2009.12.30

 「マリア様がみてる」の最新刊を読んだ。おもしろかったけど、いよいよ本格的に「マリア様がみてる」ではなくなってきた。「マリア様がみてる」は祐巳と祥子のお話なのであって、薔薇の館のメンツのほぼ出てこないこれは、もはや「私立リリアン女学園ぴょんぴょん物語」じゃないかと思った。
 あと読んでいて、なんでそれのことを忘れていたんだと悔しい気持ちになったのだけど、そう言えばスール制度というのがあったじゃないか。これはぜひ宇佐木学園にも採用すべき制度だ。物語の幅がぐっと広がるだろうと思う。すっかり発想が欠如していたことはおくびにも出さず、はじめから考えてましたけど? くらいの感じでいけしゃあしゃあとそのうち登場させようと思った。

2009.12.27

 帰宅すると注文した本棚が届いていた。ただし客組み立てなので段ボールの状態。行きも帰りもリュックの中に本を10冊入れた状態で、片道30分くらい自転車を漕ぐという重労働をしたあとだったが、仕方ないので組み立てはじめる。割と面倒くさかった。ふたつ注文して、ひとつは1万円ちょい、ひとつは5000円という安物のため、それほど頑丈なものを想定していなかったのだが、これが意外としっかりしている。さすがはお値段以上だ。
 特にリビングに置く用の本棚は大きく、作るのに骨が折れた。しかも判っていたことだがファルマンが不器用だ。ネジをまっすぐ挿れられないので、30本以上あるすべてのネジを僕が嵌めなければならなかった。おかげで右手がひどく疲弊した。
 続いて純粋理性批判用の、スライド式の文庫専用棚に取り掛かる。巨大なものを組み立てたあとだったので、こちらは割と楽にできた。ファルマンが出来上がった本棚に本を並べる作業に没頭してしまったため、ひとりでやった。なにしろ純粋理性批判専用本棚なのでしょうがない。
 組み立ててみるとこちらの本棚も思っていたより大きく、置こうとしていた場所には適さなそうなほどだった。それで改めてリビングに設置する要望を妻に申し入れる。当然ながらファルマンは猛反発である。でも僕も引くわけにはいかない。パソコンデスクのすぐ横に純粋理性批判全巻が番号順に並んでいる夢のような状況を、そう簡単にあきらめるわけにはいかないのだ。そんなわけで言葉の限りを尽くして交渉。最終的には土下座までした。これは今日全国で行なわれた土下座のうち、いちばん価値のない土下座だったに違いない。夫からエロ小説専用本棚をリビングに設置することを土下座して懇願された妻は、苦渋の決断を下すほかなかった。あまりにも情けない夫の姿を、そう長い時間見てもいられなかったのだろう。
 かくして夢が叶う。願えば夢は叶うんだ。僕は君たちにそのことを知っていてもらいたい。土下座とかすると、夢は割と叶うんだぜ。課外授業ようこそ先輩。今日はシャノマトペについてみんなで勉強しよう。発育のいい子はもう来ているよね?
 それでファルマンの気が変わらないうちにいそいそと、冷遇されていた文庫たちを別室から持ってくる。現在のところ全144冊。両手で山を抱えて運ぶのを、5往復ほど繰り返す。そして持ってきた全巻を、番号順に並べ替える。番号順に並べると歴史的な変遷とかが明瞭になって、新しい発見がある。愉しい愉しい。この愉しい作業をしている最中、にわかにファルマンに写真を撮られる。そして「ほら、これがいまのあなたなんだよ」と、撮った写真を見せられた。そこにはピンク色をした144冊の文庫本の山に囲まれて、しあわせそうな笑みを浮かべる26歳の姿が写し出されていたのだった。はははっ、と思った。こんなことくらいでテンションが下がると見くびられては困る。むしろ誇らしい。2枚目はちゃんとピースをして記念撮影だ。ひゃっほい。すっかり番号順に並べた文庫たちを、ガスガスと棚に収めてゆく。さすがは約300冊収納。144冊でほぼ半分しか使わない。ついでにいくらか持っている社会契約論と、文庫と言えばこれだろうということで「製本KUCHIBASHI DIARY」5巻も並べる。純粋理性批判と、社会契約論と、自分の日記! うわあ! なんだろうこの幸福! 夢は時間を裏切らない! 時間も夢を裏切らない!
 144冊の背表紙が並んでいる様子を、この文章を打っている今もなのだけど、僕はぼんやりずっと見ていられる。それぞれの内容を少しずつ思い出しながら、ただいつまでもボーっと眺め続けられる。いつまでも飽きない。絵画とか仏像とか、見所が分かってる人って長時間ずっと鑑賞したりするけど、まさにその感じだと思う。

2009.12.25

 読んでいたマンガで、姉妹ふたりから告白された主人公が、妹を断って姉と結ばれていた。
 あっ、と思った。そう言えばその発想はなかった。
 姉と妹ふたりから告白されたら、目隠しをしたまま仰向けに寝転がり、姉と妹が代わる代わる陰茎の上に跨るのを、どちらの膣がどちらのものか、きゃっきゃきゃっきゃと言い当てたりすればいいのだと思っていた。間違いだった。本当に好きじゃないほうの告白は断らなければいけないのだ。足し算よりも掛け算とかじゃないのだ。真摯だなあ、主人公。
 帰省で義妹らと半年ぶりに再会する前にこのことに気付けてよかったと思う。
 古本屋で初期のほうの社会契約論を買う。本棚がそろそろやってくるので、社会契約論のほうも全巻じゃないが目欲しいものだけ手に入れておこうと思ったのだ。
 でも家でパラパラと読んでみてびっくりする。エロくないのだ。手に入れたどれも、ハーレムエンド的なものがほぼない。表紙に4人の女の子が描かれているからてっきりラストはその4人との酒池肉林かと思いきや、300ページの中でゆるやかにひとりひとりと1回ずつ性交をし、最後にセックスをした相手と、「ああ俺はやっぱりこの子が好きだったんだ」みたいな感じになって終わっている。すごい呆気なさ。初期はこんなだったのか。せっかく買ったのにエロ小説としての価値はほとんど見出ずそれは残念だが、でもこれは歴史的には大いに価値があると思った。これに較べれば現在はいい方向に進んでいると思う。やっぱり世界は人々の思いの力によって、だんだんいい方向に進むのだなと思った。みんなセックス、それでいい。

2009.12.24

 クリスマスイブなのだった。
 グラタンを喰い、チキンを喰い、ケーキを喰った。なんだかんだでクリスマスは平和で愉しい。幸福が分かりやすく可視化されている感じ。いいことじゃないかと思う。
 やっぱり家族系行事はいいよね。ちょっと独特の表現になってしまってみなさんには伝わらないと思うんですけど、心がほっこりするじゃないですか。ちょっと新しすぎるかな。
 バレンタインデーとかも、2月14日自体はあのままでいいんだけど、前日の13日に家族的な要素を組み込んでみてはどうかと思う。14日に好きな男子にあげるチョコレートは、前日にパパに味見してもらうと恋の成就する確率が高まるんだよ。あとパパの陰嚢には神様が棲んでいるから、撫ぜてあげると恋の成就する確率と同時にパパの興奮も高まってゆき、その晩ママにもいいことが起こるんだよ。ほうら家族の一大行事になったね。ほっこり。まりほっこり。パパもママにまりほっこりだし、真理も明日サッカー部のヤリチンの先輩にまりほっこりしてもらえるよ。

2009.12.23

 テレビで映画「ピーターパン」をやっていて、一瞬だけ観たのだけど、パン曰く「「妖精なんていない」なんてことを言うたびに世界のどこかで妖精が1匹死ぬ」のだそうで、ほほう、と思った。
 我が家では僕が宇佐木学園の話をしていると、「宇佐木学園なんてないんだよ」とファルマンが言ってくるのだけど、じゃあそういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死んでいるのだと思う。そして「そういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死ぬってことね」とファルマンに言った途端、ファルマンの口から飛び出した「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」の連呼。思わず口を手で塞いで守った。だが少し落ち着いて考えて、果たして僕は一体なにからなにを守ったのだろうと思った。平和ってなんだろう。

2009.12.21

 ファルマンが地域の防犯メールサービスみたいのに登録していて、住んでいる町で事件的なものが発生すると、警察からメールが送られてくるのである。それでつい先日、労働中にファルマンからメールが届いて、開いて見たところそれは、警察から送られてきたメールの転送だった。
 そのメールでは、僕たちの住んでいる家の割とすぐ近くの道路において、男が女児にちょっぴり手の込んだレトリックを使ってイタズラをしたことが伝えられていた。
 そしてその男は20代で、メガネを掛けていたという。
 あっ、と思った。
 これで転送してきたメールの末尾に『あんたがやったんじゃないの~。早く自首せよ(笑)』みたいな軽口が付されていればまだよかったのだけど、そんなものもまるでなく、普通に警察から来たメールそのままで、妻はそのメールを夫に送ってきたのだった。なのでなんか、鬼気迫るものがあった。もしかして俺、妻に本気でちょっと疑われている!
 でもその事件が起こった時間、僕は労働中だったのでアリバイがあった。日常生活でアリバイという言葉が出てきたことがびっくりだが、なので僕は犯人ではありえない。そもそも二次性徴前の女児には興味がない。しかしメールには「警察では現在付近のパトロールを強化している」ともあって、職務質問とかされたらショックだな、と思った。
 思っていた矢先、駅までの道の途中で、20代でメガネを掛けている男が、なにやら警察官に話を訊かれているところを目撃してしまった。その人は怪しいところがなかったのかすぐに解放されていたけど、これにはおののいた。
 たとえば僕が職務質問されて、鞄の中身をチェックされたら、ナイフとかは入ってないけど、本が3冊入っていて、それはエロ小説と、精子の本と、少女マンガなのだ。あ、あと妻の短歌を印刷した紙も。これは気をつけなければいけないな、と思った。

2009.12.20

 まひろさんが3週間近くぶりに記事を更新していた。俺なんてせっせと毎日やっているというのに、女子高生は余裕だなあ。たぶんSNSとかで忙しいんだろうな。
 それで今回のまひろさんの記事の中で、タイムリーにボニータとへっちゃらパンツの二重穿きについて書かれていたので言及したい(まひろさんはいつも割とタイムリーなことを書くものだ)。
 まず触れたいのは、「ボニータの上に穿くへっちゃらパンツはへいちゃら過ぎて、もはや『平気布』だ」という部分。これには感心した。そうなのだ、ショーツとかって基本的に布なのだ。
 「ブラジャー、ショーツ、げへへ……」と気持ちが盛り上がったあとで不意に、(あ、でもブラジャーもショーツも結局はただの布なんだよな)と気付いて虚無感に襲われることがあるけれど、でもやっぱりそのただの布は、女の子が身に着けた時点で特別なものとなり、崇拝の対象となる。そういう理屈でただの布であるはずの下着は尊ばれる。
 けれどショーツの上にボニータを穿いてさらにその上に重ねたへっちゃらパンツでは、さすがにその「女の子が身に着ける」という特別要素の効力が届かず、ただの布となってしまう。なるほど、と思う。ボニータまではぎりぎり届く。でもその向こうのへっちゃらパンツまでとなるとさすがに厳しい。だとすればそのときボニータとへっちゃらパンツの間という特殊空間には、陽子と中性子を結びつける中間子的な、そんなものが発生しているのではないかと類推される。それは普段から地球上の物質中にいくらでも漂っているものであるが、ボニータとへっちゃらパンツの間において最も高濃度で発生する。この幽玄だがたしかに存在する特殊な存在を予言したまひろさんは、第1回パーペル物理学賞受賞まちがいなしだと思う。
 さらに言えばまひろさんは「その存在」が届かないために「平気布」となってしまったへっちゃらパンツの退廃を憂い、へっちゃらパンツに「ちんこ大好き」と刺繍することで人工的に「その存在」を造り出すことに成功しているのだから恐れ入る。とんでもない天才が現れたものだ。
 あと下半身を重ね穿きし過ぎているという話の際、「しかも私には処女膜がある」みたいなことを書いていて、これにも感心した。女の子の重ね着については僕もさんざん考えてきたけれど、そこに処女膜という発想はなかった。さすがはリアル女子の視点。
 たとえばこれは上半身について語る文脈だけど、purope★papiro★cantabile(2代目)の2005年9月17日の記述では、下半身の包み隠し段階について、
下半身……『1小陰唇←2大陰唇←3陰毛←4ショーツ←5スカート』
 と書いている。自身の記述を読み返してみて3番目の「陰毛」という発想にびっくりもするのだけど、どちらにせよ処女膜という発想はここにはなかった。ちなみにここらへんの理屈はマンガでも書いた。purope★papiro★cantabile(初代)の2005年1月21日の中で「数ヶ月前に書いた」と言っているので、じゃあこれを実際に書いたのはもう5年前か。なんだか冗談じゃなく学者みたいに何年も同じ問題に取り組み続けているな、僕は。ちなみに「隠していたものが明かされる感動」についても2代目のほうで書いているので非公開じゃなくしておこう。
 それで、じゃあまひろも含めた(まひろも実は僕なので)この5年間の僕の蓄積をまとめると、このような図式ということになる。
1膣口←2処女膜←3小陰唇←4大陰唇←5陰毛←6ショーツ←7ボニータ←8へっちゃらパンツ(平気布)←9スカート
 ちょっと感動する。1行に収まらないところが5年間の歴史を物語っている。
 そして冬の処女の子がこれだとすれば、それの対極にある夏のビーチの非処女(しかもせっかくなのでパイパンとしようじゃないか)はこうである。
1膣口←2小陰唇←3大陰唇←4水着
 唖然とする。大陰唇のはずの4が、堂々と見せるためのデザインを施された水着なのだ。
 もっとも夏のビーチの非処女でなくたって、処女膜を1項目として換算する考え方は十分に価値がある。なぜなら2がなくなるのだから、7のボニータは6のショーツと同価値になり、6のショーツは5の陰毛と同価値になるのだ。一見なんの違いもない制服姿のふたりの女の子がいるとしても、処女の子のスカートは9で、非処女の子のスカートは8なのだ。8! 8て! 8のドキドキ∞(無限大)! ボフンッ! スカウターも木っ端微塵だよ。
 ちなみにまひろが購読して性知識の参考にしているらしい道産子ガールズ通信の執筆者は僕という設定。もうこの連続世界は永遠にどこにも向かわずに、反射と反射を繰り返して無限の多重世界を作り上げてゆくのかもせんね。

2009.12.18

 女子高生の生脚について、「でも絶対に親が、スカートの下に毛糸のパンツとか穿かせてるよ」とファルマンに言われる。「脚を晒す分だけ暖めなくちゃいけないから、きっと二重に穿いてるよ」
 女子高生がスカートの下に短パン的なものを穿いていて、決してショーツが見えたりなんかしないことに関してはもうさんざん語り尽くし、その短パン的なものにオリジナルの名前まで付けた僕なので、「分かってますけど?」って感じで、そのこと自体は別に僕の心を揺り動かさなかったのだけど、この中でファルマンが何気なく使った「二重」という言葉に、かなりハッとした。
 女子高生は真冬には、スカートの下に短パンやら毛糸のパンツやらを二重に穿く。
 もしかしたらここに、ボニータとへっちゃらパンツの共生の道が見出せるのではないか。
 ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたように、へっちゃらパンツというナイスネーミングの前にボニータは消滅する運命かと危ぶまれていたが、女子高生の下半身はそんなに狭量じゃないのだ。女子高生の下半身の包容力を舐めちゃいけない。女子高生の下半身を舐めちゃいけない? 舐めちゃいけなくなんかない! けど舐めちゃいけない。でもやっぱり舐めたい! 舐めちゃいけないと止める理性と、ベロベロ舐め尽くしたいという本能のせめぎあい。舐めるけど舐めないので舐めさせてください!
 えっと、なんの話だったかな。ああそうだ、女子高生様は短パンを二重にお穿きになるのだから、だったら1枚目と2枚目でそれぞれ別個に呼んだらええがな、という話だったな。
 つまりニトリの2枚組み毛布みたいな感じで、夏には薄手の、春秋にはやや厚手の、冬にはそれらを合体させて、みたいな感じで、ショーツがあって、春秋にはへっちゃらパンツを穿いて、冬にはそれの下にさらにボニータを穿くみたいな、ぜんぜんたとえがよく分からないけど、へっちゃらパンツとボニータの関係というのは、そんな風に捉えてゆけばいいんじゃないかと思う。
 だから武器は今すぐに捨てて、戦争はやめるべきだと思う。我々が争う必要なんてどこにもないんだ。女子高生は2枚穿いてくれるんだ。パイはふたつある。おっぱいもふたつある。だから達也と和也、ふたりで一緒に吸えばいいじゃない。南はゲームの賞品じゃないんだから。

2009.12.17

 寒波が来ているというのに、女子高生の脚が寒そうでいけない。年を取るにつれて、それに対し「うひょ、生脚」と喜ぶ気持ちと、「冷やして大丈夫?」と心配になる気持ちのバランスが変化してきているのを感じる。20歳前後には完全に前者の気持ちだけだったが、いまは両者がせめぎ合っている感じだ。このままだときっと10年後ぐらいには後者の気持ちしか抱かなくなるのだろうと思う。完全にパパ目線。でもなんとなくの予感として、30年後ぐらいにはまた1回転して、「うひょ、生脚」としか感じなくなるんじゃないかな、と思う。この現象を「生脚輪廻現象」と名付けよう。後世の学者は400年も前に既にこのことを僕が喝破していることを発見し、存分に驚嘆すればいいと思う。400年後の学者はずいぶんとくだらないことを研究しているものだな、と思う。

2009.12.16

 精子の本を読んで、受精の奥深さに驚嘆する。
 受精マジですごい。精子の旅路についてきちんと知ると、人生観が変わってくる。
 受精までの精子の旅路はあまりにもドラマチックなので、流れを朗々と語ればそのまま落語になると思う。すごくよくできた物語なのだ。
 女性の身体は基本的に進入してきた精子に対して敵対的なのだけど、ある段階までクリアしてきた精子には急にご褒美を与えて、カルシウムの一種により精子を超活性化させるのだそうだ。それまでヘロヘロヘロ、と鞭毛をそよがせていた精子はそこで急激なパワーアップを果たし、グオオオオオ、と鞭毛を激しく振るわせ、ラストスパートを始めるのだという。
 感動する。やっぱり人生は喜劇なのだな。悩むけど挫けないのだ。
 つらいときは精子の超活性化のことを思い出せばいいのだ。僕らはみんなカルシウムの一種によってグオオオオオと鞭毛を激しく振るわせた結果として誕生したのだ。実に無様で愛しいじゃないか。思わず微笑まずにはいられない。

2009.12.15

 そんなわけでファルマンの短歌を読み返している。
 現時点までにアップしているもので950首に及ぶファルマン短歌、先日これをコピーしてワードに貼りつけ、読みやすいよう体裁を整え印刷する、という作業を行なった。これにてファルマン歌集のゲラ的なものが完成だ。来年はこれを常に持ち歩き、せっせとパロディを考えてゆくつもり。本じゃなくて印刷したコピー用紙を眺めているとなんかプロっぽさが漂うが、なにを読んでいるかと言えば妻の短歌、という図式。
「パピロウさん、なにを読んでるんですか?」
「妻の短歌です」
 想像しただけでゾクゾクする。
「伊坂幸太郎です」
「あっ、私も読みました。ダ・ヴィンチでも絶賛されてましたよねー」
 じゃないのだ。
「妻の短歌です」
「……(うひゃあぁっ)」
 これだけで来年の到来がだいぶ待ち遠しくなる。
 ちなみにファルマンの短歌は読んでいて実際おもしろい。割と覚えている短歌もあって、ファルマンがそれを詠んだ当時のことなど、この5年間のことが如実に思い出される。陳腐な表現だけど、短詩というのはエキスの詰まったカプセルのようだと思った。カプセルが弾けると、中身が一瞬にして口中に広がる感じ。大学時代の短歌とか、すごく思い出の味だ。
 パロディはどんな感じでやろうかと模索中だが、もしかするとパロディと言うか返歌っぽい感じになるかもしれない。どちらにしろ夫婦で閉ざしていることに変わりはない。人生、自分の創作と妻の創作物の鑑賞で足りるな。高みなど目指さず、ひたすら深みに嵌まってゆきたい。

2009.12.13

  少女マンガを読んでいて、強烈な喪失感に襲われる。
 なんか少女マンガ的には、高校の3年間での異性関係っていうのがものすごく大事な、残りの人生をぜんぶこの一瞬にかける、っていうくらい重要なこととして描かれるのだけど、じゃあその3年間を男子校で過ごして、片思いとかそういうのぜんぜんしなかった僕って、僕のこの人生って、とんでもなく巨大な穴があるってことになるんじゃないだろうか。
 思わず一緒にマンガを読んでいたファルマンに訊ねる。
「あのさー、高校の3年間に恋をしなかった俺のこの人生ってもしかしてさ……」
「欠陥住宅だよね」
「あげぶふっ」
 26年間でいちどもしたことのないリアクションをしてしまった。
「大事な柱が1本ないよね」
「ぐぐげぶっ」
 うずくまって手の平で顔を覆いながら、僕は気付いた。
 そうか、僕の心には本当はなくちゃいけない柱が1本ないんだ。だから人付き合いの耐震性が低くて、すぐに崩れてしまうんだ。だから12月に入ってから携帯電話に、ファルマン以外の人からまだメールが1通も来ないんだ。そうか。そうだったんだ。やっと気付いた。気付くと同時に、本当にちょっと涙が出た。さいきん本当に涙腺が緩い。

2009.12.12

 今週ファルマンは咳が止まず、そのせいで睡眠がうまくいっていなかったのだった。このため労働から帰宅してから柄にもなく仮眠などするものだから、そのせいでまた夜に寝られず、その結果また翌日もつらい、という絵に描いたような悪循環を繰り返していた。なので今日は咳もすっかり止まったようだし、ぐっすり眠れてよかったと思う。
 ちなみに僕はと言うと、すぐ横でファルマンが咳を繰り返し早朝まで寝つけないようなときも、もちろんすうすうと眠っていた。なんにも気にならなかった。俺の圧倒的な寝つきのよさを見くびってもらっては困る。なにも僕の眠りを妨げることはできない。
 何曜日だったか忘れたけど、ファルマンが朝「昨日もなかなか眠れんかった……」とひどく低いテンションで恨めしそうに言ってきたとき、「そうそう! 俺もだよ! 俺も君の咳のせいで目を覚ましてしまってなかなか眠れなかったんだよ!」と、ちょっとファルマンのことを責めるくらいの感じで同調したのだが、そのあとで、それにしては身体がぜんぜん怠くないし、寝不足の感じもないのでおかしいな、と冷静に考えたところ、その「ファルマンの咳のせいでなかなか安眠できなかった」というのは完全に夢の中の出来事だったのだと思い至る、という出来事があった。

2009.12.11

 今回の年末年始に関して、当初の予定ではどちらの実家にも行かない予定だったのだけど、5日と6日に休みが取れそうなので、ここで急遽ファルマンの実家に行くことにした。
 5日と6日と言うと若干もう年末年始でもない気もするが、2日から帰省する予定のファルマンは、今回の「三が日が土日」という、会社員にとって最悪な日程をものともせず、6日まで出雲に滞在する予定で、これはなぜかと言うと今回はファルマン家にとっての割と大きなイベントとして、「いちばん下の娘の成人式に合わせて娘3人で着物姿で記念撮影をする」という企画が組まれており、それが5日に行なわれるのである。それがなければあちらで年越しをする感じで、ふたり一緒に2泊3日くらいの日程で帰省することも考えたのだが、俺だけ2日とか3日に帰るのにファルマンは6日までいるみたいな、そういうのは嫌なので、ならばいっそ俺は行かねえよ、ということになっていた。でも1月前半のシフトを組んでみたら、なにしろ2日から働くこともあり5日と6日を休みにするのはぜんぜん可能っぽかったのでそうして、じゃあ俺も強行軍で島根に後乗りしてやっぜ、となった。なにしろ3人揃っての着物姿は見ておきたい。20代揃い踏みでの華やかなそれは、ちょっと無理してでも見ておかなければ後悔すると思ったのだ。
 今日この計画を思い立ち、これはいい考えだと感動して、ファルマンに言うかどうか悩んだ。ぜんぜんそんな話おくびにも出さず、4日の労働を終えたあとに出発する予定なので、4日の深夜にファルマンに電話をして、「いま家の前なんだけど」「えー!?」っていう、最近ちょっと少女マンガにハマっている26歳の男の子らしいサプライズをやろうかともちょっと本気で思ったのだ。でもこれは冷静に考えてすぐにやめた。考えてみたら僕は新幹線のチケットの取り方とか知らないので、ファルマンにやってもらわないことには出雲になんか行けない。それにこの予定の場合、6日にはファルマンと一緒の列車で戻ることになるが、だとすれば一緒にチケットを買わなければ席が合わせられない。そしてなにより黙って実家に行った場合、5日はイベントなわけで、却って迷惑ということも十分ありうる。これは嫌だ。迷惑がかかるのが嫌なのではない。自分の存在が受け入れられないのが嫌だ。行くからにはちゃんと受け入れられたい。受け入れる心積もりを持ってちゃんと待ち受けてほしい。サプライズ登場には驚きや喜びと同時に絶対に、「えっ、そんな急に来られても……」という相手の戸惑いが生じるものだ。この戸惑いが少しでも見えてしまったら、僕の対人関係におけるやわなハートは砕け散ってしまうことだろう。着物3姉妹とのスナップ写真でも、表情に翳りが出てしまう。というわけで打ち明けた。打ち明けたのでこうしてブログにも書いた次第。
 そんなわけで出雲だ。出雲かー。遠いのになんだかんだで行くなあ。マメな夫だよ。

2009.12.10

 BLENDAというギャル系の雑誌で森ガール特集をやっていたので、なんだそりゃと見たところ、普通に109とかにいそうな女の子たちが森の中で撮影をしていて、ぜんぜんウサギとかリスとか寄ってこない感じで、愉快だった。でもよく見たら「森ガール」っていうタイトルの所に小さく、(盛り)って書いてあって、なるほどっと膝を打った。ダジャレかーい。前号の撮影の打ち上げの席で飛び出したダジャレで、実際に森まで繰り出して撮影してしまうところがいい。あるいはギャル系ファッション信奉者による、昨今のブームに対する「森ガールて!」という皮肉だろうか。森ガールってお前、アダムとイブのイブのほうか! というツッコミなのだろうか。だとしたらかっこいいな。
 そう言えば先日ファルマンが義母と電話をしていて、義母が「パピロウちゃんは草食系男子よね」と言ったそうで、それに対しファルマンが「なんかあの人は自分で芝生男子だって言ってるけどね」と答えて芝生男子の概念を軽く説明したところ、義母は「草食動物に食べられてしまうなんて、自分からそんなかわいそうなこと言わないで」と言ったのだそうだ。なんかこの話、いまいちどこがおもしろいのか分からないけど、微妙にどこかぶっ飛んでいるような、不思議な読後感だ。

