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2009.12.30

 「マリア様がみてる」の最新刊を読んだ。おもしろかったけど、いよいよ本格的に「マリア様がみてる」ではなくなってきた。「マリア様がみてる」は祐巳と祥子のお話なのであって、薔薇の館のメンツのほぼ出てこないこれは、もはや「私立リリアン女学園ぴょんぴょん物語」じゃないかと思った。
 あと読んでいて、なんでそれのことを忘れていたんだと悔しい気持ちになったのだけど、そう言えばスール制度というのがあったじゃないか。これはぜひ宇佐木学園にも採用すべき制度だ。物語の幅がぐっと広がるだろうと思う。すっかり発想が欠如していたことはおくびにも出さず、はじめから考えてましたけど? くらいの感じでいけしゃあしゃあとそのうち登場させようと思った。

2009.12.27

 帰宅すると注文した本棚が届いていた。ただし客組み立てなので段ボールの状態。行きも帰りもリュックの中に本を10冊入れた状態で、片道30分くらい自転車を漕ぐという重労働をしたあとだったが、仕方ないので組み立てはじめる。割と面倒くさかった。ふたつ注文して、ひとつは1万円ちょい、ひとつは5000円という安物のため、それほど頑丈なものを想定していなかったのだが、これが意外としっかりしている。さすがはお値段以上だ。
 特にリビングに置く用の本棚は大きく、作るのに骨が折れた。しかも判っていたことだがファルマンが不器用だ。ネジをまっすぐ挿れられないので、30本以上あるすべてのネジを僕が嵌めなければならなかった。おかげで右手がひどく疲弊した。
 続いて純粋理性批判用の、スライド式の文庫専用棚に取り掛かる。巨大なものを組み立てたあとだったので、こちらは割と楽にできた。ファルマンが出来上がった本棚に本を並べる作業に没頭してしまったため、ひとりでやった。なにしろ純粋理性批判専用本棚なのでしょうがない。
 組み立ててみるとこちらの本棚も思っていたより大きく、置こうとしていた場所には適さなそうなほどだった。それで改めてリビングに設置する要望を妻に申し入れる。当然ながらファルマンは猛反発である。でも僕も引くわけにはいかない。パソコンデスクのすぐ横に純粋理性批判全巻が番号順に並んでいる夢のような状況を、そう簡単にあきらめるわけにはいかないのだ。そんなわけで言葉の限りを尽くして交渉。最終的には土下座までした。これは今日全国で行なわれた土下座のうち、いちばん価値のない土下座だったに違いない。夫からエロ小説専用本棚をリビングに設置することを土下座して懇願された妻は、苦渋の決断を下すほかなかった。あまりにも情けない夫の姿を、そう長い時間見てもいられなかったのだろう。
 かくして夢が叶う。願えば夢は叶うんだ。僕は君たちにそのことを知っていてもらいたい。土下座とかすると、夢は割と叶うんだぜ。課外授業ようこそ先輩。今日はシャノマトペについてみんなで勉強しよう。発育のいい子はもう来ているよね?
 それでファルマンの気が変わらないうちにいそいそと、冷遇されていた文庫たちを別室から持ってくる。現在のところ全144冊。両手で山を抱えて運ぶのを、5往復ほど繰り返す。そして持ってきた全巻を、番号順に並べ替える。番号順に並べると歴史的な変遷とかが明瞭になって、新しい発見がある。愉しい愉しい。この愉しい作業をしている最中、にわかにファルマンに写真を撮られる。そして「ほら、これがいまのあなたなんだよ」と、撮った写真を見せられた。そこにはピンク色をした144冊の文庫本の山に囲まれて、しあわせそうな笑みを浮かべる26歳の姿が写し出されていたのだった。はははっ、と思った。こんなことくらいでテンションが下がると見くびられては困る。むしろ誇らしい。2枚目はちゃんとピースをして記念撮影だ。ひゃっほい。すっかり番号順に並べた文庫たちを、ガスガスと棚に収めてゆく。さすがは約300冊収納。144冊でほぼ半分しか使わない。ついでにいくらか持っている社会契約論と、文庫と言えばこれだろうということで「製本KUCHIBASHI DIARY」5巻も並べる。純粋理性批判と、社会契約論と、自分の日記! うわあ! なんだろうこの幸福! 夢は時間を裏切らない! 時間も夢を裏切らない!
 144冊の背表紙が並んでいる様子を、この文章を打っている今もなのだけど、僕はぼんやりずっと見ていられる。それぞれの内容を少しずつ思い出しながら、ただいつまでもボーっと眺め続けられる。いつまでも飽きない。絵画とか仏像とか、見所が分かってる人って長時間ずっと鑑賞したりするけど、まさにその感じだと思う。

