2010.2.12

 別に書くことないなあ、と思って携帯電話のメモ欄を眺めたら、
『お兄ちゃんの命令で魔法少女ぷっぺろぱろぴんに変身したけど、これってハーレム状態における集団フェラチオって意味じゃない!』
 という書き込みがあって、ちょっとおもしろかった。魔法少女ぷっぺろぱろぴん。cozy ripple内で見渡したとき、まひろ以外に相応しい人物はいない気がする。ホガラカノイロオゼは今後そういう展開になってゆくのかな。それは朗らかなノイローゼだな。
 読んでいたエロ小説で、対象となる女の子のひとりがグラビアアイドルを生業としていて、その子の扇情的な姿を見た主人公が思わず勃起をしてしまい、それはまだその子とそういう関係になっていない状態でのことだったので、主人公は勃起を隠そうとするのだけど、それに気付いた女の子は優しく「私の仕事は男の人に興奮してもらうことだから、そうなってくれるのは嬉しいのよ」と勃起のことを受け入れてくれる、というシーンがあり、なるほどなあと思った。グラビアアイドルには勃起を見せてもいいんだな。俺はまたひとつ賢くなった。

2010.2.11

 7時頃に起き、8時頃に出発する。僕の運転。霧雨。
 道はすごく順調だった。ほぼいちども渋滞に巻き込まれずに済んだ。ファルマン家の面々と違って僕はきわめて安全運転だが、それでも高速道路でシュパーッと行くと気持ちがいい。前方にノロノロ走る車があって、それが特別に遅いのでさすがに追越し車線に出て追い越したら、助手席のファルマンが「イカスじゃん」と言ったので、やっすい女だな! と思った。お前は湘南爆走族か。
 山梨の祖母の所へは2時間で着けば上々だとされるが、そこより先にある法事が行なわれる寺に直行し、そのくらいの所要時間だったので、本当に道路状況は快適なものだった。
 11時集合のところを10時半くらいに着く。主催者側の祖母と叔父はもう来ていた。ちなみに叔父は免許を持っていないので、家から車で30分くらいのこの寺までは、祖母の運転で来ているのだよな、とふと思った。なんか変なの。さらに言えば祖母の車は年代もののマニュアル車なのだ。お前オートマ限定でいいから免許取れよ、とさすがに思う。叔父は酒が飲めないので、冠婚葬祭のドライバー役としては適任なのになあ。
 11時が近付いて、続々と参加者がやってくる。祖母のきょうだい(夫婦)と祖父のきょうだい(夫婦)。今回が祖父の二十三回忌で、前回にこの方々と会ったのは十三回忌の際だったと思うので、たぶん10年ぶり。懐かしい。みんなぜんぜん見た目が変わってなくてウケた。70歳だった人が80歳になっているはずなのだが、もうこの年齢だとほとんど変化がないのだな。こっちばかりが16歳から26歳になり、目まぐるしい変貌を提供している。お嫁さんなんか連れてきちゃってね。
 そう言えば書いていなかったが、変化と言えば結婚して子どもを生んだ姉なのだが、今回はその子ども、姪が体調不良ということで参加を見合わせたのだった。1歳半の姪がいれば場が華やいだだろうに、そのせいで今回の最年少は僕になってしまった。平均年齢高いな。
 ところで参加者の祖父母のきょうだいとその配偶者なのだが、これは前々からだけど、そこの区別が僕にはまるでつかないのだった。誰と誰がきょうだいで、血の繋がりがあるのかないのか、ぜんぜん判らない。たぶん初めは「お嫁さん」だった人も、半世紀も親戚付き合いしているうちに完全に同化してしまったんだろう。もう逆に全員に血の繋がりがなくて、単なる老人会の集いのような感じがある。島根県出身者が驚愕するほどのざっくばらんさなのだった。
 お坊さんによるお経は、中央に祭壇を置いて、右に男性陣、左に女性陣と分かれて聴く。お焼香の段になって、男女それぞれふたりずつ出てきてやるのだが、まずこっちからは叔父と僕、あっちからは祖母と母が出て、なので僕が席に戻ってから女性陣の第2陣としてファルマンが出てきて、ファルマンは事前から「私は葬式も法事もやったことがないから、あのお焼香? のやり方とかもぜんぜん分からないんだけど……」と不安がっていて、なので僕は「横の人の真似してやればいいんだよ(ニヤニヤ)」とアドバイスしており、妻がどぎまぎしながらがんばる様子を愉しんで眺めた。たどたどしい動きで中央に出てきたファルマンは、言われたとおりに一緒に出てきたおばちゃん(たしか祖父の妹)の真似をしてやっていたが、単なるおばちゃんの癖らしい左手の動きまでをトレースしていて、阿呆でとてもおかしかった。
 そんな感じでお経が終わったあとは墓参り。霧雨の中、みんなでぞろぞろと墓のほうへ。霧雨と言いつつまあまあ降っているのだが、誰も傘を差さずにずんずん行く。びっくりした。思いっきり甲州弁でズラズラ言ってるが、もしかしてみんなイギリス人なんじゃないかと思った。
 墓前に立ち、祖母が線香の束に火をつけるのだが、もう何年も前からこの際の「火を怖がらなさすぎる祖母」というのがお約束のギャグのようになっている。今回もびっくりするくらい怖がってなかった。見ているこっちばかりが怖い。しかも今回は老人の密度が高いのだ。なんか簡単に誰かの髪の毛に火が燃え移る的なハプニングが起こりそうなのに、これが意外と起こらないのだよな。さすが戦争をくぐり抜けた世代は強いものだ。
 墓参りのあとは少し移動し、近くの店で会食。豪華な食事だった。肉やら刺身やら蟹やら、たらふく食べる。ビールも飲んでしまう。まあどうせ飲まずにはおれないだろう、帰りは母が運転するからいいやとは思っていたが、しかしそれでもあんまりアルコールが入っていると車で気分が悪くなるのでなるべく控えめにしておこう、などと考えていたのだが、料理が豪勢で否が応でも酒が進んだのと、普通の瓶ビールを注文したあとに男性陣が「ノンアルコールのビールがいい」と言い出し、ほとんどの人がそちらに行ってしまったので、テーブルに残る瓶ビールを処理せねば、という義務感からがんばってたくさん飲んでしまった。結局こうなる。
 料理は26歳の僕でも多いくらいだったので、老婆どもが喰い切れるはずもない。店の人からパックをもらい、「私たちは食べ物のない時代に育ったから食べ物を捨てないんだよ」と、別にこっちが聞いていないことを言いながらパックに詰めていた。刺身もパックに詰めながら、「これは甘辛く煮ればいいずら」「刺身は甘辛く煮ればいいずらよ」「甘辛く煮るずら」「煮るずら、甘辛く」と口々に言っていて、これもおもしろかった。老婆たちの篤い甘辛く煮る信仰。
 2時半頃になってそろそろ解散。雪が降りそうとのことで、僕たち3人も早々に帰宅の途に就く。帰りも道は空いていた。酒が入った僕も、緊張して疲れたらしいファルマンも、車中で眠りに落ちた。帰りはたまプラーザの実家には戻らず、調布インターを降りてすぐ、調布駅前で降ろしてもらう。そこから新宿に出て帰った。スマートやね。
 なんか単純に法事として、山梨に行かなきゃなんねんだなあ、くらいに考えていたが、行ってみたら割と愉しかった。親戚のじいさんばあさんたち、意外なまでにエンターテイメント性に富んでいて愉しい。こうして10年にいちどくらい法事で会う分にはいいな。

2010.2.9

 先日の、女性器のことも「ちんこ」って呼んじゃえばいいじゃんという話について、メールフォームからご意見が届く。普段からちょくちょくお褒めの言葉をくれる人から。曰く、『私が育った広島あたりでは昔から女性器のことも「ちんこ」「おちんちん」などと呼んでいました』、とのこと。
 マジか! 頭の中で到達した結論が、すでに現実で存在していたとは。びっくり!
 さらには、あえて男性器のことを呼ぶ場合は「ちんぼ」「ちんぽ」と言う人もいる、とも書いてあり、だとすればそれはやっぱり「棒」からの変化なのだな、とこれにも大いに感心した。
 つまり「酒(き)の玉」→「金玉」→「ちんたま」→「ちんちん」となって、この「ちんちん」が男性器に限らず両性の性器を表す言葉に変化して、男性だと「ちんちん棒」だから「ちんぼ」「ちんぽ」になり、これは勝手な解釈だけど女性の場合は「子を宿すちんちん」なので「ちんこ」になったんじゃないだろうか。さすがに最後のは理屈で考えすぎかな。
 メールをくれたその人自身はそういう使い分けはしないようで、その「ちんこ」が「男性器」なのか「女性器」なのかは文脈で判断するスタンスらしいが、とりあえず僕はこの話になかなか感動したので、これからは「ちんちん」と言ったら「性器」、「ちんぽ」と言ったら「男性器」、「ちんこ」と言ったら「女性器」という感じで使い分けてゆこうと思った。あくまでこっから。これまでさんざん、ファルマンから「はてなアンテナから外したいわ……」と嘆かれるほどに「ちんこ」の話をたくさんしてきて、そのこれまでの「ちんこ」は完全に「男性器」として書いてきたわけだが、今日以降の記事からは、「ちんこ」は「女性器」となります。ご注意ください。

2010.2.8

 エロ小説を読んでいたら、女の子たちが本当にちんこのことを好きで、それがあまりにもすさまじい度合なので、俺なんて既婚者なのに、高校1年生とかじゃないのに、それでもなお(もしかしたら女の子って本当にこんなにちんこのことが好きで好きでしょうがない生きものなんじゃないか?)という疑問に囚われた。それほどに好きだった。
 今日読んだ本は、狙ったわけではないけどタイムリーにバレンタインの話で、女の子たちは主人公のちんこにチョコレートを垂らし、「チョコバナナだー」と言いながら奪い合うようにペロペロと舐めていた。創作だから多少オーバーに描かれていると理解して、実際はこれの半分くらいの度合だとしても、それでも十分なレベルに女の子たちはだいぶちんこのことが好きっぽい。
 当然ながら精液も喜んで飲む。もう大好物らしい。最近こういう精飲ものを読むと、前に自分が書いた精液蛇口化計画のことを想起する。これは我ながら本当にいいアイディアだと思っているので、あるとき職場で同僚たちに向かって語ったのだけど、なんかあんまりピンと来られなくって残念だった。女の子に精液をゴクゴク飲まれる世界について、世間の人はあんまり普段から考えているわけではないらしいよ。注意されたし。それと「精飲」って普通に存在する言葉だと思っていたら、今「せいいん」と打っても変換されなかったので少し驚いた。
 読みながら、この女の子たちの舌には特殊なベロメーターがついていて、優れた遺伝子を持つ男性の精子は本当においしく感じられ、自然とその相手との子作りに意識が向かう、みたいなそういうシステムになっているんじゃないかと思った。すごいなそれ。もしかしたら純粋理性批判も社会契約論もぜんぶ、そういう機能のついたセクサロイドの生活を描いた近未来SFなのかもしれない。それと「セクサロイド」って普通に存在する言葉だと思っていたら、今「せくさろいど」と打っても変換されなくて少し驚いた。

2010.2.7

 新宗教の本を読んでいるが、それによると新宗教というのは文明開化とか世界大戦とか、人々のそれまでの価値観がひっくり返ったり生活が不安に晒されたりしたときに流行るらしい。だとすればこれからはなかなか流行らないだろうな、と思う。ネットで世界に向けて発信できるようになったことで、それまで宗教によって救済されていた精神が、宗教なしでだいぶ救われうる世の中になったんじゃないかと思う。安心となる大きなものとの対話というのが、これまでは神がその相手だったけど、今はネットによってそれが「人類全体」に変わっている気がする。言わばそれぞれの人が悩める子羊であると同時に、ちょっとずつ神なのだ。なんかこれって進んでいるようで、一方で集団でひとつの個となるアリとかハチみたいな感じもあるけど。
 だとすればツイッターというのは念仏みたいなものかもしれないと思う。あれは不安に苛まれる子羊たちの、認知という救済を求める叫びなのかもしれない。50年後、現代で言うところのピンチに陥った老婆が「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ……」と唱える感じで、老いた僕たちがピンチになるとすぐにツイッターに書き込みをしようとするのを、なんかネットのまたその先の観念を持った若者は嗤うのかもしれないな。

2010.2.7

 18禁というわけではないんだけどとりあえずエロい、という感じのマンガを読んでいて、そうしたらそういうのってがっちりしたエロマンガほどセックスへの意識が濃厚には描かれないものだから、登場する女の子たちが逆に、理屈なしにただ単にひどくエロくて、主人公のちんこを「わーい」とか「きゃあ」とか言いながら明るく欲しがってきて、主人公も別に困りも悩みもせずぴゅっぴゅぴゅっぴゅと射精していて、ああなんかこういうのもいいな、などと思った。いま特に悩みごとらしい悩みごとがなくて、日々エロいことばかり考えて生きているが、そのエロさえもそんな風に恬然と描かれてしまったら、なんかもう本格的にふわふわとハッピーな感じになることだ。

2010.2.6

 思春期の女の子の生態について書かれた本を読んでいて、二次性徴の渦中にいる女の子が、だんだん生え揃ってきた自分の陰毛のことを「チン毛」と呼ぶ箇所があり、興奮した。
 なるほどチン毛、いいかもしれない。ちんこならいくらでも言えるが、なんだかんだでそれに対応する女性器の呼称って口にしにくい。こんなにちんこちんこ言っている僕でもそうなのだから、世間的にはなおさらだろう。前に読んだ本で、学校教育において児童たちにその部分をどう呼ばせればよいかという大真面目の議論があり、男子のが「おちんちん」とか「ちんこ」とか呼ばせやすいのに対し、女子のは決定まで非常に難儀して、難儀した結果「われめちゃん」と呼ばせることにしたのだけどこれがまったく浸透しなかった、という話があった。そのくらい女性器って呼ぶのに苦労するものなのだ。なんと言うか、ちんこほどあっけらかんとしていないのが原因だと思う。笑って話せない感じが、気さくな呼称を拒んでいるのだ。少女は「マン毛」への違和感から、そのすぐ横にあった「チン毛」を手に取ったのだろう。解る。解るよ。
 そこで、じゃあもういっそ上記の「チン毛」からの発想で、女の子のそれも「おちんちん」「ちんこ」でいいんじゃないかと思った。男性器のみを表す言葉だった「ちんこ」の意味を拡大し、「性器」という意味にすれば、女の子にも「ちんこ」が使えるようになる。それでいいんじゃないかと思う。
 「いろの辞典」(文芸社)によると「ちんこ」っていうのは、まず精液が当時の酒(どぶろく的な)に似ており、そこからそれを製造している睾丸のことを酒(き)の玉と呼ぶようになり、それがキンタマとなり、チンタマとなり、チンコとなり、チンチンとなり、それの陰茎部分についてのみ言う場合がチン棒となり、チンポとなった、と説明されるわけだが、そのように紆余曲折あった「ちんこ」の旅なのだから、さらにそこからコペルニクス的転回で、女の子の性器のことも「ちんこ」と言ってしまうようになってもいいような気がするのだ。
 先日キルタイムコミュニケーションの小説の話でも出たが、キリスト教神学者が理想とした両性具有的な発想、それにもこれは対応するのではないかと思う。どっちにもちんこがあって、どっちにも穴がある。「女の子のおちんちん」と言うと直感的にクリトリスを連想するが、あなたそれは現代にありがちな唯棒主義というものですよ。「おちんちん」が棒と陰嚢を併せた呼称だとすれば、発生の仕組みから考えると、棒はたしかにクリトリスだけど、陰嚢は塞がれた大陰唇なのであり、そして僕らが「まんこ」って言うときのそれはクリトリスと言うよりは大陰唇のほうなのだから、やはり全体で「ちんこ」で間違いないのだと思う。
 思いついただけなのでまだ実際問題としてどうなのか、女の子が本当に自分の性器のことを「ちんこ」とか「おちんちん」とか呼ぶと僕の精神にどんな効果が現れるのか、いまいち掴めない。なので実験として、とりあえず宇佐木学園の少女たちに実践してもらおうと思う。そんなわけでずいぶん久しぶりに中埜版を更新。8月3日午後4時20分。
 自分のことを「ボク」と呼んでしまうボクっ子というジャンルがあるだろう。学年題で言うと中1の。もしかするとそれみたいな感じになるんじゃないかと思う。ちんこっ子という新ジャンルの幕開け。「ふたなり」(両性具有)とも「男の娘」(見た目どう考えても美少女の男の子)とも違う、自分の性器のことを「ちんこ」と呼んでしまう「ちんこっ子」。どうだ。

2010.2.5

 ポニョを観る。レンタルで観て以来なので2度目。やっぱりおもしろい。そしてやはり「ハムが好き」に深く感じ入る。宮崎駿はとうとう保育園の経営を始めたらしいが、たぶんそこで園児たちを2万時間くらいジッと見つめ、その末に「ハムだ……!」と気付いたのだと思う。「ハムが好き」にはそういう奥行きを感じる。しかし保育園なあ。ある特定の女の子に目をつけるんじゃなくて、保育園を経営するというのがさすがだと思う。特定の女の子は成長しちゃうけど、保育園なら視界に入る女の子は永遠に5歳以下だもんな。きっとあんなに優しかった園長先生は、10年後くらいに卒園生が顔を出したら烈火のごとく怒り狂うに違いない。
 もう何度も言っている気がするが、僕もなんかしらの大家になって全寮制中高一貫女子校を経営したいな。そんで思春期の少女たちを2万時間くらい眺めた末に、「ハムだ……!」的ななにかを発見するの。いいなあ。はむだてきななにか!

2010.2.5

 横浜市で女子生徒とキスをした20代の中学校教員が懲戒免職、というニュースを見る。なんか精神がざわついた。昨夏に生徒のほうからアプローチを掛けてきたとのことで、なんだかなあと思った。キスしたり、抱きしめたり、下腹部を触っちゃったりしたんだって。そうかあ。下腹部を触っちゃったりしたかあ。下腹部かあ。下腹部ねえ。
 読んでいたエロ小説で、寝起きの主人公の思考としてこんな一文があった。
(う~ん、もう朝か……って、なんかチ×ポがすごく気持ちいいんだけど?)
 なんかこの一文っておもしろいと思った。昨日の話に関連して、ちょっとツイッターのことを想起する。「起きたなう」じゃちっともおもしろくないけど、「もう朝か……って、なんかチ×ポがすごく気持ちいいんだけど?」ならだいぶおもしろいと思う。そう考えるとツイッター、たとえば大神先生になりすましてやるとかなら、おもしろさを見出せるかもしれない。「美術部のヌードモデルなう」とか「2年ほがらか組の胸囲測定なう」とか。まあ砂利とかで遊ぶ昔の子どもじゃあるまいし、そこまでしてつまんないものに無理に愉しさを見出そうとする必要もないんだけど。

2010.2.4

 ヤフーニュースに「若者のブログ離れ」とか「ダダ漏れ女子」とかっていう記事が出ていて、なんかいろいろ考えさせられた。僕はもう時代遅れらしいブログの地点にすっかり居ついてしまい、それ以降のツイッターやダダ漏れにはものすごい拒否感がある。
 レコード好きの中年とかがよく、「CDやデータの音楽では、圧縮された最低限の音しか再現できていないから、軽いんだよね。レコードには人の耳では聴こえない音域まで入っているから、それが聴いていて身体全体に心地よさを与えてくれるんだ」みたいなことを言うが、それとまったく同じように、ブログを賛美してツイッターやダダ漏れを貶めたい。ツイッターやダダ漏れでは、目に見える最低限の表層部分までしか表現できない。つながりとか情報とかデータとか、そういう浅ましい部分しか掬い取れない。
 これは本の辞書と電子辞書にも似ていて、よく言われることだが、電子辞書は指定した言葉を的確にピタッと示してくれるだけなのに対し、本の辞書ではページをめくって探し出し、その途中で別のおもしろい言葉を発見したりできるだろう。そしてそういうのを見つけたときに頭に入ってくるのは、情報とか知識とかっていうつまらない言葉で呼ぶものじゃなく、エキサイティングな快感なのだ。情報や知識が大河なら、それは言わば支流で、でも支流があちこちにできると、そこに人がやってきて集落ができる気がする。雑学と言ってしまうと非常につまらないのだけど、脳の中でそういうことが起こっている感じがたしかにあるのです茂木先生。
 ブログの文章ってたしかに冗長なところがある。どう考えても読むのがだるいブログというのはある。クチバシダイアリー筆頭に、むしろそっちのほうが多い。文章を書く奴というのはどうしたって書いているうちに調子に乗って、自分が書きたいだけのこと、閲覧者のほとんどが知りたくもないだろうことまでを書いてしまうものなのだ。それがあまりにもひどいときは読まなければいいだけの話で(足跡なんかつかないので安心です)、でもがんばってそういうのを読むと、けっこう辞書の途中のページで見つけたおもしろい言葉的な、なんか自分にとっておもしろく感じられるものがけっこう書いてあったりする。そういうのがブログの味わいだろうと思う。
 そう考えるとブロガーというのは、編纂者みたいなものなのだと思う。辞書だって、同じ日本語について書かれたものでも編纂者によって内容が大きく変わったりする。同じ日を生きていても、編纂者によって世界は変容するのだ。「朝青龍の引退ショック」とか「『アバター』観てきた。感動」とか、最低限の情報を伝えるだけだとみんな同じになっちゃうじゃないか。
 俳句って17文字しかなくて、しかも季題俳句だとみんなで共通の季題を入れなくちゃならなくて、じゃあ他の人と17文字まったく同じ句っていうのもできちゃわないのかな、と思うが、これが意外とできない。ビギナーばかり集めたカルチャーセンターの実作とかでは、みんな月並のつまんないのしか作らないから、「陽が差して梅のつぼみが笑ってる」みたいなのが思いっきり被ったりするのかもしれないけど、でも基本的には滅多にない。これはなぜかと言えば、俳句には情報がなくて、ほぼ支流そのものだからなんだろう。誰かに伝えようとも思わず、自分の言いたいことを言うだけなので、内側の研ぎ澄まされた部分だけなのだ。詩なんだもの。自分とまったく同じことを考えている人なんていないのだから、それなら被るわけがない。
 しかしそれと同じ文字量で情報を伝えようと思ったら、それは被るに決まってる。被って、そしてぜんぜんおもしろくなくなる。お前とお前とお前は発言しなくてもよくなる。
 リアルタイムで話し合いができるから企業などで便利、というのはまあ分かる。ビジネスツールのことなんてぜんぜん知らんから、勝手にすればいいと思う。じゃあツイッターのなにが嫌って、「情報」とか「意見」とか「ログ」とか、本当は単なるチャットへの書き込みに過ぎないくせに、このブログ様の「記事」というすんばらしいものと、ちょっと同等、あるいはそれ以上みたいな扱いだったりするじゃないか。編纂してないくせに。工夫してないくせに。ただ漏らしているだけのくせに。ああだこうだ言ったが、要するにツイッターのそこが嫌だ。ぽっと出のお前が口のうまさだけでお殿様に重用されてしまったら、実直に米を作ってきた我々の立場はどうなる。

2010.2.3

 今日読んでいたエロ小説の主人公の年齢が、「中学に入ったばかり」という記述があったのでおそらく12歳で、なんとも言えない気持ちになる。下の毛も生えていないそうだ。それで4人の年上女性を相手していた。ちなみに年上と言っても上は24歳、下は16歳。全体的に若い。
 中学1年生と言えば、ちょっと前にも触れた昔の知り合いだ。彼はリアルで初体験が中学1年生だったという。だからこれは思っているほど荒唐無稽な話ではないということだ。そして前々から何度も何度も何度も繰り返しているように、中高生女子というのは実はものすごくエッチな生きものなので、そんな悪くは思っていない経験豊富らしい同級生が、こっちの世界のことなんなら俺が教えてやろっか的な感じで話を持ちかけてきたら、割と高確率で誘いに乗ってくるのだろうから、中学1年生で経験した男というのは、中高の6年間できっと4人ではぜんぜん済まない数の女の子を相手にする結果になるのだと思う。だから最終的には複数人の女の子がみんなでちんこを奪い合うような図になるのも、まったくもって荒唐無稽じゃない。そんなことを荒唐無稽だと思うほうがよっぽど荒唐無稽なんだと思う。だいぶ前に書いた、「1年生と3年生じゃ肌の感じがぜんぜん違えんだよ」という話を思い出す。2年くらい前から俺、ずっと同じこと言ってんのな。
 ところで中学1年生でやりまくり、と言えば彼がいることに気付いた。宇佐木学園ぴょんぴょんブログの、中埜新である。中1で女の子のことを知っちゃったりしたら想像力のない大人になっちゃうよバーカ! と言いつつ、やっぱりそちらの人生への憧憬というのも拭いきれないらしい。だからなんか、ついにはそれを主人公にした話をブログで書き始めちゃったらしい。
 またここまで考えて、昨日の話っていうのはじゃあ大神先生のほうか、と思い至る。精液ならぬ安心液を神様が信者らに与えてくれる、争いが起きないよう朝勃ち当番が厳格に定められている、300人から1000人くらいの小さなコミュニティ。それってそのまんま宇佐木学園じゃん。
 理屈よりも先に物語が作られていた、ということか。つまり宇佐木学園のそのふたりというのは、「中1で童貞喪失」と「男根安心教の教祖」という僕のふたつのアガペーを叶えるために作られていたのだ。ババーン! アガペーって意味がよく分からないまま使ってみたけど、きっとこんな風な、それっぽいことを言っているときのまとめとしての難しめの言葉が出てこない、みたいなときに使えばいい便利なワードなんだと思う。
 また誰も分析してくれないから自分でやった。