2009.12.9

 精子の本を読んでいたところ、イボイノシシは人間とほぼ同じくらいの体格のオスでもいちどに500mlくらい射精する、と書いてあって、希望が湧いた。職場で同僚にそのことを話したら、「えっ、それはどういう希望?」と訊ねられ、そう言えばどういう希望なんだろうと思った。
 クジラが射精すると辺り一帯の海が白く濁る、という話があって、これはもうクジラという巨大生物のことだから別次元なのだけど、人間とほぼ同じくらい、つまり70kgくらいのイボイノシシが500mlの射精ができるってことは、生きものまだまだ捨てたもんじゃねえな、可能性いっぱいあるな、という気持ちになることだと思う。よく分かんないけど、これはそういう希望じゃないかと思う。
 しかし500mlと言えばペットボトル1本分ですよ。そう考えると途端に生々しい。もしかしたら長澤まさみがおいしそうに飲んでいるのはイボイノシシの精液なんじゃないか、などと考えたら、それはそれで大変に希望が湧いてくることだと思う。

2009.12.8

 「エロ小説の主人公はなぜモテるのか」という問いがあって、それに対し僕は「なぜなら主人公のちんこはかわいいのだ」という答えを喝破したのだけど、読んでみると少女マンガの主人公の女の子っていうのも、話が進むうちに自然とモテることだと思う。
 はじめの設定では「目立たない普通の女の子(読者が感情移入しやすい)」と「雲の上の存在みたいな学園の王子(読者が憧れやすい)」という関係なのに、大抵2巻の後半あたりからは、ふたりの王子による主人公の取り合いみたいになってる。びっくりする。自分モテモテやん。
 エロ小説と一緒で、物語を追ってゆくだけでは「素直で優しい心根」くらいしか王子らが主人公に惹かれてゆく理由が見出せないのだけど、これはエロ小説のときにも言ったけど、素直で優しい心根を武器にしても決してモテないってことは、実地で証明済みじゃないか。俺たち、優しかったのにモテなかったじゃん。殴り合いのケンカとかしなかったし、ゲーセンも行かなかった。それなのにちんこの表面積を複数人から奪い合われず終いだったじゃん。
 このやって考えると少女マンガも図式はエロ小説とまったく一緒なので、モテることに関してはエロ小説でいうところの「ちんこがかわいい」的な理由になってくるのだと思う。
 ただし少女マンガの場合だと肌は晒していないので、「おっぱいがかわいい」とか「陰阜の盛り上がりが絶妙だ」みたいなのは理由にならない。本当はエロ小説と一緒で男子も女子もただセックスをしたいだけだろうに、少女マンガは開始30ページではフェラチオをしはじめないのです(するのもあるけど、それはここで言うところの「少女マンガ」の定義からは外れるのです)。となれば、普通に学園生活を送っていて、何百人も女の子がいて、よりどりみどりの状況の中で、王子らはなぜたったひとりの主人公を選び出すのか(10人くらいキープしとけばいいじゃねえかと思うが、王子は純愛主義なので決してそんなことはしない)。
 もう思いつくのはひとつしかなくて、それはにおい的なものではないかと思う。主人公から分泌される独特のにおい物質が、王子らの股間には直撃するのだと思う。あれはそういう反射から発生している物語なのだと思う。それしか本当に考えられない。
 だからエロ小説の話の際に、「男子はとにかく『自分のちんこはかわいいのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と言ったのに続いて、今回は、「女子はとにかく『自分が分泌するにおい物質はセクシーなのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と、ドリアン破皮狼先生は君たちにメッセージを送りたい。だからイジメになんか負けないでほしい。

2009.12.8

 少女マンガを読んでいて、切なさにキュンキュンする。
 少女マンガを読むたびに宇佐木学園も少女マンガ風にしたいと思うのだけど、男性の登場人物があのふたりではどうしたって不可能だ。じゃあホガラカノイロオゼはどうかと思うが、こちらもなぜかうまくいかない。要するに才能がないのだけど、でもやっぱ諦めんのとかマジかっこ悪ぃし、なによりそんなの俺らしくねえし、イラクの人たちのこと嫌いになれねえし、親も年だし、ここらでひとつ少女マンガ性に特化したブログをひとつ、新しく作ってみるのもいいかもしれないと思った。
 ところで以前までは僕が「新しくブログを作ろうと思うんだ」と言ったら、ファルマンは「キャハハハハー」と爆笑してくれたものだったのに、今回は「あそう」と冷たい反応で、とても寂しくなった。最近は宇佐木学園も読んでくれないし。寂しがり屋の狼少年が、みんなから気にかけられたいがゆえに嘘ばかりついて、やがて誰からも相手をしてもらえなくなったように、このブログ狼少年(26歳)も、とうとう愛想をつかされ始めたのかもしれない。がるるるくぅーん。

2009.12.6

 フィギュアスケートのエキシビションを観ていて、エキシビションやりたいな、と思った。あれは非常によくできた一発芸大会だと思う。ショートプログラムやフリープログラムって、結局はエキシビションで落とすまでの前フリなのだな。そちらの成績上位者のみがエキシビションを披露する権利を得る、というあたりがその確信を深める。緊張と弛緩。ためてためてどーん。マジでがんばった奴だけがボケの破壊力を増幅させるのだ。
 というわけでブログにもそういう大会があればいいと思う。
 まずはショートプログラム。参加者は規定のキーワードを使いながら400字くらいで記事をうまいことまとめる。それを審査員が採点する。ブロガーは記事をアップしたあとはソファーに座って得点発表を待つ。ここで出遅れたとしても次のフリーで逆転はいくらでも可能だ。
 フリーでも規定のキーワードを使いながら記事を書く。ただしフリーは文字数が増え、3000字くらいになる。なので実際のフィギュアのフリーと一緒で、確実に途中で退屈になることだろう。下手したら誰も読まないかもしれない。そういうときはたまに派手なジャンプを試みるとよい。ブログにおけるトリプルトウループがいったい何を指し示すのかは、それは各自で考えてもらうとして。
 そしてそのふたつの得点を合計して、最終的な順位が決定する。順位上位者は晴れてエキシビションに出場だ。エキシビションでは完全になにをやっても自由で、ユーチューブを貼ったりしてもいい。これは浅田真央が実家の犬を抱いて演技したみたいな、そんな感じの飛び道具ということである。いっそ本当にそのときの演技の映像を貼ってもいい。
 そういうブロググランプリ。ただしひとつ問題なのは、ブロガーって実は常にエキシビションのリンクの上を滑っている、ということだろう。わざわざ場を用意されるまでもなく、ブログはいつだってエキシビジョン。女の子は誰だってプリンセスなのよ。
 つまり何が言いたいかと言えば、なんかたまにそういう企画が立てられ、腕に覚えのあるブロガーたちが集ってそれぞれが記事を書いたりするけど、そういうのって本当にウザいよね、ということだ。あれ? そういうことだったのかな。本当はただ純粋に、織田信成がとっても愉快でしあわせな気持ちになったってことだけが言いたかったような気もする。
 そう言えば以前、「SNSなんかクソ喰らえだ」「フォロワーとかマジでキモい」といつものように管を巻いていたらファルマンが、「でもああいう場ができることによってコミュニティを作りたい目的の人はあちらに行ったから、ブログ界そのものは浄化されたのだ。そして私はそれをとてもいいことだと思う」と、マザーみたいなことを言い出し、その場では「ああ、俺の奥さんやっぱりキモいなあ」とだけ思ったのだけど、上に書いたような「腕に覚えのあるブロガーたちが集結してやる企画」みたいな、そういうのはたしかに純粋なブログ媒体ではあまり見かけなくなったような気がするので、キモ神様の言う通りでいいことなのかもな、ともちょっと思う。

2009.12.6

 「校内写生大会」と「咥内射精大会」みたいな、読みが一緒で漢字が違う、というのは好きなのだけど、その逆で漢字が一緒で読みが違う、というのは嫌いだ。これって普通に機能的じゃないと思う。そういうのをこれからの人生でひとつひとつ潰してゆきたい。
 そんなわけで最初の標的は「最中」だ。これって「さいちゅう」とも「さなか」とも読むじゃないか。これが嫌。「さなか」のつもりで書いたのに「さいちゅう」って読む人がいるんだろうな、と思うと本当にすごく嫌になる。ちなみに和菓子の「もなか」に関しては気にしない。それは平仮名でも片仮名でも自由にやればいいと思う。
 そんなわけで提案したいのが、「最中」は「さいちゅう」とだけ読んで、「さなか」は新しく「乍中」という表記を充てる、ということだ。「ながら」の「なか」なので意味的にもぴったりだ。
 これはいい。これで明るくなったらう。日本語特有の問題点、テンション下がるポイントが、これでひとつ改善された。いいことをしたので気持ちがいい。もう僕のパソコンでは辞書登録も済ませた。これからは書いているすべてのブログで、普通の日本語のようにサラリと使ってゆこうと思う。今日の日記を読んでいない人にとっては「それこそ読めねえよ」って話だけど気にしない。読めないのなら読まなければいいと思う。言っとくけど「ブログは読まれなければ読まれないほど愉しくなる」という真理を喝破した僕に、怖いものなんてなにもないのだ。

2009.12.5

ところでファルマンは宇佐木学園を、「さすがに読めんわ」という理由で読まないのだそうです。これには思わず「お前が読まなかったら俺のブログ、誰が読むんだ!」と怒鳴った。それでも「でも読まない」って。哀しい。憂いのピーク、憂ピークだ。

(中略)

 食後、をとめごら版をもう1篇。主人公は4年まごころ組の村崎翔子。これにてをとめごら版は早くも5記事目。ああ愉しい。妻にさえ読まれぬブログがこうも愉しい。ブログってもしかすると、書き手の愉しさと読者数が反比例するのかもしれない。フォロワーがいればいるほど愉しさって粉々に砕け散るのだ、きっと。つまりどういうことが言いたいかと言えば、お前とお前とお前の、ブログとミクシィとツイッターは、読者が多そうだからちっとも愉しくねえよ、ってこと。バーカバーカ。

2009.12.3

 ぜんぶエロゲーにすればいいのにどうしてギャルゲーというジャンルがあるんだろう、という、昔から言われる疑問があるじゃないか。あるいはぜんぶエロ小説にすればいいのに、なんでライトノベルなんかが存在するんだろう、でもいい。
 こういう文章がある。

 かなりの期間に渡り、僕の中で美少女ゲームというのは不思議な存在だった。
 まず、どういう人間がプレイするのかが判らない。なにしろ美少女ゲームの要素というのは、そのままエロゲーにすっぽりと含まれているのである。ならばエロゲーをし放題の成人がするはずは当然ない。しかしかといって、十八歳未満の人間がするというのも不自然である。エロゲーの十八歳未満禁止表示というのは、それがエロゲーであるか美少女ゲームであるかの表示なのであって、文字どおりの年齢を規制する意味合いはない。
 ならば誰もがエロゲーをやって当然なのに、なぜか美少女ゲームというのは依然として存在する。生産があるという事は需要があるのはたしかなのだ。なぜだ。一体どんな輩が美少女ゲームなんて求めるのだ。
 この疑問が解決したのはかなり最近になってからだ。少女漫画を読むようになって、ようやくだんだんと理屈がつかめてきた。
 少女漫画の世界、それはとにかく清廉とした世界だった。衝撃だったのは、そこには性欲というものが存在しないという点だ。あるのはただ恋愛欲のみである。だから恋が成就し、唇を重ねた瞬間に、物語は美しく完結する。その先はない。そこがその世界の最深部なのだ。それは純然たる統制である。そしてその非現実さは、僕を魅了させてやまなかった。
 少女漫画と美少女ゲームは対応する。差異は視点の性別のみである。美少女ゲームもまたファンタジーのような幻惑的な香りで冒険者たるユーザーを夢の世界へと誘い、そして心酔させる。機構はまるで一緒だ。
 要するにセックスはあまりに人間的でありすぎるのだ。性欲を汚いものと取るかどうかは人それぞれだが、極限までに生物的なその現象を、物語中の登場人物にまでリアルに求めたくはない、という心情を理解するのは容易である。現実の世界ではどうしても無理だから、創作物に想いを託し、純潔なラブストーリーを仮想体験したい――そういう欲求こそが、そのまま少女漫画と美少女ゲームの需要につながっているのだ。
 しかし一応ここで断っておくが、恋愛感情というものもまた、当然ながら多分に人間的なものである。ましてやそれの基準がつまるところ容姿であるという点においては、それら創作物の登場人物たちというのは現実以上に貪欲であるとさえ言えよう。欲まみれの汚い現実から目を背けたくて物語を求めているのに、それではむしろ逆効果ではないか。
 しかしそうではない。重要なのは、たとえ過程の恋愛感情が醜く人間的であれ、結末は決して人間的ではないという点である。これについてはメタ的な考察が重要になる。すなわち媒体という区分を考えるのだ。どこで何が起こるか分からない現実と異なり、物語には媒体という確固たる統制ができあがっている。それは絶対的なものであり、意表を突かれる事はまずないと言っていい。
 たとえば僕は「りぼん」の読み切り増刊号を読むにあたり、それに性的な要素を求める気持ちはページを開く前からあまりない。もしもこの点が裏切られ、りぼん誌上で濃密な性交シーンが描かれれば僕は死ぬほど驚くだろうが、それは絶対にない。それと同じく、美少女ゲームをしていたら実はエロゲーだった、という事も法律上ありえない。これは文章の初めの方にも書いた。つまり物語に触れる前から、結末は前提としてそこに存在するのである。
 このように少女漫画や美少女ゲームというのは、はじめから綺麗なままで話が終わる事が固く約束されている。そして、だからそれらには需要があるのだ。現実逃避のロマンスとして、人々は安心してそれらを求めるのである。

 これは大学1年生のころにサークルの会誌に書いたもの。いまだに自分の18歳のころの文章を引用して同じ疑問について考えようとしているのだから、なんとも長閑な話だな。
 ところで話は遠回りするのだが、先日宗教の本を読んでいたのである。それは仏教の宗派についてのお話だったのだけど、その中で、厳しい苦行や規律を強いる宗派は実は信者にとって優しく、念仏を1回唱えるだけでもう大丈夫とするような宗派は信者にとって本当は厳しいのだ、という話があった。これにはすごくなるほどなあと思った。
 宗教にすがる人々の目的はみんな一緒で、極楽浄土、シャングリラに行くことであり、宗派とはそのアクセス方法の違いに他ならない。だから修行が厳しいということは、極楽浄土という目的地への行き方を、ひとつ目の角を右へ、ふたつめの信号を左へ、という感じでものすごく細かく説明してくれている、ということなのだ。なるほどこれは優しい。言うことに従っていれば確実に着けるんだろうな、という安心感がある。それに対し念仏を1回唱えればいいとか、心の中で救いを求めればそれでいいみたいな宗派は、目的地に対し、右斜め前に向かってゆく気持ちで進めばきっと着けるよ、くらいのことしか言ってくれないということで、歩きたい道を自由に選べるのはいいけど俺って方向音痴だし不安だよ、道は長いし、もしかしたらとんでもない所に行っちゃうかもしれない、信じ抜くには強い精神力が必要だ、ということなのだ。実は放任主義でけっこう厳しいのである。
 ちょっと前に読んだここらへんの記述が、昨日やっとエロゲーとギャルゲー、エロ小説とライトノベルの話に結びついた。つまりそれらもこの図式に当て嵌まるんじゃないか。なにしろ4点とも目的地は一緒なのだ。シャングリラでありユートピアであり、さらに言えばマリモッコトピアだ。結局のところ美少女が出てくる創作物の最終的な目的はぜんぶ、美少女たちとの酒池肉林に他ならないだろう。宗派とまったく一緒で、要はそこへのアクセス方法の違いだ。
 エロはルートをちゃんと示してくれる。こう行ってこう行ってこう行くと、ほら着けたでしょう、とマリモッコトピアまで連れてっていって、さらに言えばマリモッコトピアの町並みの解説までしてくれる。これは優しい。とても親切。それに対しギャルゲーやライトノベルは、こういう方向性で、というところまでしか見せてくれない。そっから先はそれぞれが勝手に歩いて行ってね、と放っぽってしまう。しかもギャルゲーにはハーレムエンドは存在しないから、特定のひとりとのキスで物語が終了してしまう。そこからそれぞれの力でもって女の子全員との酒池肉林まで持ってゆくのは、たいへんに厳しい道程だ。そんな重労働をよくやるもんだと思う。
 つまり常にエロ小説を持ち歩いているような人間は、町で見かける虚無僧みたいな感じで、社会的には一歩引いて見られるけれど、本当はライトノベルで満足している輩のほうが、よっぽどハードな(気持ち悪い)信念を持っている、ということ。
 そういうことだったかな。なんか最近こういう理屈立てた文章を書いていなかったので、あんまりうまく書けなかった感じがする。18歳の僕はこれを読んでどう思うだろう。

2009.12.2

 上の義妹は腹筋が割れている男の人が好きなんだそうで、好かれたい義兄は以前、2日に1回くらい、寝る前に20回くらい腹筋運動をしていた。そうやって腹筋を6つに割って、そうしたら義妹に開陳し、柔らかい指の腹で撫でてもらって、「わあ、硬ーい」ってなって、その指は徐々に降下していって、「お義兄さん腹筋もすごく硬いけど、こっちはもっと硬くなってるウフフ」ってなる、というこれはそういう壮大な計画だった。
 でもいまはぜんぜんやってない。冬で寒いし、それにひとつ気付いてしまった。
 腹筋じゃなくて、大事なのは背筋なんじゃないか。
 腹筋が6つに割れてる的な美学はもちろんあるのだろうが、腹筋というのは結局は腹筋にしか作用しないように思う。腹筋を極めたことがないので定かじゃないが、きっとそうなんじゃないかと思う。それに対して背筋は、そこを鍛えると「なんか全体的にシュッとしてて筋肉質というか、姿勢もいいし、筋が1本通ってる感じだよね」的な、そういう感じに行き着くのではないかと思う。地味だけど、実は背筋こそが全身の筋肉を支配しているのだ。多分。
 だからまずは背筋をやればいいんだと思う。全身がムニムニで腹筋だけムキムキなんて気持ち悪い。腹筋を6つに割るのは背筋がついてから。あるいは背筋運動をやっていたら自ずと腹筋も6つに割れるんじゃないかと思う。理屈はよく分かんないけど、そんな作用もある気がする。
 というわけで4日前くらいに、ブログに勤しんでいたファルマンに泣いて頼んでブログを中断してもらい、脚を持ってもらって背筋をやってみた。うつ伏せになって上体を持ち上げるあれを20回。
 そしてその結果、背筋は思っていた以上にちんこが痛いという事実を発見した。
 ちゃんとカーペットの上でやったのに、それでも痛い。痛いというか、上体を持ち上げたとき、ちんこが矢面に立って全身の体重を支える瞬間というのがあるじゃないか。あれにちんこがすごいショックを受けた。普段の日常の中で、ちんこで体重を支える場面ってないでしょう。いきなり課せられた突然のプレッシャーに、僕の温室育ちのちんこが悲鳴をあげた。
 これは続けられない。たとえこれを続けて筋肉質になったとしても、そのころには精巣がどうにかなっていて、宦官みたいになっていると思う。機能性ばかりを追求した結果、生きものとして本当に大事なものを失ってしまうところだった。古代中国と同じ失敗をするところだった。
 なのでその夜以来もう、腹筋はいちどもやってない。
 いいよもう、筋肉もちんこも、自然体でのびのび育てるよ。0歳児のころから脳の発達学習とか、そういうさもしいことはしない主義だよ。イメージの中の義妹も、腹筋からだんだん降下していってやがてちんこに到達するのなら、はじめからちんこでいいじゃないかと思う。お兄さん腹筋は割れてないけど、ちんこならバキバキだよ。嘘だよ。ちんこもそうバキバキじゃないよ。ごめんね。どうでもいいよ。謝罪の意味が解んねえよ。
 なんとなく人のブログを読んでいて、男の書き手がちんこの話とかしていると、気持ち悪くて僕は読めないのだけど、だとすればこの記事は、僕以外の人間にとってまさにそれなのだろうな、と思う。ここまでちゃんと読んだのだとしたら、わいのことめっちゃ好きやん自分。

2009.12.1

 擬人化が流行っていて、鉄道とかファーストフードとか調味料とかいろいろあるので、それではちんこの擬人化はどうだろうと思った。
 でもなんかもう既にありそうだな、と思って検索したらやっぱりあって(掲示板的なものなのでリンクは貼らないけど、「ちんこ擬人化」とかで検索したら最初に出てきた)、でもこれはいまの流行りのBL的な発想での擬人化ではなくて、びんちょうタン的な、ただ単に物体を美少女キャラ化しているだけなので、びんちょうタンがそうであったようにちっともおもしろくないし、僕の考えたものとも幸いなことに被ってなかった。ちんこだけに幸いなことに被ってなかった(うまい)。
 そもそもちんこを美少女キャラとするのは無理がある。だってちんこは男だもの。よってちんこはBL的な発想で擬人化するのがむしろ正しいのだ。僕のイメージしたちんこ擬人化では、ちんこは右睾丸と左睾丸と陰茎という3人編成で、もちろん両睾丸は双子。3人は力を合わせて学園を統治する生徒会執行部で、陰茎は能天気な看板生徒会長、右睾丸は副会長兼会計、左睾丸は副会長兼書記だ。両睾丸が優秀に裏方の実務をこなしてゆくことで、陰茎生徒会長はどんどん名声を手に入れてゆく。つまり両睾丸とも陰茎に惚れていて、双子同士どちらがより生徒会長を高みに押し上げられるか、頼りにしてもらえるか、というライバル関係にある。でも実は深層心理では、両睾丸は陰茎を間に挟んでカムフラージュしているものの、自分とそっくりの相手に互いの能力を認めてもらいたいと思っているのだ。123話目くらいでは弟である右の睾丸が交通事故で死んで、弟の代わりに野球を始めた兄が陰茎を甲子園に連れてゆく、というストーリー。どうだ。

2009.11.30

 最近になって出勤時などにマスクを着けるようになった。ここ何日か喉の調子が悪く、咳が出たりするので、先週の池袋に買い物に行った際から着け始めた。マスクがウィルス予防になるとはまったく考えていないが、ファルマンいわく「そのうち人ごみでマスクをせずに咳をしていて刺される人とかが出てくると思う」とのことで、たしかにそれは割と頷ける話だったので、医学的な見地からではなく社会的見地から着けた次第だ。よく「マスク一色」なんてタイトルのついた、ビジネス街で歩いている人たちが全員マスクを着けているという、だからなんだよ的な写真がヤフーニュースとかであるけれど、あれはマスクをしていないと出世に響いたりするからなのだと気付いた。マスクは「私は理知的な人間です」というサインなのだ。
 そして実際に着けてみて以来、ウィルスとかそういうんじゃない意外な効能も見出されたので、気に入っていまも出勤時には必ず着けるようになっている。
 その効能とはつまり、あたたかいのである。マスクってあったかい。すごく顔の保温効果がある。もうマスクなしじゃ寒くて朝の出勤なんかできない。マフラーをぐるぐるに巻いてニット帽を被りマスクして出勤している。そう考えるとやっぱり夏にそんなもん着けられるはずないと思う。僕なんか夏だとメガネだって「暑い」という理由で着けないくらいなのだ。そりゃあ大便の臭いもするだろうよ。
 マスク業界の人がこの記事を読んでいたら、感染防止という目的は世間的にも疑問視されはじめてきた感があるので、今後は堂々と防寒を謳って売り出してみてはどうかと思う。内側にファーとかつけるといい。ユニクロがヒートテック素材で作らないかな。呼吸できないか。

2009.11.30

 今月の社会契約論はひどかった。最近はさんざん言っていた通り純粋理性批判が低調で、もしかしてもう社会契約論の時代なんじゃね、と思っていたのだけれど、その救いも奪われた。4作出すのはすごくいいと思う。でも4作出すのなら、女の子の人数にバリエーションをつけるべきだと思う。今月の4作は、1人・1人・1人・2人という編成。ありえない。ピンヒロインに飽き飽きだ。いっそその5人で1作でいい。まったく世の中どうかしている。仕方なく僕はまた黄金期の純粋理性批判を読むことになる。なんでそんなに常にエロ小説を読まなくちゃいけない身体になっているのか自分でもよく判らないけど、とにかくそんな羽目になっている。そしてそうして読む黄金期の純粋理性批判はやっぱりおもしろい。新たな発見もないことはない。けれどやっぱり既読なのだよな。ああ、どこかに既読じゃない黄金期の純粋理性批判が落っこちてないかな。

2009.11.26

 体重が微増してきている気がする。すごく怖い。
 僕の人生の目標のひとつに「シュッとなる」というのがあり、なんかなんとなく20代後半でそんな風に、屈強で筋肉質でシュッとしている感じの人に(自然と)なると思っていた。思っていた節があった。でも26歳にしてそのなんとなくの予想が揺らぎはじめている。
 男の子は20代後半に自然とシュッとはならない。むしろ体重が微増しはじめる。
 でも労働中のチョコレートと労働後のビール、夕食後の満腹状態での仮眠という幸福を失ってまでシュッとしたいとも思わない。丸顔は僕のチャームポイントだとも一部では言われているし。
 そういうのを禁じてシュッとした人は、人生もまたシュッとしていることだよ。

2009.11.25

 今日発売の「sabra」は小池里奈が表紙で、それだけでおおと思ったのだけど、それに加えて中を見てみたら、小池里奈・篠崎愛・しほの涼という女子高生グラビアアイドル3人による合同制服スナップみたいな企画が組まれていて、ひどく興奮した。こないだ職場で好きなグラビアアイドルについて訊かれ、「篠崎愛。次いで小池里奈とかしほの涼とか……」と答えていた僕にとって、これは夢のような出来事だった。奇跡の揃い踏み。こんな幸福グラビア体験を持つ人間、世界にあんまりいないと思う。好きなグラビアアイドル3人を挙げて、その3人が一同に会しての合同グラビアを行なうなんてこと、アラブの大富豪くらいじゃないと普通は実現できない。金持ちにのみ許された道楽だ。しかし僕にはそんな幸福がラッキーにより舞い降りた。俺はこの幸福を誰に感謝しようかな。記事内では3人のガールズトークが掲載されていて、その3人の会話の噛み合ってなさ、よそよそしさが、この企画の奇跡を強調していた。よく知らないけど事務所とかだって別々なんだろう。3人はぜんぜん友達じゃないのだ。なのに企画は組まれた。もはやこうなると大きな力の存在を疑わざるを得ない。僕にはアラブの大富豪の守護霊がついていて、僕が好きなものとかを口に出すと、その守護霊がスピリチュアルなオイルマネーをばら撒いて、希望を実現してくれるのではないか。だとしたら実に素敵なことだと思う。スピリチュアルオイルマネーって新しいな。