2009.12.25

 読んでいたマンガで、姉妹ふたりから告白された主人公が、妹を断って姉と結ばれていた。
 あっ、と思った。そう言えばその発想はなかった。
 姉と妹ふたりから告白されたら、目隠しをしたまま仰向けに寝転がり、姉と妹が代わる代わる陰茎の上に跨るのを、どちらの膣がどちらのものか、きゃっきゃきゃっきゃと言い当てたりすればいいのだと思っていた。間違いだった。本当に好きじゃないほうの告白は断らなければいけないのだ。足し算よりも掛け算とかじゃないのだ。真摯だなあ、主人公。
 帰省で義妹らと半年ぶりに再会する前にこのことに気付けてよかったと思う。
 古本屋で初期のほうの社会契約論を買う。本棚がそろそろやってくるので、社会契約論のほうも全巻じゃないが目欲しいものだけ手に入れておこうと思ったのだ。
 でも家でパラパラと読んでみてびっくりする。エロくないのだ。手に入れたどれも、ハーレムエンド的なものがほぼない。表紙に4人の女の子が描かれているからてっきりラストはその4人との酒池肉林かと思いきや、300ページの中でゆるやかにひとりひとりと1回ずつ性交をし、最後にセックスをした相手と、「ああ俺はやっぱりこの子が好きだったんだ」みたいな感じになって終わっている。すごい呆気なさ。初期はこんなだったのか。せっかく買ったのにエロ小説としての価値はほとんど見出ずそれは残念だが、でもこれは歴史的には大いに価値があると思った。これに較べれば現在はいい方向に進んでいると思う。やっぱり世界は人々の思いの力によって、だんだんいい方向に進むのだなと思った。みんなセックス、それでいい。

2009.12.24

 クリスマスイブなのだった。
 グラタンを喰い、チキンを喰い、ケーキを喰った。なんだかんだでクリスマスは平和で愉しい。幸福が分かりやすく可視化されている感じ。いいことじゃないかと思う。
 やっぱり家族系行事はいいよね。ちょっと独特の表現になってしまってみなさんには伝わらないと思うんですけど、心がほっこりするじゃないですか。ちょっと新しすぎるかな。
 バレンタインデーとかも、2月14日自体はあのままでいいんだけど、前日の13日に家族的な要素を組み込んでみてはどうかと思う。14日に好きな男子にあげるチョコレートは、前日にパパに味見してもらうと恋の成就する確率が高まるんだよ。あとパパの陰嚢には神様が棲んでいるから、撫ぜてあげると恋の成就する確率と同時にパパの興奮も高まってゆき、その晩ママにもいいことが起こるんだよ。ほうら家族の一大行事になったね。ほっこり。まりほっこり。パパもママにまりほっこりだし、真理も明日サッカー部のヤリチンの先輩にまりほっこりしてもらえるよ。

2009.12.23

 テレビで映画「ピーターパン」をやっていて、一瞬だけ観たのだけど、パン曰く「「妖精なんていない」なんてことを言うたびに世界のどこかで妖精が1匹死ぬ」のだそうで、ほほう、と思った。
 我が家では僕が宇佐木学園の話をしていると、「宇佐木学園なんてないんだよ」とファルマンが言ってくるのだけど、じゃあそういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死んでいるのだと思う。そして「そういうことを言うたびに生徒がひとりずつ死ぬってことね」とファルマンに言った途端、ファルマンの口から飛び出した「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」「宇佐木学園なんてない!」の連呼。思わず口を手で塞いで守った。だが少し落ち着いて考えて、果たして僕は一体なにからなにを守ったのだろうと思った。平和ってなんだろう。