2010.2.2

 さまざまなタイプの新興宗教が紹介されている本をいま読んでいるのだけど、そこで紹介されている、300人から1000人くらいしか信者がいない中小企業的な宗教の感じに憧れる。
 教祖が、神様なんだけど、でも同時に気のいい「おっちゃん」でもあるみたいな、アットホームな感じがいい。おっちゃんは実は神様ではなくて、ご信託は人生の先輩としての助言でしかないのだけど、でも悩める信者が彼に相談をして、もらったアドバイスを実行することで心が晴れやかになるのなら、やっぱりそれは立派に宗教なんだと思う。たまに美人が相談しに来ると密室相談になって、わいせつ罪で摘発されちゃったりするのもご愛嬌。「おっちゃんまたやっちゃったらしいよ」みたいな感じで信者たちも笑って済ませてくれる。いいなあ。僕の人生の目標は「尊敬されつつ呆れられたい」なので、まさにこれに近い気がする。「おっちゃんまた『ハーレムしたい』『ハーレムしたい』って言ってるよ」「死ぬ前に1回くらいやらせてあげる?」って心の優しい女子高生信者に気遣われたい。女子高生信者に気遣われる、っていいな。
 それにしても宗教っていうのは結局は「安心感」なのだよな。哲学的な不安とかだと、そこから精神を安心へ持ってゆくには高次の論理が必要なのだろうけど、たとえば「姑と仲良くできません」「トイレ掃除に励むのじゃ」みたいのだと、アドバイスにしたがってトイレ掃除をして、それにより姑と仲良くできるに違いないと安心し、鷹揚とした心で姑と接するようになれば、実際に明るく仲良くできたりする。そういうちょっとした不安を取り除くプラシーボ効果的なことこそが、中小企業的なおっちゃん宗教の役目なんだと思う。大事な役目だ。
 同時に読んでいたエロ小説で、初体験の女の子が主人公の命令によりシックスナインの体勢になっていたのだが、主人公に陰部を刺激されイキそうになると「怖い」と言って不安になってしまう、これを主人公は、「ちんこに掴まらせる」という方法で女の子に安心感を与えていて、なるほどなあと思った。落ちそうな飛行機で必死に座席を掴んでしまうみたいな、不安なときってとにかく硬い、芯の通ったものを掴みたくなるものだ。だとすればちんこってそれにいちばん相応しいツールなんじゃないか。そう言えば「挿れられているときがいちばん安心できる」みたいな、愛のない家庭に育ち夜の街を徘徊するセックス依存少女とかが、よくそういうことを言うだろう(実際に言っているところを見たことはないけれども)。
 なるほどなあ、ちんこで安心かあ、と唸りたい気持ちになる。初体験からシックスナインってハードル高くないだろうか、と思いがちだが、実はちんこを提示してあげたほうが優しいということ。
 そう言えばハーレムのときも、代わる代わる別の女の子に挿入してゆく際、挿入されていないときの女の子ってやけに不安そうだ。それで、やっと順番が回って挿れられる段になると、「ああっ、やっときたっ。こ、これなのっ」という風に安心する(実際に見たことはないが)。
 そうなのだ、ちんこはいつだって安心と結びついていたんじゃないか。
 それで思い出されるのは、僕が大学時代に構想していた宗教、「感動の愛撫教」のことである。これは「挿入ほど大掛かりな話じゃなくて、挿入とかすると実際シャレにならない感じも出てくるので、フリー愛撫で気持ちよくなってしあわせになってゆこう」というコンセプトだった。フリーハグよりもだいぶ世界を意識しない感じで、ああいう「差別とかなしに宇宙船地球号の乗組員として立派な心掛けだから俺を褒めて褒めて、広告料ちょうだい、アフィリエイトちょうだい」的な、いかにも欧米らしい下品な感じは一切なく、ただ自分のほんのりと上気する幸福感のみを希求してゆく、そういう慎ましやかな救済。これなんかまさに上のシックスナインの話そのままだと思う。ちんこから出るのは精液なんかじゃなくて、本当は安心液なんじゃないのかな。おっちゃんの安心液、お嬢ちゃん欲しいやろ。プロッペパッピローニ!
 ところでちんこで思い出したのだけど、今週発売の低俗系の週刊雑誌では、パラパラと雑に読んだだけでも、恵方巻きとフェラチオを引っ掛けたネタがいくつもあって、阿呆だなあと思った。とは言え天狗の鼻みたいな感じで、いちおう祭事なのだし、恵方巻きというのもそもそもは本当に男根のメタファーなのかもしれないとも思う。昔からの風習のほとんどは五穀豊穣、子孫繁栄の願いがこもっていて、すべてにちんこを結びつけるのもあながち間違っていない。それどころか発想法として正攻法でさえある。だとすると毎年恵方という方角が変わるのは、それぞれの方角の神様に奉仕するためか。図式としてはひとりの女子マネージャーが裸の野球部員に取り囲まれ、「最初は西南西キャプテンのやつな」「次は北東北先輩のやつだよ」と代わる代わるちんこを咥えさせられているようなものなのかもしれない。でもそれが女子マネージャーの安心に繋がるのならそれでいいよね。「マネージャーがこれしてくれないと甲子園行けねえよ」とか言われたら、やらない限り不安だもの。なかなか順番が回ってこない2年生たちはそのうちしびれを切らし、マネージャーの豆を1000本ノックで複和打ちしはじめる……。しかもその間、マネージャーは絶対に声を漏らしてはいけない。無言で一気にやらないといけない。だって監督に見つかったらどやされっから。だからマジ鬼監督が外にいる間にみんなで複和打ちし終えねえとやべえからマジで。

2010.2.1

 雪混じりの冷たい雨、というくらいのときに外出したら、傘を持ってこなかったらしい女子高生3人組が「わーっ」って言いながら道を駆けてゆくのを目にし、しあわせな気持ちになった。夕立にしろプールにしろお風呂にしろ精液にしろ、女子高生は汁気があればあるほどかわいいなあ。女子高生のイデアというのがそこにあるんじゃないかと思う。女子高生とは汁気と見つけたり。いつかコップの中の水に萌えられる日が来るかな。
 帰宅してからファルマンと家の外にちょっと出る。3センチほど積もった雪をサクサクと踏んで遊んだ。なんだかんだで雪が積もるとテンションが上がる。隣にいたのが好きな女子だったので、雪玉を投げていじめてやった。ファルマンは学校でいじめられて帰ると、母親から「それはその子がファルマンのことを好きってことなんだよ」と慰められたそうだ。それでファルマンはクラス中の男子が自分のことを好きなんだと勘違いしていた、という初めて聞いたとき泣きそうになった哀しいお話がある。マカロン嫌いの妻の心の闇。処女雪のような俺の心。

2010.1.30



 春先



 ふきのとうが顔を出したよ
 
 ふきのとうって言ってもあっちのふきのとうじゃなくて
 
 こっちのやつ
 
 ふきのとうは春の先っぽ
 
 かわいい春の先っぽ
 
 先っぽをくすぐるあたたかな世界
 
 さ、3人がかりでだなんて凄すぎます
 
 あなた、春からの新入生でしょ
 
 いいこと? 入学したら絶対に美術部に入ること
 
 先輩命令なんだからね
 
 思わず頷いてしまう俺のふきのとう
 
 ほろ苦い春先の出来事
 

2010.1.29

 高校生の書くブログが好きだ。
 でもなんでもいいというわけじゃなくて、改行ばっかりのケータイ的なやつは嫌だし、ユーチューブとか2ちゃん用語ばかりのも嫌だ。ちゃんと高校生活を丁寧に綴った「日記」が読みたいのだ。
 でもそういう丁寧に綴る高校生日記のジレンマとして、丁寧に綴るべき内容のある充実した高校生活を送っている高校生にはブログよりもおもしろいことがたくさんあるため、ブログにそんなに時間を割かないというのがある。よってそういうブログは絶対数がきわめて少ないし、更新ペースも遅い。あるいはもう完全に放置されてしまっていたりする。ブログが地下資源であったなら、高校生の日記ブログは確実に宝石だ。
 だとすればそれを目指して開設した「ホガラカノイロオゼ」は、人工ダイヤモンドみたいなものなんじゃないかと思った。素人目には天然とまるで見分けがつかない人工ダイヤモンド、そんなものになる予定だった。それがなぜか、自分が求める高校生日記ブログに、書いていて一向にならない。むしろ書けば書くほどそこから乖離している。
 これはいったいなんでだろうとファルマンに相談したら、「それはあなたがリアルな女子高生と触れ合った経験がないからだよ」と言われ、えっそんなことないよなに言ってんの、と思ったのだけど、振り返ってみればそれは紛れもない事実だった。こんなにも女子高生女子高生と、日々デザイナーにおけるフォトショップくらいの扱いで語っているのに、僕は女子高生と触れ合った経験がほぼ皆無なのだった。なんかすごく語っているうちに、もちろん放課後の美術室でエッチなことをしたりはできなかったものの、それでもそれなりに、同じ班の子とふたりでグループ発表のために必要な資料を区の図書館に借りに行って、その帰りにサーティーワンに寄って(やけに暑い日だったから)、お互いの知っているクラスの男子と女子の好きな相手のこととか暴露しながらアイスを食べたことはあるくらいの気持ちになっていた。なかった。高校3年生になって通い始めた予備校では、1年間だれとも喋らなかったんじゃないか。ハッとした。
 経験が「ほぼ」皆無としたのは、義妹らとは義妹らが女子高生だったときに絡んだからだ。こんな風に、僕のすべての異性に関する人生経験は、義妹によってもたらされればいいと思う。
 さしあたって僕にはプッペロりたいという夢があるのだけど、それも義妹らが叶えてくれないものかな。ちなみに今年の正月、義妹らとドラクエ9で通信プレイしたが、あれってある意味3Pだよな、などと思う。もうドラえもん! 3Pは3Pでもそっちの3Pじゃないよ!
 ぷっぺろぱろぴんのほう!

2010.1.28

 エロ小説を読むのが止まらない。呼吸をするかのようにエロ小説を読んでいる。
 しかし純粋理性批判と社会契約論を合わせて、月間の供給数は5から7。圧倒的に供給数が足りない。未亡人とかが出てくるリアル系は読めないし。
 その点BLやハーレクインを好きな輩というのは恵まれていると思う。それだけ読んでいればしあわせというものが読みきれないくらいに供給される状況。うらやましい。
 特にハーレクインに憧れる。あれって多分ものすごいシステム化されていて、アメリカだかイギリスだか分からないけど、自国の読者だけに向けて作られるのであれば毎月あれほどの点数は刊行できないのだろうが、レーベルのファンが全世界にいて、各国の契約している会社なんかが原稿を購入してくれるから、ああいうことができているんだと思う。
 もっとも毎月「欲張りなシーク」とか「危険すぎるボス」とか、傍から見ると同じようなタイトルばかりが並んでいて、読まない側からすると意味が分からないのだけど、でもそれはきっとエロ小説もなんだろうなと思う。エロ小説だって読まない人にとっては毎月「いもうといっぱい天国」とか「メイドハーレムクラブ」とか、同じようなタイトルに見えるんだろう。そのように考えると僕はハーレクインのことも理解できる。同じように見えてぜんぜん違うんだよね。いや、一緒なんだけど、一緒だからこそ安心してずっと読んでいられるんだけど、でも違うんだよね。ひとつの大きな物語なんだけど、毎回ちがう所を切り取ってるんだよね。わかるわかるよ。
 そのように性質が似ているので、だったらエロ小説もハーレクインと同じようなことができるんじゃないかと思う。ハーレクインとはつまりロマンス小説で、全世界の少女の心を持った女性がロマンス需要を持っているから売れ続けているわけだろう。そう考えればエロ小説はロマンスなんかよりももっと全世界共通の需要があることがはっきりしている。最終的には女の子がみんな自分のちんこに群がってきてプッペロパロピる話なんて、全世界の男子が読みたいに決まっている。全世界の書店にハーレクインと同じポジションで純粋理性批判と社会契約論が設置できたら、ハーレクインと同じ感じで一定の層が確実に買ってゆくに違いないと思う。
 そうしたら市場の規模が大きくなるので、月間の刊行点数をもっと増やすことが可能となる。そんな壮大なスケールで実現する、エロ小説が僕に毎月読みきれないくらいの点数供給される状況。いいな。今こそ世界が手を合わせるときなんじゃないか。

2010.1.26

ぷっぺろぱろぴん! ハーレム状態におけるフェラチオ! 表面積の奪い合い!
 落語「表面積」のオチは「夢のどか」。この「夢のどか」って我ながらなかなかに素敵な考え方だと思う。「人生は邯鄲の夢」にも通じる軽み。プロペパピロウによるこのぷっぺろぱろぴんブログは、男子校に通う童貞少年の日本史の授業中に見た夢なのかもしれないね……。
 高校が男子校だったがために15歳から18歳の少女期を間近で観察することができなかったことが今生の最大の後悔事項だ、ということをさんざん語ってきたけれど、なんだかんだでそこがアイデンティティであったりもする。身近にいなかったからたくさん想像を膨らませて、こんな風に長い長い夢を、僕は木漏れ日を浴びながら見ることができている。そうか、僕は陽射しの中で遊び疲れて眠ってたのか(「少年期」より)。武田鉄矢の童貞喪失はいつだったんだろう。
 読んでいた本に、子どものとき完全に男女を分離して育てる外国の地域の話が載っていて、彼らというのは異性をほとんど知らずに育つため、大人になったら自分とたくさん違うところのある異性が、とても魅力的に映るのだというのを読んで、なるほどなあと思った。純粋理性批判にもそういう話がいくつもある。男性から隔離して育てられたお嬢様は、主人公の勃起に興味津々になる。しかも抵抗感がそもそもないので、無邪気に触ったり舐めたりする。
 昔の知り合いに、童貞喪失が中学1年生だった、という人がいて、聞いた直後はすごく羨ましくて身悶えたものだけど、今になってそれも、まあ良し悪しだなと思えるようになった。中1でセックスした人間には学年題俳句は作れないし、ぷっぺろぱろぴん! って唱えられないと思う。どちらがいいなんて誰にも言えない。みんな違って(阿呆以外)みんないい。
 こう思えるようになるまでに、4年くらいの歳月を必要としたけど。
 人は成長する。
 バンクーバーオリンピックが愉しみです。

2010.1.25

 エロ小説を読んでいて、やっぱりエロ小説の華はハーレムだな、としみじみと思うのだが、この大好物のハーレム状態、考えてみれば呼び方はどこまでいってもハーレムである。
 「いろの辞典」で調べてみても、「ハレム」の類義語として「後宮、閨房、ハーレム」と記されるのみだ。ちなみにここでの「ハレム」の説明は「イスラム教社会で、妻や妾などを隔離して特定の男性以外の出入りを禁じた婦人専用の部屋」としかなく、「複数人の女の子がみんなで仲良く俺のちんこを奪い合う状態」という説明はない。
 エロ小説っていうのは日本語のグランドラインで、いちばん芳醇に言葉を駆使しなければいけない最強のジャンルなのだから、言葉は多ければ多いほどいい。その状態を示す言葉が画一的に「ハーレム」であるのは健全じゃないと思う。そこで新しい表現を考える。
 「プッペロ」というのはどうだろう。
 この語源はギリシャ神話までさかのぼり、「複数人の女の子がみんなで仲良く俺のちんこを奪い合う状態」が大好きなギリシャの町民、プーロペ・パ・ピロウに由来する。彼は気分がいいときなどに、大好きな自分の名前をもじったフレーズ、「プッペロパロピン!」を部屋の角に向かってよく連呼したと言われる。その際、彼の前にある壁のシミが女の子のように見え、まるでピロウの夢がかなっているように見えたことから、「複数人の女の子がみんなで仲良く俺のちんこを奪い合う状態」のことを「プッペロ」と呼ぶようになった(ピロウの夢は生涯実現しなかった)。現代日本ではその状態になることを「プッペロる」とも言い、「進学したらその高校が去年まで女子校でさ、男子生徒は俺だけだったんだよ。マジプッペロったわ(笑)」のように用いられる。昼下がりのお茶会で女の子たちが、いたずらっぽく「お義兄ちゃんのこと今度プッペロっちゃおうよ」などと共謀する際の、「プッペ」のあたりの語感が甘美である(そもそも「プロペパピロウ」というペンネームが、「舌っ足らずな女の子がパ行を一生懸命言うかわいさ」を狙ったものである)。
 なかなかいい気がする。割とありな感じだ。気分がよくて思わず「プッペロパロピン!」と叫びたい気分なので、ついでにもうひとつ、フェラチオについても考えようと思う。こちらは「いろの辞典」に「口淫」「口戯」「吸茎」「ちんなめ」「尺八」とそこそこの数の類義語が載っているが、多くて悪いこともないのでひとつ新しく提唱したい。僕のエロ小説への恩返しだ。
 当然そこは「パロピン」である。
 そしてこれがなんか、意外なほどしっくり来る。ちんこを舐めたり咥えたりする行為のことを「パロピン」と呼ぶのは、不思議なほどに違和感がないと思う。なるほど「パロ」を「ピン」する感じでもあるし、あるいは「パ」を「ロピン」する感じでもある。どちらにせよ行為と語感の親和性が高い。
 この文章はハーレムの新しい呼び方を考えるのが主目的で、フェラチオのほうは完全に後付けだが、ひょっとするとこちらのほうが世間に浸透する可能性は高いかもしれない。そうなったら素敵だな。渋谷とかのパロピン大好き女子高生たちが、
「そう言えばパロピンのモデルになったパピロウって実在の人らしいよ」
「本当に? じゃあこれからパピロウのパをみんなでロピンしに行っちゃう?」
「えっ、プッペロるってこと?」
「いいね、それ!」
「じゃあエミとマユカも呼ばなきゃ!」
「よし決まり! プッペロパロピン!」
 なんて会話をするかもしれない。いいなあ。夢が広がるなあ。

2010.1.23

  お休みの土曜日。ファルマンと正午くらいまで眠る。休日の起床時間がだんだん遅くなってきた。正午て。1日の3分の1くらいはもうその時点で終わってしまっているじゃないか。
 朝ごはんを食べてからファルマンが「どっか出掛けたい」とか言い出す。そういうのは主張してもいいが、するなら昨晩のうちにだと思う。正午に起きてからそんなこと言われても、遊んでて暗くなってから帰宅するのが大嫌いな僕は、まるで気が進まない。
 それで協議した結果、家の近くから出ているバスで、隣町のちょっとした商業地域に行くことに。その街には品揃えがよくて気に入り、最近ちょくちょくひとりで通っている図書館がある。ちょうど前回に借りたものを返却して、新しいものを借りたいと思っていたところだった。
 いつもは自転車なので、バスで行くのは初めて。自転車だと重い本を何冊も背負って20分超漕がなければいけないが、バスだとチョー快適だった。あの自転車の労力は確実に210円なんて凌駕しているから、もう二度と自転車でなんか行かない。
 図書館は相変わらず品揃えがいい。10冊借りる。
 そのあとは帰りのバスの時間を確認してから、16時前というよく分からない時間帯の食事をとる。昼間からやっている居酒屋で、石焼ビビンバやフライドポテト。非常にビールが飲みたくなったが、なんとか耐えて頼まない。一瞬の快楽のために500円払ってビールを飲んで、しかも帰りにだるい感じになるより、家でコタツに入って飲んだほうが快適だと、最近になってやっときちんと実感した。大人になったものだ。ビビンバおいしかった。
 帰りのバスでは、途中の停留所でバスケ部の女子中学生が集団で乗車してくる。どうやら近くの中学校で練習試合があったらしい。健康的な感じでかわいかった。高校だとそうでもないけど、中学は運動部に所属している子のほうがそうでない子よりも格段にかわいいと思う。それにしたって今日の少女たちはあまりにかわいい、これはおっさんが若い子を愛でる的なかわいさではなく、もちろんそういう感じもあったけど、集団の中にふたりものすごくかわいい子がいて、ひとりは3年生っぽくてもうひとりは2年生っぽくて、そのふたりはそれほど仲良しという感じでもなかったけど、かわいさの質が非常に似ていて、それは「バスケ部所属の中学生女子」という割と細かい条件が共通なのだから当然と言えば当然なのだけど、それでなんかそのふたりの少女というのが、かわいさ交感と言うか、互いに相手についてなんかしらのプラス感情を持っている感じが窺えて、ああ3年生が卒業するときには抱擁しちゃったりするんだろうな、などと夕焼けのバスの中で思った。それであんまり見つめていたらファルマンから「よしな」と怒られた。かーちゃんゴメン。
 帰ってきてビールを飲む。うまーい。
 晩ごはんは22時近くになってラーメン。変な食生活の休日。

2010.1.22

 わが家のリビングには150冊近くの純粋理性批判が収められた本棚が鎮座しているのだが、もしもわが家に友達が来訪したなら、彼の話をふんふんと聞いて、聞いた末に「じゃあ君にはこれだよ」と150冊の中から1冊の純粋理性批判を選んで渡すことができるのではないかと思った。DJと言うかソムリエと言うか、君がいま望んでいるのはこれだね、的なそういうイメージ。でも「あ、自分官能小説とか読まないんで」と大抵の場合は断られるだろう。別にいいし。貸さんし。選ばんし。友達来んし。ばーかばーか。うっせーうっせーうっせーうっせー、プロペパピロウど根性。

2010.1.20

 昔のSEVENTEENを読んでいたら、「ウチらの休み時間の過ごし方」みたいな特集の中で、とんでもない遊びが紹介されているのを見つけた。
 なにかと言えば、野球拳である。
 とは言えそれはもちろんじゃんけんで負けるたびに1枚脱いでゆくあの野球拳ではなくて、ウチらver.の野球拳は、じゃんけんで負けるたびにスカートを1回折るのだそうである。これはすごい。考えた人は天才だと思う。ひと折りというのはたぶん3センチから4センチくらいだと思うから、じゃんけんで負けるたびにそのくらい、少女のスカートの生地が太腿をせり上がってゆくのだ。それってすごくいいと思う。野球拳の新機軸。ただ脱ぐのではなく、面積として衣服を捉える。こうしてフットボールの戦略というのはさらなる進化をしてゆくのだな。
 たとえば共学高校に通っているパラレルワールドの僕が、放課後の教室で窓の外の夕日を眺めながらアコーディオンの練習をしていたら、後ろで女子たちがワイワイと騒いでいる。ギャルっぽい感じの後藤が、図書委員の小野田さんを捕まえて、ほぼ無理やりに野球拳を始めたのだ。もちろん普通の野球拳なら小野田さんは本気で拒んだことだろう。しかしスカート折り野球拳なら抵抗は少ない。なにより勝負をけしかけてきた後藤は、折れてせいぜい2回くらいというほどに、はじめからスカートが短い。この学級でいちばんスカートが短いのが後藤なのだ。それに対して小野田さんのスカートは、生徒手帳に記載されている通り、膝の位置までちゃんとある。5回や6回負けたとしても、まだデッドラインには届かないだろう。そんな安心感もあって、小野田さんは勝負に乗ってしまう。しかし小野田さんは普段の休み時間トルストイを読んでばかりだから知らないだろうけど、後藤はじゃんけんに無類の強さを誇るのだ。そのことを知っている僕の、アコーディオンの左手のほうの空気を取り込む蛇腹の、なんて呼ぶのか分からないけどあの部分の動きは、自然と激しいものとなる。鳴り響く月の砂漠。しかし非情にも野球拳は開始されてしまう。じゃんけんぽん。後藤はパーで小野田さんはグー。小野田さんはちょっぴり唇を尖らせながらスカートを折る。普段は隠されている小野田さんの膝小僧が覗けた。白い。白いけど小野田さん、このままじゃまずいぜ――。勝負は進み、やはり後藤はじゃんけんで負けない。小野田さんのスカート丈はもはや後藤のそれと同じぐらいにまでなってしまっている。新鮮すぎるミニスカート姿の小野田さん。鳴り響く月の砂漠。小野田さんの顔からは完全に笑みが消えている。それに対し無敗の後藤は余裕の表情だ。じゃんけんぽん。後藤はパーで小野田さんはグー。これで小野田さんのスカート丈は後藤のそれを超える。学級でいまいちばん短いスカートを穿いているのは、あろうことか図書委員の小野田さんだ。小さくて持ち運びに便利な文庫本の高さよりも、はるかにそのスカート丈は短い。小野田さんの左の太腿のかなり上のほうの位置の背中側の内側らへんには、ほくろがあった。このほくろの存在を知っているのは間違いなくこの学園で僕だけだろう。鳴り響く月の砂漠。さあ次のじゃんけんで小野田さんはふたたび、学級でいちばんスカート丈が短い生徒の座を後藤に返上することができるだろうか。じゃんけんぽん。後藤がパーで小野田さんはグー。とうとうやってしまった。これで今から行なわれる小野田さんのスカート折りはこれまでのスカート折りとはぜんぜん違う。なぜならそれはショーツが公開されてしまうスカート折りなのだ。小野田さんはグーの形のまま固まった自分の手を、信じられないといった風にじっと見つめる。そんな小野田さんに向かって、後藤はにやけながらスカートを折るよう命じる。しかし小野田さんの手は腰に掛かったまま硬直してしまった。ここに女子しかいなかったら小野田さんだって、体育の授業とかもあるわけだし、ショーツを晒すのをそれほどはためらわないだろう。しかし男子の目がある。清純な彼女は、まだ異性に肌を晒したことなどないのに違いない。異性の目、要するに僕の視線が気になっているのだ。でも僕は決して気を遣って退場なんかしない。なぜなら僕はただ純粋に、音楽的見地からアコーディオンの練習をしているだけなのだから。だから僕のことを意識する小野田さんのほうが間違いで、逆にやらしいわけで、僕はぜんぜん居心地が悪くなることもなく、たまたま視界に入っている小野田さんのことをじっと見つめる。小野田さんの手が一向に動かないのを見て、後藤が言う。そんなにショーツを見せるのが嫌なのなら代わりにプロペ君のちんこを舐めなさいよ、と。ハッとする小野田さん。おそるおそる僕のほうを振り返り、目が合う。鳴り響く月の砂漠。やがて小野田さんは決意したように、極限まで短くしたスカートのままスタスタと僕のほうに近づいてきて――。
 このあとスラックスを脱がされてフェラチオされ、後藤も我慢できなくて参加してきて、ふたりの唾の音と月の砂漠が教室にアンサンブルで鳴り響いて、最終的には小野田さんが膣にバイブを入れていたことが判明し、だからショーツを見せられなかったのだ、しかもリモコンを握っていたのでグーしか出せなかったのだ、みたいなことを書こうと思ったのだけど、そう書くのは小僧に少し残酷な気がしたため、面倒臭くてやめた。

2010.1.18

 ファルマンと嫌いな本についての話をしていて、「あれをいいと思う人とは友達になれない」みたいなことを語り合っていた。それでなくても友達なんていないのに、陰気な夫婦だな。
 その中でファルマンが、
「きっとあの本のページの間にはマカロンのカスが挟まってる」
 という表現をいきなりしてきて、わあ、と思った。また出たマカロン。
 なんなのだろう、この子のマカロンに対する並々ならぬ感情。一体かつてファルマンとマカロンの間になにがあったのだろう。もしかして前世マカロンに殺されたんじゃないか。僕はファルマンの前世について「溝じゃないか」ということを数年前から言っていて、「なんかよく分からないけど、床のくぼんだ部分だったんじゃない」ということなのだけど、その論でいけば溝であったファルマンは、マカロンによって埋め立てられ、溝としての生涯を終えたんじゃないか。ゆえに妻はこんなにもマカロンのことを忌避するのではないか。
 まあ実際は中島美嘉的な、木村カエラ的な、おしゃれ女子たちに対する被害妄想なんだろうな。マカロンを好きな子はわたしをいじめる、という。
 「マカロンはいじめの信号機」とは本人の弁。さすが詩人だなと思う。

