっている。女の子とかについて、考えたことばかり書いている。でもこれはしょうがないことだと思う。日常は同じことの繰り返しなので、わざわざ書くことってそんなにない。しかし労働はいつも同じ調子で同じことの繰り返しだが、頭の中の動きは日々深化している。だとすればその日の頭の行動を切々と綴ることも、立派な日記なんじゃないかと思う。KUCHIBASHI DIARYはそういうスタンスだな。
 それに対してNAYAMUKEDOKUZIKENAIは、なんとなくイラストに救われる感じで、毒にも薬にもならないあるある話とかを短文で書いてゆけばいいんだと思う。絵日記ブログを始めはしたが、絵日記ブログへの不信感がなくなったわけでは決してない。気合を入れず、迎合せず、誰とも交流を持たず、孤高にやっていこうと思う。

2009.7.2

 例えば教祖のお兄ちゃんがいて、そのお兄ちゃんが妹のショーツを祈祷に使用してしまったとしたらどうか。あるいは造形作家のお兄ちゃんがいて、いま取り掛かっている作品の素材が妹のショーツだったらどうか。妹はノーパンで登校するほかなくなるのではないか。
 さらに言えばその場合、怒ってふくれた妹はノーパンでの学校生活を過ごした後、放課後お兄ちゃんに新しいショーツを買ってもらうために下着屋さんに一緒に出掛けるのではないか。

 妹のショーツ駄目にす穴埋めにイトーヨーカドー一緒に行こうよ(そんでショーツ買ったあと1階のフードコーナーでソフトクリーム食べようよ)

 お兄ちゃんはただ妹のショーツを喪失させればそれでいいのである。たったそれだけの労力でこれほどの効果が得られる。思わず字余りの短歌を詠んでしまうほど悔しい。妹がいさえすれば、世の中はこんなにも楽に回るのか。……ちゃくしょう!
 この「ちゃくしょう!」って前から密かに使っているギャグで、たしか始めに言い出したのはプロッペッさん家のパッピローニだったと思うのだが、目の前にある悔しさを「ちくしょう!」と叫ぶ場面で、誰もが誕生過程において受精の次にやった行為「着床」と叫ぶことにより、「人はどうして泣きながら生まれてくるんだろう?」「生まれてしまったことを哀しんでいるのさ」みたいな、人生そのもののどうしようもない嘆きが表現されて、話に一気に深みをもたらす効果がある。いいギャグだ。

2009.7.1

 気が付いた。
 中学校と高校で女の子は6年間も学校に通うのだから、そのうちの1日ぐらいは、なんかしらの理由によってノーパンの日があるのではないか、と気が付いた。
 なんかしらの理由の具体例がすぐには浮かばないが、でもなんかしらあると思う。なんかしら、よんどころない、のっぴきならない、ショーツを穿けない理由が、きっとなんかある。
 1年間で学校に行くのは何日くらいだろう。夏休み中にも制服で予備校に行ったりするのも含めれば、200日くらいにはなるだろうか。200×6で、1200日。1200分の1と言えばひどい低確率である。僕も無理に女の子にノーパンたれと言っているんじゃない。でもその低確率だったらノーパンなのも十分にある気がしてくるじゃないか。
 女の子が1200日のうち1日はノーパンであるのだとすれば、言い換えれば毎日1200人にひとりはノーパンだということになる。確率論的に言ってそういう計算にはならない、とかそういうのはいい。女の子の1200人にひとりはノーパン。この中高一貫女子学園の生徒数は1400人だから、毎日ひとりかふたりはノーパンということになる。
 ああ、全校集会の際にステージ壇上から全校生徒をぐるりと見渡し、そのひとりかふたりを察知する超能力が欲しい。そして学園理事長という権限を使って、そのひとりかふたりに放課後わざと雑用を頼みたい。高い位置にある標語ポスターの貼り替えとかを命じたい。

2009.6.30

  昼間になって、今朝そう言えば寝ぼけながら、<これはメモしなくては>とケータイになんかメモしたよな、ということを思い出し、どんな愉しいことが書かれてるだろうと期待して見た。
 『天才パティシエ少年の精液がうまい』
 と入力されていた。

2009.6.29

 ちょっと自分の心境の変化に驚いたのだが、純粋理性批判や社会契約論で、僕はハーレムプレイに執着してきただろう。ひとりを相手にする純愛なんて糞喰らえ、ぐらいのことを言ってきた。さらには、2人も味がない、3人で及第点、4人でなかなか、5人でオッケー、6人で万歳、そんなくらいのスタンスだったろう。そういう感じの文章も前に書いた。
 でも現実問題として、5人とかってつらいんじゃないか。
 5人の女の子とセックスすることを現実的な問題として捉える行為にはかなりの想像力を必要とするが、がんばってそれを成し遂げてみると、やっぱりつらいと思う。だってそもそも5回も出ないじゃないですか。5人なら最低でも5回出なきゃ問題が発生してしまう。
 そういう現実に気が付いて、怯み、「5人」から逃げようと僕は身を翻す。
 するとそこに立っていたのは「2人」だった。
 憧れの「5人」の尻ばかり追いかけ、ぜんぜん顧みることのなかった幼なじみの「2人」が、こんな情けない僕のことをじっと見つめ、そして優しく微笑んでいた。
 愉しくともなんともない、どうせ一方がおしとやかでもう一方が男勝りなんでしょ? と相手にしていなかった「2人」。でも「2人」はいつでも僕のことを包み込んでくれていたじゃないか。「5人」に立ち向かって傷を負った僕の、手当てをしてくれていたのは「2人」だったじゃないか。
 きれいに包帯を巻いてくれた腕を、労わるようにさする「2人」。僕は思わず我慢できなくなって、そんな「2人」を抱きしめる。ああ、「2人」だったんだ。現実的に考えれば「2人」が最高じゃないか。2回なら出るよ。体調次第だけど、そこそこの確率で2回なら出せる――。
 もっとも対象は全部で「5人」で、その「5人」をいろんな組み合わせで「2人」ずつ攻略していけばいいんじゃねえか、という気もする。すごく体調がいい日に限っては「3人」でもいい。ただしそれを許してしまうと、「5人」さえも軽々と飛び越えて、「4万人」とかでもよくなると思う。

2009.6.26

 そうか、お嬢ちゃんそんなにもおっさんの御ぱくりが嫌か。そうかそうか。そうならそうとはよう言ってくれたらよかったんやで。おっさん無理強いとかは嫌なんやから。やっぱりこういうのって同意の上で、お互いに快感を高めあって行なうもんやって思うねん。せやからおっさん、やろうと思えば無理やりお嬢ちゃんの口にこのデラム・タング・ショデを突っ込むことは可能やで、可能やけど、せえへんねん。だってしてもしゃあないねん。そもそもそんな風にしたらおっさんのアズィザムはおっきせえへんからな。ジャェタン・ハリのままやからな。そんなふにゃふにゃしたもんお嬢ちゃんの口に入れても、立たんからな。おっさんの申し訳が勃起せえへんねん。まああるいはな、経験不足なお嬢ちゃんからしてみれば、攻撃性のあるデラム・タング・ショデより隙のあるジャェタン・ハリのほうが、まだいくらか友好が持てそうな感はあるかもしれへんで、せやけどこれが難しいところでな、お嬢ちゃんがどれほどジャェタン・ハリが好きでも、いや、好きであればあるほどにな、ジャェタン・ハリはすぐにデラム・タング・ショデになってしまうねん。流砂に浮かべた小舟で旅する夢など蜃気楼やねん。これが難しく、そしてホンマ愉しいところなんやで。少女マンガとかにありそうな話やろ。里奈は斉藤のことが好きやねん。でも里奈は月の魔力を持つ子でな、斉藤はヴァンパイアやねん。斉藤はヴァンパイアやねん。思わず2回言うてもうたわ。おっさんの持ちギャグにしようかな。「斉藤はヴァンパイアやねん」。それでなんの話やったかな、そうや、里奈の恋心の話やで。里奈は、パンジーをきれいに咲かせる園芸部員の斉藤のことが好きなんやけど、月の魔力を持つ里奈が斉藤に恋心を募らせれば募らせるほどに、斉藤のヴァンパイアの血は湧き踊り、パンジーを破壊してゆくねん。つまりそういうことやがな。お嬢ちゃんは穏やかな斉藤が好きかもしれへんがな、お嬢ちゃんが穏やかな斉藤に構えば構うほど、おっさんの斉藤はヴァンパイアの血が湧き踊って凶暴化してゆくねん。斉藤はヴァンパイアやねん。でも里奈も現金なもんでな、優しい斉藤のことが好きだったくせに、ヴァンパイアの血に目覚めた荒々しい斉藤から荒っぽく、でもいざって時に限って優しく扱われるうちに、だんだん凶暴化した斉藤のほうへ気持ちが傾いてゆくねん。そういう風になっとんねん。せやからお嬢ちゃん、悪いことは言わへんで、もう優しいだけの斉藤にはいい顔しないことやで。はじめから満月の晩にヴァンパイア化した斉藤と出会っていれば、ふたりの斉藤の間で気持ちをぐるぐるさせる必要も生まれなかったんやから。な。解ってくれたか。これで申し訳も立つってもんやな。おっさんの斉藤の申し訳が満月の夜に勃起して葉陰にひそんだ野薔薇の気持ちを何時かは知るってもんやで……。