2009.11.24

  ファルマンが僕の似顔絵を描いて、描いた結果「それは俺じゃなくて大神先生だ」ということになる。妻の描いた僕の似顔絵は僕ではなく、むしろ僕の作ったキャラクターのイラストであった、という気持ち悪い構図。もっとも大神先生と僕に外見的な違いはなく、差異は陰嚢に神様が棲んでいるかいないかという点である。
 それで興に乗ったので、一緒に中埜新も描いてもらう。「新はすぐに服を脱いじゃう頭の弱い子で、まごころ組だから夏服はポロシャツ。あとヘアピン着けてる」とリクエスト。なにも言わなかったのに胸には宇佐木学園校章を置いてくれた。理解力のある妻だなあ。
 それからこのやりとりは、ファルマンが適当に女の子を描き、完成したそれを見て僕が「それは1年おもいやり組の福田えれなだね」などと、頭の中にあるイメージと結びついた女の子を特定する、という遊びに進展した。割といつものことだけど今回のこれは特別、われわれ夫婦における閉鎖性の強い遊びであると思う。でもできればズイズイズッコロバシみたいに広まればいいと思ったので、一般化しやすそうにこの遊びに、「ピョンピョン」と名前をつけてやる。
 ふたり1組で、一方の人は架空の世界で学校を経営し、女の子を60人くらい創造しておき、もう一方が適当に女の子のイラストを描いて、エア理事長のほうがそのイラストを見て、60人のうちの誰であるかを特定してゆくゲーム。それが東北地方の一部で昔から行なわれていたとされる遊戯「ピョンピョン」です。かつてその地方では、囲炉裏に集まって毎夜のごとく家族みんなでピョンピョンが行なわれていたそうですが、今では過疎化が進んだため文化が失われてしまい、2009年現在やっているのは東北地方に縁もゆかりもない、東京に暮らすとある夫婦のみだといいます。

2009.11.23

 ファルマンと久しぶりにデートをする。買い物とかじゃなくデートらしいデート。目的地は鎌倉。ファルマンはもちろん初めてで、僕もずいぶん久しぶり。たぶん小学生以来だと思う。
 天気予報の週間予報が相変わらず当たらず、午前中は雨のはずがずっと晴天だった。珍しく予定とかを立てるとどうしても週間予報を気にしてしまうけど、まったく当たった試しがない。そんなわけで絶好の行楽日和。勤労感謝の日のデートが晴天であたたかかったのは、精神的になかなか気持ちがいい。普段の労働がちょっと報われた気がした。
 鎌倉へは東京から横須賀線。50分くらい。途中の横浜らへんで座席が空いたのでよかった。窓からの陽射しがポカポカと背中に気持ちよく、ファルマンも僕も行きなのに早くも寝た。
 正午ぐらいに鎌倉駅に降り立つ。大賑わいだった。
 まずは小町通りを通って鶴岡八幡宮に向かう。小町通りはいかにも観光地の商店街で、気分が盛り上がった。ファルマンなんて出雲の子なのに勾玉のネックレスとか買っていた。よく分かんないけどそれってあなたの地元が本場なんじゃないの、とちょっと思った。
 小町通りを抜けて右に進むと大きな鳥居が見えてきて、鶴岡八幡宮だった。
 しかし入ってみると鶴岡八幡宮は割と地味で、出雲大社の大きな注連縄みたいなエンターテイメント性は一切なく、ただの盛況している普通の神社だと思った。それでも階段を上り、お賽銭を入れて参拝。おみくじもやる。結果はファルマンが吉で僕が小吉。文面には「持って生まれた清浄正直な心を大切にしなさい」と書いてあって、神に認められたような気がした。ああ俺は、この清浄正直な心を一生ねじ曲げることなく大切にしてゆこうと思う。
 鶴岡八幡宮を出て鎌倉駅に戻る。そこから次は江ノ電に乗って長谷へ。今回の鎌倉デートは、鶴岡八幡宮・由比ヶ浜・鎌倉の大仏という超ベタなルートなのだった。
 長谷駅からまずは由比ヶ浜へ。太平洋だー。ファルマンと太平洋を見るのは初めてだな……と思ったけど、実は違った。去年の9月に横浜で見ていた。そのときは整備された商業施設からだったからぜんぜん印象に残っていないけれど。それに対し由比ヶ浜は正しく砂浜。テンションが上がった。それで鶴岡八幡宮では勇気が出せず頼めなかったが、今回はさすがにもったいないと感じ、近くにいた人にツーショットの写真なんか頼んでしまう。まるで若い夫婦みたいだな。
 そのあと駅を挟んで反対側の高徳院のほうへ。これがまた割と距離がある。
 やっと着いて拝観料200円を払い中へ入ると、いきなりズドンと大仏。もったいぶらずにすぐにあって虚を突かれた。しかしこの大仏が、小学生の頃に来たこともあり、それ以来うすうすと感じていたことだが、あんまり迫力がない。なんかはっきり言って安っぽいと思う。威光みたいなものがびっくりするくらいにないのだ。ここまで来ると逆にすごいな、というくらいになかった。鶴岡八幡宮も鎌倉の大仏も、結構がっかりスポットなんじゃないかと思う。
 長谷駅に戻る途中で甘味処で休憩。クリームあんみつと抹茶でひと息。ここまで割と歩いたし、強い陽射しも浴びたので、思っていた以上に疲れていた。甘いものを食べてすっきりした。
 長谷駅から乗った江ノ電が、行きもだったが超満員。休日はいつもこうなのだろうな。きっと地元住人は休日の超満員の江ノ電を見てはケッケッケとせせら嗤うのだろうな、と思った。
 そんなこんなで鎌倉駅に舞い戻ったときにはもうヘロヘロ。おみやげを買いに改札を出るなどということもせずに、そのまま横須賀線のホームに直行する。横須賀線ではまたルートの3分の1くらいの所で座れたのでよかった。深く寝た。
 途中の池袋で鮨を買って帰宅。すっかり暗かったが、実はこの時点でまだ18時。なにしろ早く家に帰りたかったので、久々のデートも小上がりだ。
 今日は時間がゆっくり過ぎた。家で消しゴムはんこをやっている時間はあんなに早く過ぎるのに。人生を長くしたいのなら、デートでがっかりスポットにばかり行けばいいのかもしれない。
 まあ愉しかったですけど。でも疲れた。今日1日で5年分くらいデートをしたな、と思う。

2009.11.22

 ファルマンが昨日の記事を読んでまた言う。
「あなたは語れば語るほどに、共学の本質から離れてゆくんだよ」
 まるで禅問答のようだ。共学っていったいなんなのだろう。共学のことを完全に忘れたとき、僕の眼前には真の共学が広がるのではないか。真の共学ってなんなのかよく分からないけど。

2009.11.21

 ファルマンが昨日の短歌を見て言う。
「あなたって本当にかわいそう。共学があんなものだと思ってるんだ。現実はね……」
 もっとシンプルで、そんな華やかなものじゃないんだよ、と続くのかと思いきや、
「もっとチョー愉しいんだよ!」
 これにはすごくムカついた。
「私みたいなクラスの端っこにいた地味な子だってそうなんだから、中心にいた子たちの愉しさと言ったらもう、とんでもないものなんだよ」
 そうかー、と思う。
 そんな気はしていた。共学高校の華やぎはシャングリラで、人生でいちどしか獲得のチャンスがないそれを放棄した僕の後悔は、もはや原罪とでも言うべき失敗なのだ。
 「BiDaN」とか「samuraiELO」とかを興味本位で見ると、どちらかと言えば割と不細工くらいの男子高校生が、なんかけっこう彼女とか作ってる。ワイシャツの下に白じゃないカラフルなTシャツを着て、髪の毛をツンツンにして、学ランの下にパーカーとか着て、学校のショルダーバックをリュックっぽくして背負っていたら、共学に通う男子高校生はたとえかなり不細工であっても彼女ができて、普通に親が出掛けている日に部屋に連れこんでセックスするのだ。
 でもこれは理屈に合っているというか、これまでcozy rippleの5年間の歴史でさんざん語ってきたように、女の子って基本的にエッチで、女子高生なんていうのはそれが特にで、割とすぐに男子の体に包まれたがる生き物だ。包んだことないけど、長い研究の結果そういう結論に至っている。そんな女子高生に対して、色のシャツを着たり髪の毛を立てたりするのは、「俺はお前のこと抱いてもいいぜ」的なアピールなのであって、動物が発情期には体の一部を変色させたり特殊なホルモンを出すのと同様に、アピールとして実に有効なのだと思う。
 顔がよければもちろんそれに越したことはないのだろうが、しかしエロい女子高生の主目的はとにかく「包まれること」なわけで、なので顔は実際それほどは重視されない。むしろ目的から考えればあまり本気にならずに済む不細工くらいがちょうどいいとさえ言える。しかも色のシャツとか髪の毛を立てたりしているということは間違いなく軽い奴なわけで、相手も自分に入れ込むことなく、気軽に、互いに不特定多数のうちのひとりとしてセックスしてくれるに違いない。
 ゆえに高校生はチャラチャラしていればしているほど、モテるのだと思う。
 そしてそんな風にモテていると次第にオーラが出てきて、何十人も抱いたぜ的な自信も出てくるし、それが風格となって、何度もしつこくねだってくる亜矢先輩や有里先輩がやっと卒業した(まあ今でもたまに呼び出されてセックスさせられるんだけど。いわゆるセフレってやつ?)と思って安心してたら、なんか今度は今年入学してきた後輩からもせがまれて、マジ困る、ホント俺のチンポは1本しかねえし、睾丸もふたつしかねえし、そんな言われても無理だからね、週6とかマジきついし、本気でイモるし、みたいな、みたいなみたいな、そういう感じだと思う。
 そういうのが共学に行かなかった原罪。
 男子校で毎日ひたすら本格ミステリばかり読んでいた原罪。
 共学短歌は原罪を詠むもの、とか言うとちょっと格好いい。またぜんぜんフォロワーが出ないうちから研究面まで自分で賄い始めた。まあフォロワーなんて気に入らないからいいんだけど。
 そんなわけでもう、名称も「共学短歌」でいいや。
 共学短歌3首。

 週6はマジできついし悪ぃけど今日は勘弁 指で勘弁

 ウチ マジで先輩のこと好きじゃけん一糸纏わぬ体育倉庫

 このあいだ原先輩の彼女さんに誘われてマジ イモって逃げたし

2009.11.20

  共学って多分こんななんだろうなっていう短歌を詠もう企画(仮称)十首


 秋山は学園一のボインちゃん小学校低学年のころ仲良しだった

 大谷がルーズソックス頑なに穿き続けるの俺との約束

 後輩が視聴覚室行けなくて困ってたから案内してました

 女の子が髪切ったのに気付かない高田先輩サイテー、だってさ(笑)

 公民の授業中見る窓の外 幼なじみの柔軟体操

 体育祭はクラス縦割り編成だから先輩とあたし同じチームなんだよ!

 亜矢ちゃんが原先輩とヤッたらしい原さんこれで二十二人目

 ちぇっ俺がどんなに猛勉強してもいつだって二位 麻衣に勝てねえ

 踊り場で話し込んでる秋山の太もも覗け変わらぬホクロ

 体育が終わったあとの教室は柑橘系の香りがすげえ

2009.11.18

  今年もcozy rippleにさまざまな流行語が生まれました。
 エントリーワードは以下の通りです。

・3次会の庄や
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」6月7日。3次会の庄やで話されそうな内容を書いてしまったときに照れ隠しとして用いる。SJSと略して使われるケースも見られた。

・出た~!
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」7月24日。義妹に対し「水着姿を見せろ」と懇願するパピロウのライトセクハラに、上の義妹が発した言葉。パピロウと義妹の甘美な関係を象徴するキーワードであると言える。

・MOTTAINAIDESUYONEARUIMI(S)
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」5月17日。オリジナルTシャツデザイン企画の中で出たフレーズ。ただし世間は今年インフルエンザの話題ばかりで、あんまり環境保護はブームじゃなかったっぽい。

・多迷期
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」8月3日。少女が二次性徴の最中であることを示す言葉。言葉の完成度はなかなかだが、いかんせん二次性徴の最中のヴィジュアルが崩れている少女についてパピロウが言及する場面がないため使用頻度は低い。

・生命の神秘
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」8月27日。ファルマンの4コマ漫画内のフレーズ。そのあとブログではいちども引用されていないが、現実のファルマンとの会話でパピロウがポーズ付きで頻繁に使用したためエントリーとなった。

・ランジェリー期末試験
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月7日。アメリカのランジェリーフットボールに触発され、ファルマンにランジェリー○○を求めたところ即答で返ってきた言葉。後に宇佐木学園の公式行事として採用された。

・苦言を呈される
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月5日。ファルマンが日記の内容について知らない人から苦言のメールを送られる、という今年の事件から生まれた言葉。ファルマンはこれによりマウスピースの製作を余儀なくされた。家でファルマンがうるさいときは、「そんなに語ってると苦言を呈されるよ」と言うとシュンとして便利。

・クッキーゲーム
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月22日。下の義妹のサークルが行なったという遊戯の名前。一般的なポッキーゲームのポッキー部分を、クッキーで代用して行なう。チューじゃんかそれ。ありえない。

・NAYAMAZUKUZIKETEHAGEMASHITEMORAUSOSHITEKIZUNAGAHUKAMARU
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月22日。上記「クッキーゲーム」でショックを受け思い悩むパピロウに対し、ファルマンがとどめを刺すように言った、イケてるテニスサークルの学生たちのキャッチコピー。

・マリモッコトピア
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」7月10日。まりもっこりのキーホルダーをぶら提げる少女越しにパピロウが覗いたユートピア。そこに暮らす少女たちは、ちんこを見ては優しく微笑んでくれるという伝説が残されている。

・芝生男子
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」6月7日。「芝生」の初出は2008年の12月で、そこから半年かけてたどり着いた、たどり着いたと言うか世間で今年大いに流行った「草食系男子」の尻馬に乗るために生まれた言葉。「森ガール」に完敗した。

・へっちゃらパンツ
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」10月28日。女の子がスカートの下に穿く短パンの商品名。「ボニータ」という名称の発案者としては否定するべきなのだろうが、厄介なことにかなり気に入ってしまった。

・叔父さん軽口
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」10月31日。親父ギャグに対する叔父さんの放言。単純なダジャレでしかない親父の親父ギャグに較べて、叔父さんの叔父さん軽口ってなんか小粋で、嫌いじゃねえんだよなって甥が思う。

・フロイト
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」8月5日。俺ばかり500記事記念にアップしたファルマンの病んだ落書き。気に入ってデスクトップの壁紙に設定していたらパソコンがウィルスにやられた。

 いやあ、今年もいろいろな言葉がcozy rippleを彩りましたね。
 初出の時期を見ると、やっぱり夏だなと思う。
 グランプリとかベスト10とかは特に決めないけど、審査員特別賞だけは授賞しよう。
 栄えあるcozy ripple2009年流行語大賞、審査員特別賞は「上野の413球」です。
 おめでとうございます。この賞は今後10年にわたり連続受賞する予定となっております。どうか上野選手には殿堂入りを目指してがんばっていただきたいと思います。
 それではまた来年。来年はどんな流行語が生まれるのか、いまから僕だけ楽しみですね。

2009.11.16

 ところで「草食系」が今年の流行語大賞の候補に入っていて、僕もさんざん使い、あまつさえ「芝生男子」などと言い出しさえしたので、これに異論はない。「1Q84」とか「のりピーショック」とか、それは流行語じゃなくてヒット商品や事件だろうというのもあるが、とは言え今年の流行語大賞の候補はどれもまあまあ納得できる感じがある。これはひとえに今年オリンピックがなかったからだろうと思う。オリンピックとかあると選手が名言を残したがってやたら変な言葉を吐くので、場が荒れるのだと思う。まったくもって上野の413球だな。去年の特別賞であるこの言葉を、僕はいままでもこれからも、一生言い続けようと思う。いつか堪忍袋の緒が切れた上野の1球で、自宅の窓ガラスが割られるかもしれない。でもこれはただの事件だな。パロピーショック。

2009.11.10

 グラビアアイドルと言えば篠崎愛なのだけど、sabra増刊の写真集が発売されたのだった。それで中身を見たところ相変わらずすごい。本当に中学生のころの僕が思い描いていた「理想のエロい女の子」がここにいると思う。ショットの中に「無数に穴の開いたスピード社製の水着を着てちょっと困った表情の篠崎愛」というのがあり、僕は競泳用水着とかスクール水着とかあんまり興味がなくて、女の子本人がかわいいと思って着るビキニがいちばんかわいいと思うのだが、珍しくそれはすばらしいと思った。なにしろ篠崎愛と言えば豊満な肉体であり、スピード社製の水着と言えば強烈な締め付けだろう。その結果としての無数の穴なのだ。いいなあ。すばらしい演出。スピード社製ならぬスピード射精!? っていうのを書いたのは1年4ヶ月前のことか。競泳界を揺るがしたあの夏の騒動は、この1冊の写真集に結実したのかもしれない。

2009.11.8

 まひろさんがホガラカノイロオゼを更新していた。
 ホガラカノイロオゼは女の子の切ない恋心を綴った少女マンガ風のブログになったらいいと考えているのだが、これがなかなか難しい。どうしても男がまひろに欲情してしまい、勃起した芝生を見せつけたり、乳輪のサイズを訊ねたり、ショーツを穿いた回数をカウントしたりしてしまう。でもそれが真実だろうとも思う。現実の男子は、少女マンガのそれみたいに、朴訥としてないんです。変態性欲の塊なんです。まひろが少女マンガを夢見れば夢見るほどに、まひろの純情は泡立てられ、魅力的なホイップクリームとなり、その甘い香りに周りの男子は欲情してしまうという仕組み。まひろが、居眠りしてしまった自分のおでこへの不意打ちキッスを期待するとき、彰介はまひろの無防備なショーツに極限まで鼻を近付けて深呼吸を繰り返す。理想と現実のギャップ。まひろのX軸(少女マンガ軸)の数字が大きくなればなるほど、彰介のY軸(エロ軸)の数字も跳ね上がるのだ。まひろに関する有名な現象に「萌え光線逆照射現象」というのがあるが、これもその並びで、「萌え光線反放散現象」とでも言うべきものだと思う。少女マンガの主人公を夢見るまひろ、そんなまひろに欲情する男、そしてそれをまひろというピュア少女視点から描く。ピュア少女視点からすれば彰介の陰毛は黒い花火にも見えよう。子どもの想像力がおぞましい怪物を作り出すように、だとすればホガラカノイロオゼとは原子力発電所のごとき、メチャクチャなエネルギーを作り出す可能性を持ったブログであると思う。1足す1は2じゃなくて、夢見る少女×男根=∞なのだ! ∞という記号がそもそも陰嚢から来ているっていうのも示唆的だと思う。最後に叔父さん軽口が飛び出た。

2009.11.7

 ファルマンにパソコンを初期化してもらう。
 なんかそうしたら割と大丈夫になった。それでももちろんそう長くはない命なんだろうが、とりあえずすぐに買わなければいけないということはなくなった。よかった。
 そんな中で池袋に新しくできたヤマダ電機に、今日ようやく行ってみた。
 行ってみた結果、非常にパソコンが欲しくなった。
 だってね、新しいやつはね、ウィンドウズ7でね、ブルーレイでね、地デジでね、ダブルチューナーでね、1テラでね、なんかすんごいんですよ。こんなに魅力的な新商品があるのに、俺は初期化したXPとか使ってていいのかな、って。まあいいんですけどね。
 とりあえずオープン記念で安かったのかどうか知らないが、CDをすごく収納できるファイルボックスをふたつだけ買いました。これまでは画像とかをハードディスクやUSBに保存していたのだけど、なんかやっぱりCDなんじゃねえかな、と思ったのだった。クラウドとか言ってるご時世に、すごい逆行具合なのだけど。今後はこまめにCDにデータを焼いて、そのCDにペンで中身を明記して、きちんと管理してゆこうと思う。なんかそれがいちばん性に合ってる気がする。結局はカセットテープとかフロッピーの世代なんすよ自分。
 ああ新しいパソコン欲しい。
 ってことを今のパソコンで打ち込むデリカシーのなさ。
 テレビのCMをテレビで観ると、それを放映しなければいけないテレビのつらい立場とかを思いやってちょっと哀しい気持ちなるような、そんな繊細な思春期時代を送ったはずなのにね。

2009.11.2

 まひろさんが早速「叔父さん軽口」を使いこなしている。この子は本当に流行に敏感だなあ。流行というか、僕の動向だけど。もしかしてこの子、俺なんじゃねえの、と一瞬思った。いったいなにを言っているんだろうな、僕は。北海道の女子高生が俺なわけないだろう。
 ところでまひろさんの記事の中で宇佐木学園について触れられていて興味深かった。なんとまひろさんは、宇佐木学園4年あざやか組の日野環と、ペンフレンドなのだという。びっくりだ。ホントこういう偶然ってあるんですね。たまたま僕のブログに関わる女子高生ふたりが友達だった、なんてこと。にわかには信じがたいですけど。

2009.11.1

 そして今日から11月。今年があと2ヶ月。2ヶ月は早い。
 1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、なんてことを言いますが、10月、11月、12月だって十分に早いので、なんかそういうキャッチーなフレーズを考えるべきだと思う。つまりふたりにとって4月から9月は蜜月で、3月には結果的に去っていってしまうのだから、ならば10月あたりから崩壊の足音が聞こえているべきなのだ。というわけで考えた。
 10月は、「ずっと我慢してた」。
 11月は、「修一のわがまま、わたし許しすぎちゃってたね」。
 12月は、「自由になりたいよ、もう」。
 そして「行く」「逃げる」「去る」。
 だから下半期はこんなにも哀しいのだと思う。

2009.10.30

 親父ギャグに対抗するジャンルとして、「叔父さん軽口」というのを考える。年の離れたお兄さんみたいな存在の叔父さん。叔父さんは親父側の人間じゃなくて、俺たち側の人間だって俺は思うんだ。ところで叔父さんからもらったギター、あれ、友達に見せたらベースだって言われたんだけど? 「ああそうか、叔父さんが22歳の頃に、ギターとベースって言葉が入れ替わったからなあ」。これが叔父さん軽口。ライトな嘘ジョークということ。見本は高田純次。

2009.10.30

 ブログで自分の話をするのは愉しいなあ。こんな消しゴムはんこに関するつましい話を細々と語れるのは、語っていいのはブログだけだ。職場に、ブログじゃないのに、僕という人間を巻き込んだ歴とした会話であるのに、自分の話ばかりする人がいて、精神がひどく疲弊する。これはブログじゃないのになあ、と思いながら仕方なく相槌を打っている。最近あんまりそういう人と触れ合っていなかったので、それに対する耐性がぜんぜんなくなっていたらしい。すごくつらい。大人になって、街で赤ちゃんを見てかわいいと思ったりするようになって、最近めっきりそんなことを思わなくなっていたけど、久しぶりに学生みたいに、「死ねばいいのに」って明確に思った。

2009.10.28

 今日スーパーの衣料品売り場を歩いていたらボニータが売られていて、その商品名が「へっちゃらパンツ」だったので驚いた。1年半前の記事でボニータの商品名についてファルマンに訊ね「や、短パン」と答えられるという出来事が起こっている。それで僕は「再来年くらいまでにはティーン向けファッション誌の紙面にボニータの文字が躍っていますように」と願いを口にしているのだけど、ここに来てまさかのへっちゃらパンツである。
 ああ、でも、いいな! 割といいな、へっちゃらパンツ! なんかすごく口にしたくなる名称だと思う。略したらヘッパンか。チャラパンか。どちらにしろいい。
 いいのだが、ボニータ提唱者としてはやはりまずい。スカートの下の短パンは具体的な名称が未決定で、だからボニータを僕は声高に叫んでいたわけだけど、このへっちゃらパンツには一気に覇権を取られそうな雰囲気があると思う。その証拠に16歳のまひろさんなんかは早速使い始めている。これはまずい。非常にまずい。きっとまひろさんからペンフレンドの日野環に伝わって、日野環から宇佐木学園の生徒たちに驚異的なスピードで浸透する。10代の女の子たちのそれの速度は光をも超えていて、相対性理論により逆に過去にさえ伝わるんだよ。でも宇佐木学園はボニータ禁止なのです。ぴょんぴょん。

2009.10.27

 それにしたってメールフォームからメールが来ない。
 という上の1文を読んで、「えっ!?」って思っている方が大勢いると思う。わたしパピロウさんにメール送ったのに、あんなにたくさん、ってびっくりしていることだろう。そういう方々には本当に申し訳ない。ただただ謝りたい。なんでこんなことになったかと言えば、どうも、メールフォームを運営している会社のサービスらしいのだが、僕がもらっても別に嬉しくも思わないだろうメールに関しては、勝手に削除してしまい、僕の所まで届かないっぽいのだ。そのために何ヶ月も1通もメールが来ないという事態に陥っている。僕としてはそこまでハードルを上げなくてもいいんじゃないかと思うのだが、いかんせんそういう設定とかをいじるのは苦手なので直しようがない。それで結果的にメールを送ってくれた人に対して失礼な形になっている。面目ない。今後なるべく早急にそのメール狩りの設定を和らげるつもりなので、諸兄は気を落とさず、お前らのセンスの悪い下手な鉄砲だって数打ちゃ当たる的な発想で、ばんばんメールを送っていただきたいと思う。そうすればきっとまぐれで1通くらいは届くはず。そうじゃなきゃおかしい。運営会社によるメール狩りの件は別に根拠はないのだが、こんな閲覧者限定でもない毎日更新のブログで、分かりやすくメールフォームが設置されていて、2ヶ月以上メールが1通も来ないなんてことは普通に考えたらありえないと思うので、そういう結論に至った。説を否定していって最後に残ったものは、それがどんなに怪異なものでも真実。勝手にメールフォームの会社がメールを検閲する説は否定しきれない。だから真実。なのでそれに負けないようどしどしメールよろしくお願いします。ワンクリックが励みになります! 不愉快なメールが2通くらい立て続けにきたらメールフォームの設置をやめると思います。ひっそりなくなってたら「あっ……」って思ってください。