2010.1.17

 ファルマンが「ipodに刻印が入れられるのっていいよね。私も次に買うときは絶対に入れてもらお」と言い出したので、「やっぱり『NAYAMUKEDOKUZIKENAI』って入れるの?」と訊いたら「なんでだや」と言われた。僕はこれは別にジョークとかじゃなくて本気で言っていたので、あれっ? と思った。『NAYAMUKEDOKUZIKENAI』っててっきり夫婦としてのスローガンかと思っていたのだけど、そう言えば違うか。俺だけのか。
「それで、じゃあなんて入れるの?」と訊ねる。
 するとファルマンは少し考えた末に、
「『ぼく、ipod』」
 と答えたのだった。
 さすがだった。その発想はなかった。さすが人間ごっこのぱぴこさんですよ。持ち主の好きな言葉や座右の銘を入れるんじゃなくて、まさかの名乗り。「私はヤカン」、「オレてつぼう」ですよ。
 妻の気持ち悪さの地力みたいのを、まざまざと見せつけられた。かなわん。

2010.1.15

 珍しい平日の休みで、一歩も外に出ず堪能する。黙々と自分のことをやった。
 ファルマンが帰ってきてから、一緒にミュージックステーションなどを観る。
 ファルマンの歌手に対する表現がおもしろかった。
「中島美嘉はぜんぜん暗い子ではなくて、クラスの華やかグループの中にしっかりといて、そのグループの中でちょっとクールな子ポジションにいる感じ」
「aikoはクラスの中心で明るく振る舞ってて、嫌味がないのが嫌味な子」
「持田香織は真ん中ぐらいのグループにいて、実はいちばん扱いにくいタイプ」
 そのあとファルマンが中高時代、どれほイケてなかったか話すのを聞いた。爆笑した。
「たとえば「友達100人できるかな」って呼び掛けて集合する100人の、101人目が私。100人目と一緒に来たのに私だけ、「あ、ごめん、もう大丈夫」って優しく言われるの」
 この子の心の傷は、いったいどうやったら癒せるのだろう。
 癒さないほうがおもしろいので、別に癒そうとも思わないけど。

2010.1.14

 「君に届け」の10巻を買う。本誌で読んでるけどまた読む。よかった。文化祭期間に告白とかでドタバタしちゃう感じ、すごくいい。共学高校の文化祭って、たぶんあんな風にひとつのクラスが家族みたいな感じになって、まるで冠婚葬祭の準備をするように、なんか身内っぽい感じになるんだろうな。そんな中でのクラス内のカップル誕生って、きっとすごく盛り上がるんだと思う。
 もう話が別世界すぎて想像がおいつかない。「っぽい」とか「なんか」とか「きっと」とか、我ながらすごい話の抽象具合だなと思う。なんの経験にも則ってない。
 それで実写映画化ですって。「君に届け」はF4だったり難病だったりレイプだったり妊娠だったり、そういうのがない純然たる王道少女マンガなので、けっこう愉しみだ。純然とキュンキュンする映画になればいい。きっと観ないけど。
 配役について、爽子は誰だろうねとファルマンと話し合う。新垣結衣や多部未華子はもう高校生役はないだろう。ファルマンはそのときちょうどポッキーのCMが流れたので「この子は?」と忽那汐里を提案し、ああちょっとありかもなあと思った。でも集英社つながりで、「恋空」のときみたいにSEVENTEENのモデルあたりがやるんじゃねえの、具体的に言うと桐谷美玲か水沢エレナあたりになるんじゃねえの、とも思う。ちなみにさいきん年を取ったなと思うことに、この2人の区別があまりつかなかったりする。このふたりって同じ顔してるよね。
 それでは次に風早は誰か、という話なのだが、これは考えるまでもないと思う。僕だと思う。僕こと、プロペ・風早・パピロウだと思う。いつオファーが来ても対応できるように(来月発表らしいのにマイペースな制作陣だよ)、もう練習も開始している。9巻の、爽子のことを「貞子」と呼ぶ別のクラスの男子に向かって訂正するあの名セリフ、「「爽子」。「黒沼爽子」だよ」も、もうすっかり自分のものにしている。言うとファルマンからすごく怪訝な目で見られるのだけど、たぶんそれはマンガの中のキャラクターであるはずの風早くんが目の前に出現する不可思議さによるものに違いない。大丈夫。僕ならできる。ガッキーよりもよほど年上だけど、共学高校に行った経験ないけど、想像力による役への理解度でそんなのはカバーだ。僕ならば3巻の、龍の家にみんなで遊びに行ったときに見た、中学の卒業アルバムの中の風早(当時15歳)だってできる。野球部だった風早が引退したあとちょっと髪が伸びたくらいの状態で写っているあの写真も、僕は演じ切ってみせる。
 制作サイドの慧眼を期待したい。

2010.1.12

 寒くて身体も精神も不調な日々が3日ほど続くと、状況は別にぜんぜん改善されていないのに、意外と大丈夫になってきたりする。悩んでてもしょうがないから前向きに行こうよ、という風になる。すばらしすぎる俺のくじけない力。斉藤孝もびっくり。でもこんな感じで強くなればなるほど、前にNAYAMUKEDOKUZIKENAIにも書いたけど、僕には詠むはずだったのに詠めなくなった短歌とかが出てくるのではないかと思う。弱者でも強者でもないものになりたい。
 とりあえず元気を取り戻したってことだけを、誰にって、未来のこの日記を製本して読んでいる僕に、一刻も早く伝えたかったので書いた。ひとつ前のページを読んで、過去の自分への心配のあまりページをめくる手が震えただろう未来の僕へ。安心してください。僕はがんばって元気になりました。心配してくれてありがとう。いつも本当にありがとう。
 未来の僕と過去の僕の優しさ交信。

2010.1.10

 初夏ぐらいから、ファルマンの父親がまた中国勤務になるという。それで、今回は前回の赴任時と異なり末の娘も成人しているので、当然ながら義母もそれに帯同するそうだ。
 つまりファルマン家は、両親が海外在住という状態になる。
 これってすごいことだと思う。3姉妹の両親が海外在住って、僕はそういう本を何十冊も読んだことがあるような気がする。現実にあるんだな。しかも僕と来たら長女の夫というポールポジションにいるじゃないか。設定が陳腐すぎて意外性がないくらいにエロだ。すばらしい。
 こんなことなら婿に行ってひとつ屋根の下で一緒に暮らしていればよかった。
 しかし現実問題としてファルマン家の実家の編成が悩ましいことのように思われる。
 両親が出て行ってしまうと、実家に残るのは祖父と上の妹と犬2匹である。これはどう考えても妹がつらかろう。これには長女であるファルマンもいろいろと思い悩んでいるらしい。どうなるんだろうな。とりあえず次女は東京のわが家に来て、岡山で大学に通う三女も卒業後は東京で就職すればいいと思う。そして4人で暮らそう。
 これは元日に実家に顔を出した際にも思ったことだけど、家族って本当におかしなものだ。
 実家には祖母と母と、広島からやってきた叔父という3人がいたわけで、なんかかつて山梨で平和な4人家族をやっていたこの人たちが、50年後のいま横浜で、53歳、55歳、80歳くらいで、なんか3人とも配偶者もなしに年末年始を3人で過ごしてるのって、なんか滑稽で切ないな、と思った。家族って変なつながりだ。母が以前、「家族なんて意志の力ではどうにもならない」と言っていたが、まさにそう。母の口から出ただけに重いな。

2010.1.9

 帰りながら、今日が姉の誕生日であるのを思い出す。26歳の僕と4つ違いなので、今日でめでたく大台突入だ。9月の誕生日の際に「アラサーおめでとう」と送られた仕返しに「大台おめでとう」とメールした。しかしまだ返信がない。これはどういう沈黙だろうな。
 帰宅して晩ごはんの準備をしていたら、ファルマンが実家と電話していて、ショッキングな内容を告げられていた。末の子が成人を迎え、やっと平穏が訪れたかに見えたファルマン家だったが、やはりまだまだドタバタは続くらしい。これから5ヶ月ほどは嵐が吹き荒れそうだ。

2010.1.7

 気象庁が今年の寒さについて「予想外だった」と言っているようで、すごいなと思う。「北極付近の気圧が変動するメカニズムは解明しきれておらず予測が難しい」という言い訳は、まるで日能研の子どもみたいだと思う。「変動」の「メカニズム」が「解明」できてないて。難しい言葉おぼえ立てか。負けず嫌いの痛い子か。素直に、「冬の長期予想は残暑の時期にやったので、気持ち的にそんな寒くならないような気がしました」と言えばいいと思う。そして来年はその反省を生かし、残暑が厳しい中でも「すげー寒くなる」と長期予想を発表し、見事に外せばいいと思う。
 あるいは気象庁は悪くなくて、「無自覚な人類による環境汚染によって地球があげる悲鳴としての異常気象だ」ということをどうしても主張したい陣営、たぶん破滅思想(しかしこの教えを守れば救われる的な)を持った宗教団体なのだけど、気象庁に対し絶大な影響力を持つらしいこの宗教団体が、「今年の冬は素直に寒いです」ということを気象庁に言わせないんじゃないかと思う。「人類に警鐘を!」「人類に警鐘を!」という教団幹部のシュプレヒコールが漏れ聞こえる。
 夏は暑いし冬は寒いよ。そんなもん変えようがないだろう。人類の力でそれが変えられるのなら、少なくとも僕の生活範囲くらい軽々と、年中初夏の状態に持っていってもらいたい。

2010.1.5

 もう少し前の時間に目覚ましをセットしていたはずなのだが、起きたら8時半だった。それで、僕はもちろんのんびりなのだが、ファルマンは9時に化粧を終えた状態で家を出なければいけない流れだったらしく、大わらわだった。当初は着付けの人に家まで来てもらい、ファルマンと僕の寝ている和室で作業をしてもらう予定だったのだが、なんかその着付けの方の家族が体を悪くしてしまったとのことで、急遽そんな風になったらしい。イベントが決してすんなりとは進まないこの感じ、さすがはファルマン家クオリティーだ。
 なんとか準備を終えた3姉妹を義父が美容院まで届けにゆき、義母は部屋でひとりで着物に着替え。そして僕はリビングで日本海テレビを観つつ、パジャマのままパンをもそもそ食べた。
 義父が帰ってきて、少ししたら義母の着付けが終わり、また義父が義母を美容院に届け(田舎はなにかと車の移動が多いな)、また帰ってきて、さすがにそろそろ男性陣も着替えて待機しておくかという時間になって、11時前にようやくスーツに着替える。結婚式ぶりに着たスーツのポケットには、食事会の際にファルマンが読んだ両親への手紙がそのまま入っていて(渡さずに僕が受け取ってしまったらしい)、愉快だったので机の上にそれらしく置いておいた。帰ってきてから義母が見つけてびっくりするだろう。
 ちょうどスーツに着替えたあたりで、女性陣から電話がかかってくる。ここでようやく僕も移動だ。デジカメを忘れずに持ち、義祖父に声を掛け3人で出発。しかし「考えてみればあいつ(義母)には自分で運転して車を持ってってもらえばよかったわ」という計画性のない義父にいきなり、「じゃあこっちの車の運転頼む」とキーを渡される。そのまま義父と義祖父の乗る車の後をついて走った。とは言え美容院の名前も聞かされていなかったので、急に駐車場に入られたりしたら嫌だな、と思っていたがなんとか無事に着けた。
 そうしたら車が着いたのが見えたらしく、女性陣がすぐに店から出てくる。着物の3姉妹。華やかだー。ファルマンはもちろん付け下げで、地味な着物だけど。本日の主役の下の義妹(ちなみに書いてなかったかもしれないが、今回の撮影会は下の義妹の成人記念なのだ)はメイクも美容師さんにやってもらったので、さすがに際だっている。もっとも元から3姉妹では下の義妹がいちばんはっきりした顔をしているのだが。
 それから荷物を義父のほうの車に乗せ、ついでに僕もそちらに乗り込み、僕の運転してきた車に義母と3姉妹が乗り込む。スーツ男子3人と着物女子4人という編成。なんかよく分かんない編成だな。義父の車のほうが大きいのに。どうも計画のツメが甘い。
 とにかくまあそんな感じで移動開始。目的地は出雲大社だ。写真館も出雲大社近くの、結婚式のときと同じ店にお願いしているのだという。華やかさゼロの車中の雰囲気に挫けないよう、気持ちをしっかり持って20分間ほどの時間を耐え抜いた。
 車から降りるとき、両親が荷物を出そうとして、義母の持ち上げた箱の角が義父の左目に刺さる、という事件が勃発する。ふたりとも焦ってトランクにがっついた結果だ。それまでわさわさしていた義父が急にテンションが下がったのがおもしろかった。サバンナのコントのやつだ。まあなんだかんだで義父は大丈夫だったらしい。
 天気は雨か雪みたいな予報がされていたらしいが、案外と保っていた。というか雲は薄そうで、たまに陽さえ射す。東京の天気さえ当たらないのだ、考えてみれば山の多い島根県の天気が当たるはずがないよな。もっとも風は割と強く、そして東京のそれとはレベルの違う冷たさだった。
 写真館は結婚式の打ち合わせの際にも来たが、2階の撮影スタジオは初めて。
 まずは7人全員で撮る。いざ撮る段になって、やはり僕がここに入るのは場違いなような気がしてくる。長女の夫、ちょっと付き合いがよすぎて気持ち悪い。と言うか当初は僕としても入る予定じゃなかったのだ。純粋にカメラ小僧として、ジャンパーとか着て参加するつもりだった。でも「せっかく来るんなら一緒に入りなさい」という義母の薦めがあり(まあ義母も立場的にそう言うっきゃないだろう)、「きっぱり行かない」か「親族として参加」のどちらかしか選択肢はなさそうだったので、仕方なく後者を選んだという次第なのだ。いったい誰になにを断っているのかよく分からないが、僕は無自覚に邪魔者だったわけではないのです。くれぐれもそのことは強調しておきたい。
 でもその1枚を終えたあとは晴れてお役御免。撮影者に徹する。写真館のスタジオで横から素人が写真を撮っちゃダメかな、と思ったけど、ご自由にどうぞとのことだったので存分にやった。
 次の撮影は両親と3姉妹の核家族5人。義父が中心に立ち、右に長女と次女、左に三女と妻という配置。思わず純粋理性批判を想起する。いちばん想起しちゃいけないことのような気がする。3姉妹の父というのはすごいな。
 その撮影を終えたあとは義父は義祖父を家に送り返さなければいけない。なんと義祖父はこのあと葬式なのだ。ちょうどこのタイミングで義祖父が参列しなければならない葬式が営まれているのだそうだ。それで、なにしろこっちは孫の成人記念、あちらは葬式なので、当然ながら背広も替えなければいけない。そんなわけで義父は僕にビデオカメラを託し、義祖父とふたりで出ていった。このドタバタ感。本当、さすがはファルマン家クオリティー。
 写真は3姉妹で撮ったりなどしたあと、成人記念の三女のソロ写真に移る。いろんなポーズ、いろんな表情をカメラマンから求められる三女を、デジカメ2台とビデオカメラで撮りまくった。朗らかな性格の上に交友関係の広い三女は写真を撮られ慣れているらしく、男性カメラマンからの要求を巧みにこなし、カメラマンは後半乗ってきたのか、撮影しながら「そうこなくっちゃ」とかつぶやいていた。これはあとから次女と「そうこなくっちゃ」は気持ち悪かったねと語り合った。
 義父が帰ってきたのは撮影の終盤だった。
 写真館を出たあとは目の前の出雲大社へ。僕にとっては今年の初詣でもある。外に出るとやっぱり着物の3姉妹は華やかでいい。境内の砂利道をあまりバランスを崩さずに歩く3姉妹を、うしろ歩きでたくさん撮影した。もはや完全にカメ小だ。しかしガランと広い出雲大社は風が身体に直撃し、ひどく寒い。ファルマンなんか完全に凍えていて、幅広のストールを思いきり広げ身体を覆うようにして巻くものだから、あとから撮った写真を見たところ、もはやそれは着物姿の写真ではなく、ストール姿の写真だった。阿呆だ。
 帰りの車は、義母が義父のほうの車に乗り、3姉妹の乗る小さいほうの車を僕が運転する。晴れ着3姉妹を乗せて車の運転。行きの哀しみを取り返すのに十分な幸福車両だった。

(中略)

 11時を過ぎたあたりで両親は寝室へ。お風呂を済ませた我々もそれから30分ほどでWiiを終わりにし、襖で仕切られたそれぞれの寝室に向かった。
 でもこの夜はこれからが愉しかったのだ。
 なんと3姉妹が一斉に僕のちんこを奪いにかかってきたのだ! というのは嘘で、本当にそんなことがあったら決してこんなところには書かないのだが、でも愉しかったのは事実で、なにをやったのかと言えばDSでドラクエ9をやったのだ。義妹らと僕と3人で、通信して。ファルマンだけ貧乏な家の子なのでDSを持っておらず、次女の画面を見てるだけだった。もうすっかりやめて久しいドラクエだが、「ぜひ持ってきて」という上の義妹からの誘いに乗ってよかった。通信プレイ(義妹らとなら)愉しいな。三女の世界に集まって、3人でメタルスライムやはぐれメタルをたくさん倒した。ストーリー上ではクリアまでしているのに、僕の男主人公の装備は相変わらず下半身がブーメランパンツ、頭は猫耳バンドで、義妹らにきゃっきゃきゃっきゃされた。これはほとんどコートの下は全裸という変態行為に近いような気もする。「なんでパンツなん?」と三女に訊かれ、「いつでも応じられるようにだよ」と答えたのだが、これはほとんど無視された。「パーティのほかの女の子もみんなパンツなんだよね」と次女が声を掛けてきたので、「主人公だけはパンツだけど他の子はショーツだよ」と答えたら3姉妹の3人ともから引かれた。ゾクゾクした。そんな感じの夜だった。

2010.1.3

 というわけで品川に移動し、新幹線に乗り込む。そしていまポメラでこれを書いている。現在そろそろ名古屋というところ。新横浜で隣に人が来なかったので悠々としている。ずっとこのままならいいな。やくもはこのタイミングの下りだし最終だしきっとガラガラなんだろうが。
 お弁当と一緒に缶チューハイを開けたら、わかってたことだけど眠たくなった。眠ったら博多まで行ってしまう。がんばろう。がんばって純粋理性批判を読もう。
 でもやっぱり眠ってしまう。起きたら京都。ぞっとした。これで「起きたら山口」だったらシャレにならない。そのあとは必死に起きた。
 岡山に到着し特急やくもに乗り換えたのは21時半頃。想像どおり指定席の車両はガラガラ。ああ、この地下鉄でもないのに外が真っ黒の感じ。新幹線と比べ揺れも強い。しかし本当に人が少ないので、自分空間が大きい分だけむしろ快適かもしれない。隣の空席に余裕で荷物を置き、あぐらをかいてチューハイを飲みながらポメラ打ってる。やってることがほとんど自宅だな。

2010.1.2

 ファルマンが帰省する。8時半くらいに品川発の早い時間の新幹線なので、おにぎりだけ作ってやって玄関で見送り、そのあと僕はまた少し眠った。1時間後くらいに受信した、「無事に新幹線に乗ったよ」というメールで目を覚ました。
 労働は明日からで、実は今日はなんの予定もない。ファルマンがもう少し遅い時間の新幹線であれば、一緒に池袋まで出てひとり買い物をしてくるという選択肢もあったのだが、ファルマンが池袋で山手線に乗り換えたのは多分8時前だろう。どうしようもない。
 新年を祝いあうような友達もいないし、ずっと家にいることを決め込む。
 午前中はファルマンの短歌を眺め、100首区切りで気に入った言葉を抜き出す。そしてそれをこの日記のカテゴリとした。001~100が「ホントは見つけてほしかった」、101~200が「ずっとこのまま赤でもいいよ」、201~300が「中枢神経キャラメルの夜」、301~400が「天気予報よ外れてしまえ」、401~500が「戸惑っている各駅停車」、501~600が「ひらり告げ口毛糸のパンツ」、601~700が「倒れ損ねて歩いてきたね」、701~800が「有害であってたまるか」、801~900が「MPがいつも足りない」とする。あくまで僕の独断と偏見なので、ファルマンの短歌の題名というわけではない。作者であるファルマンによると、並んでいる900余の短歌は、前半が「グリンピース」、後半が「うわのそら」という題名だそうだ。そうなんだ。
 たとえば昨日の「なりゆきで君と交わした一言が今日の日記の題名になる」はファルマン短歌の561首目なので、カテゴリは「ひらり告げ口毛糸のパンツ」となる。クチバシダイアリは記事の内容ではカテゴリ分けできないのでタイトルで分類するわけだが、これって1年目の季題俳句の頃からずっとだけど、はっきり言ってほとんどなんの意味もない。特に今年は、去年までは「夏」なら138日連続、「中学1年生」ならひと月連続を2回、という風にカテゴリが時系列に対応していたが、今年は1発目の昨日が561首めの短歌であるように、気の向いたときに気の向いた短歌を取り上げるため、本当にカテゴリ分けの意味がないと思う。まあいまさら「その他」とか「未分類」にするのも不恰好なので、慣習ということでやや無理やりに規定した。

2010.1.1

 家に着いたのは11時半くらい。今年はなぜ山梨ではなく横浜の実家かと言えば、祖母の身体の具合が暮れから急によろしくなく、山梨に帰れなくなってしまったため、こちらに集まることになったのだ。山梨だと正直言って参加がつらかったので、その点ではよかった。3月の結婚式以来の再会となる広島在住の叔父もこちらに来ていた。体調を崩した際にちょっと入院していたという祖母は、最近は回復していたらしいのだけど、ちょうど昨日からメヌエル的なめまいを起こしてしまったとのことで、やはり調子は思わしくないようだった。祖母と言えばとにかく闊達なイメージしかないので、ソファーから立ち上がらない様は割とショックだった。
 数の子とか黒豆とかかまぼことか筑前煮とか海老とかレンコンとか、わが家は「おせちはおいしくないからやらない」という方針だとばっかり思っていたら、意外と食卓に並んでいてびっくりする。そして「毎年こうだった」と母から言われ、そう言えばそんな気もしてきたのだった。重箱に入れないものだから、なんか普通のおかずだと思って食べていた。そうかー。いちおうそれっぽいことやってたのだな。それらをおかずに、叔父は飲まないので僕だけビールをちびちびと飲む。元猟師の祖父やら田舎のおっさん丸出しの義父やらのいるファルマン家と較べ、わが家のおとなしいこと。
 しばらくして姉一家もやってくる。姉と姪とはひと月ぶりくらい、義兄とはやはり結婚式以来だ。姪は相変わらずおもしろい顔で、姉にそっくりだった。そしてよく食べる。リンゴを両手に持って喰っていた。あと叔父がシュークリームをすごい食べさせていた。大叔父っていうのはやはり無責任に小さい子に食べものを食べさせるのだな。はじめのうちは「皮だけな」などと言い聞かせてあげていたのに、後半はかなり皮にカスタードクリームを付けて与えていた。
 食後、持ってきたデジカメで集合写真を撮った。セルフタイマーを使って全員で写る。我ながらこれはいかにも親戚の中における叔父っぽい役目だなと思った。もちろんこんなことをしたのは初めて。なにしろ近いうちにちゃんとした検査をするらしいが、祖母は大きな病気である可能性が割と高いらしい。今年は横浜でみんなで集まれてよかったかもしれない。

2009.12.30

 「マリア様がみてる」の最新刊を読んだ。おもしろかったけど、いよいよ本格的に「マリア様がみてる」ではなくなってきた。「マリア様がみてる」は祐巳と祥子のお話なのであって、薔薇の館のメンツのほぼ出てこないこれは、もはや「私立リリアン女学園ぴょんぴょん物語」じゃないかと思った。
 あと読んでいて、なんでそれのことを忘れていたんだと悔しい気持ちになったのだけど、そう言えばスール制度というのがあったじゃないか。これはぜひ宇佐木学園にも採用すべき制度だ。物語の幅がぐっと広がるだろうと思う。すっかり発想が欠如していたことはおくびにも出さず、はじめから考えてましたけど? くらいの感じでいけしゃあしゃあとそのうち登場させようと思った。

2009.12.27

 帰宅すると注文した本棚が届いていた。ただし客組み立てなので段ボールの状態。行きも帰りもリュックの中に本を10冊入れた状態で、片道30分くらい自転車を漕ぐという重労働をしたあとだったが、仕方ないので組み立てはじめる。割と面倒くさかった。ふたつ注文して、ひとつは1万円ちょい、ひとつは5000円という安物のため、それほど頑丈なものを想定していなかったのだが、これが意外としっかりしている。さすがはお値段以上だ。
 特にリビングに置く用の本棚は大きく、作るのに骨が折れた。しかも判っていたことだがファルマンが不器用だ。ネジをまっすぐ挿れられないので、30本以上あるすべてのネジを僕が嵌めなければならなかった。おかげで右手がひどく疲弊した。
 続いて純粋理性批判用の、スライド式の文庫専用棚に取り掛かる。巨大なものを組み立てたあとだったので、こちらは割と楽にできた。ファルマンが出来上がった本棚に本を並べる作業に没頭してしまったため、ひとりでやった。なにしろ純粋理性批判専用本棚なのでしょうがない。
 組み立ててみるとこちらの本棚も思っていたより大きく、置こうとしていた場所には適さなそうなほどだった。それで改めてリビングに設置する要望を妻に申し入れる。当然ながらファルマンは猛反発である。でも僕も引くわけにはいかない。パソコンデスクのすぐ横に純粋理性批判全巻が番号順に並んでいる夢のような状況を、そう簡単にあきらめるわけにはいかないのだ。そんなわけで言葉の限りを尽くして交渉。最終的には土下座までした。これは今日全国で行なわれた土下座のうち、いちばん価値のない土下座だったに違いない。夫からエロ小説専用本棚をリビングに設置することを土下座して懇願された妻は、苦渋の決断を下すほかなかった。あまりにも情けない夫の姿を、そう長い時間見てもいられなかったのだろう。
 かくして夢が叶う。願えば夢は叶うんだ。僕は君たちにそのことを知っていてもらいたい。土下座とかすると、夢は割と叶うんだぜ。課外授業ようこそ先輩。今日はシャノマトペについてみんなで勉強しよう。発育のいい子はもう来ているよね?
 それでファルマンの気が変わらないうちにいそいそと、冷遇されていた文庫たちを別室から持ってくる。現在のところ全144冊。両手で山を抱えて運ぶのを、5往復ほど繰り返す。そして持ってきた全巻を、番号順に並べ替える。番号順に並べると歴史的な変遷とかが明瞭になって、新しい発見がある。愉しい愉しい。この愉しい作業をしている最中、にわかにファルマンに写真を撮られる。そして「ほら、これがいまのあなたなんだよ」と、撮った写真を見せられた。そこにはピンク色をした144冊の文庫本の山に囲まれて、しあわせそうな笑みを浮かべる26歳の姿が写し出されていたのだった。はははっ、と思った。こんなことくらいでテンションが下がると見くびられては困る。むしろ誇らしい。2枚目はちゃんとピースをして記念撮影だ。ひゃっほい。すっかり番号順に並べた文庫たちを、ガスガスと棚に収めてゆく。さすがは約300冊収納。144冊でほぼ半分しか使わない。ついでにいくらか持っている社会契約論と、文庫と言えばこれだろうということで「製本KUCHIBASHI DIARY」5巻も並べる。純粋理性批判と、社会契約論と、自分の日記! うわあ! なんだろうこの幸福! 夢は時間を裏切らない! 時間も夢を裏切らない!
 144冊の背表紙が並んでいる様子を、この文章を打っている今もなのだけど、僕はぼんやりずっと見ていられる。それぞれの内容を少しずつ思い出しながら、ただいつまでもボーっと眺め続けられる。いつまでも飽きない。絵画とか仏像とか、見所が分かってる人って長時間ずっと鑑賞したりするけど、まさにその感じだと思う。