2009.6.25

 梅雨の季節に水玉模様のホックを着ける女子高生のことを考えていた。
 許容量を超えた昨日の感激が、昨日のうちに処理しきれなかったのだ。それは今日まで後を引き、僕は労働をしながら反芻するようにその事実を味わった。
 昨日の日記に書いたように、なぜ僕がその水玉を目にすることができたかと言えば、雨が上がったからである。雨が上がって気温が高まったから、少女はブラウスだけになって、僕の目に下着を晒すことになった。だとすればそのが柄が水玉というのはなんとも皮肉な話だ。
 あるいは世界中の雨が少女のおっぱいに集中した結果、世界は晴れ、少女のホックは水玉になったのかもしれない。「をとめごのCカップめがけ世界中の雨雲集う梅雨の放課後」「もしかしてあの子のホックの水玉はやっと上がった雨なのかもね」唐突な短歌2首。
 とは言え少女のホックの水玉に持たせられる水気のイメージは、雨だけにはとどまらない。少女が「ブラウスはブラが薄うく透けるからブラウスだっていとこうそぶく」ばりにホックを晒しながら町を闊歩することによって発生する水分というのが、他にもあるだろう。
 カウパー氏腺液である。
 「をとめごが晒すホックの水玉は男子の零す我慢汁かも」
 光線を浴びて、光合成して、芝生を萌えさせ、汁が出る。この自然な流れ。あのポンキッキとかでよくあった、種を植えた朝顔が発芽し、棒に蔦を絡ませ、やがて花開くまでを、高速早送りで、昼と夜が目まぐるしく入れ替わるなか展開される、あの映像くらいに自然な流れ。
 ここまで考えて、ああそうか、僕は勃起を芝生と捉えているから、芝生から汁が出ることが自然に受け止められるのだな、と思った。と言うか朝もやの中の芝生、あの夜露を限界まで含んだ生臭い草の臭いというのは、生命そのもの、精液そのものと言ってもいい。ああ、やっぱり勃起って芝生なんだ。そう考えるとうまくいくことがあまりにも多すぎる。
 平安貴族の短歌における「朝露」は精液のことだ、という話があるだろう。同時にそのことも思い出された。平安貴族はちんこから垂れる精液を、朝露を滴らせる草(芝生)と言い換えた。ずいぶんとおしゃれで阿呆な言い換えである。なんだ、1000年も前に平安貴族がすでに、勃起ちんこのことを芝生と表現していたんじゃないか。だとすれば芝生論は別に新しい考え方ではない。勃起につながるちんこの変化を「萌え」と草冠で表現することになったのも、まるで違和感がない。ちんこはずっと前から芝生だったんだ。草木だったんだ。

2009.6.24

 ここらへんの時期に毎年言っているような気がするが、雨だと微妙に肌寒かったりするのに、雲が取れると途端に気温が上がるので、登校のとき小雨だったからブラウスの上に薄手のセーターを着てきた女子高生が、晴れた下校時にはそんなの着てらんなくなって、ブラウスだけになっちゃって、でもそもそもが上にセーターを羽織る仕様で出てきたものだから、ブラウスの下にキャミとか着てなくて、ブラウスの下のホックが思いっきり透けちゃう、でもまあいっか、みたいな感じがこのところ連日見受けられ、とてもいい。今日見た子なんかホックが水玉柄で、梅雨の時期にぴったり! って感心した。おっさんの陰嚢が皮膚呼吸した空気が、やがて女子高生のおっぱいの皮膚呼吸に使われるのだと考えると、世界を丸ごと肯定したい気持ちになる。神よ。

2009.6.24

 ハンドメイドとかTシャツとかがひと段落して、この日記の他はpuropediaをぽつぽつやるだけの平和な日々なので、次はそろそろ「月刊少年 余裕」かな、と思う。第2号。
 納品した10冊が(埃を被って)10冊そのまま返ってきた創刊号は、読み返してみると愛しさとともに反省点も多いので、第2号ではもっといい作りにしたいものだと思う。ちなみに納品とか販売の予定は、もはや一切ない。一切ないのに多分10冊作成する。しかも創刊号の次号予告欄に書いてしまったこととして、第2号には「豪華シール付録!」が付くらしく、売りも見せもしないのに付録まで作らなければいけない。もう堕ちるところまで俺は堕ちるよ。

2009.6.21

  夕方になって近所の電器屋へ。行く途中にコンビニのATMで24000円を下ろす。24000円とはふたり分の定額給付金に他ならない。ついに我々のところにも振り込まれたのだった。昼間に入金をネットで確認し、「本当にこんなのわざわざ下ろして使わないよね」と語り合い、「でもじゃあDSでも買うか」ということになったのだった。
 そんなわけでDSを買う。買ったのはLite。iではなく。ついに買ってしまった。一緒にドラゴンクエスト5も買う。ドラクエ5はスーパーファミコンでやってPS2でやって、3度目だ。そもそもあまりゲームをするほうじゃなく、これまできちんと取り組んだゲームなんて20本にも満たないだろうが、そのうちの3本はドラクエ5だ。なんだそれ。一緒に風来のシレンも欲しかったのだが、なくて残念だった。まあそのうち買おう。結局ぼくのなかでゲームって、小学校高学年あたりのスーパーファミコンで止まっているのだな。あのときの愉しさを追体験するのが目的になっている気がする。

2009.6.19

 昨日ファルマンから「ここは「ちんこ」より「ペニス」のほうがいいよ」と指摘され、puropediaのパッピローニのページの一部分を直した、という話を書いたが、これについて考えていた。
 直した部分は、たしかに「ちんこ」より「ペニス」のほうがおもしろいのである。
 ちんこについて書く際に「ちんこ」と書かず、お高くとまって「ペニス」とか「男性器」とか書く人がいるが、これはすごくつまらない。かく言う僕も昔そうやっていた覚えがあるが、これはすごく半端だ。どうせちんこのことを書いているくせに、いったいお前はなにを守ろうとしているのかと思う。堂々と書けばいいのだ、「ちんこ」と。
 しかしそれは一般的なブログの文章でのことで、puropediaみたいな場所ではそうとも限らないのだ。なにしろpuropediaは、と言うかあの@wikiというサービス全体が、ぶっちゃけwikipediaのパロディなのであり、wikipediaではきっと、「ペニス」や「男性器」は状況によって許容されるが、「ちんこ」は許されないからである。
 つまりwikipediaのパロディを標榜している以上、地の文で「ちんこ」はよくない。puropedia自体には実際は「ちんこ」って書き放題だが、wikipediaのパロディとしては「ペニス」が正しいのだ。ファルマンの指摘はこういうことである。さすがだ。功績を称え、これを「ファルマンペニスの発見」と名付ける。これはそのうちpuropediaの1ページにもなろう。

2009.6.16

 10時過ぎに起きる。10時間近く寝たことになるか。さすがに身体は割とすっきりしていた。昨日買っておいたゼリーや、ファルマンの作ってくれていたお粥などを食べる。
 食べていたところ仕事中のファルマンからメールが届き、「熱を測れ」と言うので測った。だいぶ楽になっている感触があったので楽観視していたら、また38度と出る。えっ、38度ってこんなに割とすっきりしてるもの? もっとクラクラするんじゃないの? と疑問に思うものの、おそるおそるファルマンに報告する。したところすぐに電話が掛かってきて、「パソコンのアドレスに病院のアドレス送ったから午前中の診察時間中にすぐ行きなさい」と命じられる。
 38度で午後から労働と来ればまあ行かないわけにはいかない。家から自転車で3分ほどの場所にある、小さな内科医院にすぐに向かった。
 窓口に保険証を出し、「熱があって風邪っぽいです」と伝えると、体温計を差し出される。待合室の椅子に座って体温計を脇の下に挟み1分弱。ピピッと電子音が鳴って引き出してみたところ、表示体温が36.7度とあった。昨日とは別の意味で、思わずめまいがした。
 実は昨日の夜から薄々と疑ってはいたのだ。基礎体温計って普通に風邪かどうか調べる感じの体温測定で使っていいのかな、って。もうちょっと冷静になるべきだった。
 平日の午前11時に36.7度の体温計を窓口の看護婦さんの所に持ってゆく25歳の男の子の気持ちって想像できるだろうか。世の中にはまだ名前がついてない感情がいっぱいある。
 でも保険証を提出してしまった以上は診察を受けないわけにはいかない。名前を呼ばれて診察室に入ったら真面目そうな壮年のお医者さんがいて、「どうしました?」という質問に、「熱が昨日の夜から38度くらいありまして……(今はすっかり下がったっぽいんですけど)」と答える。もちろんそれが基礎体温計での計測だったことは言わない。言えやしなかった。
 38度と言った瞬間にお医者さんの目つきが変わり、「さいきん関西とかカナダのほうに旅行されたりしましたか?」と訊ねられる。他人事で聞いていたインフルエンザのニュースが、こんな風にリアルに自分の生活に関わってくるとは思ってもみなかった。もっとも関西にもカナダにも行ってないが、小売業にしてみれば(そんなのぜったい関係ねえよ)と思わざるを得なかった。
 そのままインフルエンザの検査になり、鼻の穴に棒を突っ込まれ、鋭角のマスク(あんな悪趣味なもの絶対に一生着けまいと誓いを立てていた)を渡され、「それを着けて結果が出るまで待っててください」と言われる。36.7度だったのに!
 10分ほどして再び名前を呼ばれ診察室に行ったら、検査結果はもちろん陰性で、しかしお医者さんは「しかし38度……ううむ」と唸り、「あるいは肺炎かもしれません」ということになり、今度はレントゲンを撮られる。なんだか大事になっちゃったなあ。そして待合室でレントゲンの現像を待ち、みたび診察室へ。「肺炎の兆候はありませんねえ……」知っている。結局僕は昨日ちょっと発熱(たぶん37.2度くらい)し、ひと晩ぐっすり寝て、ただの治った人だったのだ。
 お医者さんから「またなにか異常が出たらすぐに来てくださいね」と言われ、そこでようやく解放される。熱と胃腸の薬が出され、診察料は2660円。2660円! インフルエンザの検査してレントゲン撮ったからしょうがないとは言え2660円! 36.7度なのに! 2660円って言ったらいいお米が買える値段じゃないか。へこむ。
 帰宅したら12時を過ぎていて、ファルマンは昼休みだろうから電話する。顛末を報告したら笑っていた。笑いごとじゃないけど。こっちは2660円払ってるし。そのあと労働に出た。