2009.12.21

 ファルマンが地域の防犯メールサービスみたいのに登録していて、住んでいる町で事件的なものが発生すると、警察からメールが送られてくるのである。それでつい先日、労働中にファルマンからメールが届いて、開いて見たところそれは、警察から送られてきたメールの転送だった。
 そのメールでは、僕たちの住んでいる家の割とすぐ近くの道路において、男が女児にちょっぴり手の込んだレトリックを使ってイタズラをしたことが伝えられていた。
 そしてその男は20代で、メガネを掛けていたという。
 あっ、と思った。
 これで転送してきたメールの末尾に『あんたがやったんじゃないの~。早く自首せよ(笑)』みたいな軽口が付されていればまだよかったのだけど、そんなものもまるでなく、普通に警察から来たメールそのままで、妻はそのメールを夫に送ってきたのだった。なのでなんか、鬼気迫るものがあった。もしかして俺、妻に本気でちょっと疑われている!
 でもその事件が起こった時間、僕は労働中だったのでアリバイがあった。日常生活でアリバイという言葉が出てきたことがびっくりだが、なので僕は犯人ではありえない。そもそも二次性徴前の女児には興味がない。しかしメールには「警察では現在付近のパトロールを強化している」ともあって、職務質問とかされたらショックだな、と思った。
 思っていた矢先、駅までの道の途中で、20代でメガネを掛けている男が、なにやら警察官に話を訊かれているところを目撃してしまった。その人は怪しいところがなかったのかすぐに解放されていたけど、これにはおののいた。
 たとえば僕が職務質問されて、鞄の中身をチェックされたら、ナイフとかは入ってないけど、本が3冊入っていて、それはエロ小説と、精子の本と、少女マンガなのだ。あ、あと妻の短歌を印刷した紙も。これは気をつけなければいけないな、と思った。

2009.12.20

 まひろさんが3週間近くぶりに記事を更新していた。俺なんてせっせと毎日やっているというのに、女子高生は余裕だなあ。たぶんSNSとかで忙しいんだろうな。
 それで今回のまひろさんの記事の中で、タイムリーにボニータとへっちゃらパンツの二重穿きについて書かれていたので言及したい(まひろさんはいつも割とタイムリーなことを書くものだ)。
 まず触れたいのは、「ボニータの上に穿くへっちゃらパンツはへいちゃら過ぎて、もはや『平気布』だ」という部分。これには感心した。そうなのだ、ショーツとかって基本的に布なのだ。
 「ブラジャー、ショーツ、げへへ……」と気持ちが盛り上がったあとで不意に、(あ、でもブラジャーもショーツも結局はただの布なんだよな)と気付いて虚無感に襲われることがあるけれど、でもやっぱりそのただの布は、女の子が身に着けた時点で特別なものとなり、崇拝の対象となる。そういう理屈でただの布であるはずの下着は尊ばれる。
 けれどショーツの上にボニータを穿いてさらにその上に重ねたへっちゃらパンツでは、さすがにその「女の子が身に着ける」という特別要素の効力が届かず、ただの布となってしまう。なるほど、と思う。ボニータまではぎりぎり届く。でもその向こうのへっちゃらパンツまでとなるとさすがに厳しい。だとすればそのときボニータとへっちゃらパンツの間という特殊空間には、陽子と中性子を結びつける中間子的な、そんなものが発生しているのではないかと類推される。それは普段から地球上の物質中にいくらでも漂っているものであるが、ボニータとへっちゃらパンツの間において最も高濃度で発生する。この幽玄だがたしかに存在する特殊な存在を予言したまひろさんは、第1回パーペル物理学賞受賞まちがいなしだと思う。
 さらに言えばまひろさんは「その存在」が届かないために「平気布」となってしまったへっちゃらパンツの退廃を憂い、へっちゃらパンツに「ちんこ大好き」と刺繍することで人工的に「その存在」を造り出すことに成功しているのだから恐れ入る。とんでもない天才が現れたものだ。
 あと下半身を重ね穿きし過ぎているという話の際、「しかも私には処女膜がある」みたいなことを書いていて、これにも感心した。女の子の重ね着については僕もさんざん考えてきたけれど、そこに処女膜という発想はなかった。さすがはリアル女子の視点。
 たとえばこれは上半身について語る文脈だけど、purope★papiro★cantabile(2代目)の2005年9月17日の記述では、下半身の包み隠し段階について、
下半身……『1小陰唇←2大陰唇←3陰毛←4ショーツ←5スカート』
 と書いている。自身の記述を読み返してみて3番目の「陰毛」という発想にびっくりもするのだけど、どちらにせよ処女膜という発想はここにはなかった。ちなみにここらへんの理屈はマンガでも書いた。purope★papiro★cantabile(初代)の2005年1月21日の中で「数ヶ月前に書いた」と言っているので、じゃあこれを実際に書いたのはもう5年前か。なんだか冗談じゃなく学者みたいに何年も同じ問題に取り組み続けているな、僕は。ちなみに「隠していたものが明かされる感動」についても2代目のほうで書いているので非公開じゃなくしておこう。
 それで、じゃあまひろも含めた(まひろも実は僕なので)この5年間の僕の蓄積をまとめると、このような図式ということになる。
1膣口←2処女膜←3小陰唇←4大陰唇←5陰毛←6ショーツ←7ボニータ←8へっちゃらパンツ(平気布)←9スカート
 ちょっと感動する。1行に収まらないところが5年間の歴史を物語っている。
 そして冬の処女の子がこれだとすれば、それの対極にある夏のビーチの非処女(しかもせっかくなのでパイパンとしようじゃないか)はこうである。
1膣口←2小陰唇←3大陰唇←4水着
 唖然とする。大陰唇のはずの4が、堂々と見せるためのデザインを施された水着なのだ。
 もっとも夏のビーチの非処女でなくたって、処女膜を1項目として換算する考え方は十分に価値がある。なぜなら2がなくなるのだから、7のボニータは6のショーツと同価値になり、6のショーツは5の陰毛と同価値になるのだ。一見なんの違いもない制服姿のふたりの女の子がいるとしても、処女の子のスカートは9で、非処女の子のスカートは8なのだ。8! 8て! 8のドキドキ∞(無限大)! ボフンッ! スカウターも木っ端微塵だよ。
 ちなみにまひろが購読して性知識の参考にしているらしい道産子ガールズ通信の執筆者は僕という設定。もうこの連続世界は永遠にどこにも向かわずに、反射と反射を繰り返して無限の多重世界を作り上げてゆくのかもせんね。

