2006.9.6
ツンデレの次になにが来るのかということを、昨晩ぱぴこさんと(パ)ピロートーク(ダサい)したのだけど、ぜんぜんおもしろい意見が出なかった。
おもしろい意見が出たような気がしていたので、「おもしろい意見が出た」という話を書こうとしていたのだけど、今そのためにメモ帳を開いたら、半分以上眠りに就きながら書いたメモにはぜんぜんおもしろいことが書いてなかったので、泣く泣く方向転換だ。
まず「ツン老い」と書いてある。ツンツンしているけど、その一方で老いていっている、ということだろうか。哀しいじゃないか。
次に「ツン病」だ。ツンツンしているけど、実はなにかの病気なんだろう。救いがない。
そのあと「ツン・ヨンハ」と書いてある。「パク」とびっくりするほど掛かっていない。まさに深夜。
次は「ツンマネ」。これはたしかぱぴこさんの意見だ。「ツンツンしてるけど、それはフリ」ということだったと思う。しかしそれはほとんどツンデレだろうという気がする。
次もぱぴこさんの意見だ。「ツンぞりかえる」。ダジャレだ。そしてダジャレのくせにこれがいちばん使い勝手がいい気がする。日常生活の中でも使えそうな気がする。
最後に「ツン死に」と書いてある。ツンツンしたまま死ぬのか。それともいま流行りの「キュン死に」みたいな感じか。死にそうなくらいにツンツン。意味が解らない。
(パ)ピロートークにして、期せずして四苦のうちの三つが挙がっている。ひどい。
ここまで来たらどうせだから「ツン生」もやってしまえばどうかと思う。「あ、あんたのために生まれてあげたんじゃないからねっ」というこれはある意味で哲学的なツンツンであると思う。
2006.9.6
インターネットが相互参加型になってきているのが好ましく感じられない。
なんと言うか、コミュニティの感じが嫌なんだと思う。ルールとか責任とか。そういうのが現実で面倒臭いのでネットを始めた感じなのに、なんかネットもまたそういうことになろうとしている。解せない。
もちろん便利なんだろうとは思う。百科事典とか。
ただコミュニケーションツールとしてのそれは許せない。要するにmixiらへんが許せない。ぼくらの世代はまだいいけれど、mixiがはびこる世の中で育つ子どもは、書籍や新聞のような、個人で情報を得る手段に価値が見出せなくなるのではないかと思う。あるいはそれで得た知識や感想を他人と共有せずにはいられなくなったり。それはきわめて気持ちが悪い。大きなものに組み込まれてしまうのでは、その人が生きている意味がなくなってしまう気がする。
ぼくにとってホームページはもちろん、ブログも主張や発表のためのものなのだ。あくまで一方的。折衷案なんて必要ないんだ。シャングリラなのだから。これはダメな考えなんだろうか。未来のコミュニケーション人に疎まれるんだろうか。
2006.9.3
恋人と東京メトロの旅に出掛ける。1日乗車券が710円。
まず六本木へ。初六本木ヒルズである。どうってことなかった。日曜で盛況しているかと思えば別にそんなことない。改めて考えていれば、オフィスとマンション、そしてそれに付随して少々の店があるだけだ。街なんだった。人もそんなにいない。
まず六本木へ。初六本木ヒルズである。どうってことなかった。日曜で盛況しているかと思えば別にそんなことない。改めて考えていれば、オフィスとマンション、そしてそれに付随して少々の店があるだけだ。街なんだった。人もそんなにいない。
そこから日比谷線で銀座に出て、銀座線で浅草に。雷門とか見る。どこまでもベタに観光である。人形焼きとか、花やしきとか。それにしても六本木と浅草の土地のギャップはすごい。でも浅草のおばさんはファッションを超越したとも言えるサイケデリックな恰好をした人がたくさんいたので、逆に六本木よりも進んでいるのかもしれないとも思った。そして焼きたての人形焼きはうまかった。