2009.6.15

 体調を崩していた。
 労働中から発熱と寒気を繰り返し、ヘロヘロになって帰宅。
 体調を崩すと何が嫌って、そのことをファルマンに伝えた時にファルマンが声を荒げるのがすごく嫌だ。なぜ俺がつらいのにお前に怒られなければいけないのかと思う。でもしょうがないので伝えたところ、意外に怒らず普通に心配とかをしてくれたので、ああこの子も成長したな、と思った。
 でも実はそれは最初だけで、ファルマンはあっという間に情緒不安定になり、泣いたり喚いたりを繰り返し、すごく面倒臭くなる。お粥を所望したら、怨嗟の言葉を吐きながら見たこともない調理法で作り、自分は「食欲がなくなった」とか言って用意していたものをろくに食べない。最低だ。僕はファルマンが体調を崩したとき、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うくらいに自分の食事を充実させる習性があるのだけど、この「お前は体調を崩しているだろうけど俺はすげえ元気でしあわせだから安心しろよな」アピールってすごく尊いような気がする。気がするだけで、まだファルマンにそれをされたことがないので、されたらされたでやっぱりムカツク気もしないでもないのだけど、とりあえずファルマンが面倒臭いのは紛れもない真実だった。それで熱でやられているはずなのに僕の頭は割と理路としていたようで、ファルマンの日記によれば「君は心配している自分が楽しくなってるんじゃないか」と、的確な皮肉を口にしもしたらしい。自分の身体を御せない状態で妻に泣かれたら、そんな風にも言いたくなろう。

2009.6.14

  最寄り駅の大型スーパーで、ハーフパンツを買う。ジャージ的な素材の、コンビニにも行けるし、寝ることもできる、そういうやつ。いかにも夏のおっさんぽい。前々から欲しかったのだ。なにかが失われた気もするが、楽でいい。楽がなにより。
 帰ってからビールが冷蔵庫に入っていなかったことが判明し、ひとりで近所のコンビニに買いに行く。もちろんハーフパンツに穿き替え、サンダルで。するとなんだかこの街がいきなり地元のように思えてきて、コンビニなんか行ったら中学時代のクラスメイトとかに普通に「おっ」て感じに再会するんじゃないかと思った。ああ、夏なのだな。

2009.6.13

 Tシャツのあとのブームが見つけられないと言っていたが、実は昨晩に見つけたのだ。
 その名も「puropedia」である。
 これまでぜんぜん知らなかったのだが、一般的にwikiと呼ばれるサービスがあって、blogの発展型という捉え方でよいのだろうか、あくまで個人のページなのだが、wikipediaみたいに不特定多数の人が編集することができ、でもwikipediaに載せていいような普遍的なテーマじゃなくて、しかしながら割と大勢で共有しているテーマだったりする、そういうものについて記述するためのサービスなのである。我ながらものすごく説明が下手だな。たとえば他の人のページを見ると、オンラインゲームの攻略とか、そういうのがけっこう多いようだ。もちろん巨大掲示板との親和性も高くて、と言うか逆にほとんど巨大掲示板そのものと言うか、巨大掲示板がブログの形を取っただけ、みたいなものもある。まとめサイトとか言うやつだ。
 それで、そういうサービスがあることを知って、僕がやろうとしたことは言うまでもない、それはpurope★papiroのデータベースである。これまで生み出した数多くのブログ、数多くのギャグ、数多くの少女、数多くの造語、数多くの企画、それらをデータベース化するのだ。
 以前、過去の日記をすべてひとつのブログに集約し、ひとつの記事に10個くらいの微細なタグ付けをして、記事のデータベースを作ろうと試み、頓挫したことが2回あったが、その欲求はこれによって解決するのではないかと思った。
 なんか今日の日記は全体的になにを言っているのかよく分からないな。
 しかもpuropedia、もう開設はして、ページも作りはじめているのだが、まだまだ公開できる段階じゃなくて、非公開である。実物がないので、ますます話が伝わらない。もうどうしようもない。
 どうも最近、エンドロールTシャツとか、自分の朗読音声をずっと聴いてたいとか、パーペル平和賞とか、puropediaとか、自分の話ばかりしていてちょっと気持ちが悪い。
 でも昨日のファルマンの日記を読んだら、金曜日で普通に仕事をして帰ってきたはずのファルマンが、なぜか唐突に宇宙の話をしていて、『死もまた宇宙の一部なのだろうかそれとも死は宇宙ですらないのだろうか!』などと言っていて、ああ俺はこれよりは気持ち悪くない、と思った。
 もっとも自分のページなのに自分のことをまるで書かず、ニュースや情報についての感想だけ淡々と書いている人のブログが、健全なようでいちばん気持ち悪いとも思う。

2009.6.12

 あまりにノーベル平和賞が欲しく、もしもノーベル平和賞欲しいで賞があれば、小泉元総理と張り合った末に勝てるくらいに欲しいので、日常でちょっといいことを口にしたりするたび、ファルマンに「これでノーベル平和賞もらえないかな?」と訊ねるのだが、この問いに対するファルマンの返事はいつも極めてクールで、クールと言うか、あまりに僕がノーベル平和賞ノーベル平和賞と言うものだから、若干うんざりしてきている感じがあって、そのうんざりしている妻の顔を見て僕は、妻ひとりの気持ちも平和にできず、むしろ掻き乱していてノーベルの平和賞なんておこがましいな、おっきな目標に捉われすぎて、本当に大事なものを見失っちまってたな、と反省したのだった。

2009.6.11

 読みたいと思うおもしろい本がまるでないので、いっそ自分の日記を本にして常に持ち歩くことにしようか、という話を前にしたけれど、それに通じるお話で、本というのは出勤の際の電車のなかで読む用なわけだが、最寄り駅に着くまでの15分くらいの徒歩の道程で、今はウォークマンで音楽を聴いているのだけど、音楽って実に飽きやすく(頻繁に新しいものを仕入れもしないし)、僕のウォークマンはFMラジオも聴けるのだけど、FMラジオというのも全然おもしろくなく、これにはもう本当に辟易としていて、ならばいっそ自分の日記か、あるいは詩などを、自分で朗読している音声を録音して、いつもそれを聴いて駅まで歩くというのはどうだろう、と思った。
 起きて、自分の詩の自分朗読テープを聴きながら駅まで歩き、電車内では本にした自分の文章を読んで、労働をし、自分の文章を読みながら帰りの電車に乗り、最寄り駅からはまた自分の朗読を聴いて帰り、帰ってからパソコンで日記を書いて、そして安らかに眠るのだ。
 それってなんかすごく素敵な日々のような気がする。気のせいだろうか。

2009.6.7

 本当に流行ってんのかどうかよく判らない、そもそも流行ってるってどういうことなのかよく判らない草食系男子に対抗し、芝生男子というのを考える。
 芝生って言うまでもなく勃起のことである。でも勃起と言ってもその勃起は、一般的なイメージの肉感を削ぎ落とした、記号としての、風のそよぎとしての、ひまわりが太陽のほうを向くような、潔癖症の上の義妹でもきっと笑いながら触れるような、「ウノって言う替わりに破皮狼の芝生を撫でるってことね」みたいな、そういう勃起のことである。
 そういう勃起を標榜する男子。それが芝生男子。代表は俺。
 草食系男子に関連する言葉として肉食系女子というのもあるらしくって、草食系男子だけならば新語として割とおもしろい気がするのに、この肉食系女子という言葉を出してしまった時点で一気に話がおもしろくなくなる感じのある、その肉食系女子についてなのだけど、男子が芝生なのだとすれば、その相手をするのは肉食系女子ではもちろんなくて、肉食系女子って言うのはしかし草食系男子のことも眼中になく、なんのことはなく肉食系男子のことしか見ないのだろうと思われ、要するにそれは横浜駅周辺にいる感じの、エグザイル好きなカップルであり、じゃあ芝生男子は誰が相手してくれるのかと言えば、やっぱりそれは草食系女子なわけで、草食系男子と草食系女子のカップルというのはごくごく普通で、「肉食系男子と肉食系女子のカップル」、「草食系男子と草食系女子のカップル」というのはほとんど何も言っていないに等しいが、草食系女子の彼氏が芝生男子だとすれば話は大きく変わってくるわけで、なにしろ草と草食動物である、この切っても切れない間柄、切っても切れない愛だから、1本の草を、シマウマが上のほうを食べ、ヌーが真ん中らへんを食べ、ガゼルが根っこのほうを食べるような、竿と袋Aと袋Bみたいな、そんな遊び感覚で3姉妹が俺のちんこを!? みたいな、純粋理性批判にもそのまま繋がるその感じ、この感じが芝生男子の生きてゆく正しい道なんじゃないか、と思う。
 なんか3次会の庄やみたいな話になったな。しらふだけど。結論もよく解らない。