2009.12.18

 女子高生の生脚について、「でも絶対に親が、スカートの下に毛糸のパンツとか穿かせてるよ」とファルマンに言われる。「脚を晒す分だけ暖めなくちゃいけないから、きっと二重に穿いてるよ」
 女子高生がスカートの下に短パン的なものを穿いていて、決してショーツが見えたりなんかしないことに関してはもうさんざん語り尽くし、その短パン的なものにオリジナルの名前まで付けた僕なので、「分かってますけど?」って感じで、そのこと自体は別に僕の心を揺り動かさなかったのだけど、この中でファルマンが何気なく使った「二重」という言葉に、かなりハッとした。
 女子高生は真冬には、スカートの下に短パンやら毛糸のパンツやらを二重に穿く。
 もしかしたらここに、ボニータとへっちゃらパンツの共生の道が見出せるのではないか。
 ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたように、へっちゃらパンツというナイスネーミングの前にボニータは消滅する運命かと危ぶまれていたが、女子高生の下半身はそんなに狭量じゃないのだ。女子高生の下半身の包容力を舐めちゃいけない。女子高生の下半身を舐めちゃいけない? 舐めちゃいけなくなんかない! けど舐めちゃいけない。でもやっぱり舐めたい! 舐めちゃいけないと止める理性と、ベロベロ舐め尽くしたいという本能のせめぎあい。舐めるけど舐めないので舐めさせてください!
 えっと、なんの話だったかな。ああそうだ、女子高生様は短パンを二重にお穿きになるのだから、だったら1枚目と2枚目でそれぞれ別個に呼んだらええがな、という話だったな。
 つまりニトリの2枚組み毛布みたいな感じで、夏には薄手の、春秋にはやや厚手の、冬にはそれらを合体させて、みたいな感じで、ショーツがあって、春秋にはへっちゃらパンツを穿いて、冬にはそれの下にさらにボニータを穿くみたいな、ぜんぜんたとえがよく分からないけど、へっちゃらパンツとボニータの関係というのは、そんな風に捉えてゆけばいいんじゃないかと思う。
 だから武器は今すぐに捨てて、戦争はやめるべきだと思う。我々が争う必要なんてどこにもないんだ。女子高生は2枚穿いてくれるんだ。パイはふたつある。おっぱいもふたつある。だから達也と和也、ふたりで一緒に吸えばいいじゃない。南はゲームの賞品じゃないんだから。