2009.12.25

 読んでいたマンガで、姉妹ふたりから告白された主人公が、妹を断って姉と結ばれていた。
 あっ、と思った。そう言えばその発想はなかった。
 姉と妹ふたりから告白されたら、目隠しをしたまま仰向けに寝転がり、姉と妹が代わる代わる陰茎の上に跨るのを、どちらの膣がどちらのものか、きゃっきゃきゃっきゃと言い当てたりすればいいのだと思っていた。間違いだった。本当に好きじゃないほうの告白は断らなければいけないのだ。足し算よりも掛け算とかじゃないのだ。真摯だなあ、主人公。
 帰省で義妹らと半年ぶりに再会する前にこのことに気付けてよかったと思う。
 古本屋で初期のほうの社会契約論を買う。本棚がそろそろやってくるので、社会契約論のほうも全巻じゃないが目欲しいものだけ手に入れておこうと思ったのだ。
 でも家でパラパラと読んでみてびっくりする。エロくないのだ。手に入れたどれも、ハーレムエンド的なものがほぼない。表紙に4人の女の子が描かれているからてっきりラストはその4人との酒池肉林かと思いきや、300ページの中でゆるやかにひとりひとりと1回ずつ性交をし、最後にセックスをした相手と、「ああ俺はやっぱりこの子が好きだったんだ」みたいな感じになって終わっている。すごい呆気なさ。初期はこんなだったのか。せっかく買ったのにエロ小説としての価値はほとんど見出ずそれは残念だが、でもこれは歴史的には大いに価値があると思った。これに較べれば現在はいい方向に進んでいると思う。やっぱり世界は人々の思いの力によって、だんだんいい方向に進むのだなと思った。みんなセックス、それでいい。

2009.12.24

 クリスマスイブなのだった。
 グラタンを喰い、チキンを喰い、ケーキを喰った。なんだかんだでクリスマスは平和で愉しい。幸福が分かりやすく可視化されている感じ。いいことじゃないかと思う。
 やっぱり家族系行事はいいよね。ちょっと独特の表現になってしまってみなさんには伝わらないと思うんですけど、心がほっこりするじゃないですか。ちょっと新しすぎるかな。
 バレンタインデーとかも、2月14日自体はあのままでいいんだけど、前日の13日に家族的な要素を組み込んでみてはどうかと思う。14日に好きな男子にあげるチョコレートは、前日にパパに味見してもらうと恋の成就する確率が高まるんだよ。あとパパの陰嚢には神様が棲んでいるから、撫ぜてあげると恋の成就する確率と同時にパパの興奮も高まってゆき、その晩ママにもいいことが起こるんだよ。ほうら家族の一大行事になったね。ほっこり。まりほっこり。パパもママにまりほっこりだし、真理も明日サッカー部のヤリチンの先輩にまりほっこりしてもらえるよ。

2009.12.23

 テレビで映画「ピーターパン」をやっていて、一瞬だけ観たのだけど、パン曰く「「妖精なんていない」なんてことを言うたびに世界のどこかで妖精が1匹死ぬ」のだそうで、ほほう、と思った。
 我が家では僕が宇佐木学園の話をしていると、「宇佐木学園なんてないんだよ」とファルマンが言ってくるのだけど、じゃあそういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死んでいるのだと思う。そして「そういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死ぬってことね」とファルマンに言った途端、ファルマンの口から飛び出した「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」の連呼。思わず口を手で塞いで守った。だが少し落ち着いて考えて、果たして僕は一体なにからなにを守ったのだろうと思った。平和ってなんだろう。

2009.12.21

 ファルマンが地域の防犯メールサービスみたいのに登録していて、住んでいる町で事件的なものが発生すると、警察からメールが送られてくるのである。それでつい先日、労働中にファルマンからメールが届いて、開いて見たところそれは、警察から送られてきたメールの転送だった。
 そのメールでは、僕たちの住んでいる家の割とすぐ近くの道路において、男が女児にちょっぴり手の込んだレトリックを使ってイタズラをしたことが伝えられていた。
 そしてその男は20代で、メガネを掛けていたという。
 あっ、と思った。
 これで転送してきたメールの末尾に『あんたがやったんじゃないの~。早く自首せよ(笑)』みたいな軽口が付されていればまだよかったのだけど、そんなものもまるでなく、普通に警察から来たメールそのままで、妻はそのメールを夫に送ってきたのだった。なのでなんか、鬼気迫るものがあった。もしかして俺、妻に本気でちょっと疑われている!
 でもその事件が起こった時間、僕は労働中だったのでアリバイがあった。日常生活でアリバイという言葉が出てきたことがびっくりだが、なので僕は犯人ではありえない。そもそも二次性徴前の女児には興味がない。しかしメールには「警察では現在付近のパトロールを強化している」ともあって、職務質問とかされたらショックだな、と思った。
 思っていた矢先、駅までの道の途中で、20代でメガネを掛けている男が、なにやら警察官に話を訊かれているところを目撃してしまった。その人は怪しいところがなかったのかすぐに解放されていたけど、これにはおののいた。
 たとえば僕が職務質問されて、鞄の中身をチェックされたら、ナイフとかは入ってないけど、本が3冊入っていて、それはエロ小説と、精子の本と、少女マンガなのだ。あ、あと妻の短歌を印刷した紙も。これは気をつけなければいけないな、と思った。

2009.12.20

 まひろさんが3週間近くぶりに記事を更新していた。俺なんてせっせと毎日やっているというのに、女子高生は余裕だなあ。たぶんSNSとかで忙しいんだろうな。
 それで今回のまひろさんの記事の中で、タイムリーにボニータとへっちゃらパンツの二重穿きについて書かれていたので言及したい(まひろさんはいつも割とタイムリーなことを書くものだ)。
 まず触れたいのは、「ボニータの上に穿くへっちゃらパンツはへいちゃら過ぎて、もはや『平気布』だ」という部分。これには感心した。そうなのだ、ショーツとかって基本的に布なのだ。
 「ブラジャー、ショーツ、げへへ……」と気持ちが盛り上がったあとで不意に、(あ、でもブラジャーもショーツも結局はただの布なんだよな)と気付いて虚無感に襲われることがあるけれど、でもやっぱりそのただの布は、女の子が身に着けた時点で特別なものとなり、崇拝の対象となる。そういう理屈でただの布であるはずの下着は尊ばれる。
 けれどショーツの上にボニータを穿いてさらにその上に重ねたへっちゃらパンツでは、さすがにその「女の子が身に着ける」という特別要素の効力が届かず、ただの布となってしまう。なるほど、と思う。ボニータまではぎりぎり届く。でもその向こうのへっちゃらパンツまでとなるとさすがに厳しい。だとすればそのときボニータとへっちゃらパンツの間という特殊空間には、陽子と中性子を結びつける中間子的な、そんなものが発生しているのではないかと類推される。それは普段から地球上の物質中にいくらでも漂っているものであるが、ボニータとへっちゃらパンツの間において最も高濃度で発生する。この幽玄だがたしかに存在する特殊な存在を予言したまひろさんは、第1回パーペル物理学賞受賞まちがいなしだと思う。
 さらに言えばまひろさんは「その存在」が届かないために「平気布」となってしまったへっちゃらパンツの退廃を憂い、へっちゃらパンツに「ちんこ大好き」と刺繍することで人工的に「その存在」を造り出すことに成功しているのだから恐れ入る。とんでもない天才が現れたものだ。
 あと下半身を重ね穿きし過ぎているという話の際、「しかも私には処女膜がある」みたいなことを書いていて、これにも感心した。女の子の重ね着については僕もさんざん考えてきたけれど、そこに処女膜という発想はなかった。さすがはリアル女子の視点。
 たとえばこれは上半身について語る文脈だけど、purope★papiro★cantabile(2代目)の2005年9月17日の記述では、下半身の包み隠し段階について、
下半身……『1小陰唇←2大陰唇←3陰毛←4ショーツ←5スカート』
 と書いている。自身の記述を読み返してみて3番目の「陰毛」という発想にびっくりもするのだけど、どちらにせよ処女膜という発想はここにはなかった。ちなみにここらへんの理屈はマンガでも書いた。purope★papiro★cantabile(初代)の2005年1月21日の中で「数ヶ月前に書いた」と言っているので、じゃあこれを実際に書いたのはもう5年前か。なんだか冗談じゃなく学者みたいに何年も同じ問題に取り組み続けているな、僕は。ちなみに「隠していたものが明かされる感動」についても2代目のほうで書いているので非公開じゃなくしておこう。
 それで、じゃあまひろも含めた(まひろも実は僕なので)この5年間の僕の蓄積をまとめると、このような図式ということになる。
1膣口←2処女膜←3小陰唇←4大陰唇←5陰毛←6ショーツ←7ボニータ←8へっちゃらパンツ(平気布)←9スカート
 ちょっと感動する。1行に収まらないところが5年間の歴史を物語っている。
 そして冬の処女の子がこれだとすれば、それの対極にある夏のビーチの非処女(しかもせっかくなのでパイパンとしようじゃないか)はこうである。
1膣口←2小陰唇←3大陰唇←4水着
 唖然とする。大陰唇のはずの4が、堂々と見せるためのデザインを施された水着なのだ。
 もっとも夏のビーチの非処女でなくたって、処女膜を1項目として換算する考え方は十分に価値がある。なぜなら2がなくなるのだから、7のボニータは6のショーツと同価値になり、6のショーツは5の陰毛と同価値になるのだ。一見なんの違いもない制服姿のふたりの女の子がいるとしても、処女の子のスカートは9で、非処女の子のスカートは8なのだ。8! 8て! 8のドキドキ∞(無限大)! ボフンッ! スカウターも木っ端微塵だよ。
 ちなみにまひろが購読して性知識の参考にしているらしい道産子ガールズ通信の執筆者は僕という設定。もうこの連続世界は永遠にどこにも向かわずに、反射と反射を繰り返して無限の多重世界を作り上げてゆくのかもせんね。

2009.12.18

 女子高生の生脚について、「でも絶対に親が、スカートの下に毛糸のパンツとか穿かせてるよ」とファルマンに言われる。「脚を晒す分だけ暖めなくちゃいけないから、きっと二重に穿いてるよ」
 女子高生がスカートの下に短パン的なものを穿いていて、決してショーツが見えたりなんかしないことに関してはもうさんざん語り尽くし、その短パン的なものにオリジナルの名前まで付けた僕なので、「分かってますけど?」って感じで、そのこと自体は別に僕の心を揺り動かさなかったのだけど、この中でファルマンが何気なく使った「二重」という言葉に、かなりハッとした。
 女子高生は真冬には、スカートの下に短パンやら毛糸のパンツやらを二重に穿く。
 もしかしたらここに、ボニータとへっちゃらパンツの共生の道が見出せるのではないか。
 ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたように、へっちゃらパンツというナイスネーミングの前にボニータは消滅する運命かと危ぶまれていたが、女子高生の下半身はそんなに狭量じゃないのだ。女子高生の下半身の包容力を舐めちゃいけない。女子高生の下半身を舐めちゃいけない? 舐めちゃいけなくなんかない! けど舐めちゃいけない。でもやっぱり舐めたい! 舐めちゃいけないと止める理性と、ベロベロ舐め尽くしたいという本能のせめぎあい。舐めるけど舐めないので舐めさせてください!
 えっと、なんの話だったかな。ああそうだ、女子高生様は短パンを二重にお穿きになるのだから、だったら1枚目と2枚目でそれぞれ別個に呼んだらええがな、という話だったな。
 つまりニトリの2枚組み毛布みたいな感じで、夏には薄手の、春秋にはやや厚手の、冬にはそれらを合体させて、みたいな感じで、ショーツがあって、春秋にはへっちゃらパンツを穿いて、冬にはそれの下にさらにボニータを穿くみたいな、ぜんぜんたとえがよく分からないけど、へっちゃらパンツとボニータの関係というのは、そんな風に捉えてゆけばいいんじゃないかと思う。
 だから武器は今すぐに捨てて、戦争はやめるべきだと思う。我々が争う必要なんてどこにもないんだ。女子高生は2枚穿いてくれるんだ。パイはふたつある。おっぱいもふたつある。だから達也と和也、ふたりで一緒に吸えばいいじゃない。南はゲームの賞品じゃないんだから。

2009.12.17

 寒波が来ているというのに、女子高生の脚が寒そうでいけない。年を取るにつれて、それに対し「うひょ、生脚」と喜ぶ気持ちと、「冷やして大丈夫?」と心配になる気持ちのバランスが変化してきているのを感じる。20歳前後には完全に前者の気持ちだけだったが、いまは両者がせめぎ合っている感じだ。このままだときっと10年後ぐらいには後者の気持ちしか抱かなくなるのだろうと思う。完全にパパ目線。でもなんとなくの予感として、30年後ぐらいにはまた1回転して、「うひょ、生脚」としか感じなくなるんじゃないかな、と思う。この現象を「生脚輪廻現象」と名付けよう。後世の学者は400年も前に既にこのことを僕が喝破していることを発見し、存分に驚嘆すればいいと思う。400年後の学者はずいぶんとくだらないことを研究しているものだな、と思う。

2009.12.16

 精子の本を読んで、受精の奥深さに驚嘆する。
 受精マジですごい。精子の旅路についてきちんと知ると、人生観が変わってくる。
 受精までの精子の旅路はあまりにもドラマチックなので、流れを朗々と語ればそのまま落語になると思う。すごくよくできた物語なのだ。
 女性の身体は基本的に進入してきた精子に対して敵対的なのだけど、ある段階までクリアしてきた精子には急にご褒美を与えて、カルシウムの一種により精子を超活性化させるのだそうだ。それまでヘロヘロヘロ、と鞭毛をそよがせていた精子はそこで急激なパワーアップを果たし、グオオオオオ、と鞭毛を激しく振るわせ、ラストスパートを始めるのだという。
 感動する。やっぱり人生は喜劇なのだな。悩むけど挫けないのだ。
 つらいときは精子の超活性化のことを思い出せばいいのだ。僕らはみんなカルシウムの一種によってグオオオオオと鞭毛を激しく振るわせた結果として誕生したのだ。実に無様で愛しいじゃないか。思わず微笑まずにはいられない。

2009.12.15

 そんなわけでファルマンの短歌を読み返している。
 現時点までにアップしているもので950首に及ぶファルマン短歌、先日これをコピーしてワードに貼りつけ、読みやすいよう体裁を整え印刷する、という作業を行なった。これにてファルマン歌集のゲラ的なものが完成だ。来年はこれを常に持ち歩き、せっせとパロディを考えてゆくつもり。本じゃなくて印刷したコピー用紙を眺めているとなんかプロっぽさが漂うが、なにを読んでいるかと言えば妻の短歌、という図式。
「パピロウさん、なにを読んでるんですか?」
「妻の短歌です」
 想像しただけでゾクゾクする。
「伊坂幸太郎です」
「あっ、私も読みました。ダ・ヴィンチでも絶賛されてましたよねー」
 じゃないのだ。
「妻の短歌です」
「……(うひゃあぁっ)」
 これだけで来年の到来がだいぶ待ち遠しくなる。
 ちなみにファルマンの短歌は読んでいて実際おもしろい。割と覚えている短歌もあって、ファルマンがそれを詠んだ当時のことなど、この5年間のことが如実に思い出される。陳腐な表現だけど、短詩というのはエキスの詰まったカプセルのようだと思った。カプセルが弾けると、中身が一瞬にして口中に広がる感じ。大学時代の短歌とか、すごく思い出の味だ。
 パロディはどんな感じでやろうかと模索中だが、もしかするとパロディと言うか返歌っぽい感じになるかもしれない。どちらにしろ夫婦で閉ざしていることに変わりはない。人生、自分の創作と妻の創作物の鑑賞で足りるな。高みなど目指さず、ひたすら深みに嵌まってゆきたい。

2009.12.13

  少女マンガを読んでいて、強烈な喪失感に襲われる。
 なんか少女マンガ的には、高校の3年間での異性関係っていうのがものすごく大事な、残りの人生をぜんぶこの一瞬にかける、っていうくらい重要なこととして描かれるのだけど、じゃあその3年間を男子校で過ごして、片思いとかそういうのぜんぜんしなかった僕って、僕のこの人生って、とんでもなく巨大な穴があるってことになるんじゃないだろうか。
 思わず一緒にマンガを読んでいたファルマンに訊ねる。
「あのさー、高校の3年間に恋をしなかった俺のこの人生ってもしかしてさ……」
「欠陥住宅だよね」
「あげぶふっ」
 26年間でいちどもしたことのないリアクションをしてしまった。
「大事な柱が1本ないよね」
「ぐぐげぶっ」
 うずくまって手の平で顔を覆いながら、僕は気付いた。
 そうか、僕の心には本当はなくちゃいけない柱が1本ないんだ。だから人付き合いの耐震性が低くて、すぐに崩れてしまうんだ。だから12月に入ってから携帯電話に、ファルマン以外の人からまだメールが1通も来ないんだ。そうか。そうだったんだ。やっと気付いた。気付くと同時に、本当にちょっと涙が出た。さいきん本当に涙腺が緩い。

2009.12.12

 今週ファルマンは咳が止まず、そのせいで睡眠がうまくいっていなかったのだった。このため労働から帰宅してから柄にもなく仮眠などするものだから、そのせいでまた夜に寝られず、その結果また翌日もつらい、という絵に描いたような悪循環を繰り返していた。なので今日は咳もすっかり止まったようだし、ぐっすり眠れてよかったと思う。
 ちなみに僕はと言うと、すぐ横でファルマンが咳を繰り返し早朝まで寝つけないようなときも、もちろんすうすうと眠っていた。なんにも気にならなかった。俺の圧倒的な寝つきのよさを見くびってもらっては困る。なにも僕の眠りを妨げることはできない。
 何曜日だったか忘れたけど、ファルマンが朝「昨日もなかなか眠れんかった……」とひどく低いテンションで恨めしそうに言ってきたとき、「そうそう! 俺もだよ! 俺も君の咳のせいで目を覚ましてしまってなかなか眠れなかったんだよ!」と、ちょっとファルマンのことを責めるくらいの感じで同調したのだが、そのあとで、それにしては身体がぜんぜん怠くないし、寝不足の感じもないのでおかしいな、と冷静に考えたところ、その「ファルマンの咳のせいでなかなか安眠できなかった」というのは完全に夢の中の出来事だったのだと思い至る、という出来事があった。

2009.12.11

 今回の年末年始に関して、当初の予定ではどちらの実家にも行かない予定だったのだけど、5日と6日に休みが取れそうなので、ここで急遽ファルマンの実家に行くことにした。
 5日と6日と言うと若干もう年末年始でもない気もするが、2日から帰省する予定のファルマンは、今回の「三が日が土日」という、会社員にとって最悪な日程をものともせず、6日まで出雲に滞在する予定で、これはなぜかと言うと今回はファルマン家にとっての割と大きなイベントとして、「いちばん下の娘の成人式に合わせて娘3人で着物姿で記念撮影をする」という企画が組まれており、それが5日に行なわれるのである。それがなければあちらで年越しをする感じで、ふたり一緒に2泊3日くらいの日程で帰省することも考えたのだが、俺だけ2日とか3日に帰るのにファルマンは6日までいるみたいな、そういうのは嫌なので、ならばいっそ俺は行かねえよ、ということになっていた。でも1月前半のシフトを組んでみたら、なにしろ2日から働くこともあり5日と6日を休みにするのはぜんぜん可能っぽかったのでそうして、じゃあ俺も強行軍で島根に後乗りしてやっぜ、となった。なにしろ3人揃っての着物姿は見ておきたい。20代揃い踏みでの華やかなそれは、ちょっと無理してでも見ておかなければ後悔すると思ったのだ。
 今日この計画を思い立ち、これはいい考えだと感動して、ファルマンに言うかどうか悩んだ。ぜんぜんそんな話おくびにも出さず、4日の労働を終えたあとに出発する予定なので、4日の深夜にファルマンに電話をして、「いま家の前なんだけど」「えー!?」っていう、最近ちょっと少女マンガにハマっている26歳の男の子らしいサプライズをやろうかともちょっと本気で思ったのだ。でもこれは冷静に考えてすぐにやめた。考えてみたら僕は新幹線のチケットの取り方とか知らないので、ファルマンにやってもらわないことには出雲になんか行けない。それにこの予定の場合、6日にはファルマンと一緒の列車で戻ることになるが、だとすれば一緒にチケットを買わなければ席が合わせられない。そしてなにより黙って実家に行った場合、5日はイベントなわけで、却って迷惑ということも十分ありうる。これは嫌だ。迷惑がかかるのが嫌なのではない。自分の存在が受け入れられないのが嫌だ。行くからにはちゃんと受け入れられたい。受け入れる心積もりを持ってちゃんと待ち受けてほしい。サプライズ登場には驚きや喜びと同時に絶対に、「えっ、そんな急に来られても……」という相手の戸惑いが生じるものだ。この戸惑いが少しでも見えてしまったら、僕の対人関係におけるやわなハートは砕け散ってしまうことだろう。着物3姉妹とのスナップ写真でも、表情に翳りが出てしまう。というわけで打ち明けた。打ち明けたのでこうしてブログにも書いた次第。
 そんなわけで出雲だ。出雲かー。遠いのになんだかんだで行くなあ。マメな夫だよ。

2009.12.10

 BLENDAというギャル系の雑誌で森ガール特集をやっていたので、なんだそりゃと見たところ、普通に109とかにいそうな女の子たちが森の中で撮影をしていて、ぜんぜんウサギとかリスとか寄ってこない感じで、愉快だった。でもよく見たら「森ガール」っていうタイトルの所に小さく、(盛り)って書いてあって、なるほどっと膝を打った。ダジャレかーい。前号の撮影の打ち上げの席で飛び出したダジャレで、実際に森まで繰り出して撮影してしまうところがいい。あるいはギャル系ファッション信奉者による、昨今のブームに対する「森ガールて!」という皮肉だろうか。森ガールってお前、アダムとイブのイブのほうか! というツッコミなのだろうか。だとしたらかっこいいな。
 そう言えば先日ファルマンが義母と電話をしていて、義母が「パピロウちゃんは草食系男子よね」と言ったそうで、それに対しファルマンが「なんかあの人は自分で芝生男子だって言ってるけどね」と答えて芝生男子の概念を軽く説明したところ、義母は「草食動物に食べられてしまうなんて、自分からそんなかわいそうなこと言わないで」と言ったのだそうだ。なんかこの話、いまいちどこがおもしろいのか分からないけど、微妙にどこかぶっ飛んでいるような、不思議な読後感だ。

2009.12.9

 精子の本を読んでいたところ、イボイノシシは人間とほぼ同じくらいの体格のオスでもいちどに500mlくらい射精する、と書いてあって、希望が湧いた。職場で同僚にそのことを話したら、「えっ、それはどういう希望?」と訊ねられ、そう言えばどういう希望なんだろうと思った。
 クジラが射精すると辺り一帯の海が白く濁る、という話があって、これはもうクジラという巨大生物のことだから別次元なのだけど、人間とほぼ同じくらい、つまり70kgくらいのイボイノシシが500mlの射精ができるってことは、生きものまだまだ捨てたもんじゃねえな、可能性いっぱいあるな、という気持ちになることだと思う。よく分かんないけど、これはそういう希望じゃないかと思う。
 しかし500mlと言えばペットボトル1本分ですよ。そう考えると途端に生々しい。もしかしたら長澤まさみがおいしそうに飲んでいるのはイボイノシシの精液なんじゃないか、などと考えたら、それはそれで大変に希望が湧いてくることだと思う。

2009.12.8

 「エロ小説の主人公はなぜモテるのか」という問いがあって、それに対し僕は「なぜなら主人公のちんこはかわいいのだ」という答えを喝破したのだけど、読んでみると少女マンガの主人公の女の子っていうのも、話が進むうちに自然とモテることだと思う。
 はじめの設定では「目立たない普通の女の子(読者が感情移入しやすい)」と「雲の上の存在みたいな学園の王子(読者が憧れやすい)」という関係なのに、大抵2巻の後半あたりからは、ふたりの王子による主人公の取り合いみたいになってる。びっくりする。自分モテモテやん。
 エロ小説と一緒で、物語を追ってゆくだけでは「素直で優しい心根」くらいしか王子らが主人公に惹かれてゆく理由が見出せないのだけど、これはエロ小説のときにも言ったけど、素直で優しい心根を武器にしても決してモテないってことは、実地で証明済みじゃないか。俺たち、優しかったのにモテなかったじゃん。殴り合いのケンカとかしなかったし、ゲーセンも行かなかった。それなのにちんこの表面積を複数人から奪い合われず終いだったじゃん。
 このやって考えると少女マンガも図式はエロ小説とまったく一緒なので、モテることに関してはエロ小説でいうところの「ちんこがかわいい」的な理由になってくるのだと思う。
 ただし少女マンガの場合だと肌は晒していないので、「おっぱいがかわいい」とか「陰阜の盛り上がりが絶妙だ」みたいなのは理由にならない。本当はエロ小説と一緒で男子も女子もただセックスをしたいだけだろうに、少女マンガは開始30ページではフェラチオをしはじめないのです(するのもあるけど、それはここで言うところの「少女マンガ」の定義からは外れるのです)。となれば、普通に学園生活を送っていて、何百人も女の子がいて、よりどりみどりの状況の中で、王子らはなぜたったひとりの主人公を選び出すのか(10人くらいキープしとけばいいじゃねえかと思うが、王子は純愛主義なので決してそんなことはしない)。
 もう思いつくのはひとつしかなくて、それはにおい的なものではないかと思う。主人公から分泌される独特のにおい物質が、王子らの股間には直撃するのだと思う。あれはそういう反射から発生している物語なのだと思う。それしか本当に考えられない。
 だからエロ小説の話の際に、「男子はとにかく『自分のちんこはかわいいのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と言ったのに続いて、今回は、「女子はとにかく『自分が分泌するにおい物質はセクシーなのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と、ドリアン破皮狼先生は君たちにメッセージを送りたい。だからイジメになんか負けないでほしい。