2009.6.4

 半月ほど前に4日くらい、お風呂上がりにファルマンに脚を押さえてもらい、1日につき15回ほど腹筋運動をやっていて、寸でのところで筋肉オバケになりかかったのだけど、なんとか事なきを得て、今はもう腹筋は一切やっていない。
 総合計にして約60回のそれがどの程度の影響をもたらしたかは定かではないが、実は逆に、なんとなくおとといあたりから感じていることとして、(あれ? 俺ちょっとお腹出てない?)というのがある。なんか若干、出てきているような疑いがある。疑いがあることだなあ、でももしかしたら猫みたいに僕は、お腹を見るときだけ瞳孔が開くのかもしれないな、と思っていたら、着替えを覗いてきた(エッチ!)ファルマンも「ねえ、お腹ちょっと出てない?」と言ってきたので、どうやら本当に出ているみたいだにゃーお、となった。
 おっさんどもの醜く出っ張った腹ってすごく嫌いで、よくあんなものを抱えたまま気丈に生きていることだよ、と思っていたのだけど、いざ自分のお腹がその兆候を示してきたら、あれほど忌避していた事象が、しかし意外なほど嫌じゃない。むしろ逆にありかも、ぐらいに思う。そう言えば僕は水着の女の子なんかを見ていても、ちょっとふくらんだお腹のラインとか大好きだぞ、ということも思い出して、そう考えるとこれもある意味かわいいじゃないか、と思った。もしかしたら僕は自分の身体に女の子を飼い始めたのかもしれない。そう考えると愛しくてしょうがなくさえある。
 ちなみに半月前に約60回の腹筋をして筋肉オバケになりかけたのは、上の義妹が「腹筋が割れている人が好き」と言うからで、じゃあ腹筋を割って、割れた腹筋を触ってもらって、腹筋を触ってもらっているうちに芝生が萌え始めて、あはっ腹筋もバキバキに割れてるけどお義兄さんたらこっちもバキバキだね、というのを期待し、それで励んでいたのだけど、その計画は暑さと疲れが原因で頓挫してしまい、むしろお腹は出さえしてきたわけだが、しかし要は義妹に俺の芝生を慈しんでもらうというゴールに着ければなんでもいいのだから、目的地は一緒でコースが変わっただけ、「バキバキに割れた腹筋を触ってもらうルート」は土砂崩れで塞がれてしまったので、その脇の道、「お義兄ちゃんのお腹って赤ちゃんみたいでかわいいかわいい超かわいいルート」を、今後は邁進していきたいと思った。どちらにしろセワシは生まれるのだから。

2009.6.2

  昨日発売のSEVENTEEN7月号は、表紙がまるでエロ本のようで、もちろん買った。
 結果的に、今号が本格的かと思われた水着特集は、実は先月号のほうがいい感じで、そこはちょっと残念だったのだけど、それでも買ったことにもちろん後悔はない。7月号のファッション雑誌は、1年周期で巡ってくる大事なイベントなのだ。
 水着特集では、美玲、波瑠、咲という仲良しトリオが、ハワイのビーチで撮影をしているのだが、この様を見ていて思ったことがある。
 僕は、女の子にとっての女の子のおっぱいのような存在になりたい。
 つまりこれはどういうことかと言うと、女の子にとって女の子のおっぱいというのは、「普通に受け入れられる」ものでありながら、一方で「照れる」部分もあって、「正視できない」んだけど、だけど「興味はすごい」あって、おっきかったり形がよかったりすると「羨ましかったり」、「たまにテンションが上がったら揉んじゃったり」、さらには不意に乳首とか見ちゃったら「ドキッとしたりもする」、そういう存在だと思うのだ。
 そういう感情を女の子から持たれたらずいぶん気持ちいいのではないかと思った。
 僕の将来の夢は女の子にとっての女の子のおっぱいです。

2009.4.29

  昼から我が家にいつもの3人と幼児がやってくるということで、午前中のうちにひとり買い物に行く。行き先は所沢。ユザワヤのセールが今日までだったので、どうしても行っておきたかった。
 プロペ通りは約半年ぶりか。行くたびに、凱旋、という気分がして照れ臭い。
 詳しい来歴は知らないが、近くに航空公園という場所があることからも窺えるように、飛行機、ひいてはプロペラ機に所縁があってのそのネーミングであるのは間違いないのだが、もはや僕から言わせてもらえばプロペ通りは僕通りである。パピロウストリートである。主役が帰ってきましたよ、という誇らしい気持ちで闊歩した。

2009.4.28

 女子高生グループがすれ違いざまに、
「……どうせ童貞の考えることだよ」
 みたいなことを話しているのが耳に入ってぎょっとした。ぎょぎょぎょ、ってして、思わず魚介類のすばらしさについて世間に喧伝したくなった。
 考えてみれば「女子高生」と「童貞」はそれほどかけ離れたキーワードではない。「女子高生」と言えば「セックス」で、「セックス」と言えば「童貞」なのだから、ぜんぜん遠くない。
 遠くないはずなのだが、やはりそこには簡単には飛び越えられない隔たりがある。女子高生はあんまり男の子が童貞かどうかを気にしない生きものだ、もとい生きものであるべきだ、という気持ちが僕にはあった。あったことに初めて気付いた。
 それはやっぱり僕のなかで「女子高生」が「処女」だと思っているからなのだろう。「女子高生」が「童貞」かどうかを気にしないのではなく、「処女」が「童貞」かどうかを気にしない、少なくとも「どうせ童貞の考えることだよ」みたいな風に蔑む感じには喋らないのだ。そういうのはエロい保健医とかに任せておけばよくて、現役の女子高生っていうのは、童貞かどうかは関係なくて、ただ津田先輩のちんこに興味があるっていう、そういう純な気持ちであってほしいと願うのです。

2009.4.27

 短くしたスカートから思いっきりハーフパンツが出ている女子高生、というのを街で見かけた。
 目から鱗が落ちる心持ちがした。
 なんかそれはすごくよかったのだ。
 この、寒かったり暑かったりする気候とか、新緑の鮮やかさとか、スカートを短くしたいけど恥ずかしい気持ちもある少女の内面とか、覗く側の僕のリクエストとか、そういった諸々の事情を、そのハーフパンツっていうのはすごく自然体で、ナチュラルに、誰も文句が言えない、文句が言えないどころか清々しさを抱いてしまうぐらい軽快に、解決していると思った。「たしかにねっ」「なるほどねっ」と思わず膝を叩いてしまう感じ。
 思えば、がんばる必要なんてなかったのだ。女子高生は女子高生の気の向くままに行動すればそれでよかったのだ。なぜなら女子高生は神様から絶対的な正義をもらっているのだから。それをファッション誌に載っている情報に翻弄されるから、僕のような輩も連鎖的に混乱することになる。ファッション誌なんて宣伝と利権の絡んだ、汚い場である。そんなものに揺らがされてはいけない。じょっこはただ、陽射しを浴びる若葉を眺めつつ、ハーフパンツを穿いて安心な制服姿で小走りに、僕の目の前を駆け抜けてゆけばいいのだと思う。それで丸く、まるでそう、出席番号15番の女子高生の乳房のように丸く、ことは収まるのだ。

2009.4.23

 ヒット君人形作りに励んでいるのだけど、実はこれらというのはもう例のレンタルボックスに納品する予定はない。前回2ヵ月の契約を延長し、6月の頭まで場所は貸してもらうのだけど、それ以降の契約はもしかしたらしないかもしれない。
 なんか、急に冷めてしまったのだ。ハンドメイドがじゃない。毎月1000円を払い、商品が埃まみれで放置され、売れたら本体価格の3割を持っていかれる感じに、憤りに近い拒否感を抱いてしまった。こうなるともうダメだ。とてもモチベーションは上がらない。
 まあこの約半年はそれなりに愉しかったので、甘酸っぱいいい思い出ということにする。
 今後は、販売するのか、販売するとしたらどういう方法か、あまりがんばって考えようとせずに、とりあえずはただ作っていこうと思っている。つまりレンタルボックスを借りる前とまったく一緒。
 ちなみにハンドメイド熱は本当に高まってきていて、特にヒット君人形は愛着が湧いてしょうがない。ヒット君人形をぜんぶ手元に置いておきたいから売るのをやめるのではないかとさえ思う。決して埃まみれになんかさせません。

2009.4.21

 そう言えば今月の純粋理性批判と社会契約論はなかなかよかったのである。全体的によかったわけではないのだけど、どちらにもいいものがひとつずつあった。
 それでよくなかったものとよかったものを比べ、どこがちがうのか考えてみた結果、よくなかったものが「小説という枠組みを中心にして書いている」のに対し、よかったものは「エロを一番に考えている」のだと気付いた。つまりストーリーに固執していたらいいエロ小説にはならないのだ。せっかく「交合」という、他のジャンルの小説ではあんまり描いてはいけないとされる、しかしパワフルな素材を、思う存分に描いていいジャンルなのだから、その高炉をフル活用しない手はないのだ。
 そう考えると、これはもう奉仕の精神である。すべては主人公(=読者)のちんこを、いかに気持ちよく盛り上げるか。作家はそれだけを念頭に置き、お世話に徹すればよいのだ。そこを起点にすれば、ストーリーなんてものは後からついてくるのに違いない。ミステリでは、小説中のあらゆるすべての言葉が、ラスト1行の真相にかかるのが理想とされる。エロ小説ではそれがラスト一行ではなくちんこなのだ。すべてはちんこのために描かれるべきで、ちんこに関係ない言葉は削ぎ落とされるべきなのである。このブログのように。