2009.12.17

 寒波が来ているというのに、女子高生の脚が寒そうでいけない。年を取るにつれて、それに対し「うひょ、生脚」と喜ぶ気持ちと、「冷やして大丈夫?」と心配になる気持ちのバランスが変化してきているのを感じる。20歳前後には完全に前者の気持ちだけだったが、いまは両者がせめぎ合っている感じだ。このままだときっと10年後ぐらいには後者の気持ちしか抱かなくなるのだろうと思う。完全にパパ目線。でもなんとなくの予感として、30年後ぐらいにはまた1回転して、「うひょ、生脚」としか感じなくなるんじゃないかな、と思う。この現象を「生脚輪廻現象」と名付けよう。後世の学者は400年も前に既にこのことを僕が喝破していることを発見し、存分に驚嘆すればいいと思う。400年後の学者はずいぶんとくだらないことを研究しているものだな、と思う。

2009.12.16

 精子の本を読んで、受精の奥深さに驚嘆する。
 受精マジですごい。精子の旅路についてきちんと知ると、人生観が変わってくる。
 受精までの精子の旅路はあまりにもドラマチックなので、流れを朗々と語ればそのまま落語になると思う。すごくよくできた物語なのだ。
 女性の身体は基本的に進入してきた精子に対して敵対的なのだけど、ある段階までクリアしてきた精子には急にご褒美を与えて、カルシウムの一種により精子を超活性化させるのだそうだ。それまでヘロヘロヘロ、と鞭毛をそよがせていた精子はそこで急激なパワーアップを果たし、グオオオオオ、と鞭毛を激しく振るわせ、ラストスパートを始めるのだという。
 感動する。やっぱり人生は喜劇なのだな。悩むけど挫けないのだ。
 つらいときは精子の超活性化のことを思い出せばいいのだ。僕らはみんなカルシウムの一種によってグオオオオオと鞭毛を激しく振るわせた結果として誕生したのだ。実に無様で愛しいじゃないか。思わず微笑まずにはいられない。

2009.12.15

 そんなわけでファルマンの短歌を読み返している。
 現時点までにアップしているもので950首に及ぶファルマン短歌、先日これをコピーしてワードに貼りつけ、読みやすいよう体裁を整え印刷する、という作業を行なった。これにてファルマン歌集のゲラ的なものが完成だ。来年はこれを常に持ち歩き、せっせとパロディを考えてゆくつもり。本じゃなくて印刷したコピー用紙を眺めているとなんかプロっぽさが漂うが、なにを読んでいるかと言えば妻の短歌、という図式。
「パピロウさん、なにを読んでるんですか?」
「妻の短歌です」
 想像しただけでゾクゾクする。
「伊坂幸太郎です」
「あっ、私も読みました。ダ・ヴィンチでも絶賛されてましたよねー」
 じゃないのだ。
「妻の短歌です」
「……(うひゃあぁっ)」
 これだけで来年の到来がだいぶ待ち遠しくなる。
 ちなみにファルマンの短歌は読んでいて実際おもしろい。割と覚えている短歌もあって、ファルマンがそれを詠んだ当時のことなど、この5年間のことが如実に思い出される。陳腐な表現だけど、短詩というのはエキスの詰まったカプセルのようだと思った。カプセルが弾けると、中身が一瞬にして口中に広がる感じ。大学時代の短歌とか、すごく思い出の味だ。
 パロディはどんな感じでやろうかと模索中だが、もしかするとパロディと言うか返歌っぽい感じになるかもしれない。どちらにしろ夫婦で閉ざしていることに変わりはない。人生、自分の創作と妻の創作物の鑑賞で足りるな。高みなど目指さず、ひたすら深みに嵌まってゆきたい。