次に少し戻り上野で下車。アメ横を歩く。4時から飲んでる人がたくさんいて、居堪れず参加する。青空の下のビールうまい。
そのあと三越前で乗り換え、半蔵門線で神保町に。しかし日曜日の夕暮れ時でそんな愉しくなかった。店開いとらんがな。
まあそんな感じで回ったのだった。山田優のような日曜日だった。
2006.9.1
cozy rippleのカウンターが10000を突破した。開設3年超にしての記念すべき数字である。マジだ。10000を踏んだぼく自身が言うのだから確かである。
前夜に9997の数字を目にしつつ眠りに就き、翌日ページを確認し9999のゾロ目を獲得した。ひと晩で自分以外の来場者はたったひとりなのだった。そしてその数字を得たぼくがすることは決まっていた。
カウンターが6000台くらいになったときからずっと思っていたのだ。10000を踏むのは一体どんな人なんだろう、どんなお祝いメッセージをくれるだろうか、どういう人がその役に就いてくれたら嬉しいか。
答えは明白だった。ぼくだった。
このサイトのカウンターを10000に至らしめたのはぼく個人の尽力――それ以外のいずれの要素も存在しないのであった。だとすれば記念の番号は僕が掴むべきだし、それにぼくほどぼくにとって喜ばしいお祝いをしてくれそうな人物はいない。
そんなわけで――おめでとう、おめでとうpurope★papiro!
ありがとう! papiro本当にどうもありがとう! 大大大大大好きだよ!
2006.8.19
ところで実家に帰っている途中で気付いたのだが、この紙を持ってくるのをすっかり忘れていたのだ。実家で過ごすパソコンのない自室での夜は、こうしてこの紙をせっせと書いたりするわけだが、すっかり忘れていた。ピンチである。
(中略)
それでどうしようかと悩んだ末、あることを思いつく。
すなわち、高校時代から書き続けている数千枚にも及ぶ、実家に置きっ放しのあれらの裏――。表には行が印刷され高校(男子校)時代のぼくがつらつらとどうしようもないことを書き綴っているのだけど、その裏は実は今お金を出して買っている無地のその紙なのである。
というわけでこの文章は、高校2年の2月13日の日記の裏に書いているという寸法だ。ふしぎ。
高校2年生と言えば2000年である。1000年台だったらもっと衝撃的だったんだが、しかし世紀は違う。20世紀。おどろき桃の木である。
そしてぼくは17歳だった。17歳だった! まさにそれである。
いやもうこれの裏面には17歳のぼくの、なんかガツガツした感じのひどいものが掛かれているわけである。ひどい。10代の文章って本当にあれなんだね。叫びっぽいんだね。
でも意外だったのは、女の子についての筆記はザっと見たところほとんどない。自分と社会、大人みたいな話ばかり。もちろんこれは当時のぼくが真面目だったというわけではなく、10代特有の美意識とかであったり、あるいは単純に手近に対象となる具体的な女の子がいなかったりしたことが要因なのであると思う。気持ち悪い。
それにしても実になんの問題もなく無地だな。この紙が数千枚あるのだよな。なんだか、今後これの無地を買う必要はあるのか? という疑問が湧いてくる。それにこれはこの画面を眺めている他人にはまるで伝わらないことだが、表に17歳の自分の文章が書かれた紙の裏に今の自分が文字を書くというのは、なんかものすごく、ドキドキする。おもしろい。この1枚の紙、表の執筆は17歳のぼくで、裏の執筆は22歳のぼく。これは手書きの日記にしかない感慨だろう。いいな。本当にそうしようかな。
2006.8.19
実家に来ている。ぱぴこさんも帰省&イベントでいないので。実家に泊まるのは、あれもぱぴこさんが帰省してるときだったから、GW以来か。彼女との5分の4同棲も3月の終わりからだから、もう5ヶ月ほどになるわけだ。早い。気持ちとしてはまだ生活の準備期間で、実際今日もこちらのホームセンターで食器とか買ってるわけなんだが、でも5ヶ月なのだ。