2009.10.26

 実は微妙にパソコンが持ち直している。もちろん調子が悪いは悪いのだが、週末のような、もう早急に新しいパソコンを買わないことにはどうしようもない、という状態は脱した感じ。ファルマンによる積荷の整理により再び風に乗ったか。今は音もやけに静かで、無風な感触。なんか清廉すぎてちょっと怖い。紅の豚の、主人公が列に加われなかった飛行機の墓場、あれを彷彿とさせる。荒くれものの飛行機乗りだった彼が、今その不思議に清らかな世界にいて、また現世に帰ってきたら豚になっているのかもしれない。そうか、俺のパソコンは豚か。飛べない豚はただの豚。使えないパソコンはただの箱なのだな。ちょっとなに言ってるか分かんないです。とりあえずここらへんで非公開保存しておこう。この状況では本体に小刻みに保存をしても意味がないけど、その点ウェブ上に保存すれば安心だ。クラウドコンピューティング万歳だな。あっ、飛行機乗りなだけにクラウドコンピューティングなのか。うまいなー。うまいことつながったな。つまりブロガーっていうのは雲の合間をすり抜けて飛び回る現代のパイロットなのだな。ロマンチック。時には昔の話をしようか。僕とファルマンは10年後、当時のブロガーという名のパイロット時代を懐かしむのだろうか。それとも10年後もまだまだ世界の空を飛び回っているのかな。きっと後者だろうな。そのとき僕はなんかサラッとぜんぜん別のブログをやってそうな気がするけど、ファルマンは相変わらず「うわのそら」なのだろうな。ファルマンはずっと1台の飛行機に乗り続ける。そのとき「うわのそら」の月間アーカイブは一体どれほどの長さになっているか。飛行機が飛べば飛ぶほど長く伸びるもの、月間アーカイブは言わば飛行機雲だな。なんかロマンチックな話になったな。気のせいか。気持ち悪い話か。見えない明日をむやみに探して誰もが希望を託すのか。
 飛行機(ひとつの記事内でパソコンとブログというふたつの意味で飛行機という言葉を使っているが、まあ要するにパソコン=ブログということだ)の調子がよくなったので、早速いろいろ飛び回る。ああ俺は根っからの飛行機乗り。ホガラカノイロオゼと、大神版6月7日午前7時20分。揺れていた時代の熱い風に吹かれて体中で瞬間を感じた。
 そうだね。

2009.10.24

 ファルマンと電器屋に行き、データを避難させるためのUSBメモリを買う。8ギガで2000円未満。なんだそれ。パソコンがこんな状態になって、なんか使ってないUSBメモリないかなと家を探したら、ファルマンが大学時代に使っていた256メガのものが出てきて、そう言えばこのとき僕らは一緒に初めてUSBメモリというものを買って、ファルマンは2000円台でそれを、僕はちょっと奮発して3000円台で512メガのを買ったんだったと思い出した。それが今では8ギガで2000円未満ですってよ。当時は8ギガなんてそもそもなかったんじゃないかと思う。と言うかあったとしても1万円を超えていたため目に入ってなかった。すごいなあ、なんなんだろうなあ。いろいろ種類があるUSB売り場で何を買うか悩み、「8ギガのが2000円くらいなら、1000円の4ギガのを2つ買ったほうがいいんじゃないか」と主張したら、ファルマンに「やめて。そういうカセットテープ的な発想」と言われ、仕方なく8ギガのを買った。この種のカセットテープ的な発想はもう凝り固まってしまっていて、僕の頭からは一生取り除けないものなのだと思う。iPodは聴いているが、やはりSD的なソフトがないのが物足りないな、と思う。なんか音楽を聴いているが、音楽を聴いていないような気がする。この世のものじゃない音が耳に届いている感じ。みんなもうちょっとエコのことは忘れて、データとかいう幽玄な概念には頼らず、形あるものに満足しようぜ。データデータって、どうかしちゃったのかよ、お前ら。ないぜ、データ。そんなの共通幻想だよ。

2009.10.24

  実は某4コマ漫画の賞に応募をしていて、今日それが発表になったのだけど、見事にどこにもかすってさえいなかったのだった。連作じゃなくて1本単位での応募ということで、2本書いて送り、50万円1本と10万円2本と5万円数本の賞が用意されていて、<10万円は確実だけどあわよくば50万円、しかし5万円でもいちおう喜ぶか>くらいに考えていた。でも結果はどこにも引っ掛からずだった。受賞作たちが公開されていたので見たのだけど、どうも僕はちょっと賞のコンセプトを勘違いしていたようで、受賞作のうちの半分は新型インフルエンザを題材にしたものだった。時事かー。ぜんぜん時事じゃない4コマで応募してしまった。もっとサラリーマン川柳みたいな、そういうクソみたいな感じでやればよかったのか。失敗したな。

2009.10.21

 10月に入って初めてNAYAMUKEDOKUZIKENAIをやって、愉しいなあなどと思ってみたり、その一方でやっぱり消しゴムはんこをやってステッチトークにアップしたいと思ったり、ファルマンと4コマ合戦をして俺ばかりが正論を言っているに公開したかったり、そしてそんなことをしていたら宇佐木学園大神版、中埜版がぜんぜん進まなくて参ったり、そんな風に過ごす中で、眠れる獅子的な、揺り起こしてはならないブログの存在を思い出してしまった。
 ホガラカノイロオゼ、っていうブログです。
 管理人のまひろさんは、北海道在住の16歳の女子高生で、おむすび三太の玄孫、そして学年題6姉妹で宇佐木学園4年あざやか組の環とはペンフレンドという間柄。そもそもは学年代俳句1000詠に参加するためのブログ開設だったが、最近では八王子から引っ越してきた彰介との、嬉し恥ずかしの恋模様にテーマが移ってきている。ちなみに彰介は2年おもいやり組の多田まゆかと従兄妹関係で、3年すこやか組の名津川若葉とは幼なじみ。
 しばらく沈黙していたこのブログなのだけど、そろそろ復活の時期に来ていると思う。宇佐木学園との親和性の高さに、存在価値が増幅した。そのうちなんかしらの形で宇佐木学園にまひろを登場させたいと思っている。まひろと彰介は心が入れ替わる予定なので、まひろの体に入った彰介がペンフレンドの環に会うという名目で宇佐木学園に潜入する、みたいなイメージで考えている。

2009.10.16

 芝生男子の概念がよく分からない、という意見を耳にする。
 意見者は例の夫妻で、ファルマン経由でそれが僕の耳に届いた。
 なるほど言われてpuropediaを見返してみたところ、よく分からない。
 こんなにもよく分からない原因は、結局のところちゃんとは意味が定まっていない点にあるのだと思う。でもこれはしょうがない。だって言葉ってたくさんの人々に使われることによって初めて形が定まってゆくものだろう。言わば言葉っていうのはゲル状になってて、必要な箇所の隙間に入り込んで、それが自然と正式な形となる、そんなものだろうと思う。その論でゆくと芝生男子という言葉は、まだぜんぜん隙間に入り込んでいない。そもそも世界に投入されてもいないと思う。隙間だらけのその壁はピューピュー風を通すから、早急に補修が必要なのに、芝生男子という泥団子はまだ僕の手の中にある。あるいはたまに丸めた手を開き、泥団子を周囲の人々に見せたり、つまりそれがpuropediaにキーワードとして登録したりする行為であり、それはするけれど、でもそれは言葉の道具としての役割を果たしていないから、人々にとってあんまり魅力的なものに見えない。価値が分からないのだ。ゆえに芝生男子という言葉は意味が定まらない。
 それでは泥団子をさっさと壁に向けて投げてしまえばよさそうなものだが、しかしそれは僕には不可能なのだ。せっかく用意した愛着のある泥団子を、本人はとてもじゃないけど壁にぶつけられない。それをできるのは周囲にいる人々。彼らが、僕が手のひらを広げて泥団子を誇示した瞬間にそれを奪って、壁に投げつけてしまえばいいのだと思う。そうすれば、たとえそれが変な方向に変な形で破裂してしまったとしても、言葉はなんかしらの役割を果たすはず。
 芝生男子とは、『肉食系女子に喰われると言われる草食系男子に違和感を感じる、俺は草食系男子じゃないよ、だって肉食系女子は嫌いで、草食系女子が好きだもの、草食系女子に食まれたいもの、だから草食動物が食む存在としての芝生男子なんだよね俺は』、ということなわけで、その設定から先はこの日記を読んでいる人とかが独自に解釈をして、他者と絡んでいるときとかに積極的に会話の中で使用すればよいのだ。そうすれば芝生男子の意味は自ずと定まる。読んでいるあなた、あなたの口先から芝生男子の意味は生まれるのです。
 そして発案者の僕はその様を眺め、そういうことじゃないんだよなあ、わかってねえなあ、感性が悪いなあ、と悪態をつくのです。そうです、puropediaの編集は僕だけの特権なのです。結局お前らは利用されるだけの噛ませ犬。そしてこういうことを言うから芝生男子という言葉は誰にも使われないのだ。こうして芝生男子という言葉は誰にも使われないまま、やがて僕の手の中から滴り落ちてゆき、次第に体積を減らしていって、自然消滅してゆくのだろうなと思う。
 ところで草食系男子と肉食系女子という、なんかもうちょっと世間的に下火になっているこれらの言葉、それについて久しぶりに語るのだけど、草食系と肉食系の捕食関係で恋愛を捉えるのはなんかおかしいんじゃないか、といまさらながら思う。倖田來未を聴く肉食系女子は、エグザイルを聴く肉食系男子と付き合うわけで、スピッツを聴く草食系男子にはそもそも惹かれないだろうし、スピッツを聴く草食系男子もまた、倖田來未を聴く肉食系女子はもちろん苦手で、くるりを聴く草食系女子と付き合うに決まっている。肉食動物は肉食動物と交尾をするし、草食動物も草食動物と交尾をするのだ。肉食動物の雌と草食動物の雄が結合するとすれば、それはマッドサイエンティストの作り出すキメラである。こう考えれば芝生男子たる僕の抱く、草食系女子に食まれたいという願望も割と怪しく、草食系女子って結局のところ意外とアクティブで、草食動物が集団で大移動するがごとく、おしゃれカフェに行ったりバンドやってる友達のライブに行ったりし、その様をミクシィやはてなダイアリーに書いたりするので、考えてみたらそういう子ってあんまり好きじゃない。それよりも僕は僕と同じくらい家が好きで、他人と絡むイベントがあると精神を乱し、エキサイトブログに延々と自分の箱庭の記述をする、そんな芝生女子のほうがよほど好きだと思う。そうなのだ、芝生男子もまた、芝生女子と受粉をするべきなのだ。
 そしてこう考えると、『草食系女子に食まれたい男子』という定義も微妙となり、いよいよ芝生男子の言葉の意味が分からなくなってきた。今日は意味を定めるための記事にするはずだったのに。
 でもまあぶっちゃけあれです、僕が芝生男子です。
 芝生男子とはつまりpurope★papiroのことです。
 みなさんそういう用法で、世間で広く使っていってください。

2009.10.14

 同僚の女の子が京都旅行から帰ってきたので、寺とか紅葉の話はろくにせず、男女混合5人旅行のことについて、生八橋をいただきながら訊ねた。
 そうしたらいきなりその子が、
「それがひとりメンバーが急に来られなくなっちゃって、4人だったんですよ」
 と言うもので、
「ああ、でも恋愛とかそういうんじゃぜんぜんないとは言っても、2対2ならやっぱりなんだかんだでバランスがいいんじゃない?」
 と答えたら、
「あ、ちがいます。女の子が来られなくなったんで、女子は私ひとりの1対3だったんです」
 と言うではないか。
 衝撃を受けた。
 男女混合5人の時点で衝撃だったのに、結果はさらにショックな1対3編成。これで男女が逆だったなら、完全に純粋理性批判の世界じゃないか。ちんこってそもそも3人用なんじゃね?
「じゃあ部屋ではひとりになっちゃったんだ?」
「あ、同じ部屋です」
「(職場ではあまり出さない声)」
「すごい声を出しましたね、いま」
「えっ、それって大丈夫なの?」
「ああ、もうそういうんじゃないんで」
 共学の人たちの「もうそういうんじゃない」のがぜんぜん理解できない。
「そうなんだ……。それで、夜はウノとかやったの?」
「やりませんよ。麻雀やりたいねみたいな話はあったんですけど盤がなくてできなくて。それで私はけっこう早々に寝ちゃって、他の3人はずっとモンハンやってました」
「そうなんだ……」
 同い年なのにどうしてこうも意識に差があるのだろう。
 懐かしい友達との京都旅行に携帯ゲーム機を持ってきてやってしまう感覚が、同学年のはずの僕にはぜんぜん解らない。もしもそんな男女混合京都旅行なんてイベントが組まれたら、今年の夏の帰省の義妹との相部屋のように、僕は本番の2ヶ月も前からさんざんそのことについてのドキドキを書き連ねることだろうと思う。そして1対3というバランスの悪さには目をつむって、サーモンゲームを提唱しさえするに違いない。
 これこそが共学の人たちと、男子校でしかも修学旅行をボイコットした者の、人生のおかずの品数の差だなと思う。飽食家のあいつらが捨てたポリバケツの中身を、四つんばいで漁る俺。この日記とはつまりそういう図式で書かれたものだと思う。あいつらが日記にもしない(もしかしたらミクシィには書いているのかしらね)その出来事を、すっかり冷たくなってしまったけど拾って僕が食べた。2009年秋の京都旅行の思い出として、僕が2009年10月14日の日記とした。

2009.10.12

 同い年の同僚が、1泊2日で京都に旅行に行くという。「誰と行くの?」と訊ねたところ、「元同級生の男女5人です」という答えが返ってきて驚愕する。職場ではあまり出さない声が出てしまい、「すごい声を出しましたね、いま」と逆に驚かれてしまった。
 だって京都に男女混合5人旅行て。それはつまりあれでしょう。乱交的なことなんでしょう。
 もちろん男子と女子で部屋はふたつあるんだろうが、どうせどっちかの部屋に集まって、敷いた布団の上でウノとかやって、深夜までワイワイガヤガヤして、お酒も入って、そのうち吉岡とかウトウトし始めちゃって、じゃあもう起こすのもかわいそうだから吉岡こっちの部屋で寝さす? みたいな感じになって、じゃあいっそみんなでこっちで寝ちゃおっか、とか誰かしらが言い出し、アルコールの力もあって反対意見は出ず、でも布団足んなくない? あっちから持ってくる? でもめんどくさくない? 布団3組に座布団とか適当にくっつけたら5人ギリで寝られんじゃね? オレ座布団でいいし、とか言っちゃって、そんな感じでけっこう至近距離で男女5人が寝ることになって、そのとき引率の先生が見回りにやってきて、やべ、隠れろってなって、みんな咄嗟に掛け布団の中に包まって、そうしたら偶然にも伊織ちゃんとひとつの布団の中に入っちゃって、しかも伊織ちゃんの浴衣の合わせ部分から乳房が覗けたりして、手の震えを抑えるのに必死、みたいな、みたいなみたいな、そういうのみたいなのが行なわれるわけでしょう。
 多分そうだ、絶対そうに違いないと思い、いったいどうしたらそういう関係が築けるのか、後学のために聞いておきたかったのだけど、でもその同僚とはそんなに気心が知れておらず(ゆえにこの子はひょっとしたら5Pとかするほうの人なんじゃないかという疑念もあるわけで)、「それはつまり乱交的なこと?」とは訊ねられなかったのだった。なので真相は闇の中だ。
 家に帰ってこのことをファルマンに話したところ、また不憫な目で見られた。そして、「あなたは男子校でしかも友達もいなかったから本当に分からないんだろうけど、男女混合の友達グループで旅行なんていうのは、世間では割と普通のことなんだよ」と諭された。
 そう言われて、僕は5Pとか乱交とかすぐに言うけど、実は保守的で、ゆえに男女混合旅行なんて考えられず、まあ保守的と言うか中学生的、中学時代の性の観念から解き放たれていない的なのだけど、昔さまぁ~ずの大竹がPTAの偉い人みたいな役で、学校行事に関するぜんぜんエロくない文面について勝手にエロい曲解をしてクレームをつける、というコントがあったけれど、もしかするとこの僕というのはまさにあれなんじゃないかと思った。しかし実際この世が陰と陽、杵と臼、男と女の交わりによって生まれたものなのだとすれば、この世にエロくないものなんて、本当はひとつもないのだと思う。そのことに鈍感になってはいけないのだと保守的に思う。

2009.10.11

 日曜日の短めの労働を終えて池袋へ出る。
 世界堂に行き、はんけしくんを3つ購入。あとバレンと、広い面にインクを塗るための、ローラーになっている専用の道具を買う。あのペンキ屋さんが持っているやつの小型版。ローラーの横幅が5cmくらいのサイズ。どちらも小学校の図工の時間以来の再会だ。まさか将来これらの道具を実費で買う日が来るとは思わなかった。
 その買い物を終えたところで、家から出てきたファルマンと合流。
 一緒にキンカ堂へ。キンカ堂で僕はフェルトを買う。家にフェルトはたくさんあるが、今日買ったのはアイロン接着のもの。ワッペン的なものを作ってほしいと例の幼児の母親に軽く頼まれているので、そのための仕入れ。そしてファルマンも珍しくキンカ堂で買うものがある。毛糸である。10月も中旬になり朝晩は肌寒くなってきて、今年もそろそろファルマンの編み物が開始されるのだった。まずは僕のマフラーを編んでくれるというので、臙脂の毛糸を見立てた。愉しみ。
 そのあとはサンシャインのほうへ移動。ファルマンには毛糸以外にもうひとつ目的があり、下の妹の誕生日プレゼント選びなのだった。そして割とファンシーなものが好きな下の妹のため、サンシャインのそれっぽいお店でそれっぽいマグカップなんかを買う。しかし3連休の中日の夕暮れ時とあって、人がかなり多い。これにはすごく疲弊した。若者ばかりで疲れる。活気にあてられる。
 人通りの少ない道を使って池袋駅に戻り、デパ地下で荒んだ心を癒してくれそうなケーキを買ったあとは早々に退散し、電車に乗って最寄り駅へ。空腹だったので駅近くのラーメン屋に入った。おろしにんにくをたっぷり入れたラーメンはすさまじく美味く、汁までほとんど平らげた。
 家に帰ってから早速、世界堂で仕入れた道具を使ってはんこを押してみる。試したのはもちろんリュウサン。なにしろこれはスタンプ台よりもよっぽど直径が長いので、これまではインクを付けるのに難儀していた。それがローラーを使えば、インクを付着させたローラーを2回ほど走らせるだけである。とてもいい。スタンプ台を手に持ってはんこに押し付けるようにしてやると、どうしても水平にはできないので、本来インクを付けないはずの彫った部分にもインクが付いてしまい、それが押すときに紙にもあたって汚れになってしまっていたのだが、このローラーならば完全に、彫っていない浮き上がった部分にだけインクを付けることができるので、その失敗がなくなった。そしてそのきれいにインクの付いたリュウサンの上に、紙を被せる。これまでとは逆の動き。つまりはんこは押さず、押すのは紙のほう。紙の上にバレンをあてる。これも要は力を水平に均一にするための道具なのだな。バレンを丹念に全体に滑らせ、紙を持ち上げる。すると果たして、まあなんともきれいなリュウサンの絵が完成したのだった。嬉しい。すごくいい。大興奮した。ローラーのほうは1000円くらいして、安い買い物ではなかったのだが(バレンは130円)、買ってよかった。しかしもう本当にはんこじゃなくて版画だな、と思った。なんで俺は家で版画をやってるんだろう。インクの付いたローラーをウェットティッシュで拭って後片付けしている僕にファルマンが、「……ねえ、ところであなた、家でなにやってんの?」と冷静に訊いてきて、あ、たしかになにやってんだろう、と思った。でも愉しいんだからそれでいいと思う。この道具のおかげでまた熱が再燃しそうだ、消しゴムはんこの。あくまで消しゴムはんこと呼んでゆこうと思う。

2009.10.9

 気持ちを切り替えて宇佐木学園ALUALUをひとつ。
 中等部から高等部に上がる際に、6年間でいちどだけクラス替えがある宇佐木学園の高等部の生徒は、世間で頻繁に使われる「オナチュー(同中)」という言葉を使うことはなく、それと同じような意味で「同クラ」って言う。ALUALU。高等部ではほがらか組とあざやか組にクラスが分かれちゃったけど、中学のときは私たち同クラだったんだもん、みたいな感じに。外界での「同クラ」の使用法、(今現在)ウチとあの子は同クラ、という用法は、もちろんされないわけではないけれど、割と少ない。それは宇佐木学園の寮がそもそもクラスごとに6つに分かれていて、さらには夏服もクラス別で6種類あり、わざわざ断らずとも多くの場面で一目瞭然だから、という理由がある。そして宇佐木学園における「同クラ」は、世間的に「オナチュー」が高校1年生の学年題であるのと一緒で、宇佐木学園限定学年題として、4年生(高校1年生)の学年題である。これはクラス替え直後の4年生はまだ新しい編成に慣れておらず、これまではクラス対抗で対戦相手だったりした現在のクラスメイトに対するある種の抵抗感なんかも拭い切れず、中等部当時の同クラとつるみたがる傾向があるからで、しかし4年生も後半になればやはり新しいクラスに馴染んでしまい、思い出したようにしか同クラという言葉は使わなくなる。ALUALU。
 ファルマンが何日か前、「あなたがあまりにも淡々と宇佐木学園のことを書くから、なんか宇佐木学園があるような気がしてきた」と言ってくれて、とても嬉しかったのだった。
 仮想世界だってみんながサインインすればこそ存在するわけで、こうして存在を認めてくれる人が増えてゆけば、宇佐木学園は実際にこの世に出現するのだろうし、僕はそこで漢文の教師にもなるし、学園唯一の男子生徒にもなろうな、と思った。ただしそのWebマイナス3.0のサインインパスワードを知っているのは僕だけだけどな。

2009.10.7

  10時間寝た。遅番の出勤だとファルマンを見送ってから出発まで5時間ほど時間があるのだが、そのほとんどを寝て過ごしてしまった。起きたときの爽快感と言ったらなかった。我ながら呆れるのだけど、やっぱり土曜日の結婚式から体に重たい疲れが残っていた。それが今日の10時間睡眠によって、ようやく取り払われた感じがした。本当にようやく。
 知り合いに会うのは本当に疲れる。
 先週実家に帰ったとき、母からまた義兄のお店の話を聞いたのだが、店には相変わらず僕の中学時代の同級生がやってきていて、そして店主が僕の義兄だと判明したら、初めて来店した者は「えーっ」って仰天する、というのが恒例の流れになっているらしい。その中には僕の所属していたバスケ部の人々もいて、義兄との会話によって僕の存在を思い出した彼らは、「そう言えばあいつってOB会に顔を出さないね」って言うのだそうだ。そしてそれを聞いて僕は、OB会? ってきょとんとなった。だって聞いたことがなかった。バスケ部のOB会? そんなのがあんの? そもそもみんながけっこう地元在住のままつるんでいることにもびっくりだったのに、割と頻繁に開かれるというOB会にはさらにびっくりだ。そして横浜の20代半ばの同級生が割と頻繁に開かれるOB会ですることと言ったら、あなたそれはもう、地元特有のドロドロとした狭い人間関係の中での愛憎みたいな、そういうものに決まっているじゃありませんか。そういうものに触れたことが一切ないから実体験ではないけれど、でもそれ以外の想像が働かないから絶対そうだと思うのです。そしてその参加者たちはもう全体の1割しかセックスしていない当時のままの中学3年生じゃないんですよ。吉原先輩と付き合ってなかった9割の女の子たちもみんな、中学生の頃はぜんぜん相手にしていなかった山田の実直な優しさとかに心を溶かされ、(きっと大体は)もう処女じゃないわけですよ。そんな輩の夜な夜なの、街にカーステレオのウーファー音を響き渡らせるOB会ですよ(横浜の若者はほぼ全員がちょっとヤンキーっぽいようなイメージがある)。ああやらしい。ああ汚らわしい。絶対に出ないよそんなの。誘われてないけど。連絡先を誰にも教えていないから、「同級生→義兄→姉→母→俺」という伝言ゲームでしか来ないけど、誘われても絶対に行かない。行ったらまた4日間精神が乱れて、4日後に10時間寝ないと解消されないから断じて行かない。ぜんぜん誘われてないけど、それ以上のぜんぜん度合でぜんぜん行かないよ。
 ファルマンとふたりで、おいしいごはんを食べて暮してゆきたい。
 ただし11月に出雲の上の妹がこちらに遊びに来るかも、という不確定情報が最近になって飛び込んできて、それには大きく心が躍っている。製本日記を読んで、僕は本当に義妹のことを愛しく思って暮しているな、と思った。それはもう「のび太の結婚前夜」のしずかちゃんのパパレベルに。義妹らがいつか、それこそ結婚前夜とかにこの日記を読んで、「でも私、お兄さんになんのお礼もできてない」と、直前で結婚をためらうようなことがあったら、僕は優しくこう言ってあげようと思う。
 「君の成長してきた日々、それこそが僕にとっては宝物のような日々だったんだよ」
 愛しく見守ってきた日々が宝物。
 改めて書いてみて、これはなかなかに芝生男子的な考え方だな、と思った。しずかちゃんのパパも芝生男子だったのか。穏やかに勃起していたのか。発見だな。