2009.4.19

 ファルマンなんかは週間予報を調べ、「ああ、曇りっぽいなあ……、って言うか来週末あたりから天気が崩れるっぽいなあ……」と早くも思い悩んでいる。僕は天気予報というものを基本的に信用していないし、ましてや週刊予報なんて当たるはずがないものとして捉えているので、そんな彼女の姿が滑稽でならないのだけど、そう言ったら睨まれ、「あなたって天気予報を信じないことをかっこいいと思ってない?」と指摘されて、思わずハッとした。
 言われてみるとそうだった。「天気予報を信じない男の美学」が、僕のなかにはたしかにある。美学を喝破されて、やけに恥ずかしい気持ちになった。

2009.4.17

 昨日の自転車旅の帰り道、ある高校の前を通ったのだけど、その時ちょうど下校の時間だったようで、高校生たちがわんさか校門から出てきていた。ちなみに学校は共学である。
 そして学校から出てきたその少女たちを見て、僕はハッとしたのである。
 なぜか。それはその少女たちの表情が、普段見ている少女たちよりも、明らかにいきいきと輝いていたからである。今日はこのことについて書きたい。
 この理由について走りながら考え、やがて僕は学校の存在に思い至った。
 そう言えばこの少女たちは校門から出てきたばかりで、隣には一緒に教室を出てきたクラスメイトの男子グループも、機会があればちょっかいも出せうる感じの絶妙の距離感でいたりする。
 だとすればこの子たちっていうのは、「今まだ校内にいる」のだ。つまり僕はいま校内に侵入し、学校生活を過ごしている本物の女子高生を目にしているのだ。警備員の立つ校門を抜けた先でしか展開されないと思っていたリアルな女子高生ライフが、校門を出て100mぐらいのここらへんでは、まだぎりぎりで泡が弾けず保たれていて、僕は運良くそれを目撃できているのだ。
 これが駅に着いてしまうと、少女らは僕がさんざん見てきた「街の女子高生」になってしまって、これまでそんな認識というのはなかったけど、その子たちというのは実は、学校生活を核とした女子高生の本質をけっこう失ってしまっている。
 これは魚介類と似ている。鮮度が命なのだ。本当においしいお魚というのは、漁師が船の上で食べる魚(校門の内側の女子高生)か、あるいは港に着いてお母さんがたが作ってくれる漁師料理(校門から出て100mぐらいまでの女子高生)ということ。
 またこの「校門を出てからの距離」というのは、「女の子の許容する露出度は女の子の人数に比例する」の例の法則と同じで、人数が多ければ多いほど伸びてゆくのだろうと推測される。おそらくひとりにつき60mぐらいの計算で数字を導き出せる。たとえば7人で校門を出た場合、その7人組は、校門から420m地点までは「すごく学校生活の空気を保っている」に違いない。
 さらに言えばこの距離は、グループ内にひとりでも男子が含まれることによって、1.5倍換算くらいになるんじゃないかと思う。5限のHRでは話し終わらなかった文化祭の話を、男女混合で15人ぐらいで話しながら帰ってたりすると、60×15×1.5で、1350mぐらいはそいつらは学校の雰囲気を身に纏っているだろうと思う。
 ここに男子生徒の存在価値もようやく生まれるというものだ。次代の核である卵子に、精子はほぼ遺伝子情報を託すだけ、というのと一緒で、男子生徒というのは「女子高生のその距離」を伸ばすためだけに存在するのかもしれない。あと高い場所にあるものを持つ時。

2009.4.12

 それでな、えーとなんの話やったかな。おっさんも3年くらい放置されたから分からんようになってもうたわ。要するにあれやろ、おっさんの御勃起をあなた御くわえなさい、っていう話やろ。おっさんの御勃起もよう3年ももったもんやで。そのがんばりを賞して御ぱくりしてもええんちゃうかって思うけどな、どうや、そうか、ダメか。せやろな。3年言うてもそれは現実世界を生きるおっさんの時間であって、2次元ドリームなお嬢ちゃんにとっては一瞬なんやねんもんな。……ん? ああ気にせんでええねん、こっちの話やから。お嬢ちゃんはどのタイミングでおっさんの御勃起をチロチロと舐めるか、舐めても不自然じゃないか、そのことだけを考えておけばええねん。なにしろ3年も引っ張っとんねんからな、そんじょそこらのチロチロやったら許されへんで。かと言っておっさんな、いきなり豪快にやれとは言っておらへんのやで。あくまでおそるおそる、たどたどしく、しかし万感の思いを込めて、その野いちごのごとき舌先を、おっさんのとちおとめに這わすんやで。ダブルベリーなんやで。なんならラズベリーも加えてミックスベリーでもええわ。ほら、あるやろ、おっさんの上半身に鎮座するふたつのラズベリー。右ラズベリーのほうが左ラズベリーよりも面積がやや小さい代わりに色素が濃いんやで。なんでやろな、斜め掛けの鞄が右の乳首ばかりを擦ったからかな。乳首言うてもうたやないか。ちゃうわ。ラズベリーや。マイラズベリーフォーユーや。そういう意味で言えばこの2ズベリーだけで、ある意味ミックスベリーなんかもしれんな。みんなちがってみんないい。もちろんブザイクは除いてやで。そうや、いきなりとちおとめはハードル高いかもしれんからな、はじめはラズベリーのほうを構うのも悪くない案かもしれんで。お嬢ちゃんみたいなビギナーにとっては、汁が出る部位よりも、汁が出ない部位のほうが抵抗ないやろ。どうせ1年も経たんうちに、汁が出るほうやないと物足りなくなるくせにな。汁にまみれて糸引く唇をかぱっと開けて、しあわせそうに微笑むに決まっとるくせにな。まあ女の子っていうのは段階を尊ぶ生きものやからな。おっさん知っての通り少女脳への理解は深いおっさんやからな、そういうところも理解するんねんで。助かるやろ。ホンマお嬢ちゃん、おっさんみたいなおっさんに今日こうして捕まったんは行幸やったかもしれんで。世の中の変態のおっさんら、お嬢ちゃんたちのガラスハートを慮らん奴らばっかりやで。そんなんに捕まってみい、お嬢ちゃんなんか精神にショックを受けてまうかもしれんで。ピーティーエスディーゆうやつや。トラウマや。DVや。公共広告機構や。そこんところおっさんは配慮の塊やからな。前世、配慮やからな。抽象的な意味での。せやからお嬢ちゃんには嫌な気分を一切味わわせることなく、おっさんの目的だけを果たさせてもらうで。そらもう匠の技でな。……ん? なんやねんな、首なんぞえらい勢いで振りおってからに。

2009.4.10

 


2008.4.9

 誘われたような誘われていないような同窓会の、誘いを断った理由としての用事というのは、同僚とのサシ飲みだったのだけど、それが夕方になって急遽キャンセルを喰らってしまった。
 その知らせを聞いた瞬間、アドレナリンが上昇するのを感じた。
 僕はどこかでその知らせを待っていたのだ。サシ飲みが嫌だというのももちろんあったし、それに、それがなければ同窓会に行けるかもしれなかったのに、という思いもあった。それで気持ちが一気に色めきたってしまった。
 夕方に身が空いて、明日は労働が休みで、地元では同窓会が行なわれ、僕はそこに顔を出してもいいらしい。全身がカーッと熱くなるのを禁じえなかった。夏祭り前の昂揚のようだ。
 中学時代の同窓会って、行きたくない気持ちと同じくらい、行きたい気持ちも実はある。誰だってそうだろう。なにかそこには、自分が失ってしまった大事なものが待ち受けているような気がするのだ。しかしそれと同時に、それに対峙したら、自分が中学卒業後に築いてきたものが呆気なく壊されてしまうんじゃないかという不安も一方である。
 どうしようどうしようどうしよう、と本気で迷った。
 でも結局はもちろん僕は、渋谷行きの副都心線に飛び乗るということはせず、いつも通りサナトリウムにまっすぐ帰宅し、夕食を作って、ファルマンとふたりで、鶏肉と新じゃがの炒め物とかを食べ、ビールを飲んだのだった。なんのことはなく、しあわせなのだった。
 でも気になる。果たして同窓会はどうだったのだろう。僕はまた義兄の店という地の利を生かし、「写真だけちょうだい」みたいな卑怯な真似をしたくてしょうがないでいる。いつか再会するんでも、あらかじめ写真とかを見て、心の準備をしていたいじゃないか。
 行ったら20日間ぐらい精神の安定から遠ざかるだろう、と書いたが、行かなくても4日間くらいは十分に遠ざかりそうだ。みんな、けじめとか、地元とか、祭りとか、友情とか、クラブとか、大麻とか、地球温暖化とか、次代へのリレーとか、そういう話をしたのかな。