2009.12.13

  少女マンガを読んでいて、強烈な喪失感に襲われる。
 なんか少女マンガ的には、高校の3年間での異性関係っていうのがものすごく大事な、残りの人生をぜんぶこの一瞬にかける、っていうくらい重要なこととして描かれるのだけど、じゃあその3年間を男子校で過ごして、片思いとかそういうのぜんぜんしなかった僕って、僕のこの人生って、とんでもなく巨大な穴があるってことになるんじゃないだろうか。
 思わず一緒にマンガを読んでいたファルマンに訊ねる。
「あのさー、高校の3年間に恋をしなかった俺のこの人生ってもしかしてさ……」
「欠陥住宅だよね」
「あげぶふっ」
 26年間でいちどもしたことのないリアクションをしてしまった。
「大事な柱が1本ないよね」
「ぐぐげぶっ」
 うずくまって手の平で顔を覆いながら、僕は気付いた。
 そうか、僕の心には本当はなくちゃいけない柱が1本ないんだ。だから人付き合いの耐震性が低くて、すぐに崩れてしまうんだ。だから12月に入ってから携帯電話に、ファルマン以外の人からまだメールが1通も来ないんだ。そうか。そうだったんだ。やっと気付いた。気付くと同時に、本当にちょっと涙が出た。さいきん本当に涙腺が緩い。

2009.12.12

 今週ファルマンは咳が止まず、そのせいで睡眠がうまくいっていなかったのだった。このため労働から帰宅してから柄にもなく仮眠などするものだから、そのせいでまた夜に寝られず、その結果また翌日もつらい、という絵に描いたような悪循環を繰り返していた。なので今日は咳もすっかり止まったようだし、ぐっすり眠れてよかったと思う。
 ちなみに僕はと言うと、すぐ横でファルマンが咳を繰り返し早朝まで寝つけないようなときも、もちろんすうすうと眠っていた。なんにも気にならなかった。俺の圧倒的な寝つきのよさを見くびってもらっては困る。なにも僕の眠りを妨げることはできない。
 何曜日だったか忘れたけど、ファルマンが朝「昨日もなかなか眠れんかった……」とひどく低いテンションで恨めしそうに言ってきたとき、「そうそう! 俺もだよ! 俺も君の咳のせいで目を覚ましてしまってなかなか眠れなかったんだよ!」と、ちょっとファルマンのことを責めるくらいの感じで同調したのだが、そのあとで、それにしては身体がぜんぜん怠くないし、寝不足の感じもないのでおかしいな、と冷静に考えたところ、その「ファルマンの咳のせいでなかなか安眠できなかった」というのは完全に夢の中の出来事だったのだと思い至る、という出来事があった。

2009.12.11

 今回の年末年始に関して、当初の予定ではどちらの実家にも行かない予定だったのだけど、5日と6日に休みが取れそうなので、ここで急遽ファルマンの実家に行くことにした。
 5日と6日と言うと若干もう年末年始でもない気もするが、2日から帰省する予定のファルマンは、今回の「三が日が土日」という、会社員にとって最悪な日程をものともせず、6日まで出雲に滞在する予定で、これはなぜかと言うと今回はファルマン家にとっての割と大きなイベントとして、「いちばん下の娘の成人式に合わせて娘3人で着物姿で記念撮影をする」という企画が組まれており、それが5日に行なわれるのである。それがなければあちらで年越しをする感じで、ふたり一緒に2泊3日くらいの日程で帰省することも考えたのだが、俺だけ2日とか3日に帰るのにファルマンは6日までいるみたいな、そういうのは嫌なので、ならばいっそ俺は行かねえよ、ということになっていた。でも1月前半のシフトを組んでみたら、なにしろ2日から働くこともあり5日と6日を休みにするのはぜんぜん可能っぽかったのでそうして、じゃあ俺も強行軍で島根に後乗りしてやっぜ、となった。なにしろ3人揃っての着物姿は見ておきたい。20代揃い踏みでの華やかなそれは、ちょっと無理してでも見ておかなければ後悔すると思ったのだ。
 今日この計画を思い立ち、これはいい考えだと感動して、ファルマンに言うかどうか悩んだ。ぜんぜんそんな話おくびにも出さず、4日の労働を終えたあとに出発する予定なので、4日の深夜にファルマンに電話をして、「いま家の前なんだけど」「えー!?」っていう、最近ちょっと少女マンガにハマっている26歳の男の子らしいサプライズをやろうかともちょっと本気で思ったのだ。でもこれは冷静に考えてすぐにやめた。考えてみたら僕は新幹線のチケットの取り方とか知らないので、ファルマンにやってもらわないことには出雲になんか行けない。それにこの予定の場合、6日にはファルマンと一緒の列車で戻ることになるが、だとすれば一緒にチケットを買わなければ席が合わせられない。そしてなにより黙って実家に行った場合、5日はイベントなわけで、却って迷惑ということも十分ありうる。これは嫌だ。迷惑がかかるのが嫌なのではない。自分の存在が受け入れられないのが嫌だ。行くからにはちゃんと受け入れられたい。受け入れる心積もりを持ってちゃんと待ち受けてほしい。サプライズ登場には驚きや喜びと同時に絶対に、「えっ、そんな急に来られても……」という相手の戸惑いが生じるものだ。この戸惑いが少しでも見えてしまったら、僕の対人関係におけるやわなハートは砕け散ってしまうことだろう。着物3姉妹とのスナップ写真でも、表情に翳りが出てしまう。というわけで打ち明けた。打ち明けたのでこうしてブログにも書いた次第。
 そんなわけで出雲だ。出雲かー。遠いのになんだかんだで行くなあ。マメな夫だよ。