2009.10.6

 労働が休みで、健康診断に行く。と言うか健康診断のために労働が休み。
 朝ファルマンと一緒に起きてマフィンを食べたあとはなにも口に入れてはいけない。診断は午後1時からなので、ちょっとお腹が減る。でもこれで文句を言ってはいけない。何日か前に診断を受けた40歳近い同僚は、生活習慣病の検診となり、検便を取ったり、朝食から抜いてバリウムを飲んだり、そのあとは下剤を飲んだり、それはもう大変なものらしい。便の採取がどれほど難しいことか、聞きたくもないのに嫌がらせのようにすごく聞かされた。
 会場は上野のほうで、2回乗り換えがあって割とめんどくさかったのだけど、ぜんぶ東京メトロだったから料金が意外と安く、得したような感じがした。天気があいにくだったからやめたけど、お天気だったら検診が終わったあとアメ横とかにも歩いて行けた感じ。あそこらへんの地理は愉しいな。ぜんぜん把握してないけど。来年以降はそんなことをしてもいいかもしれない。
 検診の項目は去年と同じ。相変わらず採血が嫌だった。
 詳しい結果は後日なのだが、体重が去年に比べて4kgほど増えた、という変化があった。もっともこれは家にも体重計があるので分かっていた。51kgが55kgに。身長が167cmなので、これでもまだぜんぜん適正体重なのだが(去年までがだいぶ痩せ気味なのだ)、「去年より3kg以上体重が増えましたか?」の質問項目にチェックするのが、あまりいい気分じゃなかった。なのでちょっと痩せたい。と言うか筋肉質になりたい。実はまた10日くらい前から、2日にいちどくらい、ファルマンがあまりブログに没頭していないタイミングを見計らって脚を持ってもらい、1日20回の腹筋をやっている。このペースで続ければ来年の健康診断までに僕は3600回腹筋をやる計算になるので、十分に可能だと思う。そしていまちょっと軽い気持ちで計算した180日×20回の3600回という数字におののき、一気にやる気がなくなった。
 そして痩せたいとか言いつつも、最近やけに食事がおいしいのだ。これがまずい。もうね、食べ物が本当においしい。おいしいおいしい、って言いながらパクパク食べている。しかもそんなタイミングで我が家にはファルマンの例の富裕層の叔母から、米が届いたりしたのだった。この米が、値段はもちろん知らないがおそらく普段僕らが買って食べている米の2倍くらいするんじゃないかっていう南魚沼産のコシヒカリで、食べてみたらなるほどうまいのだ。このただでさえおかずのおいしい季節においしいお米が届くっていうのは、これはもう食べものをおいしいおいしいって言いながらパクパク食べろっていう神の意思だろうな、と捉えておいしいおいしいって言いながらパクパク食べている。神の思し召しなのだからしょうがないと思う。ネット関係ではコメントを受け付けることもなく、ミクシィもやらず、ツイッターも否定し、修行者のごとくストイックにやっているのだから、そういうところでバランスを取って適正な体重を保ち続けられればいいのにな、そういうウェブサービス始まらねえかな、と思う。

2009.10.4

  なんだかやけに疲労を感じた日だった。
 ファルマンに肩のあたりをマッサージしてもらったら、僕は消しゴムはんことかやっても普段はぜんぜん肩が凝らないのだけど、「今日は凝ってるねえ」と驚かれた。
 珍しくスーツを着て、珍しくたくさん人と会い、珍しくワインなんか飲んだから、体に相当来たらしい。朝もやけに眠くて体が重かった。弱いなー。本当に二次会に出なくてよかった。二次会出ずにこれなのだから三次会の庄やなんて絶対に考えられない。もうこの人生ではいちどもないだろう。僕にとって三次会の庄やって、桃源郷とかシャングリラと同じ意味なんじゃないかと思った。
 なんにもする気が起きなかったので、労働から帰ってきても割となにもしなかった。
 製本日記を読んでいたら、例の夫婦と交友を持つようになる過程で、はじめのうちは会った翌日と翌々日くらいは、精神が乱れて日記が書けなくなっていた。今はさすがに慣れてそんなことはなくなったのだけど、そのくらい、人間のにおいがつくと餌を食べられなくなる野生動物のごとき僕なので、さすがに結婚式は荷が重すぎたな、と思う。
 幸か不幸か、呼んでくれるような友達はもういない。

2009.10.3

 お休みの土曜日。しかし珍しく用事がある。しかもファルマン抜きの用事。非常に珍しい。
 なにかと言えば大学時代の友人の結婚式である。落語研究会の新郎とまあまあ深い友達で、同じ学科の新婦ともそこそこ面識があったため、なんか呼ばれることとなった。
 会場は最寄りの駅から1本で行ける街。これはよかった。しかし地下鉄の通用口を出たら、自宅を出たときには止んでいて、もう今日は午後から天気が回復すると言っていたから大丈夫なんだろうなと油断していた雨がけっこう降っていて往生した。しかも徒歩5分の距離で、招待状と一緒に届けられた地図も持っていたのに、もちろん迷う。おかげで割と濡れた。
 2時半の開宴に、1時45分くらいに到着する。受付から懐かしい顔があってホッとした。
 ご祝儀を渡して席次表なんかを受け取り、ロビーのほうへ行くと、そこにも久しぶりに会う面々が大勢いて、なんだか愉しい気分になった。新郎の代を中心に先輩から後輩まで5学年ぐらいに渡る落語研究会の輩が集結していて、絨毯の敷かれた洋風のロビーなのに、なんかそこだけ長屋の部室の畳の上みたいな雰囲気を醸し出していた。江古田校舎の改装によって今は無き長屋。でも平成たぬき合戦ぽんぽこのラストみたいに、落研の人たちが集まるとそこには長屋が発生するような感じがある。思わず涙が出そうになった。
 開宴してからはつつがなく式が進行する。2年ぶりくらいに見た新郎は、噂で聞いていたとおりかなり太っていた。大学時代はあばら骨の浮き出たハイエナみたいだったのに、今はセレブの飼っているミニブタのよう。でも平和でしあわせそうでよいと思った。
 食事はおいしく、お酒もおいしかった。
 式の最後、さすがに新婦から両親への手紙で泣くことはなかった。いくら弱いと言っても、他人のそれでは泣けないか。もっとも新郎も別に泣いてなかった。あ、そういうもんなのか。でも僕はきっと義妹らの結婚式でも泣くのだろうなと思う。義父よりも泣いてみせる。
 二次会には出席しない。二次会にはこれ以上に懐かしい顔が揃うらしいのだが、いつもの「二次会まで行くと全体的につらかった思い出になる理論」を持ち出して辞退した。ちなみにあまりよく覚えていないのだけど、この披露宴自体も、きちんとした招待状を届ける前の出席確認の際、僕はあんまりすんなりと行くとは言わなかったようで、座席には新郎新婦からひとりひとりへのメッセージが置いてあったのだけど、そこには「呼んでごめんね」の一節があった。これにはちょっと恐縮した。でもキャラクターだから許してもらおう。
 ほとんど二次会に行く大学の友人集団に適当に挨拶をして、ひとり建物を出る。
 そして電車に乗って帰った。引き出物は重くなくてよかった。僕の知り合いに出雲っていう交通の便の悪い所で式をやって、引き出物に辞書並みの厚さのある本を贈った夫婦がいて、この移動とかお酒とかただでさえそこそこ疲労するところに、そんな重たい引き出物とかマジで相当ありえないよな、と思った。

2009.10.1

 ポッキーがないから代用したというだけのクッキーゲームが、吉住渉的な爽やかさを兼ね備えていたという点に、とにかく大学生たちの若さを感じるのだ。たまたま近くにあったから手に取ったものが爽やか。これすごい。うらやまずにいられない。
 あのあとクッキーゲームに対抗できる新しいポッキーゲームについて、26歳になった、もう10コ下が大学進学を考え始める時期に来ている僕も考えて、別にそのとき近くにもなかったのだけど、「サーモンゲーム」というのはどうかと思った。
 これはポッキーの代わりにサーモンの刺身を両端から食べ合うという複雑なルールのゲームで、唇とサーモンの刺身の感触が似ていることが要点のすべてと言っていい。
 さらに言うとこれは目隠ししてやることをおすすめしたい。それにより自分の唇に触れたのが相手の唇なのかサーモンの刺身なのか判らなくなるという効果が得られ、たとえそれが実際はサーモンの刺身であっても、<もしかするとあれは美代ちゃんの唇やったんやないんやろか>と、そのあと夜に家に帰って床に就いて寝る直前とかに思い出せる。そういう利点がある。
 だからまあいっそのこと、目隠ししてサーモンの刺身を自宅で食べれば、それでいいのだとも言える。女の子がキャッキャキャッキャしているパーティーっぽい音声をネットで探し、それを再生した状態で目隠しを着け、部屋の照明のスイッチとかを工夫して、サーモンの刺身を中空に吊り、そして試行錯誤しながらがんばって食べる。それで夜になって床に就いて寝る直前に、<もしかするとあれは美代ちゃんの唇やったんやないんやろか>と思えばいい。
 それがサーモンゲーム。

2009.9.30

 週刊プレイボーイをまたよく見たら、セックス経験があると答えたのは100人中64人となっていた。6割4分だった。前回に書いた「見栄を張っている理論」を持ち出したとしても、そもそもが6割だとすれば、やっぱり渋谷の街を歩いているかわいい女子高生の4割くらいはセックスしてんのかな、と思う。不思議なもので、だんだんその程度の数字はリアルなような気がしてきた。ちなみになんで最初4割と勘違いしていたかと言えば、ロストバージンの年齢を訊ねる質問で、高1が19人、高2が12人、中3が11人とのことで、高2までに4割がセックスしている、という話からなのだった。このベスト3で注目したいのはやはり中3で11人という点だろう。実際のところ高校の話に、僕はあまりピンと来ていないのだ。なぜなら高校は男子校だったから。「あなたは実際に女子高生と一緒にいたことがないから幻想を抱いて、そんなにも女子高生女子高生って言っちゃうんだろうね、かわいそうに。いや、幸福なのかもね」とファルマンにもよく言われる。それは自分でもそう思う。でも中学は違う。ちょっと自慢みたいになっちゃうんですけど、実は僕、女子中学生とはかつてクラスメイトだったんですよ。それで女子中学生とかつてクラスメイトだった僕が見やる、中学3年生での破瓜100人中11人のデータなのだけど、100人中11人ということは、約1割だ。1クラスに女子が20人未満だったので、そう考えると1クラスにつき非処女は1人ないし2人ということになるだろう。あ? なんだ。この数字なら許せる。ぜんぜんリアル。それにその1人ないし2人っていうのは、要するに吉原先輩と付き合ってた系の女子だろう。じゃあいいよ。それについてあんまりとやかく言うと吉原先輩に目つけられるからもう言わないよ。とは言え、中学生のそれが解決して溜飲を下げた後、俺には関係のないはずの女子高生サイドのデータ、高1が19人、高2が12人というのを見ると、えもいわれぬ、人類のまだ名付けていない感情が込み上がってくる感じがある。高2までに合計31人。3割がセックスをしている。しかもこれは中3で済ませた11人は除いての話だから、分母は100じゃなくて90だ。90分の30。9分の3。3分の1。処女で入学した女子高生の3人に1人は高2までに破瓜をするのか。これは中学の時の吉原先輩の理屈では説明がつかない数字である。クラスに女子が20人いたとして、そのうち2人は中学ですでにセックスしていて、残りの18人は処女だったのが、高2のバレンタインデー時には6人も離脱し、12人になっている計算。20人中8人が非処女、12人が処女。えっ、なにこの数字。4割ってこういうことか。単なる数字が、クラスで考えると一気に生々しくなった。そうかー。すごいな4割。なるほどそれはイチローが目指すだけある。燦然と輝く圧倒的な数字だと思う。やっぱり僕は男子校でよかった。
 ファルマンは僕が女子高生の話を書いていると、「まあどうせ女子高生幻想の話なんでしょ? もう飽きたわ」という感じでちゃんと読まなくなる。だからたぶんこの文章も読まないと思う。ムカつくので僕も彼女の音楽の話は一切読まないことにしようと思った。怠惰は巡り巡って自分に返ってくるという、教訓染みたお話。まあ巡り巡らず、友達のいない夫婦間でのやり取りだけど。

2009.9.29

 今日は久しぶりに実家に顔を出した。前回は8月1日なので、ほぼ2ヶ月ぶり。けっこう間が空いたな。降り立ったたまプラーザの駅はまたしてもすごいことになっていて笑った。
 実家に祖母はおらず、母と犬だけ。祖母に頼む予定の座布団カバー用の布を背負ってきていたので、預けておく。お盆の島根や、先日のファルマンの岡山みやげを渡し、太巻き寿司を食べながら、お互いの近況なんかを話した。
 途中で、届け物があったので姪の顔を見ついでに母親と姉の家に行く。2ヶ月ぶりに車の運転をした。火曜日は義兄のお店の定休日なので、家には義兄もいた。義兄は3月の結婚式以来だ。つい先日満1歳になった姪は、もうやや幼児になっていて、活動的になっていた。いま僕はちょうど製本日記の第5巻、今年の3月の結婚式あたりを読んでいて、その際の姪は感心するくらい静かだったという記述があるものだから、成長したものだなと思った。それとまだ基本的にはほとんど喋れないのだけど、義兄が「ケータイ」と言ったら「けーたぁ」くらいは言えるようになっていて、なんでケータイなのかよく解らないけど、とにかく感慨深かった。
 20分ほど戯れて辞す。姉はこれからスーツを買いに行く予定とのことで、なんと姪は保育園に預けることにし、ぼちぼち働きはじめるそうだ。すごいなー。世の中の人って思ってるよりも割と嫌々じゃなく働いていて、びっくりする。僕なんて資金が許すものなら1秒だって働きたくない。みんなそうだとばかり思っていた。実はそうでもないらしい。
 家に帰ったあとはコーヒーとか飲んでのんびり。母がリンゴのケーキを焼き、それを切り分けてもらって4時ぐらいに帰る。今日は電車での帰宅。密封しない程度にアルミホイルで包んだ焼き立てのリンゴのケーキは、紙袋の中でほわほわと湯気を立てていて、「俺これで電車に乗ったら周りの人たちから<あら、あの男の子からリンゴの香りがするわ、素敵>って思われないかな」と不安を口にするものの、「大丈夫」と力強く答えられた。
 そんでもって帰宅の途。渋谷の女子高生がやはりかわいい。渋谷は女子高生大航海時代のグランドラインなのだな、と思った。世界中の海から我こそはという猛者たちが女子高生王を目指して集結している感じがする。東の海とかとは根本的なレベルから違う。これはたしかに13.3%ではなく40%超かもしれないな、と思った。
 ファルマンより先に帰宅し、ファルマンが帰ってきてから、もらった太巻き寿司で夕食にし、デザートにリンゴのケーキを食べた。そして石田純一がプロポーズする番組を愉しく観た。

2009.9.28

 さいきん街中で見かける女子高生にそれほどは感動しなくなっていて、夏が終わったというのはもちろんあるのだろうけど、それ以上に大きな要素として、宇佐木学園の存在があるのではないかと思った。これまではかわいい女子高生を見ると、彼女とクラスメイトでない自分を憂い、実らなかった甘酸っぱさに身を焦がしていたけれど、宇佐木学園を開校してからは、その気持ちは宇佐木学園にぶつければいいのだと考えるようになったので、とても救われていると思う。このかわいい子もまた宇佐木学園では、幸福になりたくて大神先生の陰嚢を撫でるのだな、寮内を素っ裸で闊歩する中埜新のことを温かい心持で見つめるのだな、と考えると、実らなかった甘酸っぱさの喪失感はけっこう霧消する。精神衛生上よい。
 週刊プレイボーイがなんともタイムリーにスクールガール特集で、割と愉しく読んだ。その中で渋谷の女子高生を対象にセックス事情のアンケートというのを行なっていて、それによると渋谷の女子高生の非処女率は、40%を軽く凌駕していたのだった。
 これは去年のSEVENTEENの女子高生アンケートとはかなり数字に隔たりがある。そこでは13.3%となっていて、この数字にはかなり感動した記憶がある(だから実は過去日記を確認するまでもなく13.3%という数字は思い出せた)。同じ集英社の、同じ女子高生の非処女率に関するアンケートなのに、方式によって結果はこんなにも異なるのだな、と思った。
 まあSEVENTEENのほうが現実的だろうと思う。SEVENTEENのほうは多分、ハガキなりネットなりで回答されたものを集計している。それに対しプレイポーイのほうは、男性の書き手が道で直接女の子に突撃し、答えてもらっている(もっともそれも怪しいのだけど。「雑誌の編集者です」と自己紹介して、図書カードとかを餌に、街中で女子高生に「処女ですか? 非処女ですか?」なんて訊ねてもよいのだろうか。それって俺が「月刊少年 余裕」の編集者として行なっても、職務質問とかされないものなのだろうか)ため、質問者であるその男性に対しても、また女の子が集団である場合、一緒にいる友達に対しても、見栄を張りたくなる気持ちがどうしても生まれると思う。だから処女であっても非処女みたいな、そういう子もどうしたって出てくる。
 もっともその高い非処女率に対する言い訳でもないだろうが、その記事内に書いてあったことには、「かわいい子は当然モテるから非処女率が高い。そしてこのアンケートはかわいい子限定で質問した」そうなので、そうかー、とも思った。そしてその理屈を出されてしまったら、もうそこで話が僕のフィールドでなくなるな、と思った。
 エミカって吉原先輩と付き合ってるらしいよ、エミカとかマジでかわいいもんね、っていう、吉原先輩はエグザイルとか好きなちょっと不良っぽい感じの、それでいて塾とか行ってて勉強もできる、顔がシュッとした感じの人で、家も金持ちで広いらしいので、じゃあ多分きっと吉原先輩の部屋でエッチなこととかしてるんだろうな、って思う、そういう感じ。文化祭の準備とかで大谷と同じ班になっても、吉原先輩とセックスとかしてることを考えてしまい、ろくに喋れなくなる。
 つまりプレイボーイのアンケートって言うのは、おそらくそんな大谷エミカ的な子にばっかり質問したのだろうと思った。だったら40%超の結果になんか興味ねえし、信じねえし、そんなのより竹下通りに憧れる田舎の女子高生の13.3%のほうがよっぽど甘美だし、そもそも宇佐木学園の生徒たちはみんな大谷よりもかわいいって設定だし、それがみんな俺の陰嚢を触りたがるんだし、だから俺マジで吉原先輩になんかぜんぜん負けてねえって思う。

2009.9.25

 今年の初夏はちんこについてやけに考え、そしてぱたりと興味が収束したのだけど、その日々の中で携帯電話にメモをして、それ以来ずっと残っているというちんこに関する記述があり、もう秋になってしまって、ちんこについてことさらなにかを書こうという意欲もなくなってしまったので、いっそもう消してしまえと何度か操作をして、でも消したあとでやっぱりどうしても気になって、また同じ文面をメモするなんてことを繰り返していたのだけど、このままでは埒が明かないので、いっそ書いてしまうことにする。
 おっぱいはちんこである。
 これがそのメモの文面である。薄れゆく記憶と興味をたどって内容を思い出すと、たぶんちんこもおっぱいもそこから分泌されるものがミルクと称される共通点、そこからの発想だった。
 おっぱいって人類学とかだと、本来メスのオスに対する性的誘惑の効果を担っていた尻、これが二足歩行になった結果としてオスの顔の正面に来なくなって効果が望めなくなってしまったため、その尻の代替として(ポッキーの代わりのクッキーみたいに)おっぱいを膨らませることにした、と説明されるわけだけど、これってけっこう嘘くさい説だと思う。これより多少でも信憑性のある説が提唱されたら簡単に否定されてしまう程度の説だと思う(もっともこの前読んだ本に書いてあったのだけど、女性のおっぱいが赤ん坊への授乳のために存在するのなら、おっぱいはもっと哺乳瓶に似た「吸いやすい形」になっていなければ説明がつかず、実際にはあんな赤ん坊の鼻を圧迫してしまう丸い形になっているのは、その実用性を失ってでも男性に対して性的アピールを高めるためであり、だからボインは赤ちゃんのためにあるんやなくて、お父ちゃんのためにあるんやで、っていう話は大いに頷ける。でもこれはおっぱいが性的なものだということを証明している話であって、それが尻の代替であるという理屈にはぜんぜんならない)。
 そこで僕が提唱したいのが、おっぱい=ちんこ仮説なのだ。
 ところで僕は百合と呼ばれるジャンルがまるで好きではないのだけど、これのなにがダメかと言えば、百合にはちんこが存在しない、これが大いにダメなのだ。くっつけるだけでは絶対に得られない、棒で肉を抉る感触、これが大自然を切り拓いて文明を創造してきた人間の本能に直結し、まあ暴力性と言ってしまえばそれまでなのだけど、しかしそれが人間本来の動物的な快感に結びつくことは否定のしようがない。たくましく隆起するちんこは力の象徴で、武器のモチーフや崇拝の対象にだって容易になってきた。それは歴史が証明している。
 だからつまり人間は男も女も関係なく、みんなちんこが好きなのだ。
 しかしちんこは好きだが、大抵の男は男のことが好きではない。僕ももちろんそのひとりだ。ちんこはいいが、しかし男なんてものは自分以外は極力視界に入れたくないと考えて生きている。
 そんなわけだから、純粋理性批判の主人公というのは往々にして女性的なのだと思う。純粋理性批判の主人公は見た目はまるで女の子のようで、女装させればおそろしく似合い、周囲から勘違いされ女子校に入学してしまったりする。それもこれも男なんて極力視界に入れたくない僕のような輩のための配慮である。女性的すぎる主人公は、もはや世界を彩る女性キャラクターのひとりだ。しかしその主人公にはちんこがある。これでちんこがなければ百合になってしまっておもしろくない。ちんこがあるから迫力がある。女性しかいないようなきれいな世界でありながらパワーを兼ね備えている。しかもそのちんこはその主人公の見た目からは想像もつかないくらい逞しくあったりする。純粋理性批判はこれだから尊いのである。
 それで、だから男子っていうのも結局、ちんこと戯れたい生きものなのだ。と言うか日常的に戯れて生きているのである。切っても切れぬ間柄、切っても切れぬ愛だから、という意味では、男子とちんこと結びつきは女子とちんこのそれをはるかに凌駕する。
 しかし常に思う存分いじることのできるちんこを必ずひとつ持っている男子だが、ひとつだけできないことがある。それは口淫である。これはどうしてもできないわけじゃないが、相当な熟練の技を要する。大抵の人はできない。僕ももちろんできない。
 それで他の男の体を利用する人もいる。これはこれで理屈である。でもやっぱり他の男の体なんて気持ち悪くて見られない。どうしたって触れ合うのは自分か、あるいは女子がいい。
 そこで登場するのが女性のおっぱいである。
 乳房は陰嚢の代替であり、乳首は亀頭の代替であると考えてみてはどうか。乳頭から出る母乳はもちろん精液の代替である。
 しかしおっぱいがちんこの代替なら、やはりおっぱいは哺乳瓶(この場合はそれは陰茎)のような形になっていなければいけないのではないか、という意見もあろう。それに対して上の、「乳房は陰嚢の代替」という捉え方は卓見であると思う。これは日々宇佐木学園で陰嚢に対する認識を高めていた僕だからこそ気付けた結論だろうと思う。陰茎よりも陰嚢のほうがよほど大事だ。だから女性のおっぱいは細長くなくて、丸いのだ。
 ……とまあ、多分こんなようなことを考えて、メモを残していたのだった。
 書けたので満足です。

2009.9.24

 本歌取りっていうのがあるじゃないか。あれがなんか好きになれない。
 漢詩なんかは特にそれが激しかった。「この部分はあの漢籍のあの部分のスタイルを故意的に真似ているユーモア」とか言われても、その漢籍なんか知らねえし、知っている側の人間が「だから漢籍の知識が深くないとこの詩の魅力を本当には理解できないんだよね」みたいなことを得意気に唱えるのも、ずいぶん醜いことだと思った。
 本歌取りなんてそんな立派なもんじゃなくて、ネットの書き込みとかで散見される、ガンダムやエヴァを見てなきゃ解んない、登場人物の名セリフとかを使って書き込むあれと、ほとんど一緒だろうと思う。そう考えれば本歌取りなんてやっぱりくだらない。パクリ元の漢籍が価値の高いもので、それが大事な教養であるとか、そういうのは問題にはならないと思う。漢籍も流行っているCMのフレーズも、別に知識として区別する必要はない。
 というわけで何が言いたいのかと言うと、今年ももうすぐ残り4分の1となるわけで、この割と早いタイミングで、来年のこのブログのタイトル企画が仮決定したので、ここに書き記したいのだ。
 季題俳句、学年題短歌、長歌と来て、4年目のタイトル企画は…………。
 ファルマンの短歌のパロディに決まりました。
 もうすぐ1000首になんなんとするファルマンの短歌、これを本歌として、パロディ、まあパロディって言ってしまったけど、もうちょっと高等な言い方をすれば返歌と言いますか、アンサーソングと言いますか、「一生一緒にいてくれや」に対する「一生一緒にいてほしい」みたいな、この引用も知っている人しか解らないわけで、でもそんなの引用に限らずすべての文言がそうなのであって、知識や認識によって世界は如何様にも変容するのであって、その環世界の交差こそが営みなのであって、とは言え他人との交差の発生をそう躍起になって求めんでもその環っかを巨大にしてゆけば空間は丸ごと俺の環世界となるわけであって、ブログっていうのはまさにそういうものだと思うわけであって、それなので、なにがそれなのでなのか自分でもぜんぜん解らないけど、来年はファルマンの短歌をパクって美少女短歌に仕立て上げる、という感じてゆこうと思います。
 もっともこれはひそかに前からやっていて、去年の4月11日の短歌「寺西と相合傘して歩く道ずっとこのまま雨でもいいよ」はファルマンの「さよならの駅前信号手を握るずっとこのまま赤でもいいよ」の思いっきりパクりだ。そういう感じでやってゆく。
 つまりファルマンの短歌をすべて把握していて、かつ僕の日記を毎日読んで、学年題俳句とか、気にしない短歌の概念を、完璧に理解している者じゃないと、この詩の魅力を本当には理解できないんだよね、って得意気に唱える企画ということだ。
 そしてそんな者は神以外に存在しないんじゃないかと思う。だとすればこれは本歌取りでありながら、神に捧げる讃美歌なのかもしれないね。
 抱負として、もう夫という立場を最大限に利用して、悪用して、元の歌に対する尊厳とかを一切排除した、他人には絶対にできない悪質なパクリを繰り広げてゆきたいと思う。ちょっと苦言を呈されただけでマウスピースを作る羽目になるファルマンの、他人には絶対に踏み込めない領域に、僕は夫として果敢に挑んでゆきたい。修羅の道やで。

2009.9.23

 それで次はなにに没頭するのかと言えば、やはり宇佐木学園である。宇佐木学園について考えるのがいますごく愉しい。今日の午前中もずっとやっていた。エクセルで表を作り、複数の視点からの日付ごとの事柄を書き出す作業をいまやっている。朝勃ち当番はもうすべての日付が埋まっていて、たとえば大神先生が3年すこやか組のボニータチェックをした6月20日の朝勃ち当番は4年ほがらか組の広瀬小梅で、新がみちるから朝勃ち当番について初めて聞いた6月1日の当番は、2年きよらか組の日野茜である。その場面自体は書かない可能性が大きいのだけど、たとえば体育祭を書く場合、その日の朝の朝勃ち当番が誰か、っていうのは重要になってくる。そういう意味で全ての日の朝勃ち当番を規定した。これが夢のように愉しい作業だった。セルに名前を書き込んだ生徒から、印刷した一覧表の名前の所にチェックを入れてゆくのだけど、キーボードを叩いてはペンを持ち、名前をせっせと消してゆく、その作業中たまににファルマンと目が合うと、ちょっとだけもの哀しい気持ちに襲われたけどきっと錯覚だろうなと思った。
 ちなみに夏服をクラスごとに変えるという話で、ブラウス、ポロシャツ、キャミソール、Tシャツと、残りの2種類の制服をどうするかという話があったのだけど、考えた結果、「ワンピース」と「ビキニ」に決定しました。パチパチパチ。各学年のすこやか組の生徒は、6月25日からはビキニで授業です。やったね!
 そんな感じで僕のシルバーウィークは終わった。