2009.4.8

 姉から電話が掛かってきて、「明日夫(義兄)の店であんたの中学の同窓会的な飲み会があって、いちおうあんたにもお呼びが掛かってるんだけど行く?」みたいな用件だった。
 本当に、すっかり中学時代とは関係性が切れていたのに、義兄経由でよく分からないことになっている。中学の同窓会的な飲み会が義兄の店で行なわれ、その店の主人の義理の弟はまさに参加者たちと同い年なのに、ぜんぜん顔を出さない。これってなんか変な感じだと思う。変な感じと言うか、僕の存在が余計なだけか。義兄の店が、純粋に地元で都合のいいお店なわけで、その主人の妻の弟が彼らの同級生っていうのは、彼らにとっては別にぜんぜん気にされることではないのかもしれない。どぎまぎしてるのはこっちだけか。
 10年以上まったく関係を築いて来なかった彼らと、義兄の店という飛び道具でいきなり飛び入り参加する図っていうのは、想像すると割とおもしろかったりもするのだけど、とは言えやっぱり無理だよな、と思う。明日は普通に用事があって行けないので断ったのだが、そうじゃなくてもやっぱり行けないと思う。中学時代の思い出は恥ずかしいことが多すぎだし、10年のブランクは大きいし、なにより横浜の20代半ばの若者たちって怖い。横浜で育ち、横浜で生活している若者とお酒を飲んだりすると、僕はどんどん萎縮して、精神の安定からは20日間くらい遠ざかりそうな気がする。なのでやっぱり行けない。行けやしない。哀しくなるだけだから。
 それと、それに関連しなくもない姉の次の話題として、やはり僕の中学時代の同級生に、いま割と有名になっているホストというのがいるのらしい。自分でお店を経営していて、テレビとかにもたまに出るような、そういうホストだという。うそーん、と思い、本名は判らないというから源氏名だけ教えてもらい、電話を切ってからネットで検索してみた。そうしたらそれで出てきた写真はぜんぜん知らない人だったので、安心と言うか、なにがどう安心なのか分からないけど、ああ、こわやこわや、と思いすぐに検索ページを消した。
 消したあとすぐに、「月刊少年 余裕」を綴じるためのちょっと頑丈なホッチキスを楽天で検索し、いろんな種類のホッチキスを見て、癒された。知らん知らーん。中学の同級生も、横浜の若者も、有名なホストも、知るもんか。俺は同人誌を綴じるためのホッチキスをひとりネットで物色するのだ。横では妻が「私の日記、『である調』と『ですます調』どっちがいいと思う?」と訊ねてきて、ああもうなんてつましく心地よいサナトリウムであることか、と思った。
 最近ファルマンとしか他者との関係性を持っていない気がする。

2009.4.4

 テレビでユーミンが歌を歌っていて、それが1979年に発表された歌で、79年ということは30年前なわけで、30年前の自分が作った歌を歌えるのってすごいことだなと思った。
 ファルマンなんか3日前の自分の日記が読み返せないと言っていて、さすがにそれはどうかと思うのだけど、僕だって「あかんウチ恋しとるかもって呟いた君の乳首を見逃さぬ夏」みたいな短歌を、30年後の自分がどう受け止めるのか考えると、ちょっと複雑な気持ちになった。否定しない自分でありたいとは思うけど、果たしてそれが正解か。

2009.4.3

 ファルマンが誕生日だった。26歳。
 エイプリルフールに僕が「うわのそら」を書くとなった時(実現しなかったけど)、それっぽさを出すために「うわのそら」をちょっと読み返してみたのである。するとまあ出るわ出るわで、覚悟はしていたけどやっぱりすさまじい文章量で、正直ひく感じはもちろんあったのだけど、それでも気持ちをしっかり持って読んでみると、これが割とおもしろかったのだった。もちろん横で生活を見ていた妻の日記で、ときどき当時の自分も登場したりするから、そういう意味でのおもしろさというのも大いにあると言うか、僕の立場からではどうしたって「うわのそら」のことをひとつのウェブ日記としてフラットに眺めることは不可能なのだけど、それを差し引いてもこの日記はけっこうおもしろいんじゃないかと思った。なんたってもう5年以上やっているのである。その間に引越しをして、大学を卒業して、就職をして、同棲をして、家族にいろいろあって、結婚をして……と割といろいろな出来事が起こっている。そして、そういった節目では割と冷静なのに、普段の平穏な生活では異様なまでに情緒不安定な、ファルマンの気持ち悪くめんどくさい性分がすごく出ている。この日常の不安定さというのは、ずっと読んでいるとさすがに食傷気味になると言うか、どうやったら変わらない日常をそんなに感情豊かにめんどくさく過ごせるのか、逆に俺なんかよりもファルマンはよっぽど世間のことを斜に見ているんじゃないかと、まあこれに関しても僕は横で毎日リアルに被害を受けているからフラットな見方ではないのだけど、とにもかくにもそんなファルマンも今日26歳なのだった。あの蕎麦屋でバイトしていた小娘がですよ。

2009.4.1

 気づけば四月。三月は、一月二月にも増して早かった。結婚式やら花見やら、おうち大好きの僕にしては、ようやったもんだと思う。四月は特に予定もなく穏やかな日々を過ごせそうなので、ハンドメイドを本格的に取りかかりたい。とりあえずはステッチトークにヒット君を邁進。
 今日は午後から労働だった。午前中の限られた時間で、初期の純粋理性批判をひっぱりだして読む。やはり初期ほどクオリティが高く、最近のはイマイチよくない。性的表現に対する遠慮が見えるのだ。シャノマトペも捻りが足りない。求めているのはそんなんじゃねえよと思う。うーむ。なんともかんとも。
 駅で女子高生をちらほら見かけた。何か足りないと思ったら、そういえばここのところ春休みで、女子高生を見かける機会が極端に減っていたのだ。なるほど今日は四月一日、新年度なのだなと気づき、たちまち生きるのが愉しくなった。制服姿の女子高生は相変わらず可愛く、久々すぎて一瞬、春の妖精さんかと思った。妖精さんなら僕の願い事を叶えてくれてもいいと思う。でも、恐らくそれどころじゃないのだろうな。新年度のクラス替えや新しい先生のことで不安いっぱいな胸中を思うと、おっさんひどく悩ましい気持になったことだよ。一生、女子高生で季節の移り変わりを感じて生きていきたい。チュニック!かしこん!

2009.3.30

 「余裕」のために、「学年題俳句とはなにか」という文章を書いた。「学年題俳句1000詠」で書いたものを叩き台にして、途中で理屈が分からなくなってるところとか、口調が仰々しすぎるところとかを直した感じ。もっともこの文章は学年題俳句の開始宣言であり、同志を募る目的がなくもないので、ちょっとくらい勇壮な文章でもいいんじゃないかと思ったのだけど、そんなんに呼応する勇壮な感じの痛い人が話し掛けてきたらすごく嫌だな、と思ったのでやっぱりやめた。

2009.3.27

 今月も純粋理性批判と社会契約論は微妙だった。最近どうもダメだ。社会契約論のほうで今月から「えすかれシリーズ」というのが始まっていて、これは最近とみに純愛ムードだった社会契約論の、自己反省レーベルと言うか、そういうぬるいんじゃなくて、とにかくただエロい実用的な美少女官能小説を目指すという、そういうコンセプトのレーベルらしくって、その文句を読んだとき、僕はそれはよろしいことだと歓喜したのだけど、いざ期待を高めて読んでみたら、内容がまったくもって期待はずれで、すごく残念だった。第1弾として2冊出たのだが、ひとつは「人数が多い」という点が普段よりエスカレートしていて、もうひとつは「孕ませる」という点が普段よりエスカレートしていた。エスカレートしていた部分はそれだけで、社会契約論特有の甘っちょろさと言うか、高みを目指してゆこうとする志のなさはそのままで、その文章は僕の頭の上を、さらっと通り過ぎてゆくばかりだった。よくないなあ。実によくない。純粋理性批判も、社会契約論よりはやはり心に引っ掛かってくる部分は多いが、それでも破壊力が足りない。どうもダメだ。

2009.3.25

 勤務地が新しくなったので、そこでの同僚たちから「どんな本を読むの?」と訊かれるのだけど、なんにも答えられない自分がいる。しょうがないので、「『天然生活』とか、『暮しの手帖』とか……そんなとこです、うへへ」などと適当にごまかしている。もっとも僕が純粋理性批判を全冊コンプリートしていることは、前の勤務地の人間からゆるやかに漏れ伝わっているらしいのだけど、ここで「『おしかけメイド隊』です」とか答えても仕方ないのでもちろん答えない。
 しかし質問されて気付き、ハッとしたのだけど、僕は近ごろ本当に本を読まないことだ。ここ数ヶ月この日記にぜんぜん読んだ本の感想が書かれないのは、そういうのを書かない方針にしたからでは決してなくて、実際にまるで読んでいないからに他ならない。もちろん純粋理性批判と社会契約論を除いてだけど(そしてその感想は基本的に書かない方針)。
 でもそれに関し、「読まなきゃなあ……」みたいな気持ちはぜんぜん抱いていない。あまりに読まなくなりすぎたせいか、こんな状況になったはじめのうちはそんな風にも思っていたけど、だんだんと気持ちが発酵してきたのか、「読まなきゃなあ……」が「まあ読まなくてもいいか」になり、最近では「読むのとかどうかと思う」とまで思うようになってきた。
 だって労働とかして、自分の時間が限られるなかで、人の作ったものなんか味わってる暇はぜんぜんないと思う。考えたり、書いたり、描いたり、縫ったり、僕には自分のやりたいことがいっぱいあるのだ。よく上達のコツで、「人の作品を見ることです」なんてアドバイスがあるけど、あれは嘘っぱちだと思う。人の作品を見れば見るほど、自分のやりたいことは薄ぼんやりしてゆくし、なにより取り組む時間が減る。やりたいことがある人は、自分のことだけしていればいいのだと思う。