2009.12.8

 少女マンガを読んでいて、切なさにキュンキュンする。
 少女マンガを読むたびに宇佐木学園も少女マンガ風にしたいと思うのだけど、男性の登場人物があのふたりではどうしたって不可能だ。じゃあホガラカノイロオゼはどうかと思うが、こちらもなぜかうまくいかない。要するに才能がないのだけど、でもやっぱ諦めんのとかマジかっこ悪ぃし、なによりそんなの俺らしくねえし、イラクの人たちのこと嫌いになれねえし、親も年だし、ここらでひとつ少女マンガ性に特化したブログをひとつ、新しく作ってみるのもいいかもしれないと思った。
 ところで以前までは僕が「新しくブログを作ろうと思うんだ」と言ったら、ファルマンは「キャハハハハー」と爆笑してくれたものだったのに、今回は「あそう」と冷たい反応で、とても寂しくなった。最近は宇佐木学園も読んでくれないし。寂しがり屋の狼少年が、みんなから気にかけられたいがゆえに嘘ばかりついて、やがて誰からも相手をしてもらえなくなったように、このブログ狼少年(26歳)も、とうとう愛想をつかされ始めたのかもしれない。がるるるくぅーん。

2009.12.6

 フィギュアスケートのエキシビションを観ていて、エキシビションやりたいな、と思った。あれは非常によくできた一発芸大会だと思う。ショートプログラムやフリープログラムって、結局はエキシビションで落とすまでの前フリなのだな。そちらの成績上位者のみがエキシビションを披露する権利を得る、というあたりがその確信を深める。緊張と弛緩。ためてためてどーん。マジでがんばった奴だけがボケの破壊力を増幅させるのだ。
 というわけでブログにもそういう大会があればいいと思う。
 まずはショートプログラム。参加者は規定のキーワードを使いながら400字くらいで記事をうまいことまとめる。それを審査員が採点する。ブロガーは記事をアップしたあとはソファーに座って得点発表を待つ。ここで出遅れたとしても次のフリーで逆転はいくらでも可能だ。
 フリーでも規定のキーワードを使いながら記事を書く。ただしフリーは文字数が増え、3000字くらいになる。なので実際のフィギュアのフリーと一緒で、確実に途中で退屈になることだろう。下手したら誰も読まないかもしれない。そういうときはたまに派手なジャンプを試みるとよい。ブログにおけるトリプルトウループがいったい何を指し示すのかは、それは各自で考えてもらうとして。
 そしてそのふたつの得点を合計して、最終的な順位が決定する。順位上位者は晴れてエキシビションに出場だ。エキシビションでは完全になにをやっても自由で、ユーチューブを貼ったりしてもいい。これは浅田真央が実家の犬を抱いて演技したみたいな、そんな感じの飛び道具ということである。いっそ本当にそのときの演技の映像を貼ってもいい。
 そういうブロググランプリ。ただしひとつ問題なのは、ブロガーって実は常にエキシビションのリンクの上を滑っている、ということだろう。わざわざ場を用意されるまでもなく、ブログはいつだってエキシビジョン。女の子は誰だってプリンセスなのよ。
 つまり何が言いたいかと言えば、なんかたまにそういう企画が立てられ、腕に覚えのあるブロガーたちが集ってそれぞれが記事を書いたりするけど、そういうのって本当にウザいよね、ということだ。あれ? そういうことだったのかな。本当はただ純粋に、織田信成がとっても愉快でしあわせな気持ちになったってことだけが言いたかったような気もする。
 そう言えば以前、「SNSなんかクソ喰らえだ」「フォロワーとかマジでキモい」といつものように管を巻いていたらファルマンが、「でもああいう場ができることによってコミュニティを作りたい目的の人はあちらに行ったから、ブログ界そのものは浄化されたのだ。そして私はそれをとてもいいことだと思う」と、マザーみたいなことを言い出し、その場では「ああ、俺の奥さんやっぱりキモいなあ」とだけ思ったのだけど、上に書いたような「腕に覚えのあるブロガーたちが集結してやる企画」みたいな、そういうのはたしかに純粋なブログ媒体ではあまり見かけなくなったような気がするので、キモ神様の言う通りでいいことなのかもな、ともちょっと思う。

2009.12.6

 「校内写生大会」と「咥内射精大会」みたいな、読みが一緒で漢字が違う、というのは好きなのだけど、その逆で漢字が一緒で読みが違う、というのは嫌いだ。これって普通に機能的じゃないと思う。そういうのをこれからの人生でひとつひとつ潰してゆきたい。
 そんなわけで最初の標的は「最中」だ。これって「さいちゅう」とも「さなか」とも読むじゃないか。これが嫌。「さなか」のつもりで書いたのに「さいちゅう」って読む人がいるんだろうな、と思うと本当にすごく嫌になる。ちなみに和菓子の「もなか」に関しては気にしない。それは平仮名でも片仮名でも自由にやればいいと思う。
 そんなわけで提案したいのが、「最中」は「さいちゅう」とだけ読んで、「さなか」は新しく「乍中」という表記を充てる、ということだ。「ながら」の「なか」なので意味的にもぴったりだ。
 これはいい。これで明るくなったらう。日本語特有の問題点、テンション下がるポイントが、これでひとつ改善された。いいことをしたので気持ちがいい。もう僕のパソコンでは辞書登録も済ませた。これからは書いているすべてのブログで、普通の日本語のようにサラリと使ってゆこうと思う。今日の日記を読んでいない人にとっては「それこそ読めねえよ」って話だけど気にしない。読めないのなら読まなければいいと思う。言っとくけど「ブログは読まれなければ読まれないほど愉しくなる」という真理を喝破した僕に、怖いものなんてなにもないのだ。

2009.12.5

ところでファルマンは宇佐木学園を、「さすがに読めんわ」という理由で読まないのだそうです。これには思わず「お前が読まなかったら俺のブログ、誰が読むんだ!」と怒鳴った。それでも「でも読まない」って。哀しい。憂いのピーク、憂ピークだ。

(中略)

 食後、をとめごら版をもう1篇。主人公は4年まごころ組の村崎翔子。これにてをとめごら版は早くも5記事目。ああ愉しい。妻にさえ読まれぬブログがこうも愉しい。ブログってもしかすると、書き手の愉しさと読者数が反比例するのかもしれない。フォロワーがいればいるほど愉しさって粉々に砕け散るのだ、きっと。つまりどういうことが言いたいかと言えば、お前とお前とお前の、ブログとミクシィとツイッターは、読者が多そうだからちっとも愉しくねえよ、ってこと。バーカバーカ。

2009.12.3

 ぜんぶエロゲーにすればいいのにどうしてギャルゲーというジャンルがあるんだろう、という、昔から言われる疑問があるじゃないか。あるいはぜんぶエロ小説にすればいいのに、なんでライトノベルなんかが存在するんだろう、でもいい。
 こういう文章がある。

 かなりの期間に渡り、僕の中で美少女ゲームというのは不思議な存在だった。
 まず、どういう人間がプレイするのかが判らない。なにしろ美少女ゲームの要素というのは、そのままエロゲーにすっぽりと含まれているのである。ならばエロゲーをし放題の成人がするはずは当然ない。しかしかといって、十八歳未満の人間がするというのも不自然である。エロゲーの十八歳未満禁止表示というのは、それがエロゲーであるか美少女ゲームであるかの表示なのであって、文字どおりの年齢を規制する意味合いはない。
 ならば誰もがエロゲーをやって当然なのに、なぜか美少女ゲームというのは依然として存在する。生産があるという事は需要があるのはたしかなのだ。なぜだ。一体どんな輩が美少女ゲームなんて求めるのだ。
 この疑問が解決したのはかなり最近になってからだ。少女漫画を読むようになって、ようやくだんだんと理屈がつかめてきた。
 少女漫画の世界、それはとにかく清廉とした世界だった。衝撃だったのは、そこには性欲というものが存在しないという点だ。あるのはただ恋愛欲のみである。だから恋が成就し、唇を重ねた瞬間に、物語は美しく完結する。その先はない。そこがその世界の最深部なのだ。それは純然たる統制である。そしてその非現実さは、僕を魅了させてやまなかった。
 少女漫画と美少女ゲームは対応する。差異は視点の性別のみである。美少女ゲームもまたファンタジーのような幻惑的な香りで冒険者たるユーザーを夢の世界へと誘い、そして心酔させる。機構はまるで一緒だ。
 要するにセックスはあまりに人間的でありすぎるのだ。性欲を汚いものと取るかどうかは人それぞれだが、極限までに生物的なその現象を、物語中の登場人物にまでリアルに求めたくはない、という心情を理解するのは容易である。現実の世界ではどうしても無理だから、創作物に想いを託し、純潔なラブストーリーを仮想体験したい――そういう欲求こそが、そのまま少女漫画と美少女ゲームの需要につながっているのだ。
 しかし一応ここで断っておくが、恋愛感情というものもまた、当然ながら多分に人間的なものである。ましてやそれの基準がつまるところ容姿であるという点においては、それら創作物の登場人物たちというのは現実以上に貪欲であるとさえ言えよう。欲まみれの汚い現実から目を背けたくて物語を求めているのに、それではむしろ逆効果ではないか。
 しかしそうではない。重要なのは、たとえ過程の恋愛感情が醜く人間的であれ、結末は決して人間的ではないという点である。これについてはメタ的な考察が重要になる。すなわち媒体という区分を考えるのだ。どこで何が起こるか分からない現実と異なり、物語には媒体という確固たる統制ができあがっている。それは絶対的なものであり、意表を突かれる事はまずないと言っていい。
 たとえば僕は「りぼん」の読み切り増刊号を読むにあたり、それに性的な要素を求める気持ちはページを開く前からあまりない。もしもこの点が裏切られ、りぼん誌上で濃密な性交シーンが描かれれば僕は死ぬほど驚くだろうが、それは絶対にない。それと同じく、美少女ゲームをしていたら実はエロゲーだった、という事も法律上ありえない。これは文章の初めの方にも書いた。つまり物語に触れる前から、結末は前提としてそこに存在するのである。
 このように少女漫画や美少女ゲームというのは、はじめから綺麗なままで話が終わる事が固く約束されている。そして、だからそれらには需要があるのだ。現実逃避のロマンスとして、人々は安心してそれらを求めるのである。

 これは大学1年生のころにサークルの会誌に書いたもの。いまだに自分の18歳のころの文章を引用して同じ疑問について考えようとしているのだから、なんとも長閑な話だな。
 ところで話は遠回りするのだが、先日宗教の本を読んでいたのである。それは仏教の宗派についてのお話だったのだけど、その中で、厳しい苦行や規律を強いる宗派は実は信者にとって優しく、念仏を1回唱えるだけでもう大丈夫とするような宗派は信者にとって本当は厳しいのだ、という話があった。これにはすごくなるほどなあと思った。
 宗教にすがる人々の目的はみんな一緒で、極楽浄土、シャングリラに行くことであり、宗派とはそのアクセス方法の違いに他ならない。だから修行が厳しいということは、極楽浄土という目的地への行き方を、ひとつ目の角を右へ、ふたつめの信号を左へ、という感じでものすごく細かく説明してくれている、ということなのだ。なるほどこれは優しい。言うことに従っていれば確実に着けるんだろうな、という安心感がある。それに対し念仏を1回唱えればいいとか、心の中で救いを求めればそれでいいみたいな宗派は、目的地に対し、右斜め前に向かってゆく気持ちで進めばきっと着けるよ、くらいのことしか言ってくれないということで、歩きたい道を自由に選べるのはいいけど俺って方向音痴だし不安だよ、道は長いし、もしかしたらとんでもない所に行っちゃうかもしれない、信じ抜くには強い精神力が必要だ、ということなのだ。実は放任主義でけっこう厳しいのである。
 ちょっと前に読んだここらへんの記述が、昨日やっとエロゲーとギャルゲー、エロ小説とライトノベルの話に結びついた。つまりそれらもこの図式に当て嵌まるんじゃないか。なにしろ4点とも目的地は一緒なのだ。シャングリラでありユートピアであり、さらに言えばマリモッコトピアだ。結局のところ美少女が出てくる創作物の最終的な目的はぜんぶ、美少女たちとの酒池肉林に他ならないだろう。宗派とまったく一緒で、要はそこへのアクセス方法の違いだ。
 エロはルートをちゃんと示してくれる。こう行ってこう行ってこう行くと、ほら着けたでしょう、とマリモッコトピアまで連れてっていって、さらに言えばマリモッコトピアの町並みの解説までしてくれる。これは優しい。とても親切。それに対しギャルゲーやライトノベルは、こういう方向性で、というところまでしか見せてくれない。そっから先はそれぞれが勝手に歩いて行ってね、と放っぽってしまう。しかもギャルゲーにはハーレムエンドは存在しないから、特定のひとりとのキスで物語が終了してしまう。そこからそれぞれの力でもって女の子全員との酒池肉林まで持ってゆくのは、たいへんに厳しい道程だ。そんな重労働をよくやるもんだと思う。
 つまり常にエロ小説を持ち歩いているような人間は、町で見かける虚無僧みたいな感じで、社会的には一歩引いて見られるけれど、本当はライトノベルで満足している輩のほうが、よっぽどハードな(気持ち悪い)信念を持っている、ということ。
 そういうことだったかな。なんか最近こういう理屈立てた文章を書いていなかったので、あんまりうまく書けなかった感じがする。18歳の僕はこれを読んでどう思うだろう。

2009.12.2

 上の義妹は腹筋が割れている男の人が好きなんだそうで、好かれたい義兄は以前、2日に1回くらい、寝る前に20回くらい腹筋運動をしていた。そうやって腹筋を6つに割って、そうしたら義妹に開陳し、柔らかい指の腹で撫でてもらって、「わあ、硬ーい」ってなって、その指は徐々に降下していって、「お義兄さん腹筋もすごく硬いけど、こっちはもっと硬くなってるウフフ」ってなる、というこれはそういう壮大な計画だった。
 でもいまはぜんぜんやってない。冬で寒いし、それにひとつ気付いてしまった。
 腹筋じゃなくて、大事なのは背筋なんじゃないか。
 腹筋が6つに割れてる的な美学はもちろんあるのだろうが、腹筋というのは結局は腹筋にしか作用しないように思う。腹筋を極めたことがないので定かじゃないが、きっとそうなんじゃないかと思う。それに対して背筋は、そこを鍛えると「なんか全体的にシュッとしてて筋肉質というか、姿勢もいいし、筋が1本通ってる感じだよね」的な、そういう感じに行き着くのではないかと思う。地味だけど、実は背筋こそが全身の筋肉を支配しているのだ。多分。
 だからまずは背筋をやればいいんだと思う。全身がムニムニで腹筋だけムキムキなんて気持ち悪い。腹筋を6つに割るのは背筋がついてから。あるいは背筋運動をやっていたら自ずと腹筋も6つに割れるんじゃないかと思う。理屈はよく分かんないけど、そんな作用もある気がする。
 というわけで4日前くらいに、ブログに勤しんでいたファルマンに泣いて頼んでブログを中断してもらい、脚を持ってもらって背筋をやってみた。うつ伏せになって上体を持ち上げるあれを20回。
 そしてその結果、背筋は思っていた以上にちんこが痛いという事実を発見した。
 ちゃんとカーペットの上でやったのに、それでも痛い。痛いというか、上体を持ち上げたとき、ちんこが矢面に立って全身の体重を支える瞬間というのがあるじゃないか。あれにちんこがすごいショックを受けた。普段の日常の中で、ちんこで体重を支える場面ってないでしょう。いきなり課せられた突然のプレッシャーに、僕の温室育ちのちんこが悲鳴をあげた。
 これは続けられない。たとえこれを続けて筋肉質になったとしても、そのころには精巣がどうにかなっていて、宦官みたいになっていると思う。機能性ばかりを追求した結果、生きものとして本当に大事なものを失ってしまうところだった。古代中国と同じ失敗をするところだった。
 なのでその夜以来もう、腹筋はいちどもやってない。
 いいよもう、筋肉もちんこも、自然体でのびのび育てるよ。0歳児のころから脳の発達学習とか、そういうさもしいことはしない主義だよ。イメージの中の義妹も、腹筋からだんだん降下していってやがてちんこに到達するのなら、はじめからちんこでいいじゃないかと思う。お兄さん腹筋は割れてないけど、ちんこならバキバキだよ。嘘だよ。ちんこもそうバキバキじゃないよ。ごめんね。どうでもいいよ。謝罪の意味が解んねえよ。
 なんとなく人のブログを読んでいて、男の書き手がちんこの話とかしていると、気持ち悪くて僕は読めないのだけど、だとすればこの記事は、僕以外の人間にとってまさにそれなのだろうな、と思う。ここまでちゃんと読んだのだとしたら、わいのことめっちゃ好きやん自分。

2009.12.1

 擬人化が流行っていて、鉄道とかファーストフードとか調味料とかいろいろあるので、それではちんこの擬人化はどうだろうと思った。
 でもなんかもう既にありそうだな、と思って検索したらやっぱりあって(掲示板的なものなのでリンクは貼らないけど、「ちんこ擬人化」とかで検索したら最初に出てきた)、でもこれはいまの流行りのBL的な発想での擬人化ではなくて、びんちょうタン的な、ただ単に物体を美少女キャラ化しているだけなので、びんちょうタンがそうであったようにちっともおもしろくないし、僕の考えたものとも幸いなことに被ってなかった。ちんこだけに幸いなことに被ってなかった(うまい)。
 そもそもちんこを美少女キャラとするのは無理がある。だってちんこは男だもの。よってちんこはBL的な発想で擬人化するのがむしろ正しいのだ。僕のイメージしたちんこ擬人化では、ちんこは右睾丸と左睾丸と陰茎という3人編成で、もちろん両睾丸は双子。3人は力を合わせて学園を統治する生徒会執行部で、陰茎は能天気な看板生徒会長、右睾丸は副会長兼会計、左睾丸は副会長兼書記だ。両睾丸が優秀に裏方の実務をこなしてゆくことで、陰茎生徒会長はどんどん名声を手に入れてゆく。つまり両睾丸とも陰茎に惚れていて、双子同士どちらがより生徒会長を高みに押し上げられるか、頼りにしてもらえるか、というライバル関係にある。でも実は深層心理では、両睾丸は陰茎を間に挟んでカムフラージュしているものの、自分とそっくりの相手に互いの能力を認めてもらいたいと思っているのだ。123話目くらいでは弟である右の睾丸が交通事故で死んで、弟の代わりに野球を始めた兄が陰茎を甲子園に連れてゆく、というストーリー。どうだ。

2009.11.30

 最近になって出勤時などにマスクを着けるようになった。ここ何日か喉の調子が悪く、咳が出たりするので、先週の池袋に買い物に行った際から着け始めた。マスクがウィルス予防になるとはまったく考えていないが、ファルマンいわく「そのうち人ごみでマスクをせずに咳をしていて刺される人とかが出てくると思う」とのことで、たしかにそれは割と頷ける話だったので、医学的な見地からではなく社会的見地から着けた次第だ。よく「マスク一色」なんてタイトルのついた、ビジネス街で歩いている人たちが全員マスクを着けているという、だからなんだよ的な写真がヤフーニュースとかであるけれど、あれはマスクをしていないと出世に響いたりするからなのだと気付いた。マスクは「私は理知的な人間です」というサインなのだ。
 そして実際に着けてみて以来、ウィルスとかそういうんじゃない意外な効能も見出されたので、気に入っていまも出勤時には必ず着けるようになっている。
 その効能とはつまり、あたたかいのである。マスクってあったかい。すごく顔の保温効果がある。もうマスクなしじゃ寒くて朝の出勤なんかできない。マフラーをぐるぐるに巻いてニット帽を被りマスクして出勤している。そう考えるとやっぱり夏にそんなもん着けられるはずないと思う。僕なんか夏だとメガネだって「暑い」という理由で着けないくらいなのだ。そりゃあ大便の臭いもするだろうよ。
 マスク業界の人がこの記事を読んでいたら、感染防止という目的は世間的にも疑問視されはじめてきた感があるので、今後は堂々と防寒を謳って売り出してみてはどうかと思う。内側にファーとかつけるといい。ユニクロがヒートテック素材で作らないかな。呼吸できないか。

2009.11.30

 今月の社会契約論はひどかった。最近はさんざん言っていた通り純粋理性批判が低調で、もしかしてもう社会契約論の時代なんじゃね、と思っていたのだけれど、その救いも奪われた。4作出すのはすごくいいと思う。でも4作出すのなら、女の子の人数にバリエーションをつけるべきだと思う。今月の4作は、1人・1人・1人・2人という編成。ありえない。ピンヒロインに飽き飽きだ。いっそその5人で1作でいい。まったく世の中どうかしている。仕方なく僕はまた黄金期の純粋理性批判を読むことになる。なんでそんなに常にエロ小説を読まなくちゃいけない身体になっているのか自分でもよく判らないけど、とにかくそんな羽目になっている。そしてそうして読む黄金期の純粋理性批判はやっぱりおもしろい。新たな発見もないことはない。けれどやっぱり既読なのだよな。ああ、どこかに既読じゃない黄金期の純粋理性批判が落っこちてないかな。

2009.11.26

 体重が微増してきている気がする。すごく怖い。
 僕の人生の目標のひとつに「シュッとなる」というのがあり、なんかなんとなく20代後半でそんな風に、屈強で筋肉質でシュッとしている感じの人に(自然と)なると思っていた。思っていた節があった。でも26歳にしてそのなんとなくの予想が揺らぎはじめている。
 男の子は20代後半に自然とシュッとはならない。むしろ体重が微増しはじめる。
 でも労働中のチョコレートと労働後のビール、夕食後の満腹状態での仮眠という幸福を失ってまでシュッとしたいとも思わない。丸顔は僕のチャームポイントだとも一部では言われているし。
 そういうのを禁じてシュッとした人は、人生もまたシュッとしていることだよ。

2009.11.25

 今日発売の「sabra」は小池里奈が表紙で、それだけでおおと思ったのだけど、それに加えて中を見てみたら、小池里奈・篠崎愛・しほの涼という女子高生グラビアアイドル3人による合同制服スナップみたいな企画が組まれていて、ひどく興奮した。こないだ職場で好きなグラビアアイドルについて訊かれ、「篠崎愛。次いで小池里奈とかしほの涼とか……」と答えていた僕にとって、これは夢のような出来事だった。奇跡の揃い踏み。こんな幸福グラビア体験を持つ人間、世界にあんまりいないと思う。好きなグラビアアイドル3人を挙げて、その3人が一同に会しての合同グラビアを行なうなんてこと、アラブの大富豪くらいじゃないと普通は実現できない。金持ちにのみ許された道楽だ。しかし僕にはそんな幸福がラッキーにより舞い降りた。俺はこの幸福を誰に感謝しようかな。記事内では3人のガールズトークが掲載されていて、その3人の会話の噛み合ってなさ、よそよそしさが、この企画の奇跡を強調していた。よく知らないけど事務所とかだって別々なんだろう。3人はぜんぜん友達じゃないのだ。なのに企画は組まれた。もはやこうなると大きな力の存在を疑わざるを得ない。僕にはアラブの大富豪の守護霊がついていて、僕が好きなものとかを口に出すと、その守護霊がスピリチュアルなオイルマネーをばら撒いて、希望を実現してくれるのではないか。だとしたら実に素敵なことだと思う。スピリチュアルオイルマネーって新しいな。

2009.11.24

  ファルマンが僕の似顔絵を描いて、描いた結果「それは俺じゃなくて大神先生だ」ということになる。妻の描いた僕の似顔絵は僕ではなく、むしろ僕の作ったキャラクターのイラストであった、という気持ち悪い構図。もっとも大神先生と僕に外見的な違いはなく、差異は陰嚢に神様が棲んでいるかいないかという点である。
 それで興に乗ったので、一緒に中埜新も描いてもらう。「新はすぐに服を脱いじゃう頭の弱い子で、まごころ組だから夏服はポロシャツ。あとヘアピン着けてる」とリクエスト。なにも言わなかったのに胸には宇佐木学園校章を置いてくれた。理解力のある妻だなあ。
 それからこのやりとりは、ファルマンが適当に女の子を描き、完成したそれを見て僕が「それは1年おもいやり組の福田えれなだね」などと、頭の中にあるイメージと結びついた女の子を特定する、という遊びに進展した。割といつものことだけど今回のこれは特別、われわれ夫婦における閉鎖性の強い遊びであると思う。でもできればズイズイズッコロバシみたいに広まればいいと思ったので、一般化しやすそうにこの遊びに、「ピョンピョン」と名前をつけてやる。
 ふたり1組で、一方の人は架空の世界で学校を経営し、女の子を60人くらい創造しておき、もう一方が適当に女の子のイラストを描いて、エア理事長のほうがそのイラストを見て、60人のうちの誰であるかを特定してゆくゲーム。それが東北地方の一部で昔から行なわれていたとされる遊戯「ピョンピョン」です。かつてその地方では、囲炉裏に集まって毎夜のごとく家族みんなでピョンピョンが行なわれていたそうですが、今では過疎化が進んだため文化が失われてしまい、2009年現在やっているのは東北地方に縁もゆかりもない、東京に暮らすとある夫婦のみだといいます。