2009.12.10

 BLENDAというギャル系の雑誌で森ガール特集をやっていたので、なんだそりゃと見たところ、普通に109とかにいそうな女の子たちが森の中で撮影をしていて、ぜんぜんウサギとかリスとか寄ってこない感じで、愉快だった。でもよく見たら「森ガール」っていうタイトルの所に小さく、(盛り)って書いてあって、なるほどっと膝を打った。ダジャレかーい。前号の撮影の打ち上げの席で飛び出したダジャレで、実際に森まで繰り出して撮影してしまうところがいい。あるいはギャル系ファッション信奉者による、昨今のブームに対する「森ガールて!」という皮肉だろうか。森ガールってお前、アダムとイブのイブのほうか! というツッコミなのだろうか。だとしたらかっこいいな。
 そう言えば先日ファルマンが義母と電話をしていて、義母が「パピロウちゃんは草食系男子よね」と言ったそうで、それに対しファルマンが「なんかあの人は自分で芝生男子だって言ってるけどね」と答えて芝生男子の概念を軽く説明したところ、義母は「草食動物に食べられてしまうなんて、自分からそんなかわいそうなこと言わないで」と言ったのだそうだ。なんかこの話、いまいちどこがおもしろいのか分からないけど、微妙にどこかぶっ飛んでいるような、不思議な読後感だ。

2009.12.9

 精子の本を読んでいたところ、イボイノシシは人間とほぼ同じくらいの体格のオスでもいちどに500mlくらい射精する、と書いてあって、希望が湧いた。職場で同僚にそのことを話したら、「えっ、それはどういう希望?」と訊ねられ、そう言えばどういう希望なんだろうと思った。
 クジラが射精すると辺り一帯の海が白く濁る、という話があって、これはもうクジラという巨大生物のことだから別次元なのだけど、人間とほぼ同じくらい、つまり70kgくらいのイボイノシシが500mlの射精ができるってことは、生きものまだまだ捨てたもんじゃねえな、可能性いっぱいあるな、という気持ちになることだと思う。よく分かんないけど、これはそういう希望じゃないかと思う。
 しかし500mlと言えばペットボトル1本分ですよ。そう考えると途端に生々しい。もしかしたら長澤まさみがおいしそうに飲んでいるのはイボイノシシの精液なんじゃないか、などと考えたら、それはそれで大変に希望が湧いてくることだと思う。