2009.9.23

 5日中4日働いたシルバーウィークの最終日。出勤は午後からだったので、ファルマンとともにそれまではのんびり過ごす。でもファルマンは昨日、事前に「シルバーウィークの間は専業主婦だけん」宣言をしていたのに、ぜんぜん、まったく、普段以上になんにも家事をせず、僕が労働を終わらせて駅で電話を掛けたら話し中で繋がらず、そんでもって最寄駅に着き、そこから歩いて家に到着する5分くらい前に、「晩ごはん、食べたいもの買ってきてね」ってメールを送ってきて、つまり晩ごはんを用意しておらず、と言うかごはんさえ炊いておらず、そのメールがもう少し早くてたとえ僕が(ヘロヘロだったのに)スーパーで食材を買って帰ったとしても、お前ごはん炊いてねえじゃねえかっていう、そんでもってこのゴミ溜めのようなテーブルの上に置かれたままの皿はお前が昼に喰った冷凍のピラフの皿だろうがっていう、もうそういう状態だったので、僕はあんまり機嫌がよくなく、そんな機嫌がよくない僕を、ファルマンは罪の意識で必死になってなだめればいいものを、決してそんなことはせず、むしろ話しかけてもろくに返事をせず、ことあるごとにすぐに横になってしまう感じで、調子が悪いのかと僕が訊ねたら、「日曜病だけん」とか言いやがって、5日間休んで! 家事をせず! そしてお前は最終日に日曜病になって俺の精神を掻き乱すか! 5日中4日! 5日中4日働いた俺が、5連休の! 5連休のお前の日曜病を同情して! 慮らなければならないのか! 阿呆! 阿呆阿呆阿呆! ってなって、まあそんな感じでずいぶんとムカついた。
 まあ今日はさすがに労働から帰ってきたらそれなりに部屋が片付いていて、洗濯もしてあって、夕食にオムライスも作っていたので、多少は救われた。とは言えファルマンは5連休について「まばたきするみたいに一瞬だった」とか抜かすので、やはりだいぶムカつく。阿呆に余暇を与えても精神が衰退するだけだ。そして精神の衰退が肉体を衰退させインフルエンザを流行させるのだ。愛する奥さんを見てそんな風に思ったシルバーウィークでした。

2009.9.22

 ファルマンが帰ってきたのだった。おみやげなしに。ファルマンは20日、岡山で両親と下の妹と合流した際、「今日パピロウの誕生日なんだよ」と言って心配されたという。下の妹には「なんでここにおるん?」と訊ねられたそうだ。俺もそう思う。でももうファルマンが帰ってきたので大丈夫。嬉しい。まあおみやげはなかったけども。
 ファルマンから伝え聞いた下の妹のサークルの話がおもしろかった。新歓コンパで水鉄砲を撃ち合いびしょ濡れでバーベキューしたという話は前にも書いて、それに関連する最低なぞなぞも書いたが、そのサークルでまたしてもとんでもないゲームが繰り広げられたという。その名もクッキーゲーム。これはどういうゲームかと言えば、ポッキーゲームのポッキーが、クッキーであるゲームだという。「イヤー!」と叫んだ。ポッキーゲームは、棒状のポッキーだから成立するのであって、そのポッキーがクッキーでは、たとえ「お菓子」という共通点があって、また語感が似ていたとしても、大いに問題があるだろう。だって、クッキーは長くないじゃないか。たかだか3、4cmだろう。3、4cmと言うか、これは単に長さだけの問題ではなくて、ポッキーがだいたい10cmだとすればそれは紛うことなく10cmだが、クッキーの場合の3、4cmというのは辺の長さに過ぎないのであって、それはcmじゃなくて平方cmで言い表されるべき対象だろうと思う。ラインじゃない。スクエアなのだ。スクエアじゃダメだろう。スクエアとスクエアを繋ぐのがラインなのであって、つまり唇と唇を繋ぐポッキーとして成立しているのに、そのポッキーがクッキー、すなわちスクエアになってしまったら、渡り廊下もなしにビルとビルは連結してしまって、それは要するにキスじゃないか、と思う。だからもう、クッキーゲームはゲームなんかじゃなくて、キスなのだ。キスをしたのか。下の妹はもちろんしていないと言い、信じたいが、そのサークルではそのようなことが行なわれているのか。すばらしいな。「キスしようぜ」じゃ女の子は首を縦に振らないけど、「クッキーゲームしようぜ」なら7回に2回くらいはオッケーがもらえるんじゃないかと思う。とにかくクッキーゲームという名称がいい。結果的にそれがキスのおしゃれな言い方だ、という部分が特にいいと思う。吉住渉とかが普通に描きそうだ。「ママレードボーイ」みたいなノリで。
「まあポッキーがなかったから代わりだったらしいんだけどね」
 でもそういう、しょうがなしの代替で生まれた人類の智恵って、例は特に浮かばないけどたくさんあると思う。人類だってまた、神によるしょうがなしの代替かもしれんのんだけんね……。
 あと同じくサークルの話で、夏に海に行ったそうなのだが、そのときひとりの男子が砂浜に寝そべったので、みんなで強襲し砂を被せ、身体を拘束したあと、女子も含めたそのメンバーで、彼の股間の部分に砂を高く盛って、みんなで愉快に笑ったのだそうである。まあお約束だけど、お約束だけどね、でもさ、その陰茎部分が猛々しく盛り上がっている様を見て女の子たちがはしゃぎ、あまつさえその建造に参戦し、途中で崩れたりせぬよう手のひらでその塔の形を整えさえしたのだとすれば、それはもう完璧なるマリモッコトピアじゃないか。マリモッコトピアは言い換えれば勃起ユートピアであり、ユートピアということは夢物語なのに、ここでは実現してしまっている。この実現には打ちひしがれるしかない。だって砂に埋められ股間の所だけ盛り上げられた男子を女子を含めたメンバーで笑う彼らには、宇佐木学園なんてまるで必要ないんだ。僕が一生懸命に到達しようとしているゴールに、彼らは現実世界で易々とたどり着いてしまっている。じゃあいったい宇佐木学園ってなんだろう? 宇佐木学園なんて必要あるのかな。どうなんだろう。
 悩む。でも悩むけど挫けない。俺は悩むけど挫けないのだ。
 ファルマンにそう言ったらファルマン曰く。
「彼らは、悩まず挫けて励ましてもらうそして絆が深まる、だよ」
 NAYAMAZUKUZIKETEHAGEMASHITEMORAUSOSHITEKIZUNAGAHUKAMARU!
 そんな消しゴムはんこを彫ることはこんなカス26歳にはできないよ。文字数が多いし。というわけで「NAYAMUKEDOKUZIKENAI」はんこと「MOTTAINAIDESUYONEARUIMI(S)」はんこ。
 自分のスローガンを消しゴムに彫るしあわせ。自分じゃない自分からの励まし。そんな自分自身との絆。心と体、人間の全部。猫とアヒルが力を合わせてみんなの幸せを招き猫ダック。

2009.9.21

 ブログも1記事追加した。大神版8月4日午後11時30分。実はこれはこの日記の今年の5月15日のほぼそのままだったりする。えっ、じゃあ大神先生はパピロウ自身ってこと? てことん? てことんってなに? パピロウオリジナルギャグ? まあそれはいいけど、じゃあぴょんぴょんブログの作者の「おむすび三太」って何者? えっ? 学年題俳人? 学年題俳句ってなに? パピロウオリジナルの俳句形式? 学年題6姉妹について詠む? 学年題6姉妹ってなに? 心、茜、郁、環、瞳、円? えっ? その6人が宇佐木学園にも登場してるの? 環のペンフレンドはまひろ? まひろって誰? 学年題俳句に参加している北海道の女子高生? ボーイフレンドの彰介は名津川若葉と幼なじみ? 名津川若葉って誰? 宇佐木学園の生徒にしてレターズガールズの一員? レターズガールズってなに? ずっと前にやっていた足ながおじさん企画? えっ、なに言ってんの? ぜんぶ繋がってんの? まひろはおむすび三太の玄孫? そしておむすび三太は故人? 102歳の大往生? なんで故人がブログをやるの? 結局だれがパピロウなの? 大神なの? 新なの? おむすび三太なの? えっ、ぜんぶパピロウ? 強いて言えば理事長がパピロウ? なんで急に理事長が出てきたの? 宇佐木学園の理事長? と同時に私立バイブレーション学園の理事長? は? 私立バイブレーション学園ってなに? ずっと前にやった官能小説ブログで1話だけ書いた、女生徒全員の膣に遠隔バイブが入っていて、その操作リモコンを理事長が握っている学園? えっ、なに言ってるの? それ誰が覚えているの? 弟はカサノヴァ学園の理事長? えっ、今月の長歌ともリンクさせるの? 宇佐木学園の話をしているのになんでバイブレーション学園とカサノヴァ学園を出してきたの? って言うかパピロウがバイブレーション学園の理事長なら、パピロウに弟がいるの? あ、いないの? いないのになんで弟って言ったの? そういう設定? あ、ぜんぶ設定ってこと? 設定だけど存在? なに、なんか存在って言うとなんでもそれっぽくなると思ってる? なってないからね? ぜんぜん意味が解んないからね。そんなに意味が解んなくて勝手で、コメントは汚れとか言ってると、誰からも誕生日のお祝い言ってもらえないんだからね…………ウチ以外からは。えっ? ちゅっ。な、なにすんだよ急に? 誕生日プレゼントに決まってるでしょ、1日遅れちゃったけど。えっ、マジかよお前……、お前もまた俺の一人格でしかないのに、本当にいいのか? いいも悪いもないじゃない。それでもウチは……ウチはパピロウのことが本当に大好きなんだけんね。お前っ(そして俺)。

2009.9.20

 そのあとは「HAPPY 26 BIRTHDAY PUROPE★PAPIRO」という、今日しか使えないはんこ図案を独りで過ごす誕生日当日の今日にしこしこと彫ろうかとも考えるが、ファルマンがあとから知ったら泣きそうなのでやめる。妻思い。
 というわけでブログを作りました。
 自分への誕生日プレゼントブログは2年ぶり。
 「存在しないという存在が存在するブログの存在」という超次元的な存在だと言われていたこのブログを、ついには実際に開設してしまう。
 そう、宇佐木学園ぴょんぴょんブログである。
 今回のこれに関しては事前にけっこう準備をしたので、タイトルだけの見切り発車とかじゃない。設定だけでA4用紙10枚近くになった。それくらい満を持しての船出である。
 しかもその船と来たら、港に2隻もあるじゃないか。
 大神版宇佐木学園ぴょんぴょんブログと、中埜版宇佐木学園ぴょんぴょんブログ。
 いろいろ一生懸命がんばった25歳の自分へのご褒美として、ブログ1個じゃぜんぜん足りない。だから2個。ふたつの視点から、宇佐木学園の2012年の6月1日から8月31日までの日々を描いてゆこうと思う。そういうブログです。もう現実と日記と創作とブログと友愛と破壊の区別がつかなくなってきている感がある。

2009.9.19

 カップラーメンのお昼ごはんのあとは、ファルマンがケーキ作りなんぞを始める。明日が僕の誕生日で、明日はファルマンは岡山の下の妹の所に1泊2日で遊びに行ってしまうので、今日にお祝いしてくれるのである。それで最近のお菓子作りの勢いそのままに、バースデーケーキも作ってくれるということなのだった。なんと昨晩にはハンドミキサーまで買ってしまった。
 作ったのはチョコのふわふわしたケーキ。僕がリクエストした。使用するチョコレートはもちろんガーナ。ファルマンは決して味の好みではなく雰囲気で「明治がいい」と主張したけれど無視した。
 製作は、なにぶんファルマンなので難航したけど、途中で見兼ねた僕の手助けもあってなんとかなった。あのままファルマンがひとりでやっていたら、まだ飲むヨーグルトぐらいの感じの卵白を、メレンゲとして生地と混ぜ合わせてしまうところだった。
 焼き上がりは、多少表面が焦げてしまったけど、それ以外は本当にふわふわに仕上がった。これに粉砂糖を振りかければ完成。ファルマンが冷めないうちから粉砂糖を掛けよう掛けようとするのを制止し、ふたりで近所のコンビニに散歩に行ったりした。
 帰ってきたら冷めていたのでケーキに粉砂糖を振りかけた。粉砂糖を振りかけると急にらしくなる。最後の仕上げで急にらしくなるものって世の中にけっこうあるなと思う。
 肉にコーンバターにフライドポテトに玉ねぎのスープという、なかなかベタに誕生日っぽいメニューの晩ごはんを食べながら、「思ひ出ぽろぽろ」を観る。またちょっと前から観たい気持ちが湧き上がってきていて、ようやく観ることができた。毎年誕生日の前夜には「思ひ出ぽろぽろ」を観るという決まりにしようかな。本当にこの映画は観るたびにおもしろくなる。それとファルマンが日常の中でよく柳葉敏郎の彼のモノマネをし、それがすごい似ていると思っていたのだが、実際に観てみたらファルマンがいつも唱えるセリフをとうとう柳葉敏郎は発せず、こういう現象は「耳をすませば」の際にもあったな、と思い出した。ジブリがいっぱいだ。
 食事を終えてデザートにケーキ。今年のバースデーソングは福山雅治(の坂本竜馬)風にやってもらう。まあまあの出来だった。だがおととしの綾戸智恵、去年の宇多田ヒカルほどのクオリティではない。やはり本物がまだ公開されていない、というのがモノマネをする上で大きな障壁となったと思う。やはり今年は中島みゆきにして、来年を福山にするべきだったか。ケーキはおいしかった。ふわふわで軽いのでいくらでも食べてしまえる感じ。気に入った。

2009.9.18

 そう言えば学校の制服ってなんで帽子がないんだろうね。私立の小学生とかカツオが被ってるああいうんじゃなくて、女子中高生の紫外線避けのために、制服に帽子は採用するべきじゃないかと思った。だとしたら形はやっぱりキャップかキャスケットがいい。
 それとトップスに関して夏はポロシャツも可、みたいな学校はあって、ミニスカートにポロシャツでキャップ、というのはもちろんかわいいなと思うけど、製本日記を読んでいたら「Tシャツはどうだ」「キャミソールはどうだ」ということも言っていて、ああそれもいいと思ったのだけど、しかしその過去の記事の後半で「しかしやっぱりシャツもいいのだ」とも言っていて、現在の僕もまたそれを読んで、「なるほどシャツも悪くない」と思ったのだった。
 じゃあそんなに優柔不断で宇佐木学園では一体どれを正式採用するのかという話だが、宇佐木学園は中1から高3までの6学年がそれぞれ6クラスに分かれているので、クラス縦割りで、A組はシャツ、B組はポロシャツ、C組はTシャツ、D組はキャミソール、みたいな感じで、あとのE組とF組はこれから考えればいいとして、こうすれば所属クラスも一目瞭然で利便性もあるし、そんな風にひとつの学校でいろいろな夏制服が愉しめる機構になっていればいいと思う。

2009.9.15

 今日は作業的な労働をやって、その際に埃対策としてマスクが配られたので着けたのだけど、そうしたらマスクが非常に臭くて往生した。あんな狭い空間で息を吸ったり吐いたりして、唾が飛んで唾液が攪拌されたら、それは臭くもなろう。後半など大便のようなにおいさえしはじめ、なんだか哀しくなった。(たぶん)僕の口は基本的には臭くなくて、でも空気に触れた唾液にはどうしたって若干の臭さはあり、その小刻みのジャブがマスクの繊維に蓄積してゆくことによって、強烈ストレートな大便の臭さに昇華された感じだった。インフルエンザ予防って言ってあいつらみんなこんな大便のにおいを嗅いで生活してんのな。ありえんわ。臭さに呼吸が整わず、意識が朦朧として、体調が崩れるかと思った。やはりマスクの奨励には大いに欺瞞を感じる。
 それとファルマンの歯痛が続いていて厄介だ。痛くて眠りが浅かったりもするようで、「じゃあ痛み止めの薬を飲めよ」と僕は言うのだが、「薬はなるべく飲みたくない」と拒み、その一方で「インフルエンザが怖い」とか言うのだからどうしようもない。結局ファルマンは僕の言うことはぜんぜん聞かず、どこの馬の骨が書いたか知れないネットの意見ばかりを信用する。
 昨晩など寝る際に歯痛対策として「枕だと頭が高すぎて顎に負担が掛かるからタオル程度のものを敷いて寝るとよい」みたいな阿呆な記述に騙されたらしく、実行していて、そしてそれはどう見ても寝心地が悪そうで、ムカついたのでタオルを没収して枕を置き、ついでに痛み止めの薬を飲ませて寝かせた。インフルエンザが怖いのならどうか安眠して万全の体調でいてほしい。どうか軽薄な矛盾した行動は取らないでほしい。
 ちなみにファルマンの会社ではインフルエンザ対策として「人ごみに近付くな」というお触れが出ているそうで、それには販売業の人間としてひどく憤りが湧いてくるのだった。「地球最後の日になにがしたい?」「最高級フルコースが食べたい」みたいな、誰が地球最後の日にお前に料理なんか作るよ、という厚顔さを感じる。高速道路無料化に反対する「高速道路を使わない人間の税金も使って賄うのはおかしい」論法の、じゃあもうお前は近所の牧場に行って肉をもらい近所の畑に行って野菜をもらって、地方産のものは一切享受せずに生活しろよ、という感じにも近い。その人が強欲で奔放なキャラクターを標榜するならまだしも、「人ごみに近付くな」も「最高級フルコース」も「高速道路を使わない」も、正論のようにいけしゃあしゃあと、なんかしらのことを自分は言っているみたいな顔で唱えるから嫌だ。

2009.9.14

 「君に届け」の新刊を読んでしあわせな気持ちになる。
 風早くんがいいなあ。本当に風早くんがいい。俺は風早くんみたいになりたいよ。男子校じゃなかったらたぶん風早くんキャラは間違いなかったのだろうが、なんせ男子校だったからなあ。本当にもったいないことをした。みすみす君に届く射程圏内から外れてしまった。
 とりあえず風早くんに敬意を表し、パッピーナの永遠のテーマ、purope★papiroの真ん中の「★」はなんと発音すればよいのかという問いについて、「風早だ」という答えをここに掲出したい。長年のコン・クラーベで導き出された結論を、ここで信者の方々に煙でお伝えしたい。
 正しい発音は「ぷろぺ、かぜはや、ぱぴろう」である、と。

2009.9.12

 前に読んだ本にカサノヴァの話が書いてあって、それによるとカサノヴァは、清純な女学生をふたり同時に水揚げしたことがあるそうである。ひとりでも難しいのにふたりなんてどんな神業だと思うが、実は逆で、女の子は同性が同じ場所にいると安心したり競争心が生まれたりで、むしろ篭絡しやすくなるという、そういう仕組みなのだ。
 カサノヴァの言うところの、これが「性愛の複数式」なのだそうだ。
 これを読んだときはびっくりして、なぜならこれを読むずっと前に僕は、「女の子の許容する露出度は女の子の人数に比例する」という法則を喝破していただろう。この貧しい少年は学校に通っていないはずなのに廃屋の壁に相対性理論の数式を石灰で記して解いていただろう。ふたり同時破瓜という武勇伝のカサノヴァに比べ、グループで下校している少女ははしゃいだりする分だけスカートが持ち上がりやすいしそれを気にしなさやすいと気付いた僕は嫌になるくらいつましいけれど、それでも言っていることは同じだ。
 女の子って集団でいたほうがエロいのだ。多くなればなるほどエロく、さらに言えば「絶対に男の子に負けない人数」が揃えばそのエロさは無敵。すぐ脱ぐ。すぐに脱いで男の子をみんなで捕まえて陰茎とか陰嚢とかで遊んじゃう。右陰嚢担当と左陰嚢担当が声を合わせて「せーの!」ってやっちゃう。「う、うわはぁっ!」ってなっちゃう。ちなみに宇佐木学園の生徒数は中高合わせて1200人あまりで、漢文の大神先生は授業のために赴いた教室で、クラスの全生徒から弄ばれることもしばしばなんだぜ。

2009.9.11

 射精する夢を見た。
 その射精がすごかったのである。どんなかと言うと、純粋理性批判の主人公の射精だ。「ずびゅっ、ぶばぱっ、どっどっ、どびゅびゅううぅぅぅっ、っぱぶ、ぶ、ぶぶぃゆふびゅぅぅっ」っていう感じの、とんでもないやつ。小便よりもはるかに激しい勢いで、どどん波みたいな光線状に白濁液が伸びていた。すっさまじい爽快感だった。
 目が覚めてから確認したけど、別に夢精とかじゃなかった。どうやら僕はずいぶんとフラットな感覚でその夢を見たようだ。起きた直後もすごく冷静な気持ちでその夢の内容を反芻していた。
 実際得られたのは純粋なる爽快感のみだったわけで、だとすればこれは数学者が難解な数式を解けた夢や、サッカー少年がレアルマドリード相手にボカスカとゴールを決める夢とかと、種類としては一緒なんじゃないかと思った。それが僕の場合はたまたま射精だったのだ。あの憧れの、液体が中空で筋となって、空気を切り裂く効果音(シャノマトペ)があって、コップが満杯になるくらいの量がある、放精の夢だったのだ。
 そしてこれはとてもいい作用だと思う。
 数学者やサッカー少年は、夢の中で一瞬だけ垣間見た頂点を、今後は具体的なイメージとして抱き、現実世界でふたたびそれが味わえるよう、さらに努力を重ねるのだろう。僕も同じだと思う。僕が現実であの射精ができるようになることはないが、なんて言うか、夢とは言えあれを体験として持っているっていうのは、これから純粋理性批判を読んでゆく上で大きなプラスになる気がするのだ。主人公の射精シーンにおいて、その勢いをまったく非現実的なことと揶揄するのではなく、<まああんな感じなんだろうな>とこれからの僕なら思える。あのすさまじい射精の感覚を、僕は獲得することに成功したのだ。勝者のイメージと言っていい。

2009.9.10

 ファルマンからひと足早く誕生日プレゼントをもらう。iPod shuffle(4G)だ。小さい!
 音楽の入れ替えができなくなったSDウォークマンを固執して使うことは、結局あまりなかった。割とすんなりとiPodに移ってしまった。だってひと晩充電して50分くらいしか動かないんだもの。移るほかないだろう。でもpapiroのそういう柔軟さ、僕は好きだな。
 アップルストアで注文して今日届いたのだが、そんな今日にちょうどアップルのiPod新バージョン発表ニュースがあってびびった。幸いなことに僕のもらった4Gのシャッフルは、いちばんショックが少なかったんじゃないかと思う。8800円だったものが7800円になったようで、1000円分のショック。色が3色追加されたことに関しては、それでも僕はシルバーを選んだろうから被害はない。買うとき1Gと4Gで迷ったのだが、1Gにしていたら同じ値段で今日から2Gになったみたいだから、これは割と哀しかったろうと思う。とは言えその哀しさも、nanoにしていた場合ほどではないだろう。nanoはそもそも選択肢になかったが、本当にこのタイミングで買わなくてよかった。
 ところでアップルストアで購入したため、刻印サービスというのがあるのだ。と言うか割とそれにひかれてオンラインで買った面がある。入れた文字は言うまでもないだろう。「ファルマン I LOVE YOU」だ。嘘だ。「NAYAMUKEDOKUZIKENAI」です。クリップの鏡面部分、リンゴのマークの下らへんに刻印されている。素敵。Apple×NAYAMUKEDOKUZIKENAIの、世界にたった1台のコラボモデル。iTunesの操作はまったく解らなくてムカつくのだけど、大事にしてゆこうと思う。

2009.9.9

 今月の純粋理性批判2冊を購入する。まだ読んでないけど、非常に期待が持てない。ひとつはほぼピンヒロインのようだし、もうひとつは開始から5つ目までのイラストが、エロシーンじゃなかった。普通のティーンズ文庫の挿絵だった。これには怒りが湧いた。なんだそれは。舐めてんのか。エロじゃない場面になんでイラストが必要なんだ。そのイラストがあることによって、読者がどうなるというのだ。編集者の観念が本当に理解できない。
 もう本当にダメ。最近の純粋理性批判のダメさはすごい。猛スピードでダメになってきている。社会契約論が「えすかれ」でエロを追求している(失敗ももちろんあるが)のに対し、もしかして純粋理性批判はティーンズ文庫を目指しているのか。たしかに純粋理性批判のキャッチフレーズは「ちょっとエッチなライトノベル」ではある。それで一時期は「どこがちょっとだよ」とツッコミの対象にもなったろう。でもだからと言って、本当に「ちょっとエッチなライトノベル」を目指してもしょうがないじゃないか。ティーンズ文庫の安定した売れ行きを考えれば、その道はたしかに安全かもしれない。その足元はさぞしっかりと舗装されていることだろう。だけど実はその道には奥行きがないのだ。と言うか輪になっているのだ。同じ所をぐるぐる回っているだけ。ライトノベルというのは全体的にそうだ。あれは永遠に同じことをやる所。それに対してエロは、一時期の純粋理性批判ががむしゃらに邁進していたエロ道は、同じ道を下調べしながら慎重に進む社会契約論さえ寄せ付けず、ずんずんと圧倒的な興奮に満ち溢れていたじゃないか。それはまさに開拓であり冒険だった。前方には無限の可能性があって、きらきら輝いていて、僕は本気で純粋理性批判が芥川賞を取る日がやってくるだろうと確信していた。それがこんなことになるなんて、いったい誰が予想しただろう。哀しい。あまりにも哀しい。志があまりにもあからさまに消失してしまった。