2009.3.24

 WBCが優勝だった。今日はさすがに労働だったので、中継をリアルタイムで観ることはできなかったのだけど、関係なく興奮した。愉しかった。しあわせな気持ちになった。
 WBCは3年前、前回大会の決勝のキューバ戦を、大学を卒業しファルマンと半同棲するためのアパートに、実家からの荷物を運んでいた車の中で、母とファルマンと3人でカーラジオで聴いていたという思い出があるので、その次の大会の時にちょうど結婚式のことをあれやこれやしていた、というのが割と感慨深かったりする。
 次回大会は4年後なわけで、4年後っていうとそれまでに4年間の歳月があるわけで、たっぷりだなあと思う。1年でも割と長いのに、それが4回もあると考えると、相当にいろんなことが出来たり起こったりするんだろうなと思う。愉しみじゃないですか。

2009.3.21

 午後になってのんびり過ごしていたら、いつもの夫婦から電話が掛かってくる。用件は、近々引越しをすると宣言していた彼らは、我が家から自転車で20分くらいだろう所に今日まさに部屋を決めてきて、契約とかの作業が済んだところなのだが、日曜だし近いし相談したいこともあるしで、そっちに行ってもいいか、みたいなことらしい。いいはもちろんよくて、都合のいいことに今晩の我が家のメニューは、ファルマンがネットの知り合いから結婚祝いでいただいた上等な牛肉での焼肉だったので、彼らの来訪はまったくもってナイスタイミングだったのだが、ただし3連休の最終日に予定していたため部屋の片付けが未だなされておらず、我が家のリビングはまだキャリーバッグが開かれた状態で放置されているほどなのだった。夫婦と幼児の3人がいる位置は本当に我が家から近そうで、タクシーを使うと15分弱くらいで到着してしまいそうだったので、事情を話し「じゃあ焼肉の食材を買っていくね」みたいな返事を取り付け、ファルマンと僕は大急ぎで部屋を片付けた。片付けと言っても実質、リビングに散らかった様々なものを、別の部屋に持ってゆくだけだったが、なんとかリビングだけは人が呼べる環境になった。
 そうして例の夫婦と幼児が到着。おととしの9月に生まれた子どもが、すっかり幼児になっていた。前回まではまだギリギリで赤ん坊だった気がするが、もう完全に幼児。とことこ歩き、時にはジャンプだってしてしまう。

2009.3.20

店の人に話しかけると、「ああ、ヒット君の」という感じで反応してくれて、ボックスを見て怪訝に感じたことでもあったのだが、合計14体納品したヒット君フェルト人形は、店の人に認識される程度には動きがあり、すべて完売していたのだった。嬉しい。お店の人からは「ヒット君売れるのよー。作ってきてくれた?」と訊ねられ、たしかにボックスにはバッヂとかくるみボタンしかなくてすっかり寂しい感じになっていたのだけど、もちろん人形なんかできているはずがなくて、「こんど作ってきます」と返事をした。それでこの3ヶ月で売れた金額の取り分を受け取り、なにしろ14体も売れていたので、それはまあまあの臨時収入的な金額であり、「おおお」と軽く興奮し、しかし契約期間はやっぱり過ぎていたので、受け取ったその金額から、「じゃあとりあえず2ヶ月分お願いします」という感じで契約を延長した。臨時収入と言いつつも、場所代と材料費と労力を考えれば収入でもなんでもないのだが、しかし僕の作ったヒット君フェルト人形14体を、だれかぜんぜん知らない人が持っているのだ、と思うとこれまで味わったことのない快感があったので、精神作用的には大いにプラスなのは間違いない。
 店を出て駅に戻りながら、「作らなくっちゃねー」という話をしていたら、ファルマンが「ネットでも売ったらいいんじゃない」とか言い出し、それに対し「そんなもん生産が追いつくはずねえじゃねえか」と僕は答えたのだけど、その一瞬後、『生産が追いつかねえよ』という自分のその言葉の厚顔さに、「きゃああ(照)」となった。でもマジで祖母とかに手伝いを依頼しようかな、とは思う。ファルマンも「私も手伝うけん」と言ってくれたが、ハンドメイドでファルマンに手伝ってもらうことと言えば、僕が縫い物をしている間に、米を研いでおいてもらうくらいしか思い浮かばなかった。

2009.3.19

結婚式の絵本作りがほとんど同人誌だったので、その勢いで凍結状態だった「月刊少年 余裕」を作ってしまいたい気持ちがある。引越しも、結婚も、結婚式も済み、ようやく念願の、差し当たってなにも「しなければいけないこと」がない状態になったので、それこそ余裕を持ち、それらに取り組みたいなと思っている。

2009.3.17

 ちなみに「終わったあとは全部に色を塗る」ということを前に書いたが、もちろんこの考えは変わっていないのだけど、それはいつでもできるので後回しにして、とりあえず先に、今度はA4くらいの紙にまたおんなじ感じで猫を描いていこうと思っている。今回のそれは大きすぎてできなかったのだが、A4ならスキャンできるので、スキャンしたら台紙みたいな感じでいろいろ使えるのではないかと目論んでいる。例えば厚紙にその「猫柄」とでもいうものを印刷し、それを使って例えば箱的なものを作ったりすることも可能なのではないかと思う。あるいは布に印刷をして、巾着袋とかにすることも可能だ。そういう商品的な方向性も、ないことはないのではないかと思うのだ。猫の絵は、僕以外の人間にはあんまり判らないと思うが、描いているうちにやっぱりだんだんうまく描けるようになってきたのだ。先に書いたボードの下半分よりも、後に書いた上半分のほうが明らかにうまい猫が描けているのだ。色塗りはいつでもできるから、とりあえず早いところ、この「うまい猫が描ける感覚」を失わないうちに、そのA4の紙に猫を描くというのをやろうと思っている。思っているのだが、結婚式みたいに締め切りのあることでもないので、なかなか腰が上がらないで困る。猫がうまいこと描ける感覚が失われてゆくのをぼんやり憂うなんて、なんて平和なんだろう。徴兵制とかがない日本のことが大好きです。