2009.11.23

 ファルマンと久しぶりにデートをする。買い物とかじゃなくデートらしいデート。目的地は鎌倉。ファルマンはもちろん初めてで、僕もずいぶん久しぶり。たぶん小学生以来だと思う。
 天気予報の週間予報が相変わらず当たらず、午前中は雨のはずがずっと晴天だった。珍しく予定とかを立てるとどうしても週間予報を気にしてしまうけど、まったく当たった試しがない。そんなわけで絶好の行楽日和。勤労感謝の日のデートが晴天であたたかかったのは、精神的になかなか気持ちがいい。普段の労働がちょっと報われた気がした。
 鎌倉へは東京から横須賀線。50分くらい。途中の横浜らへんで座席が空いたのでよかった。窓からの陽射しがポカポカと背中に気持ちよく、ファルマンも僕も行きなのに早くも寝た。
 正午ぐらいに鎌倉駅に降り立つ。大賑わいだった。
 まずは小町通りを通って鶴岡八幡宮に向かう。小町通りはいかにも観光地の商店街で、気分が盛り上がった。ファルマンなんて出雲の子なのに勾玉のネックレスとか買っていた。よく分かんないけどそれってあなたの地元が本場なんじゃないの、とちょっと思った。
 小町通りを抜けて右に進むと大きな鳥居が見えてきて、鶴岡八幡宮だった。
 しかし入ってみると鶴岡八幡宮は割と地味で、出雲大社の大きな注連縄みたいなエンターテイメント性は一切なく、ただの盛況している普通の神社だと思った。それでも階段を上り、お賽銭を入れて参拝。おみくじもやる。結果はファルマンが吉で僕が小吉。文面には「持って生まれた清浄正直な心を大切にしなさい」と書いてあって、神に認められたような気がした。ああ俺は、この清浄正直な心を一生ねじ曲げることなく大切にしてゆこうと思う。
 鶴岡八幡宮を出て鎌倉駅に戻る。そこから次は江ノ電に乗って長谷へ。今回の鎌倉デートは、鶴岡八幡宮・由比ヶ浜・鎌倉の大仏という超ベタなルートなのだった。
 長谷駅からまずは由比ヶ浜へ。太平洋だー。ファルマンと太平洋を見るのは初めてだな……と思ったけど、実は違った。去年の9月に横浜で見ていた。そのときは整備された商業施設からだったからぜんぜん印象に残っていないけれど。それに対し由比ヶ浜は正しく砂浜。テンションが上がった。それで鶴岡八幡宮では勇気が出せず頼めなかったが、今回はさすがにもったいないと感じ、近くにいた人にツーショットの写真なんか頼んでしまう。まるで若い夫婦みたいだな。
 そのあと駅を挟んで反対側の高徳院のほうへ。これがまた割と距離がある。
 やっと着いて拝観料200円を払い中へ入ると、いきなりズドンと大仏。もったいぶらずにすぐにあって虚を突かれた。しかしこの大仏が、小学生の頃に来たこともあり、それ以来うすうすと感じていたことだが、あんまり迫力がない。なんかはっきり言って安っぽいと思う。威光みたいなものがびっくりするくらいにないのだ。ここまで来ると逆にすごいな、というくらいになかった。鶴岡八幡宮も鎌倉の大仏も、結構がっかりスポットなんじゃないかと思う。
 長谷駅に戻る途中で甘味処で休憩。クリームあんみつと抹茶でひと息。ここまで割と歩いたし、強い陽射しも浴びたので、思っていた以上に疲れていた。甘いものを食べてすっきりした。
 長谷駅から乗った江ノ電が、行きもだったが超満員。休日はいつもこうなのだろうな。きっと地元住人は休日の超満員の江ノ電を見てはケッケッケとせせら嗤うのだろうな、と思った。
 そんなこんなで鎌倉駅に舞い戻ったときにはもうヘロヘロ。おみやげを買いに改札を出るなどということもせずに、そのまま横須賀線のホームに直行する。横須賀線ではまたルートの3分の1くらいの所で座れたのでよかった。深く寝た。
 途中の池袋で鮨を買って帰宅。すっかり暗かったが、実はこの時点でまだ18時。なにしろ早く家に帰りたかったので、久々のデートも小上がりだ。
 今日は時間がゆっくり過ぎた。家で消しゴムはんこをやっている時間はあんなに早く過ぎるのに。人生を長くしたいのなら、デートでがっかりスポットにばかり行けばいいのかもしれない。
 まあ愉しかったですけど。でも疲れた。今日1日で5年分くらいデートをしたな、と思う。

2009.11.22

 ファルマンが昨日の記事を読んでまた言う。
「あなたは語れば語るほどに、共学の本質から離れてゆくんだよ」
 まるで禅問答のようだ。共学っていったいなんなのだろう。共学のことを完全に忘れたとき、僕の眼前には真の共学が広がるのではないか。真の共学ってなんなのかよく分からないけど。

2009.11.21

 ファルマンが昨日の短歌を見て言う。
「あなたって本当にかわいそう。共学があんなものだと思ってるんだ。現実はね……」
 もっとシンプルで、そんな華やかなものじゃないんだよ、と続くのかと思いきや、
「もっとチョー愉しいんだよ!」
 これにはすごくムカついた。
「私みたいなクラスの端っこにいた地味な子だってそうなんだから、中心にいた子たちの愉しさと言ったらもう、とんでもないものなんだよ」
 そうかー、と思う。
 そんな気はしていた。共学高校の華やぎはシャングリラで、人生でいちどしか獲得のチャンスがないそれを放棄した僕の後悔は、もはや原罪とでも言うべき失敗なのだ。
 「BiDaN」とか「samuraiELO」とかを興味本位で見ると、どちらかと言えば割と不細工くらいの男子高校生が、なんかけっこう彼女とか作ってる。ワイシャツの下に白じゃないカラフルなTシャツを着て、髪の毛をツンツンにして、学ランの下にパーカーとか着て、学校のショルダーバックをリュックっぽくして背負っていたら、共学に通う男子高校生はたとえかなり不細工であっても彼女ができて、普通に親が出掛けている日に部屋に連れこんでセックスするのだ。
 でもこれは理屈に合っているというか、これまでcozy rippleの5年間の歴史でさんざん語ってきたように、女の子って基本的にエッチで、女子高生なんていうのはそれが特にで、割とすぐに男子の体に包まれたがる生き物だ。包んだことないけど、長い研究の結果そういう結論に至っている。そんな女子高生に対して、色のシャツを着たり髪の毛を立てたりするのは、「俺はお前のこと抱いてもいいぜ」的なアピールなのであって、動物が発情期には体の一部を変色させたり特殊なホルモンを出すのと同様に、アピールとして実に有効なのだと思う。
 顔がよければもちろんそれに越したことはないのだろうが、しかしエロい女子高生の主目的はとにかく「包まれること」なわけで、なので顔は実際それほどは重視されない。むしろ目的から考えればあまり本気にならずに済む不細工くらいがちょうどいいとさえ言える。しかも色のシャツとか髪の毛を立てたりしているということは間違いなく軽い奴なわけで、相手も自分に入れ込むことなく、気軽に、互いに不特定多数のうちのひとりとしてセックスしてくれるに違いない。
 ゆえに高校生はチャラチャラしていればしているほど、モテるのだと思う。
 そしてそんな風にモテていると次第にオーラが出てきて、何十人も抱いたぜ的な自信も出てくるし、それが風格となって、何度もしつこくねだってくる亜矢先輩や有里先輩がやっと卒業した(まあ今でもたまに呼び出されてセックスさせられるんだけど。いわゆるセフレってやつ?)と思って安心してたら、なんか今度は今年入学してきた後輩からもせがまれて、マジ困る、ホント俺のチンポは1本しかねえし、睾丸もふたつしかねえし、そんな言われても無理だからね、週6とかマジきついし、本気でイモるし、みたいな、みたいなみたいな、そういう感じだと思う。
 そういうのが共学に行かなかった原罪。
 男子校で毎日ひたすら本格ミステリばかり読んでいた原罪。
 共学短歌は原罪を詠むもの、とか言うとちょっと格好いい。またぜんぜんフォロワーが出ないうちから研究面まで自分で賄い始めた。まあフォロワーなんて気に入らないからいいんだけど。
 そんなわけでもう、名称も「共学短歌」でいいや。
 共学短歌3首。

 週6はマジできついし悪ぃけど今日は勘弁 指で勘弁

 ウチ マジで先輩のこと好きじゃけん一糸纏わぬ体育倉庫

 このあいだ原先輩の彼女さんに誘われてマジ イモって逃げたし

2009.11.20

  共学って多分こんななんだろうなっていう短歌を詠もう企画(仮称)十首


 秋山は学園一のボインちゃん小学校低学年のころ仲良しだった

 大谷がルーズソックス頑なに穿き続けるの俺との約束

 後輩が視聴覚室行けなくて困ってたから案内してました

 女の子が髪切ったのに気付かない高田先輩サイテー、だってさ(笑)

 公民の授業中見る窓の外 幼なじみの柔軟体操

 体育祭はクラス縦割り編成だから先輩とあたし同じチームなんだよ!

 亜矢ちゃんが原先輩とヤッたらしい原さんこれで二十二人目

 ちぇっ俺がどんなに猛勉強してもいつだって二位 麻衣に勝てねえ

 踊り場で話し込んでる秋山の太もも覗け変わらぬホクロ

 体育が終わったあとの教室は柑橘系の香りがすげえ

2009.11.18

  今年もcozy rippleにさまざまな流行語が生まれました。
 エントリーワードは以下の通りです。

・3次会の庄や
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」6月7日。3次会の庄やで話されそうな内容を書いてしまったときに照れ隠しとして用いる。SJSと略して使われるケースも見られた。

・出た~!
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」7月24日。義妹に対し「水着姿を見せろ」と懇願するパピロウのライトセクハラに、上の義妹が発した言葉。パピロウと義妹の甘美な関係を象徴するキーワードであると言える。

・MOTTAINAIDESUYONEARUIMI(S)
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」5月17日。オリジナルTシャツデザイン企画の中で出たフレーズ。ただし世間は今年インフルエンザの話題ばかりで、あんまり環境保護はブームじゃなかったっぽい。

・多迷期
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」8月3日。少女が二次性徴の最中であることを示す言葉。言葉の完成度はなかなかだが、いかんせん二次性徴の最中のヴィジュアルが崩れている少女についてパピロウが言及する場面がないため使用頻度は低い。

・生命の神秘
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」8月27日。ファルマンの4コマ漫画内のフレーズ。そのあとブログではいちども引用されていないが、現実のファルマンとの会話でパピロウがポーズ付きで頻繁に使用したためエントリーとなった。

・ランジェリー期末試験
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月7日。アメリカのランジェリーフットボールに触発され、ファルマンにランジェリー○○を求めたところ即答で返ってきた言葉。後に宇佐木学園の公式行事として採用された。

・苦言を呈される
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月5日。ファルマンが日記の内容について知らない人から苦言のメールを送られる、という今年の事件から生まれた言葉。ファルマンはこれによりマウスピースの製作を余儀なくされた。家でファルマンがうるさいときは、「そんなに語ってると苦言を呈されるよ」と言うとシュンとして便利。

・クッキーゲーム
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月22日。下の義妹のサークルが行なったという遊戯の名前。一般的なポッキーゲームのポッキー部分を、クッキーで代用して行なう。チューじゃんかそれ。ありえない。

・NAYAMAZUKUZIKETEHAGEMASHITEMORAUSOSHITEKIZUNAGAHUKAMARU
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」9月22日。上記「クッキーゲーム」でショックを受け思い悩むパピロウに対し、ファルマンがとどめを刺すように言った、イケてるテニスサークルの学生たちのキャッチコピー。

・マリモッコトピア
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」7月10日。まりもっこりのキーホルダーをぶら提げる少女越しにパピロウが覗いたユートピア。そこに暮らす少女たちは、ちんこを見ては優しく微笑んでくれるという伝説が残されている。

・芝生男子
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」6月7日。「芝生」の初出は2008年の12月で、そこから半年かけてたどり着いた、たどり着いたと言うか世間で今年大いに流行った「草食系男子」の尻馬に乗るために生まれた言葉。「森ガール」に完敗した。

・へっちゃらパンツ
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」10月28日。女の子がスカートの下に穿く短パンの商品名。「ボニータ」という名称の発案者としては否定するべきなのだろうが、厄介なことにかなり気に入ってしまった。

・叔父さん軽口
 
 初出は「KUCHIBASHI DIARY」10月31日。親父ギャグに対する叔父さんの放言。単純なダジャレでしかない親父の親父ギャグに較べて、叔父さんの叔父さん軽口ってなんか小粋で、嫌いじゃねえんだよなって甥が思う。

・フロイト
 
 初出は「俺ばかりが正論を言っている」8月5日。俺ばかり500記事記念にアップしたファルマンの病んだ落書き。気に入ってデスクトップの壁紙に設定していたらパソコンがウィルスにやられた。

 いやあ、今年もいろいろな言葉がcozy rippleを彩りましたね。
 初出の時期を見ると、やっぱり夏だなと思う。
 グランプリとかベスト10とかは特に決めないけど、審査員特別賞だけは授賞しよう。
 栄えあるcozy ripple2009年流行語大賞、審査員特別賞は「上野の413球」です。
 おめでとうございます。この賞は今後10年にわたり連続受賞する予定となっております。どうか上野選手には殿堂入りを目指してがんばっていただきたいと思います。
 それではまた来年。来年はどんな流行語が生まれるのか、いまから僕だけ楽しみですね。

2009.11.16

 ところで「草食系」が今年の流行語大賞の候補に入っていて、僕もさんざん使い、あまつさえ「芝生男子」などと言い出しさえしたので、これに異論はない。「1Q84」とか「のりピーショック」とか、それは流行語じゃなくてヒット商品や事件だろうというのもあるが、とは言え今年の流行語大賞の候補はどれもまあまあ納得できる感じがある。これはひとえに今年オリンピックがなかったからだろうと思う。オリンピックとかあると選手が名言を残したがってやたら変な言葉を吐くので、場が荒れるのだと思う。まったくもって上野の413球だな。去年の特別賞であるこの言葉を、僕はいままでもこれからも、一生言い続けようと思う。いつか堪忍袋の緒が切れた上野の1球で、自宅の窓ガラスが割られるかもしれない。でもこれはただの事件だな。パロピーショック。

2009.11.10

 グラビアアイドルと言えば篠崎愛なのだけど、sabra増刊の写真集が発売されたのだった。それで中身を見たところ相変わらずすごい。本当に中学生のころの僕が思い描いていた「理想のエロい女の子」がここにいると思う。ショットの中に「無数に穴の開いたスピード社製の水着を着てちょっと困った表情の篠崎愛」というのがあり、僕は競泳用水着とかスクール水着とかあんまり興味がなくて、女の子本人がかわいいと思って着るビキニがいちばんかわいいと思うのだが、珍しくそれはすばらしいと思った。なにしろ篠崎愛と言えば豊満な肉体であり、スピード社製の水着と言えば強烈な締め付けだろう。その結果としての無数の穴なのだ。いいなあ。すばらしい演出。スピード社製ならぬスピード射精!? っていうのを書いたのは1年4ヶ月前のことか。競泳界を揺るがしたあの夏の騒動は、この1冊の写真集に結実したのかもしれない。

2009.11.8

 まひろさんがホガラカノイロオゼを更新していた。
 ホガラカノイロオゼは女の子の切ない恋心を綴った少女マンガ風のブログになったらいいと考えているのだが、これがなかなか難しい。どうしても男がまひろに欲情してしまい、勃起した芝生を見せつけたり、乳輪のサイズを訊ねたり、ショーツを穿いた回数をカウントしたりしてしまう。でもそれが真実だろうとも思う。現実の男子は、少女マンガのそれみたいに、朴訥としてないんです。変態性欲の塊なんです。まひろが少女マンガを夢見れば夢見るほどに、まひろの純情は泡立てられ、魅力的なホイップクリームとなり、その甘い香りに周りの男子は欲情してしまうという仕組み。まひろが、居眠りしてしまった自分のおでこへの不意打ちキッスを期待するとき、彰介はまひろの無防備なショーツに極限まで鼻を近付けて深呼吸を繰り返す。理想と現実のギャップ。まひろのX軸(少女マンガ軸)の数字が大きくなればなるほど、彰介のY軸(エロ軸)の数字も跳ね上がるのだ。まひろに関する有名な現象に「萌え光線逆照射現象」というのがあるが、これもその並びで、「萌え光線反放散現象」とでも言うべきものだと思う。少女マンガの主人公を夢見るまひろ、そんなまひろに欲情する男、そしてそれをまひろというピュア少女視点から描く。ピュア少女視点からすれば彰介の陰毛は黒い花火にも見えよう。子どもの想像力がおぞましい怪物を作り出すように、だとすればホガラカノイロオゼとは原子力発電所のごとき、メチャクチャなエネルギーを作り出す可能性を持ったブログであると思う。1足す1は2じゃなくて、夢見る少女×男根=∞なのだ! ∞という記号がそもそも陰嚢から来ているっていうのも示唆的だと思う。最後に叔父さん軽口が飛び出た。

2009.11.7

 ファルマンにパソコンを初期化してもらう。
 なんかそうしたら割と大丈夫になった。それでももちろんそう長くはない命なんだろうが、とりあえずすぐに買わなければいけないということはなくなった。よかった。
 そんな中で池袋に新しくできたヤマダ電機に、今日ようやく行ってみた。
 行ってみた結果、非常にパソコンが欲しくなった。
 だってね、新しいやつはね、ウィンドウズ7でね、ブルーレイでね、地デジでね、ダブルチューナーでね、1テラでね、なんかすんごいんですよ。こんなに魅力的な新商品があるのに、俺は初期化したXPとか使ってていいのかな、って。まあいいんですけどね。
 とりあえずオープン記念で安かったのかどうか知らないが、CDをすごく収納できるファイルボックスをふたつだけ買いました。これまでは画像とかをハードディスクやUSBに保存していたのだけど、なんかやっぱりCDなんじゃねえかな、と思ったのだった。クラウドとか言ってるご時世に、すごい逆行具合なのだけど。今後はこまめにCDにデータを焼いて、そのCDにペンで中身を明記して、きちんと管理してゆこうと思う。なんかそれがいちばん性に合ってる気がする。結局はカセットテープとかフロッピーの世代なんすよ自分。
 ああ新しいパソコン欲しい。
 ってことを今のパソコンで打ち込むデリカシーのなさ。
 テレビのCMをテレビで観ると、それを放映しなければいけないテレビのつらい立場とかを思いやってちょっと哀しい気持ちなるような、そんな繊細な思春期時代を送ったはずなのにね。

2009.11.2

 まひろさんが早速「叔父さん軽口」を使いこなしている。この子は本当に流行に敏感だなあ。流行というか、僕の動向だけど。もしかしてこの子、俺なんじゃねえの、と一瞬思った。いったいなにを言っているんだろうな、僕は。北海道の女子高生が俺なわけないだろう。
 ところでまひろさんの記事の中で宇佐木学園について触れられていて興味深かった。なんとまひろさんは、宇佐木学園4年あざやか組の日野環と、ペンフレンドなのだという。びっくりだ。ホントこういう偶然ってあるんですね。たまたま僕のブログに関わる女子高生ふたりが友達だった、なんてこと。にわかには信じがたいですけど。

2009.11.1

 そして今日から11月。今年があと2ヶ月。2ヶ月は早い。
 1月は行く、2月は逃げる、3月は去る、なんてことを言いますが、10月、11月、12月だって十分に早いので、なんかそういうキャッチーなフレーズを考えるべきだと思う。つまりふたりにとって4月から9月は蜜月で、3月には結果的に去っていってしまうのだから、ならば10月あたりから崩壊の足音が聞こえているべきなのだ。というわけで考えた。
 10月は、「ずっと我慢してた」。
 11月は、「修一のわがまま、わたし許しすぎちゃってたね」。
 12月は、「自由になりたいよ、もう」。
 そして「行く」「逃げる」「去る」。
 だから下半期はこんなにも哀しいのだと思う。

2009.10.30

 親父ギャグに対抗するジャンルとして、「叔父さん軽口」というのを考える。年の離れたお兄さんみたいな存在の叔父さん。叔父さんは親父側の人間じゃなくて、俺たち側の人間だって俺は思うんだ。ところで叔父さんからもらったギター、あれ、友達に見せたらベースだって言われたんだけど? 「ああそうか、叔父さんが22歳の頃に、ギターとベースって言葉が入れ替わったからなあ」。これが叔父さん軽口。ライトな嘘ジョークということ。見本は高田純次。

2009.10.30

 ブログで自分の話をするのは愉しいなあ。こんな消しゴムはんこに関するつましい話を細々と語れるのは、語っていいのはブログだけだ。職場に、ブログじゃないのに、僕という人間を巻き込んだ歴とした会話であるのに、自分の話ばかりする人がいて、精神がひどく疲弊する。これはブログじゃないのになあ、と思いながら仕方なく相槌を打っている。最近あんまりそういう人と触れ合っていなかったので、それに対する耐性がぜんぜんなくなっていたらしい。すごくつらい。大人になって、街で赤ちゃんを見てかわいいと思ったりするようになって、最近めっきりそんなことを思わなくなっていたけど、久しぶりに学生みたいに、「死ねばいいのに」って明確に思った。

2009.10.28

 今日スーパーの衣料品売り場を歩いていたらボニータが売られていて、その商品名が「へっちゃらパンツ」だったので驚いた。1年半前の記事でボニータの商品名についてファルマンに訊ね「や、短パン」と答えられるという出来事が起こっている。それで僕は「再来年くらいまでにはティーン向けファッション誌の紙面にボニータの文字が躍っていますように」と願いを口にしているのだけど、ここに来てまさかのへっちゃらパンツである。
 ああ、でも、いいな! 割といいな、へっちゃらパンツ! なんかすごく口にしたくなる名称だと思う。略したらヘッパンか。チャラパンか。どちらにしろいい。
 いいのだが、ボニータ提唱者としてはやはりまずい。スカートの下の短パンは具体的な名称が未決定で、だからボニータを僕は声高に叫んでいたわけだけど、このへっちゃらパンツには一気に覇権を取られそうな雰囲気があると思う。その証拠に16歳のまひろさんなんかは早速使い始めている。これはまずい。非常にまずい。きっとまひろさんからペンフレンドの日野環に伝わって、日野環から宇佐木学園の生徒たちに驚異的なスピードで浸透する。10代の女の子たちのそれの速度は光をも超えていて、相対性理論により逆に過去にさえ伝わるんだよ。でも宇佐木学園はボニータ禁止なのです。ぴょんぴょん。

2009.10.27

 それにしたってメールフォームからメールが来ない。
 という上の1文を読んで、「えっ!?」って思っている方が大勢いると思う。わたしパピロウさんにメール送ったのに、あんなにたくさん、ってびっくりしていることだろう。そういう方々には本当に申し訳ない。ただただ謝りたい。なんでこんなことになったかと言えば、どうも、メールフォームを運営している会社のサービスらしいのだが、僕がもらっても別に嬉しくも思わないだろうメールに関しては、勝手に削除してしまい、僕の所まで届かないっぽいのだ。そのために何ヶ月も1通もメールが来ないという事態に陥っている。僕としてはそこまでハードルを上げなくてもいいんじゃないかと思うのだが、いかんせんそういう設定とかをいじるのは苦手なので直しようがない。それで結果的にメールを送ってくれた人に対して失礼な形になっている。面目ない。今後なるべく早急にそのメール狩りの設定を和らげるつもりなので、諸兄は気を落とさず、お前らのセンスの悪い下手な鉄砲だって数打ちゃ当たる的な発想で、ばんばんメールを送っていただきたいと思う。そうすればきっとまぐれで1通くらいは届くはず。そうじゃなきゃおかしい。運営会社によるメール狩りの件は別に根拠はないのだが、こんな閲覧者限定でもない毎日更新のブログで、分かりやすくメールフォームが設置されていて、2ヶ月以上メールが1通も来ないなんてことは普通に考えたらありえないと思うので、そういう結論に至った。説を否定していって最後に残ったものは、それがどんなに怪異なものでも真実。勝手にメールフォームの会社がメールを検閲する説は否定しきれない。だから真実。なのでそれに負けないようどしどしメールよろしくお願いします。ワンクリックが励みになります! 不愉快なメールが2通くらい立て続けにきたらメールフォームの設置をやめると思います。ひっそりなくなってたら「あっ……」って思ってください。

2009.10.26

 実は微妙にパソコンが持ち直している。もちろん調子が悪いは悪いのだが、週末のような、もう早急に新しいパソコンを買わないことにはどうしようもない、という状態は脱した感じ。ファルマンによる積荷の整理により再び風に乗ったか。今は音もやけに静かで、無風な感触。なんか清廉すぎてちょっと怖い。紅の豚の、主人公が列に加われなかった飛行機の墓場、あれを彷彿とさせる。荒くれものの飛行機乗りだった彼が、今その不思議に清らかな世界にいて、また現世に帰ってきたら豚になっているのかもしれない。そうか、俺のパソコンは豚か。飛べない豚はただの豚。使えないパソコンはただの箱なのだな。ちょっとなに言ってるか分かんないです。とりあえずここらへんで非公開保存しておこう。この状況では本体に小刻みに保存をしても意味がないけど、その点ウェブ上に保存すれば安心だ。クラウドコンピューティング万歳だな。あっ、飛行機乗りなだけにクラウドコンピューティングなのか。うまいなー。うまいことつながったな。つまりブロガーっていうのは雲の合間をすり抜けて飛び回る現代のパイロットなのだな。ロマンチック。時には昔の話をしようか。僕とファルマンは10年後、当時のブロガーという名のパイロット時代を懐かしむのだろうか。それとも10年後もまだまだ世界の空を飛び回っているのかな。きっと後者だろうな。そのとき僕はなんかサラッとぜんぜん別のブログをやってそうな気がするけど、ファルマンは相変わらず「うわのそら」なのだろうな。ファルマンはずっと1台の飛行機に乗り続ける。そのとき「うわのそら」の月間アーカイブは一体どれほどの長さになっているか。飛行機が飛べば飛ぶほど長く伸びるもの、月間アーカイブは言わば飛行機雲だな。なんかロマンチックな話になったな。気のせいか。気持ち悪い話か。見えない明日をむやみに探して誰もが希望を託すのか。
 飛行機(ひとつの記事内でパソコンとブログというふたつの意味で飛行機という言葉を使っているが、まあ要するにパソコン=ブログということだ)の調子がよくなったので、早速いろいろ飛び回る。ああ俺は根っからの飛行機乗り。ホガラカノイロオゼと、大神版6月7日午前7時20分。揺れていた時代の熱い風に吹かれて体中で瞬間を感じた。
 そうだね。