そう言えば5ヶ月で思い出したが、2ヶ月だ。2か月間勤務した会社を、昨日の出勤で終了させたのだった。決まらず、決まったと思ったら、辞めた。波乱万丈だ。なるほど5ヶ月があっという間のはずである。幸いこれからの身の振り方はしっかりと決まっているので不安はない。今後は落ち着けよう。美味しいお粥を作る工夫とかをしながら、平穏に健全にのんびりと暮らしたい。
2006.8.9
体調を崩していた。びっくりする。ぼくはなんだ、本当に弱い子か。プロフィールに「虚弱体質」と書いても差し支えない頻度で崩している。
と言うか実際ぼくは虚弱で然るべきなのだ。だって野菜とかあまり好きじゃないし、肉は多く食べれないし、運動も一切しない。ともすれば体重が40キロに届かない恋人に腕相撲で圧敗する。あらゆるデータが僕を虚弱であると唱えている。
だとすれば疑問になってくるのが、「どうしてぼくはそんなに虚弱じゃない感じなのか」ということである。腕の細さに着目してもらえば一目瞭然の事実は、なぜ人に気付かれにくいか。
そこにぼくは、ぼくの周りの人に心配をかけないと心掛ける気丈さを感じずにはいられない。なんていい奴なんだ。愛せずにはいられない。
2006.7.26
話は変わるのだが、ぱぴこさんは3人姉妹の長女であり、3女はいま、高校2年生なのだが、何ヶ月か前からその3女に彼氏ができたという。それは僕に多大なるショックを与えると同時に、長女と異なり勉強のできるらしい3女の大事な時期においてのそれという存在にぱぴこさんの母親はある種の憂いを抱いているらしく、その彼氏にあまり好印象を持っていない。彼女が言うには3女の彼氏は「笑顔で野原を駆け回ってるような感じ」で、「papiroちゃんとは正反対」なのだそうだ。これはどうやらぼくは洗練されているというレトリックらしいのだが、ぼく的には大いにショックであった。野原、駆け回りたいじゃないか。
2006.5.7
GWで同居人が帰省するということで、僕も久しぶりに実家で1泊してみた。
それでびっくりしたのだけど、僕の使っていた部屋が、非常にきれいになっていた。塵や屑や、それ以外の細々したものも一切ない。ベッドと机だけが残っていて、またそれの配置さえも変わって整然としていた。
祖母の仕業だ。
そう言えば実家で暮らしていたときも、1年の半分ほどを我が家で過ごす祖母は来るたびに、僕の部屋の掃除をしたくて仕方がないようだった。僕はある時期から部屋に人を入れることを強く拒むようになっていて、実際に母も姉も入ろうとはしなかったのだが(入る理由もなかったろうが)、祖母だけは違って、ことあるごとに僕の部屋への侵入を試みるのである。取り込んだ部屋に置いておけばいい洗濯物とかを、わざわざ僕の外出中を狙って僕の部屋の中に置いたりする。
その祖母が、僕の支配から抜け出した僕の部屋の掃除をすることは、考えてみれば自明の理なのであった。
これについて文句を言うことはできまい。新生活に必要なものだけを抜き出した、というような中途半端な引越しをしたあとの部屋はわりと雑然としていて、でももちろん腐るようなものだけは処分して、このまま放置しておいても大丈夫、というようにはしていたのだけれど、散らかっていることには変わりなく、祖母としてはそれが耐えられなかったのだろうと思う。そして僕よりも祖母のほうが実家への滞在日数は多いのだから、たとえそこが依然として名目上は僕の部屋なのだとしても、祖母の管理下に置かれることに不満を述べられる立場ではない。それに僕も反抗期はとっくに終わっているわけだし、と言うかもう共に暮らしているわけではないから、一緒に暮らして顔を合わす人にプライベートな空間を覗かれるのは嫌だけど、そういう意味でも抵抗感というのは以前よりも薄れていたと思う。
しかし本棚に『電撃姫』の付録DVDが並べられていたのはショックだった。