2009.3.13

 というわけで出雲行き。手荷物以外のすべてがキャリーバッグに収まったとは言え駅までの道がつらいなあと思っていたら、家から出てすぐの所でタクシーが拾え、すごく助かった。
 羽田空港へは大門で乗り換えて京急。
 11時発の飛行機で、空港到着は10時10分くらい。まあまあちょうどの時間。羽田は母と行った去年の夏以来だ。
 ここでキャリーバッグを預けていると、ファルマンが声を掛けられた。なんと結婚式にも出席していただく、ファルマンの父親の妹さん、正月に一家でやってきた、その叔母さんだったのだ。話を聞くと、息子の大学が決まり、東京で部屋探しをしてきた帰りなのだという。あのモテそうなファルマンのいとこの青年も一緒だった。JALの羽田から出雲空港の便が1日に5便ぐらいなので、翌々日に結婚式があることを考えればそれほどの偶然でもない気もするが、それでも驚いた。
 飛行機に乗り込んで緊張する。たった1時間半だというのは解っているのだが、それでもやはり慣れない。どの集団にも絶対に弱い人間というのはいて、パイロットなんてエリートたちの集まりのように思えるが、僕の乗った便のパイロットだけは、心が割と簡単に折れてしまう人のような気がいつもする。でもやっぱり飛行機はいつものように飛んだ。そして昇りつめて安定し、ちょっとしたらもう降ってゆくムードなのも前回通りだった。
 様相が変化したのはここからだ。やけに揺れる。ぐわんぐわん揺れて、ぐいんぐいん機体が斜めになる。はじめの頃は割とジョークだったファルマンへのしがみつきが、次第に冗談じゃ済まなくなってきた。島根の街は眼下にはっきりと見えているのだが、それは「自分が空中にいるのだ」ということを知らしめ恐怖をかき立てるだけの効果しかない。ただただ怖い。それでも身体を斜めにして震えているような人は僕以外いなかったのだが、いちど本格的にガタリと揺れ、クールを決め込んでいた乗客たちが「うわっ」とか「きゃっ」とか短く声をあげた瞬間、言うまでもなく僕の恐怖もピークで、心臓がキュウゥーっと締め付けられた。老人らが安穏としているなかで、僕だけが乗客の中にいらっしゃるお医者様を呼びかけられるところだった。アナウンスによると、風が強く、いま着陸を試みたのだが、風の強さが規定値を超えていて、しょうがないからもういちどいま上がったところで、タイミング見計らってこのあともう1回挑戦してみたいと思うけど、無理だったら大阪の空港に行くからその時はごめんね、みたいな感じらしく、「いま米子上空を旋回しております」とかアナウンスが入り僕は椅子の手すりを必死に掴みながら、なんとかなれ、嘘のように風がやめ、と心の底から祈った。
 でもなんとかならなかった。僕の期待したことは大抵の場合なんとかなるのだけど、今回はなんとかならなかった。「大阪空港に参ります」という無情のアナウンスが流れ、急に機体のバランスが整った。嘘のようだった。
 出雲に行こうとしているのに大阪なんて、実際ありえないと思う。でもあの大揺れの恐怖を味わった身としては、出雲だろうと大阪だろうと無事に地面を踏めるだけで割と御の字だった。ただしもちろん予定は崩れる。昼過ぎに出雲に到着したら、午後は食事会の会場の旅館の人と打ち合わせをする予定だったのだが、それはキャンセルするほかなかった。明日は別の結婚式があるとのことで支配人側からNGが出ているので、打ち合わせなしで本番に臨むことになってしまった。
 30分ほど飛んだあと、さっきのことが嘘のようにスウウゥッと伊丹空港に到着してからは、前述の叔母親子と合流し、「怖かったねえ」「えらいことになったねえ」などと話しながら、とりあえず昼食として空港内の蕎麦屋で蕎麦を食べた。時刻は13時半ぐらい。
 それから高速バスで新大阪駅へ移動。島根に陸路で行く際に通過したことはあるが、大阪の街で実際に活動をしたのは初めて。とは言え大阪も広いんだろう。東京人の僕が期待するようなそれっぽい風景はまるでなく、虎柄のハッピを羽織った人もひとりもいなかった。
 新大阪から新幹線で岡山。ちなみに飛行機を降りた際に航空会社からは伊丹・出雲間の航空代金に相当する金額を貰い受けており、とは言え伊丹・出雲間の飛行機が飛ぶはずはなくて陸路なわけで、陸路で新大阪から岡山、岡山から特急やくもで出雲市というルートだと、航空会社からもらったひとり分の代金で、ふたり分まかなえる計算となり、実はだいぶ儲かったのだった。しかもチケット自体は早割で取っていたため、返してもらった金額は払った金額よりもむしろ大きかった。そういう意味でちょっとテンションは上がったのだが、それにしたって昼過ぎに出雲に着けていたほうがよっぽどいいのは間違いなかった。
 しかしこの日の出雲の天候のひどさはどうしようもなかった。岡山駅に到着し、8分後ぐらいに発車するやくもの乗り場まで急ごうとしていたら、僕らの乗ろうとしていた(新大阪でチケットを購入した)便は、強風によるダイヤの乱れにより運休となっていて、そのひとつ前、1時間前に発車しているはずの15時すぎ発車予定の電車に、16時すぎに飛び乗ったのだった。
 そしてこんな状態の電車が空いているはずもなく、指定席が取れないのは新大阪の時点で判明していたのだが、自由席のほうも人がいっぱいで、接続部分にまで人が溢れ、B3のウェルカムボードが入る海外旅行用の巨大なキャリーバッグを持っている僕らが近づける雰囲気ではまるでなく、しょうがないので指定席のほうの接続部分に避難した。これだと途中で座れる可能性はないが、自由席のほうの様子を見れば、そちらにいても望みはなく、だとすればこちらのほうが人が少ないだけよかった。もちろんつらかったけど。肉体的にも精神的にも。だって昼過ぎには出雲に着いて、あさってに迫った結婚式の打ち合わせをして、成田空港で買ったフルーツのロールケーキをおやつに食べているはずだったのだ。なのになんで僕らは揺れるやくもの接続部分に立ってうなだれているのか。花嫁のファルマンなんて床に座りはじめちゃってるじゃないか。ここへ来て叔母を含めた僕らの合い言葉は、「思い出になる」「一生忘れられない結婚式になる」以外になかった。
 そしてこれで終わりではない。途中で車内アナウンスが入り、「出雲市駅行きのこの電車だが、また折り返して岡山駅発の電車にならなければならず、そのためには出雲市駅まではどうしても行けないんですよ、なので松江までで勘弁してください、ごめんなさい」みたいなことを伝えてきたのである。ええええ、となった。まあ出雲と松江なので悲劇的な距離でないのはたしかで、叔母親子とワリカンにすればタクシーでもいいかとも思ったのだが、それにしたってひどかった。いちど出雲上空まで来て追い返され、いまふたたび6時間後に出雲寸前まで来て、なおも拒まれるとは。なにかの呪いだろうかと思った。
 時刻は18時過ぎとなっていた。そのときちょうど仕事が終わったらしい義父から、「どんな具合だ」みたいなメールが来て、ファルマンと叔母で「これに迎えに来てもらおう!」と意見が合致する。実際叔母親子にもそれなりに荷物があり、果たして1台のタクシーで4人まかなえるだろうかという不安があったのだが、義父の車なら大きめなので心配ない。よっしゃよっしゃと話がまとまる。
 松江駅に到着したら、外は台風のような雨だった。まったく本当にとんでもない日だ。義父の車を探しながら、この間ほとんど言葉を交わさなかった(みんなつらくって割と無言だったのだ)叔母の息子(僕にとって義理のいとこになるのか)に、「おなか空いたねー」と話しかける。彼は「ホント空きましたね!」と、こいつレモンでもかじってんじゃねえのかっていうくらい爽やかに頷いてくれて、ちょっと好きになりかけた。
 義父の車に乗り込んで、ファルマンの実家と叔母の住まいのある町までは30分ぐらい。「大変だったなあ」「うちの会社の駐車場では、車の窓ガラスに木が刺さったりしたらしいぞ」などと義父は話し、僕らも飛行機ややくもがどれほどつらかったかを切々と語った。
 戦友の叔母親子と別れ、7時間遅れのようやくの到着でファルマンの実家へ。実家では義母と実家在住の次女がお出迎え。岡山の三女は明日の到着になるらしい。
 やれやれだった。時間的にも体力的にも、今日は丸ごと潰れてしまった。義母の手料理を食べ、おいしいビール(義父の好きなプレミアムだったのが残念だったけど)を飲み、ファルマンと風呂に入り、早々に寝てしまった。実を言えばまだ絵本が仕上がってない。本当は今日終わらせる予定だったのだ。まったくなんという日だったろう。一生忘れられない。

2009.3.10

 猫の色塗りが完成した。色を塗った猫で、いわゆるウェルカムボード的な文面を作り上げてゆく。つまり端的に言ってしまうとこれはマスゲームなのだ。文面は、「welcome!」「2009.3.15」、そして僕の名前、ファルマンの名前(アルファベッド)という感じ。「塗る猫は全身塗る」というルールにしたため、文字として読みづらい部分もできてしまったが、「顔だけ塗る」とかが許されたら意味がないのでしょうがない。文面は猫を描き終えてから決めたので、無理が生じるのは当然だった。
 でも時間が掛かっただけあって完成品の満足度は高い。このB3のボードには、僕のいろいろなものが詰まっている。あるいは十牛図のように、ここに描かれた猫らの姿から、見た人が勝手に解釈してなんかしらを感じ取ればいいのだと思う。あんまり目にする機会はないと思うけど。
 ちなみにいま悩んでいるのだが、結婚式後はこのボードを、文面を埋没させるようにすべての猫にとりどりの色を塗って、なにかよく判らない、B3のボードに3センチくらいの膨大な数の猫がカラフルな配色で敷き詰められているもの、というそんな風なものにするのはどうかと思う。そして部屋の壁に飾るのもいいかなと思うのだ。もちろんファルマンは嫌がる気がするけど。

2009.3.9

 相変わらず準備に追われている。昨日仕上がらなかったウェルカムボードを、ついに完成させた。描きも描いたり2644匹の猫たち。最後のほう、「あとスペースこれだけだからせいぜい100匹くらいで、100匹なんてないも同然だな」と見積もっている自分がいて、ファルマンに「猫100匹て」と言われ、そう言えばなんで猫100匹描くことを俺はないも同然の労力のように捉えてるんだろう普通の人は一生に猫100匹も描かないだろうに気持ち悪い、と思った。
 この猫たちみんなポーズが違うんですよ、と言いたいところだが、別にそんなことない。「顔は必ず全景描く」というルールがあって、そのため目や口をこすったり、ほかの猫の腕が顔に被っている猫は1匹もいない。これをやると本当に隙間なく描けてしまう(顔の全景を描かなくてもいいということは、丸ごと描かなくてもいいわけで、ちょっとしたスペースを腕とか脚とか埋めてもいいことになる)と思ったのではじめからそう決めていた。そのためどうしても空白になってしまう部分もできたが、ごちゃごちゃするよりはよかったんじゃないかと思う。それに上記の2644匹というカウントもしやすいし。もっともその数字がいま考えた真っ赤な嘘でなければもっとよかったのだろうが、残念なことに真っ赤な嘘だ。数えたくもないが、数えやすいは数えやすいだろうと思う。
 とにかく右手が疲れた。猫を色で塗る作業も割と神経を使う。サインペンで猫を描くのとは、別の筋肉を使うのだろうと思う。ファルマンは延々と絵本の色塗り。僕がウェルカムボードにこんなに時間を掛けなければそっちの色塗りはやってあげられたのに、申し訳ないと思う。猫の大群が出てきて気持ち悪かった夢を見た晩もあったと言うし、そういう意味でも申し訳なかったと思う。

2009.3.6

 滅多に鳴らない大橋のぞみのデモテープ版「崖の上のポニョ」の着信音に携帯電話を持ち上げたら、発信欄に「父」とあっておののいた。
 いつ以来の会話だろう。父親はやけにゆっくり、めんどくさそうに、10歳になる前に離れ、与り知らないところで成長した息子に対し、すごく気まずい、畏怖に似た感情を抱いている感じを漂わせながら、じいぃっとりと喋った。
 用件はもちろん結婚式の打ち合わせ。食事会を座敷で両家向かい合ってやると確認すると、
「……やだなあ」
 と本音をオブラートに包むことなく口に出してきた。それがもう本当に心の底からの言葉なのだろうな、と一瞬で伝わる「……やだなあ」で、まあ不倫して子ども作って出て行った(ということなのだと思う)家の、姉の時みたいに割と大人数で、円テーブルがいくつも会場にある披露宴とかならまだしも、親族だけで行なわれる結婚式に「知人」として呼ばれるのはきついよなあ、この人の立場だったらおばあちゃん(母の母)とかすごい怖いんだろうな、と納得しつつも、それはまったくもって彼の自業自得なので、はあ?うるせえよ、と思った。