2009.10.24

 ファルマンと電器屋に行き、データを避難させるためのUSBメモリを買う。8ギガで2000円未満。なんだそれ。パソコンがこんな状態になって、なんか使ってないUSBメモリないかなと家を探したら、ファルマンが大学時代に使っていた256メガのものが出てきて、そう言えばこのとき僕らは一緒に初めてUSBメモリというものを買って、ファルマンは2000円台でそれを、僕はちょっと奮発して3000円台で512メガのを買ったんだったと思い出した。それが今では8ギガで2000円未満ですってよ。当時は8ギガなんてそもそもなかったんじゃないかと思う。と言うかあったとしても1万円を超えていたため目に入ってなかった。すごいなあ、なんなんだろうなあ。いろいろ種類があるUSB売り場で何を買うか悩み、「8ギガのが2000円くらいなら、1000円の4ギガのを2つ買ったほうがいいんじゃないか」と主張したら、ファルマンに「やめて。そういうカセットテープ的な発想」と言われ、仕方なく8ギガのを買った。この種のカセットテープ的な発想はもう凝り固まってしまっていて、僕の頭からは一生取り除けないものなのだと思う。iPodは聴いているが、やはりSD的なソフトがないのが物足りないな、と思う。なんか音楽を聴いているが、音楽を聴いていないような気がする。この世のものじゃない音が耳に届いている感じ。みんなもうちょっとエコのことは忘れて、データとかいう幽玄な概念には頼らず、形あるものに満足しようぜ。データデータって、どうかしちゃったのかよ、お前ら。ないぜ、データ。そんなの共通幻想だよ。

2009.10.24

  実は某4コマ漫画の賞に応募をしていて、今日それが発表になったのだけど、見事にどこにもかすってさえいなかったのだった。連作じゃなくて1本単位での応募ということで、2本書いて送り、50万円1本と10万円2本と5万円数本の賞が用意されていて、<10万円は確実だけどあわよくば50万円、しかし5万円でもいちおう喜ぶか>くらいに考えていた。でも結果はどこにも引っ掛からずだった。受賞作たちが公開されていたので見たのだけど、どうも僕はちょっと賞のコンセプトを勘違いしていたようで、受賞作のうちの半分は新型インフルエンザを題材にしたものだった。時事かー。ぜんぜん時事じゃない4コマで応募してしまった。もっとサラリーマン川柳みたいな、そういうクソみたいな感じでやればよかったのか。失敗したな。

2009.10.21

 10月に入って初めてNAYAMUKEDOKUZIKENAIをやって、愉しいなあなどと思ってみたり、その一方でやっぱり消しゴムはんこをやってステッチトークにアップしたいと思ったり、ファルマンと4コマ合戦をして俺ばかりが正論を言っているに公開したかったり、そしてそんなことをしていたら宇佐木学園大神版、中埜版がぜんぜん進まなくて参ったり、そんな風に過ごす中で、眠れる獅子的な、揺り起こしてはならないブログの存在を思い出してしまった。
 ホガラカノイロオゼ、っていうブログです。
 管理人のまひろさんは、北海道在住の16歳の女子高生で、おむすび三太の玄孫、そして学年題6姉妹で宇佐木学園4年あざやか組の環とはペンフレンドという間柄。そもそもは学年代俳句1000詠に参加するためのブログ開設だったが、最近では八王子から引っ越してきた彰介との、嬉し恥ずかしの恋模様にテーマが移ってきている。ちなみに彰介は2年おもいやり組の多田まゆかと従兄妹関係で、3年すこやか組の名津川若葉とは幼なじみ。
 しばらく沈黙していたこのブログなのだけど、そろそろ復活の時期に来ていると思う。宇佐木学園との親和性の高さに、存在価値が増幅した。そのうちなんかしらの形で宇佐木学園にまひろを登場させたいと思っている。まひろと彰介は心が入れ替わる予定なので、まひろの体に入った彰介がペンフレンドの環に会うという名目で宇佐木学園に潜入する、みたいなイメージで考えている。

2009.10.16

 芝生男子の概念がよく分からない、という意見を耳にする。
 意見者は例の夫妻で、ファルマン経由でそれが僕の耳に届いた。
 なるほど言われてpuropediaを見返してみたところ、よく分からない。
 こんなにもよく分からない原因は、結局のところちゃんとは意味が定まっていない点にあるのだと思う。でもこれはしょうがない。だって言葉ってたくさんの人々に使われることによって初めて形が定まってゆくものだろう。言わば言葉っていうのはゲル状になってて、必要な箇所の隙間に入り込んで、それが自然と正式な形となる、そんなものだろうと思う。その論でゆくと芝生男子という言葉は、まだぜんぜん隙間に入り込んでいない。そもそも世界に投入されてもいないと思う。隙間だらけのその壁はピューピュー風を通すから、早急に補修が必要なのに、芝生男子という泥団子はまだ僕の手の中にある。あるいはたまに丸めた手を開き、泥団子を周囲の人々に見せたり、つまりそれがpuropediaにキーワードとして登録したりする行為であり、それはするけれど、でもそれは言葉の道具としての役割を果たしていないから、人々にとってあんまり魅力的なものに見えない。価値が分からないのだ。ゆえに芝生男子という言葉は意味が定まらない。
 それでは泥団子をさっさと壁に向けて投げてしまえばよさそうなものだが、しかしそれは僕には不可能なのだ。せっかく用意した愛着のある泥団子を、本人はとてもじゃないけど壁にぶつけられない。それをできるのは周囲にいる人々。彼らが、僕が手のひらを広げて泥団子を誇示した瞬間にそれを奪って、壁に投げつけてしまえばいいのだと思う。そうすれば、たとえそれが変な方向に変な形で破裂してしまったとしても、言葉はなんかしらの役割を果たすはず。
 芝生男子とは、『肉食系女子に喰われると言われる草食系男子に違和感を感じる、俺は草食系男子じゃないよ、だって肉食系女子は嫌いで、草食系女子が好きだもの、草食系女子に食まれたいもの、だから草食動物が食む存在としての芝生男子なんだよね俺は』、ということなわけで、その設定から先はこの日記を読んでいる人とかが独自に解釈をして、他者と絡んでいるときとかに積極的に会話の中で使用すればよいのだ。そうすれば芝生男子の意味は自ずと定まる。読んでいるあなた、あなたの口先から芝生男子の意味は生まれるのです。
 そして発案者の僕はその様を眺め、そういうことじゃないんだよなあ、わかってねえなあ、感性が悪いなあ、と悪態をつくのです。そうです、puropediaの編集は僕だけの特権なのです。結局お前らは利用されるだけの噛ませ犬。そしてこういうことを言うから芝生男子という言葉は誰にも使われないのだ。こうして芝生男子という言葉は誰にも使われないまま、やがて僕の手の中から滴り落ちてゆき、次第に体積を減らしていって、自然消滅してゆくのだろうなと思う。
 ところで草食系男子と肉食系女子という、なんかもうちょっと世間的に下火になっているこれらの言葉、それについて久しぶりに語るのだけど、草食系と肉食系の捕食関係で恋愛を捉えるのはなんかおかしいんじゃないか、といまさらながら思う。倖田來未を聴く肉食系女子は、エグザイルを聴く肉食系男子と付き合うわけで、スピッツを聴く草食系男子にはそもそも惹かれないだろうし、スピッツを聴く草食系男子もまた、倖田來未を聴く肉食系女子はもちろん苦手で、くるりを聴く草食系女子と付き合うに決まっている。肉食動物は肉食動物と交尾をするし、草食動物も草食動物と交尾をするのだ。肉食動物の雌と草食動物の雄が結合するとすれば、それはマッドサイエンティストの作り出すキメラである。こう考えれば芝生男子たる僕の抱く、草食系女子に食まれたいという願望も割と怪しく、草食系女子って結局のところ意外とアクティブで、草食動物が集団で大移動するがごとく、おしゃれカフェに行ったりバンドやってる友達のライブに行ったりし、その様をミクシィやはてなダイアリーに書いたりするので、考えてみたらそういう子ってあんまり好きじゃない。それよりも僕は僕と同じくらい家が好きで、他人と絡むイベントがあると精神を乱し、エキサイトブログに延々と自分の箱庭の記述をする、そんな芝生女子のほうがよほど好きだと思う。そうなのだ、芝生男子もまた、芝生女子と受粉をするべきなのだ。
 そしてこう考えると、『草食系女子に食まれたい男子』という定義も微妙となり、いよいよ芝生男子の言葉の意味が分からなくなってきた。今日は意味を定めるための記事にするはずだったのに。
 でもまあぶっちゃけあれです、僕が芝生男子です。
 芝生男子とはつまりpurope★papiroのことです。
 みなさんそういう用法で、世間で広く使っていってください。

2009.10.14

 同僚の女の子が京都旅行から帰ってきたので、寺とか紅葉の話はろくにせず、男女混合5人旅行のことについて、生八橋をいただきながら訊ねた。
 そうしたらいきなりその子が、
「それがひとりメンバーが急に来られなくなっちゃって、4人だったんですよ」
 と言うもので、
「ああ、でも恋愛とかそういうんじゃぜんぜんないとは言っても、2対2ならやっぱりなんだかんだでバランスがいいんじゃない?」
 と答えたら、
「あ、ちがいます。女の子が来られなくなったんで、女子は私ひとりの1対3だったんです」
 と言うではないか。
 衝撃を受けた。
 男女混合5人の時点で衝撃だったのに、結果はさらにショックな1対3編成。これで男女が逆だったなら、完全に純粋理性批判の世界じゃないか。ちんこってそもそも3人用なんじゃね?
「じゃあ部屋ではひとりになっちゃったんだ?」
「あ、同じ部屋です」
「(職場ではあまり出さない声)」
「すごい声を出しましたね、いま」
「えっ、それって大丈夫なの?」
「ああ、もうそういうんじゃないんで」
 共学の人たちの「もうそういうんじゃない」のがぜんぜん理解できない。
「そうなんだ……。それで、夜はウノとかやったの?」
「やりませんよ。麻雀やりたいねみたいな話はあったんですけど盤がなくてできなくて。それで私はけっこう早々に寝ちゃって、他の3人はずっとモンハンやってました」
「そうなんだ……」
 同い年なのにどうしてこうも意識に差があるのだろう。
 懐かしい友達との京都旅行に携帯ゲーム機を持ってきてやってしまう感覚が、同学年のはずの僕にはぜんぜん解らない。もしもそんな男女混合京都旅行なんてイベントが組まれたら、今年の夏の帰省の義妹との相部屋のように、僕は本番の2ヶ月も前からさんざんそのことについてのドキドキを書き連ねることだろうと思う。そして1対3というバランスの悪さには目をつむって、サーモンゲームを提唱しさえするに違いない。
 これこそが共学の人たちと、男子校でしかも修学旅行をボイコットした者の、人生のおかずの品数の差だなと思う。飽食家のあいつらが捨てたポリバケツの中身を、四つんばいで漁る俺。この日記とはつまりそういう図式で書かれたものだと思う。あいつらが日記にもしない(もしかしたらミクシィには書いているのかしらね)その出来事を、すっかり冷たくなってしまったけど拾って僕が食べた。2009年秋の京都旅行の思い出として、僕が2009年10月14日の日記とした。

2009.10.12

 同い年の同僚が、1泊2日で京都に旅行に行くという。「誰と行くの?」と訊ねたところ、「元同級生の男女5人です」という答えが返ってきて驚愕する。職場ではあまり出さない声が出てしまい、「すごい声を出しましたね、いま」と逆に驚かれてしまった。
 だって京都に男女混合5人旅行て。それはつまりあれでしょう。乱交的なことなんでしょう。
 もちろん男子と女子で部屋はふたつあるんだろうが、どうせどっちかの部屋に集まって、敷いた布団の上でウノとかやって、深夜までワイワイガヤガヤして、お酒も入って、そのうち吉岡とかウトウトし始めちゃって、じゃあもう起こすのもかわいそうだから吉岡こっちの部屋で寝さす? みたいな感じになって、じゃあいっそみんなでこっちで寝ちゃおっか、とか誰かしらが言い出し、アルコールの力もあって反対意見は出ず、でも布団足んなくない? あっちから持ってくる? でもめんどくさくない? 布団3組に座布団とか適当にくっつけたら5人ギリで寝られんじゃね? オレ座布団でいいし、とか言っちゃって、そんな感じでけっこう至近距離で男女5人が寝ることになって、そのとき引率の先生が見回りにやってきて、やべ、隠れろってなって、みんな咄嗟に掛け布団の中に包まって、そうしたら偶然にも伊織ちゃんとひとつの布団の中に入っちゃって、しかも伊織ちゃんの浴衣の合わせ部分から乳房が覗けたりして、手の震えを抑えるのに必死、みたいな、みたいなみたいな、そういうのみたいなのが行なわれるわけでしょう。
 多分そうだ、絶対そうに違いないと思い、いったいどうしたらそういう関係が築けるのか、後学のために聞いておきたかったのだけど、でもその同僚とはそんなに気心が知れておらず(ゆえにこの子はひょっとしたら5Pとかするほうの人なんじゃないかという疑念もあるわけで)、「それはつまり乱交的なこと?」とは訊ねられなかったのだった。なので真相は闇の中だ。
 家に帰ってこのことをファルマンに話したところ、また不憫な目で見られた。そして、「あなたは男子校でしかも友達もいなかったから本当に分からないんだろうけど、男女混合の友達グループで旅行なんていうのは、世間では割と普通のことなんだよ」と諭された。
 そう言われて、僕は5Pとか乱交とかすぐに言うけど、実は保守的で、ゆえに男女混合旅行なんて考えられず、まあ保守的と言うか中学生的、中学時代の性の観念から解き放たれていない的なのだけど、昔さまぁ~ずの大竹がPTAの偉い人みたいな役で、学校行事に関するぜんぜんエロくない文面について勝手にエロい曲解をしてクレームをつける、というコントがあったけれど、もしかするとこの僕というのはまさにあれなんじゃないかと思った。しかし実際この世が陰と陽、杵と臼、男と女の交わりによって生まれたものなのだとすれば、この世にエロくないものなんて、本当はひとつもないのだと思う。そのことに鈍感になってはいけないのだと保守的に思う。

2009.10.11

 日曜日の短めの労働を終えて池袋へ出る。
 世界堂に行き、はんけしくんを3つ購入。あとバレンと、広い面にインクを塗るための、ローラーになっている専用の道具を買う。あのペンキ屋さんが持っているやつの小型版。ローラーの横幅が5cmくらいのサイズ。どちらも小学校の図工の時間以来の再会だ。まさか将来これらの道具を実費で買う日が来るとは思わなかった。
 その買い物を終えたところで、家から出てきたファルマンと合流。
 一緒にキンカ堂へ。キンカ堂で僕はフェルトを買う。家にフェルトはたくさんあるが、今日買ったのはアイロン接着のもの。ワッペン的なものを作ってほしいと例の幼児の母親に軽く頼まれているので、そのための仕入れ。そしてファルマンも珍しくキンカ堂で買うものがある。毛糸である。10月も中旬になり朝晩は肌寒くなってきて、今年もそろそろファルマンの編み物が開始されるのだった。まずは僕のマフラーを編んでくれるというので、臙脂の毛糸を見立てた。愉しみ。
 そのあとはサンシャインのほうへ移動。ファルマンには毛糸以外にもうひとつ目的があり、下の妹の誕生日プレゼント選びなのだった。そして割とファンシーなものが好きな下の妹のため、サンシャインのそれっぽいお店でそれっぽいマグカップなんかを買う。しかし3連休の中日の夕暮れ時とあって、人がかなり多い。これにはすごく疲弊した。若者ばかりで疲れる。活気にあてられる。
 人通りの少ない道を使って池袋駅に戻り、デパ地下で荒んだ心を癒してくれそうなケーキを買ったあとは早々に退散し、電車に乗って最寄り駅へ。空腹だったので駅近くのラーメン屋に入った。おろしにんにくをたっぷり入れたラーメンはすさまじく美味く、汁までほとんど平らげた。
 家に帰ってから早速、世界堂で仕入れた道具を使ってはんこを押してみる。試したのはもちろんリュウサン。なにしろこれはスタンプ台よりもよっぽど直径が長いので、これまではインクを付けるのに難儀していた。それがローラーを使えば、インクを付着させたローラーを2回ほど走らせるだけである。とてもいい。スタンプ台を手に持ってはんこに押し付けるようにしてやると、どうしても水平にはできないので、本来インクを付けないはずの彫った部分にもインクが付いてしまい、それが押すときに紙にもあたって汚れになってしまっていたのだが、このローラーならば完全に、彫っていない浮き上がった部分にだけインクを付けることができるので、その失敗がなくなった。そしてそのきれいにインクの付いたリュウサンの上に、紙を被せる。これまでとは逆の動き。つまりはんこは押さず、押すのは紙のほう。紙の上にバレンをあてる。これも要は力を水平に均一にするための道具なのだな。バレンを丹念に全体に滑らせ、紙を持ち上げる。すると果たして、まあなんともきれいなリュウサンの絵が完成したのだった。嬉しい。すごくいい。大興奮した。ローラーのほうは1000円くらいして、安い買い物ではなかったのだが(バレンは130円)、買ってよかった。しかしもう本当にはんこじゃなくて版画だな、と思った。なんで俺は家で版画をやってるんだろう。インクの付いたローラーをウェットティッシュで拭って後片付けしている僕にファルマンが、「……ねえ、ところであなた、家でなにやってんの?」と冷静に訊いてきて、あ、たしかになにやってんだろう、と思った。でも愉しいんだからそれでいいと思う。この道具のおかげでまた熱が再燃しそうだ、消しゴムはんこの。あくまで消しゴムはんこと呼んでゆこうと思う。

2009.10.9

 気持ちを切り替えて宇佐木学園ALUALUをひとつ。
 中等部から高等部に上がる際に、6年間でいちどだけクラス替えがある宇佐木学園の高等部の生徒は、世間で頻繁に使われる「オナチュー(同中)」という言葉を使うことはなく、それと同じような意味で「同クラ」って言う。ALUALU。高等部ではほがらか組とあざやか組にクラスが分かれちゃったけど、中学のときは私たち同クラだったんだもん、みたいな感じに。外界での「同クラ」の使用法、(今現在)ウチとあの子は同クラ、という用法は、もちろんされないわけではないけれど、割と少ない。それは宇佐木学園の寮がそもそもクラスごとに6つに分かれていて、さらには夏服もクラス別で6種類あり、わざわざ断らずとも多くの場面で一目瞭然だから、という理由がある。そして宇佐木学園における「同クラ」は、世間的に「オナチュー」が高校1年生の学年題であるのと一緒で、宇佐木学園限定学年題として、4年生(高校1年生)の学年題である。これはクラス替え直後の4年生はまだ新しい編成に慣れておらず、これまではクラス対抗で対戦相手だったりした現在のクラスメイトに対するある種の抵抗感なんかも拭い切れず、中等部当時の同クラとつるみたがる傾向があるからで、しかし4年生も後半になればやはり新しいクラスに馴染んでしまい、思い出したようにしか同クラという言葉は使わなくなる。ALUALU。
 ファルマンが何日か前、「あなたがあまりにも淡々と宇佐木学園のことを書くから、なんか宇佐木学園があるような気がしてきた」と言ってくれて、とても嬉しかったのだった。
 仮想世界だってみんながサインインすればこそ存在するわけで、こうして存在を認めてくれる人が増えてゆけば、宇佐木学園は実際にこの世に出現するのだろうし、僕はそこで漢文の教師にもなるし、学園唯一の男子生徒にもなろうな、と思った。ただしそのWebマイナス3.0のサインインパスワードを知っているのは僕だけだけどな。

2009.10.7

  10時間寝た。遅番の出勤だとファルマンを見送ってから出発まで5時間ほど時間があるのだが、そのほとんどを寝て過ごしてしまった。起きたときの爽快感と言ったらなかった。我ながら呆れるのだけど、やっぱり土曜日の結婚式から体に重たい疲れが残っていた。それが今日の10時間睡眠によって、ようやく取り払われた感じがした。本当にようやく。
 知り合いに会うのは本当に疲れる。
 先週実家に帰ったとき、母からまた義兄のお店の話を聞いたのだが、店には相変わらず僕の中学時代の同級生がやってきていて、そして店主が僕の義兄だと判明したら、初めて来店した者は「えーっ」って仰天する、というのが恒例の流れになっているらしい。その中には僕の所属していたバスケ部の人々もいて、義兄との会話によって僕の存在を思い出した彼らは、「そう言えばあいつってOB会に顔を出さないね」って言うのだそうだ。そしてそれを聞いて僕は、OB会? ってきょとんとなった。だって聞いたことがなかった。バスケ部のOB会? そんなのがあんの? そもそもみんながけっこう地元在住のままつるんでいることにもびっくりだったのに、割と頻繁に開かれるというOB会にはさらにびっくりだ。そして横浜の20代半ばの同級生が割と頻繁に開かれるOB会ですることと言ったら、あなたそれはもう、地元特有のドロドロとした狭い人間関係の中での愛憎みたいな、そういうものに決まっているじゃありませんか。そういうものに触れたことが一切ないから実体験ではないけれど、でもそれ以外の想像が働かないから絶対そうだと思うのです。そしてその参加者たちはもう全体の1割しかセックスしていない当時のままの中学3年生じゃないんですよ。吉原先輩と付き合ってなかった9割の女の子たちもみんな、中学生の頃はぜんぜん相手にしていなかった山田の実直な優しさとかに心を溶かされ、(きっと大体は)もう処女じゃないわけですよ。そんな輩の夜な夜なの、街にカーステレオのウーファー音を響き渡らせるOB会ですよ(横浜の若者はほぼ全員がちょっとヤンキーっぽいようなイメージがある)。ああやらしい。ああ汚らわしい。絶対に出ないよそんなの。誘われてないけど。連絡先を誰にも教えていないから、「同級生→義兄→姉→母→俺」という伝言ゲームでしか来ないけど、誘われても絶対に行かない。行ったらまた4日間精神が乱れて、4日後に10時間寝ないと解消されないから断じて行かない。ぜんぜん誘われてないけど、それ以上のぜんぜん度合でぜんぜん行かないよ。
 ファルマンとふたりで、おいしいごはんを食べて暮してゆきたい。
 ただし11月に出雲の上の妹がこちらに遊びに来るかも、という不確定情報が最近になって飛び込んできて、それには大きく心が躍っている。製本日記を読んで、僕は本当に義妹のことを愛しく思って暮しているな、と思った。それはもう「のび太の結婚前夜」のしずかちゃんのパパレベルに。義妹らがいつか、それこそ結婚前夜とかにこの日記を読んで、「でも私、お兄さんになんのお礼もできてない」と、直前で結婚をためらうようなことがあったら、僕は優しくこう言ってあげようと思う。
 「君の成長してきた日々、それこそが僕にとっては宝物のような日々だったんだよ」
 愛しく見守ってきた日々が宝物。
 改めて書いてみて、これはなかなかに芝生男子的な考え方だな、と思った。しずかちゃんのパパも芝生男子だったのか。穏やかに勃起していたのか。発見だな。

2009.10.6

 労働が休みで、健康診断に行く。と言うか健康診断のために労働が休み。
 朝ファルマンと一緒に起きてマフィンを食べたあとはなにも口に入れてはいけない。診断は午後1時からなので、ちょっとお腹が減る。でもこれで文句を言ってはいけない。何日か前に診断を受けた40歳近い同僚は、生活習慣病の検診となり、検便を取ったり、朝食から抜いてバリウムを飲んだり、そのあとは下剤を飲んだり、それはもう大変なものらしい。便の採取がどれほど難しいことか、聞きたくもないのに嫌がらせのようにすごく聞かされた。
 会場は上野のほうで、2回乗り換えがあって割とめんどくさかったのだけど、ぜんぶ東京メトロだったから料金が意外と安く、得したような感じがした。天気があいにくだったからやめたけど、お天気だったら検診が終わったあとアメ横とかにも歩いて行けた感じ。あそこらへんの地理は愉しいな。ぜんぜん把握してないけど。来年以降はそんなことをしてもいいかもしれない。
 検診の項目は去年と同じ。相変わらず採血が嫌だった。
 詳しい結果は後日なのだが、体重が去年に比べて4kgほど増えた、という変化があった。もっともこれは家にも体重計があるので分かっていた。51kgが55kgに。身長が167cmなので、これでもまだぜんぜん適正体重なのだが(去年までがだいぶ痩せ気味なのだ)、「去年より3kg以上体重が増えましたか?」の質問項目にチェックするのが、あまりいい気分じゃなかった。なのでちょっと痩せたい。と言うか筋肉質になりたい。実はまた10日くらい前から、2日にいちどくらい、ファルマンがあまりブログに没頭していないタイミングを見計らって脚を持ってもらい、1日20回の腹筋をやっている。このペースで続ければ来年の健康診断までに僕は3600回腹筋をやる計算になるので、十分に可能だと思う。そしていまちょっと軽い気持ちで計算した180日×20回の3600回という数字におののき、一気にやる気がなくなった。
 そして痩せたいとか言いつつも、最近やけに食事がおいしいのだ。これがまずい。もうね、食べ物が本当においしい。おいしいおいしい、って言いながらパクパク食べている。しかもそんなタイミングで我が家にはファルマンの例の富裕層の叔母から、米が届いたりしたのだった。この米が、値段はもちろん知らないがおそらく普段僕らが買って食べている米の2倍くらいするんじゃないかっていう南魚沼産のコシヒカリで、食べてみたらなるほどうまいのだ。このただでさえおかずのおいしい季節においしいお米が届くっていうのは、これはもう食べものをおいしいおいしいって言いながらパクパク食べろっていう神の意思だろうな、と捉えておいしいおいしいって言いながらパクパク食べている。神の思し召しなのだからしょうがないと思う。ネット関係ではコメントを受け付けることもなく、ミクシィもやらず、ツイッターも否定し、修行者のごとくストイックにやっているのだから、そういうところでバランスを取って適正な体重を保ち続けられればいいのにな、そういうウェブサービス始まらねえかな、と思う。

2009.10.4

  なんだかやけに疲労を感じた日だった。
 ファルマンに肩のあたりをマッサージしてもらったら、僕は消しゴムはんことかやっても普段はぜんぜん肩が凝らないのだけど、「今日は凝ってるねえ」と驚かれた。
 珍しくスーツを着て、珍しくたくさん人と会い、珍しくワインなんか飲んだから、体に相当来たらしい。朝もやけに眠くて体が重かった。弱いなー。本当に二次会に出なくてよかった。二次会出ずにこれなのだから三次会の庄やなんて絶対に考えられない。もうこの人生ではいちどもないだろう。僕にとって三次会の庄やって、桃源郷とかシャングリラと同じ意味なんじゃないかと思った。
 なんにもする気が起きなかったので、労働から帰ってきても割となにもしなかった。
 製本日記を読んでいたら、例の夫婦と交友を持つようになる過程で、はじめのうちは会った翌日と翌々日くらいは、精神が乱れて日記が書けなくなっていた。今はさすがに慣れてそんなことはなくなったのだけど、そのくらい、人間のにおいがつくと餌を食べられなくなる野生動物のごとき僕なので、さすがに結婚式は荷が重すぎたな、と思う。
 幸か不幸か、呼んでくれるような友達はもういない。