ここで主張しても仕方ないのだが、僕は別にそれらを大事にしていたわけでは決してない。日常的にそういったものを部屋で観ていた、という事実も存在しない。不必要だから実家に置いてきたのだ。と言うか未開封である。DVDなんか付けて雑誌の定価が4ケタ行くのってどうなんだとも思う。しかし燃えないゴミとして出すのも面倒くさいから、クローゼットとかに放っぽっといたというのが真実だ。それがきれいに本棚に並べられていた。と言うか量の問題からこっちに持ってくることを断念した、十何冊もの『電撃姫』本誌のバックナンバーも、しっかりと1箇所にまとめられていた。
また高校時代から書き溜めた何千枚もの日記カードも場所が移動していた。これは半透明のプラスチックケースに入っているから内容は見えなかっただろうが、収められたカードのいちばん上のものは、半透明越しに僕の手による文字が書かれていることが確認できるわけで、だとすればこの分厚い塊はすべて孫の書いたカードとなるわけで、その塊が何十個もあるわけで……という風に祖母は恐怖を感じたかもしれないと思う。実際、恐怖を感じるには難くない体積である。
祖母の対応がどこかよそよそしかったのは気のせいだろうか。そんな帰省だった。
2006.4.21
美少女における光と影ということについて考えたい。
一見したところ光のみで構成されているような美少女という存在であるけれども、影のない光など存在しないのである。そしてその影とはこの場合、光りかがやく美少女の周囲にあって目立たない同級生とかそういう人間関係を指すのではなく、もちろんそういう捉え方としての光と影もあるだろうが、ここで唱えたいのは少女自身の中にある光と影のことである。またもうひとつ断っておきたいこととして、これは決して内面についての話ではない。すなわち心の闇とか、そういった類の話ではない。人当たりのよい朗らかな少女の、心の奥底にある強い妬みや嫉み、とかはどうでもいい。むしろそういうのを含めて輝かしい美少女足りえるのは自明の理であるとも思われる。丸ごと愛そうじゃないか。
じゃあ結局なにについて言いたいのかということだが、ここで話したいのはあくまで肉体的なことなのだ。残念なことに圧倒的な多数である僕と精神の交感をなさない少女らにおいて、僕に向けて提供される材料としての情報は、つまるところ視覚的な、すなわち肉体的なものなのである(交感をなさないとは言え、こちら側が外見などから類推し、ある程度まで少女の感情を察してあげることは可能である)。
その肉体的な観点において、美少女はどこまでも輝いているように見える。それはそうだ。美少女とは外見が優れているから美少女と呼ばれるのであり、だから視覚情報のみが与えられる「行きずりの関係」において、美少女の美少女としての価値性はもっとも高まると言ってよい。この効果によって僕らはこの荒廃した世の中を渡り歩いていけていると言っても言い過ぎではない。
しかし言いたいのは、果たしていつまでもそれでいいのか、ということだ。少女の振り撒く外見の美しさを第三者として正直に享受するだけでは、なんの発展性もないのではないか。「山が高いなあ」とか「空が青いなあ」と言っているだけである。その感情は演出次第では一種の感動にも繋がり得るかもしれないが、価値という意味ではあまりにも低い。月並みなのである。
僕はここから脱却したい。すなわち街で見かけるだけの少女にさえも、影をしっかりと感じたい。そうすることにより僕と少女はもっと深い次元に行けるのではないか。ひとりの少女を複数の男で眺めたとき、いつだって僕は他の奴らよりも深く、その少女のことを愉しみたいのだ。
では一体どうすればそれが可能になるか。すなわち少女の肉体的な影とは一体なんなのか。
僕はここに、「陰毛」という存在を提唱したい。
ブラジャーブーム終了。陰毛ブーム勃発。