2009.9.8

 web2.0みたいなことを今もう誰も言わなくなっていて、ホワイトバンドのときとおんなじで、稼ぎたい人が稼ぎたいだけ稼いだから、その言葉はもう必要なくなったんだな、と思う(「環境保護」に関してはまだまだビジネスチャンスが残っているらしく未だ言われ続けている)。大人の世界って本当に欺瞞だらけだよ。25歳、今月の20日には26歳になるというのに、なお言うよ。無自覚な欺瞞からの逃避だよ。最近ちょっとこの言葉好きなんだよ。
 そんな情勢の中で、と言うかそんな情勢だからこそ、僕はそろそろwebマイナス3.0を宣言したいと思う。そもそも世間で本家のプラスのほうの2.0が忘れ去られているから、それゆえのマイナス3.0宣言である。マイナス3.0ともなれば、堂々と世間で「3.0の時代が来た!」と叫ばれているタイミングで言ってはいけない。だってそれは逆に目立つじゃないか。それが許されるのはマイナス2.0までの時代。マイナス3.0は、このプラス2.0のことをみんなすっかり忘れているタイミングでこそ唱えなければいけない。それでポカーンとされなければいけない。さあ言おうじゃないか。
 僕はwebマイナス3.0の世界に突入した、と。
 そもそもpuropediaを作りはじめたところらへんがその序曲だったと思う。なにしろweb2.0の最大特徴というのは「集合知」だった。みんなで知識やデータを持ち寄って、wikipediaなりYouTubeなりの巨大データバンクを作り上げる時代、それが2.0ってことだったろう。だからそれに対してのpuropedia。パピフェス。宇佐木学園ぴょんぴょんブログ。
 一向に全貌が明らかにならない宇佐木学園ぴょんぴょんブログだが、実を言うとこれは架空のブログであり、ガーターリングテイオクオフショーツソックスやランジェリー期末試験など、学校にまつわる言葉がこのクチバシダイアリーで出た際、「あはっ、これ宇佐木学園ぴょんぴょんブログの校則にしようっと」と言うときに名前だけ登場する、そういう存在なのである。
 このブログは新しい。画期的だと思う。ブログと言いつつ実はブログじゃないのだ。幽玄の存在。web2.0とか3.0とかそういう次元じゃない。だってweb上には存在しないブログなのだ。それは僕の心の中にだけある。こんなブログ見たことない。でもあるいは逆に、誰もがこんなブログを抱えて生きているのかもしれない。みんな誰かの愛しいブログなのかもしれないね。
 そんなわけで、webマイナス3.0、開幕です。

2009.9.7

 何日か前にヤフーの記事で読んだのだけど、ランジェリーフットボールというのがあるらしいじゃないか。最低限の防具だけ着け、基本的にランジェリー姿で女性たちがフットボールをするやつ。そもそもはスーパーボールのハーフタイムショーで行なっていたものが、人気だったため、この度ちゃんとした興行として独立したらしい。
 スーパーボールってアメリカの国民的スポーツイベントなんだろうに、そこでランジェリーフットボールってすごい。さすがだ。外国の人って本当にこういうところが解らない。神様とか信じてて、コンドームも禁止で、避妊はオギノ式だけ、みたいな人たちとかも、ランジェリーフットボールを観るのだろうか。ダメなものといいものの基準がまるで理解できない。絶対に友達になりたくない。
 それにしたってランジェリーフットボールだよ。写真や映像で見た実際のそれは、なにしろ選手がパワフルな外国人女性ばかりで、僕の精神になんの恩恵ももたらさなかったのだけど、とにかくランジェリーフットボールという字面から湧き上がってくる情趣、頭の中のニューロンがシナップする感触、これがこの話題を看過できない原因だと思う。
 結局はランジェリーなのだ。ランジェリー○○という発想。ここに夢が広がる。
 そこでファルマンに「他にどんなランジェリー○○が考えられるだろう」と訊ねたところ、
「ランジェリー期末試験」
 と回答され、僕はこのやり取りはもうちょっと長い時間かけてやるつもりだったのだけど、きっとこのあと話を続け、いろいろな答えを出したとしても、結果的にランジェリー期末試験がいちばんおもしろかったという結論になるだろうと思ったので、1発目の答えで会話が終わってしまった。妻の才気が溢れすぎているのも考えものだ。
 しかしいいなあ、ランジェリー期末試験。俺がなあ、理事長ならばなあ、カンニング防止の名目で会議の議題にかけるのだけどなあ。しょうがないのでこれも「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」だな。宇佐木学園の校則が着々と定まってきていて嬉しい。知らねえよ。

2009.9.6

 パピロウフェスティバル、略してパピフェスっていうのはどうだろう。
 ほらあの、夏とかによく開かれるロックフェスっていうのがあるじゃない。あのいけ好かないやつ。参戦とか言うやつ。なんで観覧することを参戦って言うのかよく解らないやつ。
 あれに対抗してのパピフェス。
 ついでに言えばコミケっていうのもあるじゃない。あのいけ好かないやつ。ちゃんとした出版社から出ているやつのほうが安くておもしろいよ、っていうやつ。
 それに対抗してのパピフェス。
 それらがなんでいけ好かないかと言えば、なんかすぐに集団を形成して、ルールが出来上がって、先輩面する輩が出てきて、独自の用語を使い始めて、伝説の存在とかが出てきたりするからだと思う。その感じがうざったくていけ好かない。
 でもなんて言うんですか、ハレとケと言いますか、地域の結束とかが希薄になって、祭りがきわめて一部の、ちょっと不良っぽかった感じの、体育会系の部活(だいたい野球部)に所属していた人たちだけのものになってしまった現代、そういうのの必要性っていうのも理解できないこともない。たぶん参加者も結局のところ中身はなんでもよくて、案内状にミスがあって、夏フェス行きたい人がコミケに、コミケに行きたい人が夏フェスにたどり着いてしまっても、そこそこ満足して帰ってくるのだろうと思う。要はみんな、暑い時期にがむしゃらになりたいだけなんだ。
 かくいう僕にもそういう気持ちはある。ストイックでばかりもいられない。帰省の際に義妹らと同じ部屋で眠るという展開に、「祭りの夜は性の無法地帯」的な、そういうハレが得られるのではないかと期待していたが、実現しなかったため、僕の日常は解放されないまま堆積されている。堆積は堆積で充足感があっていいのだけど、パーッとやりたい気持ちもやはり捨てきれない。
 そこでパピフェスである。
 これはcozy rippleに登場したいろいろなキャラクターたちが一同に会する、1年にいちどきりの大イベントである。パッピーナ(俺)にとっては本当にもう、たまらないイベントだ。
 プロッペッパッピローニ(俺)、まひろ(俺)、学年題6姉妹(俺)は言うに及ばず、故人であるはずの嘴亭萌え狼師匠(俺)、おむすび三太(俺)も夢の参戦。さらには存在自体が疑われていた残念和尚(俺)、老師(俺)も参戦するとかしないとか。フェスのラストには出演者(俺)および観客全員(俺)でcozy rippleのテーマソング「WE ARE THE NAYAMUKEDOKUZIKENAI」の大合唱。夢のような1日をあなた(俺)にプレゼント。そういうやつ。
 そんなパピフェスを、思いついたのが昨日だったので、いまさらだけど今年の8月某日に行なわれたことにして、そのうちpuropediaに「第1回パピフェス」の項を作り、出演者一覧やエピソード、実際にイベントを行なってみての、運営における移動や騒音などの反省点や、環境保護への取り組み、来年以降の展望などについて書こうと思う。そうすれば記念すべき第1回パピフェスはたしかに行なわれたことになろう。ぺディアに書けばそれは真実なのだから。

2009.9.5

 ファルマンが「うわのそら」に書いた内容に関し、知らない人からメールで苦言を呈されたそうで、荒れていた。その荒れはそのまま一緒に暮らす僕のほうにやってくるので、いい迷惑だ。
 それにしてもファルマンの日記に苦言を呈するとは怖いものなしだ。怖いものなしと言うか、そのメールの送り主は名前もメアドも記載していなかった(メールフォームからの投稿)らしいから、ずいぶんと無責任な話だと思う。明日からカナダに引っ越す寺井君が出発前の最後の日にグループ内の陰口をぜんぶぶちまけていった、みたいな、そのくらいの無責任さ。めんどくさいことになるに決まってるじゃないか。ファルマンがどれだけ「うわのそら」に依存していると思っているんだ。それによって迷惑を被った立場として、どうしたって文句のひとつも言いたくなる。
 ネットは開かれた場なのでネチケットを、とか、そういうのは、交流目的サイトのみでどうか適用していただいて、そうやって誰にもに不満の存在しない調和世界を構築していっていただいて、悪い部分を糾弾廃絶してゆくことにより空間はどんどん浄化され、嫌われ役を買って出たあなたはいつの日か聖人と崇められればいいのであって、どうか「うわのそら」や僕のサイトのような、コメント禁止の放言日記ブログのことは放っておいてほしいと思う。なにかひとつ頑迷な常識を持っている人っていうのは、個別の事例に関して柔軟に捉え方を分けることができず、その作業をすぐに怠けようとするから、バラつく無数の事例を混同してしまい、おかしなことを言い出す。
 じゃあネットで公開せずにノートに書けばいいだろう、というのはよくある反論で、さらに、じゃあなんでメールフォームを設置しているんだ、コメント禁止を誇らしげに唱えつつ閲覧者との交流を完全には閉じていないのは中途半端じゃないか、というのもすぐに思い浮かぶ安易な否定なのだけど、このふたつのピーチクパーチクには同時に答えることが可能である。
 つまり僕らはウェブ上に公開することによって褒められたいのであり、メールフォームはそのための、閲覧者が褒め言葉を送るための場所である。そういうことなのだ。さらに言えばこれは僕のみの意見だけど、褒めるという言葉さえも嫌いで、なぜかと言えば、それだと褒める側の人のほうが上みたいになってしまうからで、俺のことは褒めるんじゃなくてむしろ称賛してほしいとさえ、以前にも言っている。だからとにかくメールフォームって言うのは、決して内容に関して気分を害した人が苦言を呈するためのツールではない。
 そもそも個人ブログというのは、書いている人の心の中が表出されたものだろう。普通、他人の心の中は覗けないが、いろいろな条件が満たされることにより、文章化され目に見えるようになる場合がある。それが個人ブログである。だとすればそれを糾弾されるのはおかしい。もしも他人の心が覗けるようになったとして、街に出た場合、道行くまじめそうなサラリーマンが、心の中で女子高生へのレイプ願望をたぎらせていたとしても、それを口に出して責めていては、自分のほうが狂ったと思われてしまう。人なんて心の中では非道徳的なことをいくらでも考えているのだ。そんなこと当然で、だってそれが本能なのだし、それを責められるのだとしたら人類なんて存在できなくなってしまう。個人ブログへの苦言とはつまりそんな、アクロバティックな筋違いの離れ業をやっているということなのだ。実はサーカスでいちばんテクニックが必要なのはピエロなのだ。
 でもこんなこと、ずいぶん時代遅れな話だよな。なんでいまさらこんな低レベルな話なのだ。まったく恥ずかしい。高校2年生の書く小論文のようだな、この文章はまるで。
 でも「うわのそら」に依存している(「うわのそら」はファルマンの心なのだからしょうがないが)ファルマンは、あのメールのせいで相当に精神を掻き乱されたようで、それがどれほどかと言えば、歯をだいぶ食いしばってしまったため歯が痛み出し、今日の午前中に歯医者に行くはめになるほどだったので、他人の心に対して一方的に苦言を呈するということがどういうことか、その人に伝えるためではぜんぜんなくて、妻をなぐさめるためにこうして書いた。優しい夫だと称賛されたい。

2009.9.2

 モーニングを読んでいたら福満しげゆきの妻が妊娠していて、うわあ、と思った。火曜日のアクションのほうで「次号重大発表!」となっていたから、<ドラマにでもなるのかな>と考えていたのだけど、まさか妊娠とは思わなかった。僕は「僕の小規模な生活」から入って、「僕の小規模な失敗」とかを最近まとめて読んだ人間なので、作者の冴えない青年時代がまだぜんぜん最近のことのように思えていて、作者が今ではアクションとモーニングで連載を抱えている割と売れっ子漫画家だ、というイメージをまだあまり掴めていなく、そのために奥さんが妊娠という発想がまるで浮かばなかったのだった。しかしめでたい。嬉しい。青年時代の冴えなさを漫画で見ているだけに、今週号のモーニングのしあわせな妊娠発表はよかった。きれいに人間讃歌が決まった感じで、もう最終回でいいんじゃないかとさえ思った。だって漫画の性質上、出産後は子どもと3人での生活が描かれるのだろう。それってなんか違う気がする。もちろん愉しみな部分もあるけど、子育てコミックエッセイでは違和感も大きい。さてどうなるのかな。
 それと今日は僕がどんだけ週刊誌を読んでるんだって話なのだが、女性セブンに衝撃的な記事があったので記しておく。あのTBSで放送していた大家族の青木一家があるだろう、あれの長女のあざみちゃんが、とうとう父親からの性的暴行を告発したというのだ。あざみちゃんと父親は血が繋がってないという噂なのに、あざみちゃんが正体不明の男性との間に作ったとされる赤ん坊の顔は、本当にあまりにも父親に似すぎていて、バレバレと言えばバレバレだったのだけど、ついに、という感じだ。なんだかなあ、という気持ちになった。

2009.9.1

 つまりインプットっていうのはなにかを「入れる」ことではなくて、自分の中に「入る」ことなんだよ、っていううまいことを昨日の記事をアップしたあとに思いつき、眠る直前のファルマンにパピロートークしたら、「かんめーをうけた……ZZZ」と言ってくれたので、こうしてわざわざ書いた。
 新しいブログを作ることにし、その準備を開始した。
 でも開設されないのかな、とも思う。製本日記を読んでいたら、僕のブログを作ること作ること。しかし結局のところ主要なもの以外は残ってないし、驚くべきことには、たかだかここ1、2年の話なのに、もうそれがどんな試みのものだったのかぜんぜん思い出せないブログさえある。そういうのは大抵の場合もうページ自体を削除してしまっていて、確認することもできない。
 なので「開設する準備を始めた」とここで呟いただけのブログなんて、2年後にはタイトルも含めて一切の記憶がなくなってしまっているような気がする。自分はいったいこのときどんなブログを始めようとしていて、そのまま開設せずに終わったのだろうな、と15秒くらいだけ悩む気がする。なのでその2年後の僕のために、ヒントとしてタイトルだけ記しておく。
 始めようとしているブログのタイトルは「宇佐木学園ぴょんぴょんブログ」です。
 思い出した? そうそう、例のあれですよ。ちょっと、どんだけ準備してんすか。マジ勘弁してくださいよ。さすがにそろそろ開設してくださいよ。年上なので丁寧語。
 ブログってたまに閲覧者に向かって話しかけたりするやつがあって、はあ? とか思うけど、製本して読んでいるだろう未来の自分に向けて話しかけるっていうのは新しい気がする。

2009.8.31

  製本日記を読んでいたら、昔の自分が、本を読めなくなってきている自分を憂い、その原因をこの日記にしていた。曰く、毎日ここに文章を書かなければならないから本を読む時間がなく、アウトプットばかりでインプットがまるでないから、このままでは自分は薄っぺらな人間になってしまう、ということだった。若い。「インプット」「アウトプット」という言葉が大学生っぽくて恥ずかしい。
 その頃よりもさらに本を読まなくなった現在の自分から、当時の自分へのメッセージとして、「自分」というのは必死に本を読んで保たれるような、そんな薄っぺらいものではなく、むしろアウトプットすればするほど、世界で他の誰も研究していないpurope★papiroという人格は掘り下げられ、そこから無限のインプットが生まれてくるのだ、と言いたい。
 言ったら23歳の僕はドン引きするだろうな。
 約3年後の俺、どんだけ自分のこと好きなんだよ、と。

2009.8.27

 今日ふとした瞬間、設定を変えていない職場のエアコンが少し涼しすぎに感じられて、しかし外に出てみたら割と陽射しがジリッと来て、顔を一瞬しかめたものの、しかし落ち着いて受け止めてみると、それはどう考えてみても夏のピークのより弱々しくて、やっぱり夏の終わりを痛感した、そんな瞬間に唐突に強い気持ちで思った。
 俺はもっとちんこのこととかを考えなければダメだ。
 女の子がちんこを欲しがることについて、もっと真面目に考えないと、世界は輪郭を失って茫洋としてしまう。世界を形作ってゆくために、僕は女の子とちんこのことを熱心に考えるべきだ。夏が終わったとか理由にならない。たしかに薄着の女の子はいいだろう、水着の女の子はいいだろう。でもこれから寒くなってどれほど女の子たちのパピロー率が下がったとしても、決して忘れてはならないのは、冬でも女の子はちんこが好きだし、厚着の服も脱げば下着だ、ということだ。服なんて目くらましに過ぎない。裸の女の子はいつだってそこにいるんだ。カーディガンだってブレザーだってピーコートだって、さらに言えばババシャツだって、僕には自由に脱がせるはずだ。そうだろう? これまで純粋理性批判で、僕は何百人もの女の子を抱いてきたじゃないか。そしてその中には、決して脱ぎそうもない子もいたじゃないか。でもその子たちも結局は脱いで、結局はちんこが好きだったじゃない。100%の確率だったじゃない。つまり抱けない女の子なんていないんだ。抱けない季節もないんだ。夏休みだからスクールガールが街に少ない? 錯覚だよ。いるじゃないか。いると思ったら女の子はそこにいるんだ。いない女の子はいないんだ。僕はその子たちがどれほどちんこが好きか、なぜ好きか、特にどういう部分で好きか、残念なことにその子たちはインタビューには答えてくれないから、悟っていってあげたい。あなたを苦しめるすべてのことから悟ってあげたい。ソーユードントハフトゥウォーリ。俺にしか見えないけどたしかにそこにいる女の子のちんこ好き具合を悟って、今後もここに書き記してゆきたい。
 夏の終わりにこそ声高に叫びたい。「芝生!」そして「マリモッコトピア!」

2009.8.25

 ウォークマンが壊れた。パナソニックのSDウォークマン。それの初期のほうのやつだから、なんだかんだでかなり使った。直接ポケットに入れたり鞄に入れたり、扱いはぜんぜん丁寧じゃなかったのに、ずいぶんもったものだと思う。次に買うとしたらやっぱりipodなのかな。そもそもパナソニックはウォークマンやめたっぽいし。カセットやMDの世代として、意地でもSDに固執したい気持ちがあったが、でもそういうのの魅力ってなにかと言えば、自分で編集したベストソング集の入った記憶媒体を、友達とかクラスメイト同士でやりとりするみたいな、そういう点にあるわけで、こんなにもSDウォークマンが流行っていない状況ではそれがままならず、もちろん僕もこのウォークマンを使っていた数年間で、いちどもそんなことはできず終いで、だとしたらこれはただの、ipodほど便利じゃないポータブルプレイヤーに過ぎないので、どうしようもない。ちなみに故障具合は、充電はできるのだけど、パソコンに接続してデータを落とすことができない状態。つまり今SDに入っている曲だけでずっと満足するほかない。構わないよ。ある意味これは、飽きっぽい、音楽作品を使い捨てする、てめえらipod野郎たちへのアンチテーゼだよ。このウォークマンを使うってことは、まるでボロボロの学ランを羽織っているような気分だ。エリート私立校に転入してきたバンカラのような気持ちで、しばらくは街を闊歩したい。そしてそのうちipod買おう。

2009.8.24

 本日記のvol.2を読み終えた。vol.2は2007年の下半期で、そのため上半期のvol.1ほどおもしろくない。どうしたって作者の精神が沈んでいる。2ヶ月近くにわたって1行しか書かない期間とかがある。ひどい。それでも出来事はいろいろ充実していて、今の住まいに引っ越したり、例の夫妻に娘が生まれたり、義兄の店がオープンしたりしている。そして実はこの3つのイベントは、9月の後半という2週間くらいの間にすべて起こったのだった。懐かしい。今日からはvol.3に進む。2008年上半期である。vol.2に比べて60ページほども多く、上半期の勢いを感じさせる。とても愉しみだ。永遠にエロ小説と自分の日記だけを読んで生きてゆきたい。

2009.8.20

 ヒット君4コマ第4弾を引き続いてやる。平日で労働したのに3篇もやる。偉い。人志のスーツが非常にめんどくさかった。それとその中でフェラチオとか言ってしまった。こういう言葉を出してしまうから、友達伝いに紹介されてゆかないのだ。でもしょうがない。ファルマンにもさっき言われた。「あなたは褒められようと思ってやってもぜんぜんおもしろくなくなるから、自分がおもしろいと思ったことだけやりなさい」って。いい妻。いい妻ゆめ気分。それと誰も褒めなくていいから(褒められると作品の質が落ちるからむしろ褒められないことで価値が上がるって言うか、人に簡単に理解されない作品のほうが偉いって思うしマジで俺)自分で褒めるけど、6篇目と7篇目は話がまったく同じ構成になっていて、技巧的だと思う。これは漢詩における対句につながる部分があり、なるほどパピロウ氏はかつて齧っていたことがあるのだった。だとすればひとつのシリーズを12篇と規定していることも、漢詩的なイメージをパピロウ氏は持っているのかもしれない。褒めるどころか研究。テーマも作者も読者も研究者も、すべて俺が俺でまかなえばいいんだな。至ったわ。
 批判だけ私がしてあげる、とファルマンが言った。

2009.8.17

 普通の生活が戻ってきたので、製本した自分のブログを移動中に読む、というのをついに始めた。紙製のカバーと布製のカバーをダブルに掛けて、大事にvol.1から読み始めた。
 vol.1なので、やっぱりけっこう照れ臭い部分がある。2年半前、23歳の自分。どうしたって若い。読書記録とか創作論とか、なかなか語る。彼は今の僕よりもはるかに真面目だ。
 でも負け惜しみとかじゃなくて、その真面目さに羨望の気持ちは湧いてこない。結局それは、若くて、いろいろ確定していなくて、不安だったから、模索して、掘削して、ちょっとでも前進しようと、必死にもがいていたのだ。全身にかゆみがあって、それを掻くように、消してゆくように、がむしゃらにがんばっていたのだ。
 それは必要なことだったんだろうけど、またそこに身を置きたくは決してない。今の僕にはかゆい部分がなくて、だからがんばって掻く必要がなくて、安穏と過ごせていて、すごく心地よい。
 しあわせなことだと思う。
 クチバシダイアリーのテーマは人間(特に俺)讃歌。
 1月1日から始まるvol.1を現在5月2日まで読んでいて、貼った付箋の数は16枚。純粋理性批判以外の本でこんなに付箋を貼ったのは初めての経験だ。そう考えると結局これも、射精シーンに貼っているようなものかもしれない。
 そもそも日記なんてマスターベーションなのだから。

2009.8.15

 最終日の3日目はまたあまり天気がよくない。結局プールや海は実現しなかった。残念和尚。
 次女は今日から仕事ということで、午前中に出掛ける。僕らが帰る夕方までにはたぶん帰って来られるだろう、とのことだった。残ったメンバーで墓参りなどに行く。
 墓参りでは、ファルマンが線香を逆に持つという、いまどき幼児でもあまりやらないミスをして、手に火傷を負っていた。昨日の焼肉でも違うほうの手を火傷し、夕方の犬の世話では出っ張りに頭を強打したんこぶを作っていたため、「残りは脚だ」とかほざいていた。どういう発想だろう。昨日だいぶ頭を強打したんじゃないかと思った。
 墓参りのあとは近所の中華料理屋でお昼。天津飯。
 そのあとちょっと海を見に行く。小雨の止まない海は寂れていて、ほとんど人がいなく、5人でビーチサンダルに履き替え、つましく砂浜でペショペショとだけした。海の水は冷たく、まったく今年の海の商売はあがったりだろうね、などと話した。
 それから近所のスーパーにまた立ち寄り、今晩の帰途で食べるものを買い出す。適当に弁当を買おうかとも思ったが、まだ時間があるので、具をいろいろ買っておにぎりを作ることにした。我ながらナイスアイディア。
 家に帰って、ファルマンを助手にして、握る。鮭とか明太子とかツナマヨとか、僕ら夫婦のと、ほぼ同時刻にバスで岡山まで帰る予定の三女のと、頼まれた家用のとで、けっこうな数を握った。
 やがて次女も帰ってきて、さてそろそろ行くか、というタイミングで三女が「調子が悪い」と言い出す。この子はなにを言ってるんだろう、と思うも、具合が悪いのは本当らしく、結局バスはキャンセルして岡山に戻るのは延期、もうちょっと実家にとどまることに。
 なので三女は家で横になって留守番で、義父母と次女で、駅まで僕ら夫婦の見送り。
 今回の帰りは寝台車。もちろん初めての経験だ。部屋はツインで、いい感じのサイズ。7時から8時まで、13時間かけて出雲市と東京を繋ぐ列車の時間を、のんびりと過ごした。