2009.10.3

 お休みの土曜日。しかし珍しく用事がある。しかもファルマン抜きの用事。非常に珍しい。
 なにかと言えば大学時代の友人の結婚式である。落語研究会の新郎とまあまあ深い友達で、同じ学科の新婦ともそこそこ面識があったため、なんか呼ばれることとなった。
 会場は最寄りの駅から1本で行ける街。これはよかった。しかし地下鉄の通用口を出たら、自宅を出たときには止んでいて、もう今日は午後から天気が回復すると言っていたから大丈夫なんだろうなと油断していた雨がけっこう降っていて往生した。しかも徒歩5分の距離で、招待状と一緒に届けられた地図も持っていたのに、もちろん迷う。おかげで割と濡れた。
 2時半の開宴に、1時45分くらいに到着する。受付から懐かしい顔があってホッとした。
 ご祝儀を渡して席次表なんかを受け取り、ロビーのほうへ行くと、そこにも久しぶりに会う面々が大勢いて、なんだか愉しい気分になった。新郎の代を中心に先輩から後輩まで5学年ぐらいに渡る落語研究会の輩が集結していて、絨毯の敷かれた洋風のロビーなのに、なんかそこだけ長屋の部室の畳の上みたいな雰囲気を醸し出していた。江古田校舎の改装によって今は無き長屋。でも平成たぬき合戦ぽんぽこのラストみたいに、落研の人たちが集まるとそこには長屋が発生するような感じがある。思わず涙が出そうになった。
 開宴してからはつつがなく式が進行する。2年ぶりくらいに見た新郎は、噂で聞いていたとおりかなり太っていた。大学時代はあばら骨の浮き出たハイエナみたいだったのに、今はセレブの飼っているミニブタのよう。でも平和でしあわせそうでよいと思った。
 食事はおいしく、お酒もおいしかった。
 式の最後、さすがに新婦から両親への手紙で泣くことはなかった。いくら弱いと言っても、他人のそれでは泣けないか。もっとも新郎も別に泣いてなかった。あ、そういうもんなのか。でも僕はきっと義妹らの結婚式でも泣くのだろうなと思う。義父よりも泣いてみせる。
 二次会には出席しない。二次会にはこれ以上に懐かしい顔が揃うらしいのだが、いつもの「二次会まで行くと全体的につらかった思い出になる理論」を持ち出して辞退した。ちなみにあまりよく覚えていないのだけど、この披露宴自体も、きちんとした招待状を届ける前の出席確認の際、僕はあんまりすんなりと行くとは言わなかったようで、座席には新郎新婦からひとりひとりへのメッセージが置いてあったのだけど、そこには「呼んでごめんね」の一節があった。これにはちょっと恐縮した。でもキャラクターだから許してもらおう。
 ほとんど二次会に行く大学の友人集団に適当に挨拶をして、ひとり建物を出る。
 そして電車に乗って帰った。引き出物は重くなくてよかった。僕の知り合いに出雲っていう交通の便の悪い所で式をやって、引き出物に辞書並みの厚さのある本を贈った夫婦がいて、この移動とかお酒とかただでさえそこそこ疲労するところに、そんな重たい引き出物とかマジで相当ありえないよな、と思った。

2009.10.1

 ポッキーがないから代用したというだけのクッキーゲームが、吉住渉的な爽やかさを兼ね備えていたという点に、とにかく大学生たちの若さを感じるのだ。たまたま近くにあったから手に取ったものが爽やか。これすごい。うらやまずにいられない。
 あのあとクッキーゲームに対抗できる新しいポッキーゲームについて、26歳になった、もう10コ下が大学進学を考え始める時期に来ている僕も考えて、別にそのとき近くにもなかったのだけど、「サーモンゲーム」というのはどうかと思った。
 これはポッキーの代わりにサーモンの刺身を両端から食べ合うという複雑なルールのゲームで、唇とサーモンの刺身の感触が似ていることが要点のすべてと言っていい。
 さらに言うとこれは目隠ししてやることをおすすめしたい。それにより自分の唇に触れたのが相手の唇なのかサーモンの刺身なのか判らなくなるという効果が得られ、たとえそれが実際はサーモンの刺身であっても、<もしかするとあれは美代ちゃんの唇やったんやないんやろか>と、そのあと夜に家に帰って床に就いて寝る直前とかに思い出せる。そういう利点がある。
 だからまあいっそのこと、目隠ししてサーモンの刺身を自宅で食べれば、それでいいのだとも言える。女の子がキャッキャキャッキャしているパーティーっぽい音声をネットで探し、それを再生した状態で目隠しを着け、部屋の照明のスイッチとかを工夫して、サーモンの刺身を中空に吊り、そして試行錯誤しながらがんばって食べる。それで夜になって床に就いて寝る直前に、<もしかするとあれは美代ちゃんの唇やったんやないんやろか>と思えばいい。
 それがサーモンゲーム。

2009.9.30

 週刊プレイボーイをまたよく見たら、セックス経験があると答えたのは100人中64人となっていた。6割4分だった。前回に書いた「見栄を張っている理論」を持ち出したとしても、そもそもが6割だとすれば、やっぱり渋谷の街を歩いているかわいい女子高生の4割くらいはセックスしてんのかな、と思う。不思議なもので、だんだんその程度の数字はリアルなような気がしてきた。ちなみになんで最初4割と勘違いしていたかと言えば、ロストバージンの年齢を訊ねる質問で、高1が19人、高2が12人、中3が11人とのことで、高2までに4割がセックスしている、という話からなのだった。このベスト3で注目したいのはやはり中3で11人という点だろう。実際のところ高校の話に、僕はあまりピンと来ていないのだ。なぜなら高校は男子校だったから。「あなたは実際に女子高生と一緒にいたことがないから幻想を抱いて、そんなにも女子高生女子高生って言っちゃうんだろうね、かわいそうに。いや、幸福なのかもね」とファルマンにもよく言われる。それは自分でもそう思う。でも中学は違う。ちょっと自慢みたいになっちゃうんですけど、実は僕、女子中学生とはかつてクラスメイトだったんですよ。それで女子中学生とかつてクラスメイトだった僕が見やる、中学3年生での破瓜100人中11人のデータなのだけど、100人中11人ということは、約1割だ。1クラスに女子が20人未満だったので、そう考えると1クラスにつき非処女は1人ないし2人ということになるだろう。あ? なんだ。この数字なら許せる。ぜんぜんリアル。それにその1人ないし2人っていうのは、要するに吉原先輩と付き合ってた系の女子だろう。じゃあいいよ。それについてあんまりとやかく言うと吉原先輩に目つけられるからもう言わないよ。とは言え、中学生のそれが解決して溜飲を下げた後、俺には関係のないはずの女子高生サイドのデータ、高1が19人、高2が12人というのを見ると、えもいわれぬ、人類のまだ名付けていない感情が込み上がってくる感じがある。高2までに合計31人。3割がセックスをしている。しかもこれは中3で済ませた11人は除いての話だから、分母は100じゃなくて90だ。90分の30。9分の3。3分の1。処女で入学した女子高生の3人に1人は高2までに破瓜をするのか。これは中学の時の吉原先輩の理屈では説明がつかない数字である。クラスに女子が20人いたとして、そのうち2人は中学ですでにセックスしていて、残りの18人は処女だったのが、高2のバレンタインデー時には6人も離脱し、12人になっている計算。20人中8人が非処女、12人が処女。えっ、なにこの数字。4割ってこういうことか。単なる数字が、クラスで考えると一気に生々しくなった。そうかー。すごいな4割。なるほどそれはイチローが目指すだけある。燦然と輝く圧倒的な数字だと思う。やっぱり僕は男子校でよかった。
 ファルマンは僕が女子高生の話を書いていると、「まあどうせ女子高生幻想の話なんでしょ? もう飽きたわ」という感じでちゃんと読まなくなる。だからたぶんこの文章も読まないと思う。ムカつくので僕も彼女の音楽の話は一切読まないことにしようと思った。怠惰は巡り巡って自分に返ってくるという、教訓染みたお話。まあ巡り巡らず、友達のいない夫婦間でのやり取りだけど。

2009.9.29

 今日は久しぶりに実家に顔を出した。前回は8月1日なので、ほぼ2ヶ月ぶり。けっこう間が空いたな。降り立ったたまプラーザの駅はまたしてもすごいことになっていて笑った。
 実家に祖母はおらず、母と犬だけ。祖母に頼む予定の座布団カバー用の布を背負ってきていたので、預けておく。お盆の島根や、先日のファルマンの岡山みやげを渡し、太巻き寿司を食べながら、お互いの近況なんかを話した。
 途中で、届け物があったので姪の顔を見ついでに母親と姉の家に行く。2ヶ月ぶりに車の運転をした。火曜日は義兄のお店の定休日なので、家には義兄もいた。義兄は3月の結婚式以来だ。つい先日満1歳になった姪は、もうやや幼児になっていて、活動的になっていた。いま僕はちょうど製本日記の第5巻、今年の3月の結婚式あたりを読んでいて、その際の姪は感心するくらい静かだったという記述があるものだから、成長したものだなと思った。それとまだ基本的にはほとんど喋れないのだけど、義兄が「ケータイ」と言ったら「けーたぁ」くらいは言えるようになっていて、なんでケータイなのかよく解らないけど、とにかく感慨深かった。
 20分ほど戯れて辞す。姉はこれからスーツを買いに行く予定とのことで、なんと姪は保育園に預けることにし、ぼちぼち働きはじめるそうだ。すごいなー。世の中の人って思ってるよりも割と嫌々じゃなく働いていて、びっくりする。僕なんて資金が許すものなら1秒だって働きたくない。みんなそうだとばかり思っていた。実はそうでもないらしい。
 家に帰ったあとはコーヒーとか飲んでのんびり。母がリンゴのケーキを焼き、それを切り分けてもらって4時ぐらいに帰る。今日は電車での帰宅。密封しない程度にアルミホイルで包んだ焼き立てのリンゴのケーキは、紙袋の中でほわほわと湯気を立てていて、「俺これで電車に乗ったら周りの人たちから<あら、あの男の子からリンゴの香りがするわ、素敵>って思われないかな」と不安を口にするものの、「大丈夫」と力強く答えられた。
 そんでもって帰宅の途。渋谷の女子高生がやはりかわいい。渋谷は女子高生大航海時代のグランドラインなのだな、と思った。世界中の海から我こそはという猛者たちが女子高生王を目指して集結している感じがする。東の海とかとは根本的なレベルから違う。これはたしかに13.3%ではなく40%超かもしれないな、と思った。
 ファルマンより先に帰宅し、ファルマンが帰ってきてから、もらった太巻き寿司で夕食にし、デザートにリンゴのケーキを食べた。そして石田純一がプロポーズする番組を愉しく観た。

2009.9.28

 さいきん街中で見かける女子高生にそれほどは感動しなくなっていて、夏が終わったというのはもちろんあるのだろうけど、それ以上に大きな要素として、宇佐木学園の存在があるのではないかと思った。これまではかわいい女子高生を見ると、彼女とクラスメイトでない自分を憂い、実らなかった甘酸っぱさに身を焦がしていたけれど、宇佐木学園を開校してからは、その気持ちは宇佐木学園にぶつければいいのだと考えるようになったので、とても救われていると思う。このかわいい子もまた宇佐木学園では、幸福になりたくて大神先生の陰嚢を撫でるのだな、寮内を素っ裸で闊歩する中埜新のことを温かい心持で見つめるのだな、と考えると、実らなかった甘酸っぱさの喪失感はけっこう霧消する。精神衛生上よい。
 週刊プレイボーイがなんともタイムリーにスクールガール特集で、割と愉しく読んだ。その中で渋谷の女子高生を対象にセックス事情のアンケートというのを行なっていて、それによると渋谷の女子高生の非処女率は、40%を軽く凌駕していたのだった。
 これは去年のSEVENTEENの女子高生アンケートとはかなり数字に隔たりがある。そこでは13.3%となっていて、この数字にはかなり感動した記憶がある(だから実は過去日記を確認するまでもなく13.3%という数字は思い出せた)。同じ集英社の、同じ女子高生の非処女率に関するアンケートなのに、方式によって結果はこんなにも異なるのだな、と思った。
 まあSEVENTEENのほうが現実的だろうと思う。SEVENTEENのほうは多分、ハガキなりネットなりで回答されたものを集計している。それに対しプレイポーイのほうは、男性の書き手が道で直接女の子に突撃し、答えてもらっている(もっともそれも怪しいのだけど。「雑誌の編集者です」と自己紹介して、図書カードとかを餌に、街中で女子高生に「処女ですか? 非処女ですか?」なんて訊ねてもよいのだろうか。それって俺が「月刊少年 余裕」の編集者として行なっても、職務質問とかされないものなのだろうか)ため、質問者であるその男性に対しても、また女の子が集団である場合、一緒にいる友達に対しても、見栄を張りたくなる気持ちがどうしても生まれると思う。だから処女であっても非処女みたいな、そういう子もどうしたって出てくる。
 もっともその高い非処女率に対する言い訳でもないだろうが、その記事内に書いてあったことには、「かわいい子は当然モテるから非処女率が高い。そしてこのアンケートはかわいい子限定で質問した」そうなので、そうかー、とも思った。そしてその理屈を出されてしまったら、もうそこで話が僕のフィールドでなくなるな、と思った。
 エミカって吉原先輩と付き合ってるらしいよ、エミカとかマジでかわいいもんね、っていう、吉原先輩はエグザイルとか好きなちょっと不良っぽい感じの、それでいて塾とか行ってて勉強もできる、顔がシュッとした感じの人で、家も金持ちで広いらしいので、じゃあ多分きっと吉原先輩の部屋でエッチなこととかしてるんだろうな、って思う、そういう感じ。文化祭の準備とかで大谷と同じ班になっても、吉原先輩とセックスとかしてることを考えてしまい、ろくに喋れなくなる。
 つまりプレイボーイのアンケートって言うのは、おそらくそんな大谷エミカ的な子にばっかり質問したのだろうと思った。だったら40%超の結果になんか興味ねえし、信じねえし、そんなのより竹下通りに憧れる田舎の女子高生の13.3%のほうがよっぽど甘美だし、そもそも宇佐木学園の生徒たちはみんな大谷よりもかわいいって設定だし、それがみんな俺の陰嚢を触りたがるんだし、だから俺マジで吉原先輩になんかぜんぜん負けてねえって思う。

2009.9.25

 今年の初夏はちんこについてやけに考え、そしてぱたりと興味が収束したのだけど、その日々の中で携帯電話にメモをして、それ以来ずっと残っているというちんこに関する記述があり、もう秋になってしまって、ちんこについてことさらなにかを書こうという意欲もなくなってしまったので、いっそもう消してしまえと何度か操作をして、でも消したあとでやっぱりどうしても気になって、また同じ文面をメモするなんてことを繰り返していたのだけど、このままでは埒が明かないので、いっそ書いてしまうことにする。
 おっぱいはちんこである。
 これがそのメモの文面である。薄れゆく記憶と興味をたどって内容を思い出すと、たぶんちんこもおっぱいもそこから分泌されるものがミルクと称される共通点、そこからの発想だった。
 おっぱいって人類学とかだと、本来メスのオスに対する性的誘惑の効果を担っていた尻、これが二足歩行になった結果としてオスの顔の正面に来なくなって効果が望めなくなってしまったため、その尻の代替として(ポッキーの代わりのクッキーみたいに)おっぱいを膨らませることにした、と説明されるわけだけど、これってけっこう嘘くさい説だと思う。これより多少でも信憑性のある説が提唱されたら簡単に否定されてしまう程度の説だと思う(もっともこの前読んだ本に書いてあったのだけど、女性のおっぱいが赤ん坊への授乳のために存在するのなら、おっぱいはもっと哺乳瓶に似た「吸いやすい形」になっていなければ説明がつかず、実際にはあんな赤ん坊の鼻を圧迫してしまう丸い形になっているのは、その実用性を失ってでも男性に対して性的アピールを高めるためであり、だからボインは赤ちゃんのためにあるんやなくて、お父ちゃんのためにあるんやで、っていう話は大いに頷ける。でもこれはおっぱいが性的なものだということを証明している話であって、それが尻の代替であるという理屈にはぜんぜんならない)。
 そこで僕が提唱したいのが、おっぱい=ちんこ仮説なのだ。
 ところで僕は百合と呼ばれるジャンルがまるで好きではないのだけど、これのなにがダメかと言えば、百合にはちんこが存在しない、これが大いにダメなのだ。くっつけるだけでは絶対に得られない、棒で肉を抉る感触、これが大自然を切り拓いて文明を創造してきた人間の本能に直結し、まあ暴力性と言ってしまえばそれまでなのだけど、しかしそれが人間本来の動物的な快感に結びつくことは否定のしようがない。たくましく隆起するちんこは力の象徴で、武器のモチーフや崇拝の対象にだって容易になってきた。それは歴史が証明している。
 だからつまり人間は男も女も関係なく、みんなちんこが好きなのだ。
 しかしちんこは好きだが、大抵の男は男のことが好きではない。僕ももちろんそのひとりだ。ちんこはいいが、しかし男なんてものは自分以外は極力視界に入れたくないと考えて生きている。
 そんなわけだから、純粋理性批判の主人公というのは往々にして女性的なのだと思う。純粋理性批判の主人公は見た目はまるで女の子のようで、女装させればおそろしく似合い、周囲から勘違いされ女子校に入学してしまったりする。それもこれも男なんて極力視界に入れたくない僕のような輩のための配慮である。女性的すぎる主人公は、もはや世界を彩る女性キャラクターのひとりだ。しかしその主人公にはちんこがある。これでちんこがなければ百合になってしまっておもしろくない。ちんこがあるから迫力がある。女性しかいないようなきれいな世界でありながらパワーを兼ね備えている。しかもそのちんこはその主人公の見た目からは想像もつかないくらい逞しくあったりする。純粋理性批判はこれだから尊いのである。
 それで、だから男子っていうのも結局、ちんこと戯れたい生きものなのだ。と言うか日常的に戯れて生きているのである。切っても切れぬ間柄、切っても切れぬ愛だから、という意味では、男子とちんこと結びつきは女子とちんこのそれをはるかに凌駕する。
 しかし常に思う存分いじることのできるちんこを必ずひとつ持っている男子だが、ひとつだけできないことがある。それは口淫である。これはどうしてもできないわけじゃないが、相当な熟練の技を要する。大抵の人はできない。僕ももちろんできない。
 それで他の男の体を利用する人もいる。これはこれで理屈である。でもやっぱり他の男の体なんて気持ち悪くて見られない。どうしたって触れ合うのは自分か、あるいは女子がいい。
 そこで登場するのが女性のおっぱいである。
 乳房は陰嚢の代替であり、乳首は亀頭の代替であると考えてみてはどうか。乳頭から出る母乳はもちろん精液の代替である。
 しかしおっぱいがちんこの代替なら、やはりおっぱいは哺乳瓶(この場合はそれは陰茎)のような形になっていなければいけないのではないか、という意見もあろう。それに対して上の、「乳房は陰嚢の代替」という捉え方は卓見であると思う。これは日々宇佐木学園で陰嚢に対する認識を高めていた僕だからこそ気付けた結論だろうと思う。陰茎よりも陰嚢のほうがよほど大事だ。だから女性のおっぱいは細長くなくて、丸いのだ。
 ……とまあ、多分こんなようなことを考えて、メモを残していたのだった。
 書けたので満足です。

2009.9.24

 本歌取りっていうのがあるじゃないか。あれがなんか好きになれない。
 漢詩なんかは特にそれが激しかった。「この部分はあの漢籍のあの部分のスタイルを故意的に真似ているユーモア」とか言われても、その漢籍なんか知らねえし、知っている側の人間が「だから漢籍の知識が深くないとこの詩の魅力を本当には理解できないんだよね」みたいなことを得意気に唱えるのも、ずいぶん醜いことだと思った。
 本歌取りなんてそんな立派なもんじゃなくて、ネットの書き込みとかで散見される、ガンダムやエヴァを見てなきゃ解んない、登場人物の名セリフとかを使って書き込むあれと、ほとんど一緒だろうと思う。そう考えれば本歌取りなんてやっぱりくだらない。パクリ元の漢籍が価値の高いもので、それが大事な教養であるとか、そういうのは問題にはならないと思う。漢籍も流行っているCMのフレーズも、別に知識として区別する必要はない。
 というわけで何が言いたいのかと言うと、今年ももうすぐ残り4分の1となるわけで、この割と早いタイミングで、来年のこのブログのタイトル企画が仮決定したので、ここに書き記したいのだ。
 季題俳句、学年題短歌、長歌と来て、4年目のタイトル企画は…………。
 ファルマンの短歌のパロディに決まりました。
 もうすぐ1000首になんなんとするファルマンの短歌、これを本歌として、パロディ、まあパロディって言ってしまったけど、もうちょっと高等な言い方をすれば返歌と言いますか、アンサーソングと言いますか、「一生一緒にいてくれや」に対する「一生一緒にいてほしい」みたいな、この引用も知っている人しか解らないわけで、でもそんなの引用に限らずすべての文言がそうなのであって、知識や認識によって世界は如何様にも変容するのであって、その環世界の交差こそが営みなのであって、とは言え他人との交差の発生をそう躍起になって求めんでもその環っかを巨大にしてゆけば空間は丸ごと俺の環世界となるわけであって、ブログっていうのはまさにそういうものだと思うわけであって、それなので、なにがそれなのでなのか自分でもぜんぜん解らないけど、来年はファルマンの短歌をパクって美少女短歌に仕立て上げる、という感じてゆこうと思います。
 もっともこれはひそかに前からやっていて、去年の4月11日の短歌「寺西と相合傘して歩く道ずっとこのまま雨でもいいよ」はファルマンの「さよならの駅前信号手を握るずっとこのまま赤でもいいよ」の思いっきりパクりだ。そういう感じでやってゆく。
 つまりファルマンの短歌をすべて把握していて、かつ僕の日記を毎日読んで、学年題俳句とか、気にしない短歌の概念を、完璧に理解している者じゃないと、この詩の魅力を本当には理解できないんだよね、って得意気に唱える企画ということだ。
 そしてそんな者は神以外に存在しないんじゃないかと思う。だとすればこれは本歌取りでありながら、神に捧げる讃美歌なのかもしれないね。
 抱負として、もう夫という立場を最大限に利用して、悪用して、元の歌に対する尊厳とかを一切排除した、他人には絶対にできない悪質なパクリを繰り広げてゆきたいと思う。ちょっと苦言を呈されただけでマウスピースを作る羽目になるファルマンの、他人には絶対に踏み込めない領域に、僕は夫として果敢に挑んでゆきたい。修羅の道やで。

2009.9.23

 それで次はなにに没頭するのかと言えば、やはり宇佐木学園である。宇佐木学園について考えるのがいますごく愉しい。今日の午前中もずっとやっていた。エクセルで表を作り、複数の視点からの日付ごとの事柄を書き出す作業をいまやっている。朝勃ち当番はもうすべての日付が埋まっていて、たとえば大神先生が3年すこやか組のボニータチェックをした6月20日の朝勃ち当番は4年ほがらか組の広瀬小梅で、新がみちるから朝勃ち当番について初めて聞いた6月1日の当番は、2年きよらか組の日野茜である。その場面自体は書かない可能性が大きいのだけど、たとえば体育祭を書く場合、その日の朝の朝勃ち当番が誰か、っていうのは重要になってくる。そういう意味で全ての日の朝勃ち当番を規定した。これが夢のように愉しい作業だった。セルに名前を書き込んだ生徒から、印刷した一覧表の名前の所にチェックを入れてゆくのだけど、キーボードを叩いてはペンを持ち、名前をせっせと消してゆく、その作業中たまににファルマンと目が合うと、ちょっとだけもの哀しい気持ちに襲われたけどきっと錯覚だろうなと思った。
 ちなみに夏服をクラスごとに変えるという話で、ブラウス、ポロシャツ、キャミソール、Tシャツと、残りの2種類の制服をどうするかという話があったのだけど、考えた結果、「ワンピース」と「ビキニ」に決定しました。パチパチパチ。各学年のすこやか組の生徒は、6月25日からはビキニで授業です。やったね!
 そんな感じで僕のシルバーウィークは終わった。

2009.9.23

 5日中4日働いたシルバーウィークの最終日。出勤は午後からだったので、ファルマンとともにそれまではのんびり過ごす。でもファルマンは昨日、事前に「シルバーウィークの間は専業主婦だけん」宣言をしていたのに、ぜんぜん、まったく、普段以上になんにも家事をせず、僕が労働を終わらせて駅で電話を掛けたら話し中で繋がらず、そんでもって最寄駅に着き、そこから歩いて家に到着する5分くらい前に、「晩ごはん、食べたいもの買ってきてね」ってメールを送ってきて、つまり晩ごはんを用意しておらず、と言うかごはんさえ炊いておらず、そのメールがもう少し早くてたとえ僕が(ヘロヘロだったのに)スーパーで食材を買って帰ったとしても、お前ごはん炊いてねえじゃねえかっていう、そんでもってこのゴミ溜めのようなテーブルの上に置かれたままの皿はお前が昼に喰った冷凍のピラフの皿だろうがっていう、もうそういう状態だったので、僕はあんまり機嫌がよくなく、そんな機嫌がよくない僕を、ファルマンは罪の意識で必死になってなだめればいいものを、決してそんなことはせず、むしろ話しかけてもろくに返事をせず、ことあるごとにすぐに横になってしまう感じで、調子が悪いのかと僕が訊ねたら、「日曜病だけん」とか言いやがって、5日間休んで! 家事をせず! そしてお前は最終日に日曜病になって俺の精神を掻き乱すか! 5日中4日! 5日中4日働いた俺が、5連休の! 5連休のお前の日曜病を同情して! 慮らなければならないのか! 阿呆! 阿呆阿呆阿呆! ってなって、まあそんな感じでずいぶんとムカついた。
 まあ今日はさすがに労働から帰ってきたらそれなりに部屋が片付いていて、洗濯もしてあって、夕食にオムライスも作っていたので、多少は救われた。とは言えファルマンは5連休について「まばたきするみたいに一瞬だった」とか抜かすので、やはりだいぶムカつく。阿呆に余暇を与えても精神が衰退するだけだ。そして精神の衰退が肉体を衰退させインフルエンザを流行させるのだ。愛する奥さんを見てそんな風に思ったシルバーウィークでした。