一見したところ光のみで構成されているような美少女という存在であるけれども、影のない光など存在しないのである。そしてその影とはこの場合、光りかがやく美少女の周囲にあって目立たない同級生とかそういう人間関係を指すのではなく、もちろんそういう捉え方としての光と影もあるだろうが、ここで唱えたいのは少女自身の中にある光と影のことである。またもうひとつ断っておきたいこととして、これは決して内面についての話ではない。すなわち心の闇とか、そういった類の話ではない。人当たりのよい朗らかな少女の、心の奥底にある強い妬みや嫉み、とかはどうでもいい。むしろそういうのを含めて輝かしい美少女足りえるのは自明の理であるとも思われる。丸ごと愛そうじゃないか。
じゃあ結局なにについて言いたいのかということだが、ここで話したいのはあくまで肉体的なことなのだ。残念なことに圧倒的な多数である僕と精神の交感をなさない少女らにおいて、僕に向けて提供される材料としての情報は、つまるところ視覚的な、すなわち肉体的なものなのである(交感をなさないとは言え、こちら側が外見などから類推し、ある程度まで少女の感情を察してあげることは可能である)。
その肉体的な観点において、美少女はどこまでも輝いているように見える。それはそうだ。美少女とは外見が優れているから美少女と呼ばれるのであり、だから視覚情報のみが与えられる「行きずりの関係」において、美少女の美少女としての価値性はもっとも高まると言ってよい。この効果によって僕らはこの荒廃した世の中を渡り歩いていけていると言っても言い過ぎではない。
しかし言いたいのは、果たしていつまでもそれでいいのか、ということだ。少女の振り撒く外見の美しさを第三者として正直に享受するだけでは、なんの発展性もないのではないか。「山が高いなあ」とか「空が青いなあ」と言っているだけである。その感情は演出次第では一種の感動にも繋がり得るかもしれないが、価値という意味ではあまりにも低い。月並みなのである。
僕はここから脱却したい。すなわち街で見かけるだけの少女にさえも、影をしっかりと感じたい。そうすることにより僕と少女はもっと深い次元に行けるのではないか。ひとりの少女を複数の男で眺めたとき、いつだって僕は他の奴らよりも深く、その少女のことを愉しみたいのだ。
では一体どうすればそれが可能になるか。すなわち少女の肉体的な影とは一体なんなのか。
僕はここに、「陰毛」という存在を提唱したい。
ブラジャーブーム終了。陰毛ブーム勃発。
2006.4.19
近所に中高一貫の女子校があることに気が付いた。
どうも駅周辺においてふた通りの制服の少女を見かけるなあ、そんなふたつもこの街に学校があるのかなあ、と前々から疑問に思っていたのだが、校舎を発見しそこから出てくる少女らを眺めてみたところ、中等部がセーラー服、高等部がブレザーという仕組みだということが分かった。
しかし口で言うのは簡単だが、中等部がセーラー服で高等部がブレザーとはすごい設定であると思う。まるで僕の煩悩のようではないかと思う。理事長の精神構造にシンパシーを感じずにいられない。春風学園も中高一貫の女子校だが、制服のそういう設定までは考えていなかった。せっかくだからそういうことにしようと思う。
おそらく生徒たちにおいて、中等部の少女らはブレザーに憧れ、高等部の少女らはセーラー服に懐かしさを覚えるのだろうと思う。その交歓がいい。学年題俳句のいい土壌であると思う。
あわよくば取材に行きたいくらいである。中高における文化祭や体育祭のシステムであるとか、部活の体制であるとか、いろいろと知りたいことがある。なんとかならないものか。
先日この学校の前を歩いていたとき、背広で色白でメガネで青髭で七三で30歳くらいの、つまりどう考えても間違いなく変態の、しかしどうも教師らしき男が校門から出てきたのだけど、彼をなんとかできないものかと思う。なんとか弱みを握れまいか。帰宅の途中に「とらのあな」へ行ってるところを写真に撮ったりとか。
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