2009.8.14

 健全に寝たが朝勃ちはした。それはするだろう。布団の中で朝勃ちを持て余しつつ、3姉妹がすぐ横で寝ているのに朝勃ちしている俺、という事実にひそかに興奮した。
 起きると2日目の天気は快晴で、義父が窓から見える景色をすごく教えてくれる。本当に、すごく教えてくれた。なので「あれが大山だ」とか「あれが弓ヶ浜だ」とか言われるたびに僕は、「あー」と気のない相槌を打たなければいけなかった。「あー」ってなんだ。わかるわかるー、か。自然を尊ぶ意味なんて、なにもわからないくせにね。
 パンとゆで卵の朝食。キャベツも食卓に出ていたが僕は食べず。僕のためにレンジに入れて、しんなりさせてくれたらしいが、マヨネーズがなければやはり食べられない。これにはさすがに義母がちょっとムカついていたっぽかった。申し訳ないと思うが、これによって僕と家の冷蔵庫がどれほど親和性が高いのか理解していただければ幸いだと思う。
 午前中にチェックアウトし、大山の麓町にある牧場や牧場へ。
 ひとつ目の牧場は牛がいて野原があってソフトクリームがおいしい、ごく普通の牧場。農学部に通う三女は牛に喜んでいたが、僕は車を降りた途端に鼻を襲った強烈な臭気に、頭がくらくらして気分が悪くなった。鼻も口も極限まで塞いだので、普通に酸欠状態だったのだと思う。ヘロヘロになりながら牛らとは離れたほうに行き、ソフトクリームを食べ、野原を駆けた。なにしろ芝生男子なので、臭くない限り野原はけっこう好きなのだ。小沢健二好きとしてはフリスビーとかしたくなる。やっぱりこういう、いい部分だけ見せてくれる整備された自然がいい。見晴らしもよかったので気持ちよかった。「ほら、あれが弓ヶ浜だ」「あー(わかるわかる)」
 次に行った牧場は、牧場と言うよりは触れ合い動物園みたいな感じ。ポニーとか犬とかヤギとかがたくさんいた。上野動物園よりも高い入場料、ひとり800円はどうかと思った(6人で4800円!)が、犬はまあまあかわいかった。もっとも牧場にしろ動物園にしろ犬のかわいさで800円っていうのも非常にどうかと思うけれど。しかもそのあと喫茶コーナーで食事までしてしまった。ずいぶんとこの牧場にお金を落としたことだな。
 それにしても快晴で陽射しが強い。実際もうフラフラだ。義父の運転が怖いこともあり、もういっそ寝てしまおうと思って、帰りの車の中では眠りに就いた(でもたまに前の車を煽るために変な動きをするので、そのたびに起こされた)。
 家に帰って荷物を置いたあと、倒れるように布団で眠る。夜はまたおすすめの魚料理屋に食べに行くというので、それまでなるべく体力を回復させておこうと思った。このままだと確実に最初の一杯で寝てしまう。2時間近く寝てすっきり。
 起きたらすぐに移動開始。今回は祖父も参加し、車の編成も義父の車に祖父と義妹ら、義母の車にファルマンと僕、となる。義母の運転はさすがに義父よりはちょっと大丈夫だった。
 こっちの感覚ではだいぶ行動範囲内じゃないくらいの時間を掛けて店に到着。途中まで、「店の近くにいい夕日のスポットがあるからそこにも寄ろう」という話があったのだが、雲が多かったのと店の予約時間が迫っていたのとで取りやめになった。夕日にいいリアクションができる自信もまるでなかったので、これはすごく救われた。
 店では刺身や海鮮の網焼きなどを食べる。さすがにおいしかった。もったりした刺身醤油があまり好きじゃないので、それは残念だったが、それ以外は不満もなく食べた。
 帰りは、義父は酒を飲んだので、義母の車(義父と祖父乗車)と次女の車(姉妹と僕)に分かれる。次女は道が不案内のため途中でファルマンと義父が交代し、義父のナビで家まで帰った。
 この運転の途中から次女はピタッと言葉を発しなくなり、帰ったら少し泣いていた。知らない暗い夜道で、かなりプレッシャーがあったらしい。かわいそうに。そもそもちょっと食事の行動範囲にしては店が遠すぎるのだ。大山もそうだったが、せっかくの帰省なのに今回はかなりの時間を車での移動に消費してしまった。次回からはどうか家を堪能させてもらいたい。
 帰ってから、店でもらってきた魚のアラでアラ汁を作った。とてもおいしかった。こうして書くと、イベントに振り回される中で、必死に食事に価値を見出そうとしているな、僕は。

2009.8.13

 夜に到着したので1泊2日の2日目なのだが、気持ち的には今日が出雲1日目だろう。
 初日にして今日は外泊。鳥取県は大山のあたりに行き、義父の会社の保養所的な所に泊まるのである。これを当日いきなり言われたら憤っていたが、事前に告知されていたので大丈夫。義妹らと同じ部屋で寝ることになるらしい、という情報に、ここひと月ほど僕がどれほど心を躍らせたかは、今さら言うまでもないだろう。
 義父の車(ファルマンと僕乗車)と義母の車(義妹ら乗車)に分かれて午前中に出発。まずは近所のスーパーに立ち寄り、夜に部屋で行なう予定の焼肉の材料を買い込む。スーパーでの買い物は僕の大いに得意とするところ。義父母は忘れ物があったとかで2度ほど次々に家に帰っていき、3姉妹は自分が食べたいものに関して意識が低いので、自分の采配で材料を選べ、とてもよかった。どうしたって自宅じゃない不自由さはあるけれど、これで少しは救われた。
 買い物を終えて再び車に乗り込み、いよいよ本格的に移動。しかしこれがつらかった。なにがつらいって義父の運転がだ。義父(義母もだが)の運転は典型的な田舎の人の運転で、基本的にやけにスピードが速いし、スピードが遅い車が前にいるとイラつくし、イラつくどころか煽りさえする(煽る人なんてこの世に実在するのだな)し、ちょっとでもまごつくとクラクションを鳴らすしで、乗っていると怖いのを通り越して気分が悪くなるのだった。自分の乗っている車が道路にものすごい悪い成分を振りまいて走っている、という事実に落ち込むのである。しかし残念なことに今回の帰省ではやけに父親の車での移動が多かったのだった。
 こっちの感覚ではちょっと行動範囲内じゃないくらいの時間を掛け、やっと目的地に到着。保養所は割とホテル的な立派な建物で、たしかファルマンの口から出たんだったはずの「ペンション」とはぜんぜん違うものだった。通された部屋は、いかにも保養所的なリゾートっぽい感じで、中2階とかのある凝った造り。話で聞いていた通り2LDKで、しかし想像ではリビングを挟むように北と南、あるいは東と西に和室と洋室がある、みたいな感じだったのに、実際はリビングの隣に和室、その隣に洋室、という感じで、つまり3姉妹と僕の寝る和室と、義父母が寝る洋室は隣り合っており、僕がここ1ヶ月でさんざん夢想した、3姉妹との純粋理性批判的な展開は、とてもじゃないけど実現不可能だった。まあ現実ってこんなもんだよな。
 到着が昼過ぎになったので、とりあえずすごい空腹だった。それでお昼はどうするつもりなんだろうと思っていたらノープランだったらしく、たまたま僕が買い物カゴに入れていたチルドの焼きうどんがあって、それを食べようということになった。無計画だな! その焼きうどんは僕が焼肉のあとにやるという確固たる計画のもとに買ったものだ。しかも2玉しかない。でも本当にそれをみんなでお昼ごはんとして食べた。お腹を空かせる効果しかない感じの切ない量だった。
 そのあとみんなでWii。グーパーで分かれ、義父・ファルマン・三女チームと、義母・次女・僕チームで、スポーツのやつで対戦。僕は三女とボーリングで対決し、普通に負けた。三女と来たらターキーとか繰り出すので勝てっこない。でも僕以外のふたりが勝ったので、チーム的にはこちらの勝利だった。スポーツのやつのあとは、アマゾンで注文しファルマンの実家に送品してもらったメジャマジマーチをやる。期待していた通りのおもしろさ。チェックするたびにどんどん値段が下がっていき、あまりいい評判も聞かなかったこのゲームだが、Wiiリモコンがマーチングバンドの指揮棒になるというそれだけの要素で、買う価値は十分にあると思う。すっごく愉しかった。マリオカートのざっと20分の1くらいは愉しかったと思う。
 Wiiをやって汗をかいたこともあり、夕食前にお風呂ということになった。大浴場らしいので、義父と裸の付き合いなんて考えられない僕はもちろん行かない。それで僕だけ留守番かと思ったら、次女も行かなかったので、ふたりで部屋に残る。ふたりになったので、昨日に引き続いてふたたび照れた。これまで100冊以上読んできた純粋理性批判だったら、義妹と部屋でふたりきりになったら間違いなくエロい展開となるのに、現実的には難しいな。そして義父と大浴場はどうしても嫌だが、たしかに夕食前に風呂は入りたかったので、部屋のごく普通のお風呂でシャワーを浴びることにし、「じゃあ俺シャワー浴びるわ」と声を掛けるも、義妹は「じゃあ私も一緒に入っていい?」などとは一切訊いてこない。おかしいな。小説では義妹っていうのはそうじゃないんだけど。
 ザザっとシャワーを浴びるも、まだ大浴場組は帰ってこない。仕方ないので焼肉の下準備を始める。ファルマン家のだらだらした支度を待っていたら確実に空腹でイライラしてしまう。こちとらお昼の焼きうどんのことがいまだに水に流せていないのだ。勝手にやらせてもらおう。玉ねぎを切ったりかぼちゃを切ったりピーマンをぞんざいに切ったりしていたら、ファルマンと三女が帰ってきて、義父母はビリヤードをしていてまだ帰ってこないと言う。そうかそうか。義父母は俺の空腹についていかがお考えか。果たして本当にいまビリヤードか。
 そのあとも準備を続け、かなり終盤になったところで義父母が帰ってくる。いちおう帰ってきたならもう待つ必要はない。義父の音頭とか気にせず、義妹らがWiiをやめるのとか気にせず、僕は勝手にごはんをよそい、ホットプレートで肉を焼き、食べた。僕はお腹が空いていたのだ、それで準備をして、焼いて食べたのだ、誰にも文句は言わせない。
 焼肉はおいしかった。ビールもおいしい。「焼肉だけじゃあれだから」みたいなよく解らない理由で、食卓にはトマトをカットしただけのものも出され、「パピロウ君も食べられる?」と訊かれるも、もちろん喰えない。「オーブンで焼いてチーズかマヨネーズがあれば……」と答える。でもここは自宅ではないので、オーブンもなければマヨネーズもない。「そういうのが嫌だからキャンプは考えられないんだ」という僕の言葉に、「あるもので済ますのがキャンプの醍醐味だ」と義父が反論し、話はいつまでも平行線だった。せっかく自宅には、長い年月をかけて揃えた、お気に入りの調味料とお気に入りの調理用具があるのに、それを放棄して不便な状況に身を置く理由が、僕には本当に解らない。きっと一生解らないんだと思う。
 焼肉を食べたあと、僕だけ大浴場に。義父との接触はとにかく避けたかったものの、実は広い風呂は何気に好きだ。人が微妙にけっこういて、僕は男の身体が嫌いなので、そこがちょっと不愉快だったけど、まあお湯は気持ちよかった。
 部屋に帰るともうけっこうくたくた。適当にWiiをやったあと、お布団を敷いて寝ることに。部屋が何畳だったのかよく覚えていないが、まず3姉妹が布団を川の字に敷き、その川の頭に横棒を置く感じで僕の布団を敷いた。近い。義妹らかなり近い。興奮する。興奮するものの、なにかが起きるということはなかった。すぐ隣で義父母が寝ているため、照明を消してからのひそひそ話などもほとんどなし。残念だ。すごく得意なんだけどなあ、照明を消してからのひそひそ話。
 しょうがないので健全に寝た。

2009.8.12

 短めに労働を切り上げて、品川駅に移動を開始する。途中の駅のトイレで着替えた。スラックス(黒)・ワイシャツ(白)から、ハーフパンツ(黄)・ポロシャツ(オレンジ)に。バカンス。
 品川駅には新幹線の発車20分前に到着。ファルマンはこれが時間ギリギリだったらしい。新幹線に時間ギリギリとか信じられない。どういう度胸かと思う。駅の売店でお弁当と缶チューハイを購入。最近やっと気付いたことに、缶からそのまま飲む場合、ビールはぜんぜんおいしくない。なのでビールではなくチューハイ。
 ホームで10分以上待ち、やって来た新幹線に乗り込む。ふたり席の窓側の席。通路側に人はやって来ず、悠々と缶チューハイを開けた。冷たくておいしい。隣席は横浜でも乗って来ず、名古屋でも来ず、結局岡山まで無人だった。8月12日の新幹線のこと、他の席はだいたい埋まっていたのに、僕の横だけずっと誰もいなくて、まあよかったのだが、なんとなく決まりが悪かった。
 岡山で乗り換え。労働が朝早かったので割と眠く、しかも堪えきれずにお酒を飲んだため、新幹線内かなり眠かったのだが、眠りこけた場合は博多に着いてしまうため、けっこうな緊張感だった。無事に乗り換えができてよかった。
 岡山からの特急やくもでは、隣の席に人も来て、寝たりもした。夜になったこともあるが、相変わらず窓から見える風景が寂しい。こんなに寂しいと田舎は人間関係が密になって噂話とかが蔓延して村内での繋がりとかが大事になってくるのだろうな、と思った。
 出雲市駅到着は23時過ぎ。ファルマンと、運転者の次女と、おまけで三女が駅まで迎えに来てくれる。はるばる出雲市に来て、妻と義妹らが出迎えてくれる喜び。このとき勢いでハグとかすればよかったのだけど、半年ぶりくらいに会った義妹らに普通に照れる気持ちがあり、とてもじゃないけどできなかった。肝心なところでシャイでいけない。
 義妹の運転する車に乗って実家へ。まだ起きてくれていた両親とも挨拶し、おみやげを渡し、僕だけ食事とビール。明日以降の計画を話しながら、おじいさんが釣ったというヤマメなどをいただいた。義妹らはWiiをやり始め、華やか。若い女の子はいいなあ。ゲームはマリオカートで、これがむちゃくちゃ愉しそう。明日以降やらせてもらおう。
 そのあとシャワーなど浴びていたらもう1時近い。眠った。

2009.8.11

  職場で上司から、
「明日から休みか。いいなあ。海で泳いだりするの?」と訊かれたので、
「はい。義理の妹の水着姿が愉しみでしょうがないんです」と答えた。
 答えたところ、
「へえ、妹さんいくつ?」
「19と22です」
「ほほほー。一緒に泳ぎに行ったりしてくれるんだ?」
「そこは交渉次第ですよ。がんばります」
「でも見るんだったら海じゃなくてプールだろう、海の水なんて濁っててぜんぜん見通せないぞ」
 という話になり、そのあと、前方で平泳ぎをする女の子の尻にどうやったら自然に顔を押し付けられるか、そして押し付けたあとどうフォローをどうすればいいかをレクチャーされた。
 どうすればいいかと言えば、
「「ごめんねー」って言えばいいんだよ」
 とのこと。人生の先達はためになることを言うなあ。

2009.8.10

 昨晩なんと僕は寝室の電気を消して眠ることができたのだった。
 これはすごい成長である。そもそも寝室に行けたことをまず褒めたい。当初の予想では、リビングの机に突っ伏して、授業中のような感じで眠るのではないかと言われていた。もちろん電気もテレビも点けっ放しでだ。それが寝室で電気を消して眠れたのだから偉い。枕元に純粋理性批判を10冊くらい積み重ねて置いておいたらなんか平気だった。そのことをファルマンに報告したら、「その作用についてはよく解らんけどまあよかったよ」と言っていた。

2009.8.9

 日曜日の短めの労働の出勤と同時にファルマンも出発する。してしまう。これで労働から帰宅してもファルマンはいない。ファルマンおらんて。意味わからんしマジで。
 労働しながらファルマンからメールが来、無事に新幹線に乗っただの岡山に着いただの報告を受ける。そして僕の労働が終わる3時前に、無事に出雲市に到着したという。いいなあ、出雲か。俺も行きてえよ。外国生活が長かったフリして義妹にCHUしてえよ。
 誰もいない家に帰るため、駅から歩く。
 道の途中で、手負いの鳩に2匹のカラスが襲い掛かるという、都会における最大級の劇的シーンが展開される。こんなの初めて。住宅街だったため僕以外に人はいなく、僕の3メートル横くらいでそれは激しく展開された。カラスが肉をつついてくるのか、鳩が激しく抵抗し、鳩の羽が何十本も道路に散った。なぜこのタイミングでこんなことが巻き起こるか。ファルマンが家にいたら帰ってすぐにしゃべるのに、家には誰もいない。どうしようもない気持ちで走って逃げた。
 走っていたら夕立に遭う。ぽつぽつと降り始めた雨が、みるみるうちに勢いを増し、ガーッという音がするほどの雨になった。家まであと200mくらいの地点でそうなったので、しょうがなく全力疾走した。200mダッシュ。マスターベーションの疲労感か。皮肉なことに、カバンのなかには買ったばかりの今月の純粋理性批判が3冊入っていた。これが重い。重いエロ小説を抱えて、マスターベーションと同等の疲労感を獲得する俺。もちろんそれなりに身体を濡らしながら。
 そして帰るとファルマンがいない。さんざんだ。
 寂しくシャワーを浴び、寂しくウトウトしていたら、電話が掛かる。
 いつもの一家だった。なんかいま近くまで買い物で出てて、よければうちにある桃太郎電鉄を貸してくれないか、そしてついでに晩ごはん一緒に食べないか、と誘われる。桃鉄は別にいいよ、でも外で食べるのは嫌だから、うちで食べようよ、と提案した。
 そんなわけでいつもの一家が来訪した。そもそもがファルマンの繋がりでの交友なので、ひとりで迎えるのはもちろん初めて。パスタを買ってきてもらい、それと冷凍していた母のピザを焼いて食べ、夕食にする。娘が相変わらずかわいい。しかももうほとんど2歳なだけあって、けっこうしゃべる。今回初めてはっきりと名前を呼んでもらった。感慨深いな。
 途中で大きな地震があったらしい。歩いていたので、僕は気付かなかった。
 PS2本体も貸してくれ、とのことでちょうど別の部屋に探しに行こうとしていたところだったのだ。「桃鉄を貸してくれ」と言ったので、てっきり本体は持ってるのかと思ったら、ないのだという。PS2も借りる場合、はじめに「貸してくれ」と唱えるのはソフトじゃなくて本体のほうなんじゃないか、とちょっと思った。でもそのおかげで地震に気付かなかったのだからよしとするか。そもそも一家が来てなかったら、ひとりでどれほど地震が恐ろしかったことか。ファルマンがいないこのタイミングで、鳥の格闘、夕立ち、そこそこ大きい地震、といろいろ起きすぎだ。世界と俺の精神は連動しているのかもしれない。新たなる神話だろうか。
 9時近くになって、一家を近所のコンビニまで見送る。
 そこで夫が唐突に桃鉄をやりたくなった経緯の話を聞き、この一家はファルマンと僕の日記をそこそこ読んでくれているらしいから、ファルマンが先に帰省してしまって僕が寂しくしてるんじゃないかと心配し、気を遣って今日は来てくれたんじゃないかな、とちょっと疑っていた気持ちが真っ向から否定される。夫は普通に唐突に桃鉄がやりたくなったらしい。そうかい。
 まあでも本当に地震の件は助かった。持つべきものは友達だな。
 持つべきものは友達だな、って僕が言うと、まるで金八先生が絶対に言わない言葉モノマネみたいだな。試しに検索したら、2年半以上やってるこの日記で、今日が初めてだった。つまりそれは、持つべきものは友達だな、と思ったのが少なくとも2年半以上ぶりということか。2年半。あのお腹の中にいた子が、ちょっとした文章をしゃべり始めるようになっているというのに。

2009.8.8

 結婚1周年だった。もう1年経ったか。新婚期間というのは一般的に1年間だろうか。そもそもこれまでが新婚期間だったのかと考えると怪しい。ただしこの1年で僕らはさらに、互いに交友関係を狭め、互いへの依存度が上がったことは間違いない。愛し合ってるとか、ラブラブとか、そういうんじゃ決してなくて、本当に話し相手がお互いしかいない感じ。研ぎ澄まされてるな、という感触がある。触れたら痛みもなく肉が斬れてしまうような。まあこれがいわゆる夫婦の空気というやつかもしれない。だとすれば僕らというのは割と順当な夫婦なのかもしれないと思う。
 1周年で、しかもファルマンは明日からひと足早く帰省するということもあり、出掛けた。
 まず行ったのは久々の阿佐ヶ谷。なんかちょうど七夕祭り的なことをしているとのことで行ってみた。そうしたらすごい人だった。商店街がそのまま出店のようになっていて、いろいろなものを売っていた(フランクフルトが異様に多かったけど)。遅めの朝食しか食べていない午後1時過ぎ、という状態だったのでなにか食べたいような気もしたが、美味しいはずもないだろうパックの焼きそばが350円とか言われると、あまり触手が伸びなかった。長い商店街を、ほぼ端から端まで往復し、祭り的な雰囲気を存分に浴び、満足し、阿佐ヶ谷を辞す。
 次に行ったのは吉祥寺。ここではさすがに確実に空腹だったので、ちゃんと食べる。ラーメン屋。なんか昨日からやけにチャーシュー麺が食べたかったので、とんこつチャーシュー麺なんていう重量系のメニューを頼んでしまう。期待したほどじゃなかったけどまあ美味しかった。しかしここで、祭りのときから異変には気が付いていたけれど、ファルマンの精神が限界になり、その態度の悪さに僕の限界も来て、喧嘩となる。祭りの喧騒や、頼んだ炒飯のおいしくなさ、使用したトイレの汚さなどについて怨嗟の言葉をぶつぶつと呟くので、お前は本当に気持ちがよくない人間だ! と叱った。なんともひどい結婚1周年であると思う。
 互いにすっかり機嫌を損ねて店を出ると、雲行きがとんでもなく怪しい。今にも雨が降り出しそうだ。これはまずい。まあ大丈夫だろうということで、洗濯物をベランダに干したまま出てきてしまったからだ。ファルマンは肉体も精神も優れないこともあり「帰りたい」と主張し、僕はせっかく吉祥寺まで来てラーメンだけ食べて帰るのかと主張し、それから、じゃあ私は帰るからひとりで買い物しなさいよ、とか、結婚記念日になに言ってんだ、とか、じゃあもういいよ買い物しようよ、とか、こんな状態(互いの機嫌、体調、天候)で買い物なんかできるはずないだろ、とか、じゃああなただけ帰って洗濯物を取り込んでよ私は買い物するから、とか、それいちばん意味わかんねえよ、とか、まあいろいろあって、でもしょうがないので一緒に帰った。結果的に、吉祥寺にラーメンを食べるためだけに来てしまった。高いラーメンだこと。
 割とむすっとしたまま最寄り駅に到着し、ファルマンが「私が払うから」と言ってタクシーに乗り込んだ。ここでタクシーの運転手がいきなりしゃべり始め、
「いやあ、お客さん、私さっき、いま籍を入れてきたばかり、っていうカップルを乗せたんですよ」
 とか嬉しそうに言う。あまりの絶妙なタイミングに、なんか気が抜けた。僕は、<ここで「実は僕らはちょうど1周年のデートだったんですよ」とか言ったら、この運転手は今日1日すごくハッピーになるんだろうな>と思ったのであえて言わず、
「……ああ、ゾロ目ですもんねぇ」
 とだけ答えた。もちろんファルマンがタクシー運転手に向かって目的地以外の言葉を発せられるはずもなく、そのままタクシーを降りた。相手が明らかに喜ぶだろうことをしゃべらず、ふたりしてハッピーな輪っかに加わろうとしないこの姿勢が、1周年を迎えた僕ら夫婦の姿を如実に示しているな、と思った。そういう1周年だった。
 そのあとはなんかどっちらけな感じになり、仲直りして、一緒にスーパーに買い物に行き、お鮨とか買ってきて食べた。おいしかった。
 そして明日からはファルマンが帰省してしまう。3日間ひとりだ。ひどい。ひとり暮らしって本当に意味が分からない。いったいどうすればいいのだろう。途方に暮れる。

2009.8.7

 下着が好きだ。おっぱいについてもさんざん書いてきたけれど、ホックとか、ショーツとか、ボニータとか、やっぱり下着についてたくさん言及してきたように思う。
 ビキニが好きなのも、結局はそれが下着だからだと思う。パーリェ・ゾーカでも書いた。

「あのぅ先生、僕この前気が付いたんですけど」
「なんだ、言ってみろ」
「女の子の水着なんですけど、特にその中でもビキニ……あれって、おかしくないですか」
「どうしてだ」
「だってあれどう考えても下着じゃ──」
「おい! それより先は口に出すな!」
「でも先生、ダブルデートとかすると、友達の彼女が、彼氏の友達である僕に下着姿を見せつけることになるわけで、それってすごく背徳的じゃ──」
「うるさい! あんまり言うな! 女の子にかけてる催眠術が解けちゃうだろうが!」

 ああ、本当に下着が好きだ。
 裸って結局みんな同じような気がするし、乳首の様子で幻滅したりすることも多い。それに対し下着と来たら。街に溢れる何万もの下着の中から、女の子たちが自分のセンスでかわいいと思うもの、この色が自分には似合うだろうとか、実際に試着してみておっぱいの形に合うなとか、そういうことを判断して選び、そして服の下に着けて街を闊歩しているのだ。すばらしいじゃないか、下着。ピーチジョン的な下着のカタログには一切心を奪われず、僕が見たいのはJILLEのストリートスナップ的な感じでの女の子の下着姿なんだ、でもその企画は実現したらなぜか週刊大衆的になってしまう、ということは1年半前に書いた。
 たぶん何万人もの裸を見たら飽きるに違いないが、下着だったらいつまでもいける。(ほほぉ、そのブラにそのショーツを合わせますか、なるほどねぇ)みたいな感じで、いついつまでも感心できるに違いないと思う。
 こんなにも女の子の下着が好きなので、下着屋で働きたい。原宿の竹下通りの下着屋とかで働けたら、いったいどれほどの幸せが待っているだろう。そのグランドラインには、じょっちゅとじょっこに関するすべての謎を解き明かす、ひとつなぎの財宝が隠されているとか隠されていないとか。ああ、悩めるをとめごらに男視点でのアドバイスを差し上げたい。
 でも既存の下着販売会社では、おそらく僕が店頭に立つことはできないのだろう。仮に採用されたとしても男子は裏方だ。裏方で、「男性社員の意見も取り入れた」的な感じで、開発に意見を挟むくらいがせいぜいだろう。実際そういうドキュメントを前に見たことがある。
 僕がしたいのはそういうんじゃない。実際にお店にやってきた女の子に、マンツーマンで似合う下着を選んであげたいのだ。
 だからと言って普通に僕が下着屋を開いても繁盛しないだろう。やっぱり下着を異性の店員に選んでもらうのって抵抗があると思う。と言うかそういうのに抵抗を感じない、羞恥心のないギャルっぽい子には店に来てほしくなくて、抵抗を感じる女の子だけを相手に商売したい。
 そこで考えた。いま執事喫茶というのが流行ってるでしょう。そして喫茶店以外にもいろいろな業種でそういうのがあるらしいじゃないですか。そこで、あれの下着屋版というのはどうか。
 つまり執事下着屋である。
 客はお嬢様となって、執事に下着を見立ててもらう。これはいい。なにしろ、「お嬢様は下賤の者に裸を見られても恥ずかしさを覚えない」という例の法則があるだろう。女の子ならいちどくらいこれをやってみたいはずなのである。男子が湯浴みの世話をしてくれる女官になんの反応も示さないのをやってみたいように、女子も絶対に潜在的にその願望を持っている。この願望によって営業は実にスムーズに進行すると思う。うん、非常にいい。
 ひとつ問題点があるとすれば、執事なんやら、みたいのに行くような女子はちょっとなあ……、という部分だろう。そういうのって結局は同人誌とか買う人が行くんでしょう? スカートの丈が長い人たちが行くんでしょう? じゃあダメじゃない。
 男性店員がアドバイスをくれる下着屋に抵抗なく行けてしまうようなギャルは嫌で、執事下着屋で自己陶酔プレイに興ぜられるようなオタクは嫌で、結局のところ、普通の下着屋に行って普通に下着を選ぶ子がいい。そういう、下着選びにおいて男子の存在を一切挟ませない子が好みで、そういう子の下着選びを手伝いたい。この因果。どう生きればいいのだろう。