2009.12.8

 「エロ小説の主人公はなぜモテるのか」という問いがあって、それに対し僕は「なぜなら主人公のちんこはかわいいのだ」という答えを喝破したのだけど、読んでみると少女マンガの主人公の女の子っていうのも、話が進むうちに自然とモテることだと思う。
 はじめの設定では「目立たない普通の女の子(読者が感情移入しやすい)」と「雲の上の存在みたいな学園の王子(読者が憧れやすい)」という関係なのに、大抵2巻の後半あたりからは、ふたりの王子による主人公の取り合いみたいになってる。びっくりする。自分モテモテやん。
 エロ小説と一緒で、物語を追ってゆくだけでは「素直で優しい心根」くらいしか王子らが主人公に惹かれてゆく理由が見出せないのだけど、これはエロ小説のときにも言ったけど、素直で優しい心根を武器にしても決してモテないってことは、実地で証明済みじゃないか。俺たち、優しかったのにモテなかったじゃん。殴り合いのケンカとかしなかったし、ゲーセンも行かなかった。それなのにちんこの表面積を複数人から奪い合われず終いだったじゃん。
 このやって考えると少女マンガも図式はエロ小説とまったく一緒なので、モテることに関してはエロ小説でいうところの「ちんこがかわいい」的な理由になってくるのだと思う。
 ただし少女マンガの場合だと肌は晒していないので、「おっぱいがかわいい」とか「陰阜の盛り上がりが絶妙だ」みたいなのは理由にならない。本当はエロ小説と一緒で男子も女子もただセックスをしたいだけだろうに、少女マンガは開始30ページではフェラチオをしはじめないのです(するのもあるけど、それはここで言うところの「少女マンガ」の定義からは外れるのです)。となれば、普通に学園生活を送っていて、何百人も女の子がいて、よりどりみどりの状況の中で、王子らはなぜたったひとりの主人公を選び出すのか(10人くらいキープしとけばいいじゃねえかと思うが、王子は純愛主義なので決してそんなことはしない)。
 もう思いつくのはひとつしかなくて、それはにおい的なものではないかと思う。主人公から分泌される独特のにおい物質が、王子らの股間には直撃するのだと思う。あれはそういう反射から発生している物語なのだと思う。それしか本当に考えられない。
 だからエロ小説の話の際に、「男子はとにかく『自分のちんこはかわいいのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と言ったのに続いて、今回は、「女子はとにかく『自分が分泌するにおい物質はセクシーなのだ』って、そのことだけを強く信じて生きてゆけばいい」と、ドリアン破皮狼先生は君たちにメッセージを送りたい。だからイジメになんか負けないでほしい。

2009.12.8

 少女マンガを読んでいて、切なさにキュンキュンする。
 少女マンガを読むたびに宇佐木学園も少女マンガ風にしたいと思うのだけど、男性の登場人物があのふたりではどうしたって不可能だ。じゃあホガラカノイロオゼはどうかと思うが、こちらもなぜかうまくいかない。要するに才能がないのだけど、でもやっぱ諦めんのとかマジかっこ悪ぃし、なによりそんなの俺らしくねえし、イラクの人たちのこと嫌いになれねえし、親も年だし、ここらでひとつ少女マンガ性に特化したブログをひとつ、新しく作ってみるのもいいかもしれないと思った。
 ところで以前までは僕が「新しくブログを作ろうと思うんだ」と言ったら、ファルマンは「キャハハハハー」と爆笑してくれたものだったのに、今回は「あそう」と冷たい反応で、とても寂しくなった。最近は宇佐木学園も読んでくれないし。寂しがり屋の狼少年が、みんなから気にかけられたいがゆえに嘘ばかりついて、やがて誰からも相手をしてもらえなくなったように、このブログ狼少年(26歳)も、とうとう愛想をつかされ始めたのかもしれない。がるるるくぅーん。

2009.12.6

 フィギュアスケートのエキシビションを観ていて、エキシビションやりたいな、と思った。あれは非常によくできた一発芸大会だと思う。ショートプログラムやフリープログラムって、結局はエキシビションで落とすまでの前フリなのだな。そちらの成績上位者のみがエキシビションを披露する権利を得る、というあたりがその確信を深める。緊張と弛緩。ためてためてどーん。マジでがんばった奴だけがボケの破壊力を増幅させるのだ。
 というわけでブログにもそういう大会があればいいと思う。
 まずはショートプログラム。参加者は規定のキーワードを使いながら400字くらいで記事をうまいことまとめる。それを審査員が採点する。ブロガーは記事をアップしたあとはソファーに座って得点発表を待つ。ここで出遅れたとしても次のフリーで逆転はいくらでも可能だ。
 フリーでも規定のキーワードを使いながら記事を書く。ただしフリーは文字数が増え、3000字くらいになる。なので実際のフィギュアのフリーと一緒で、確実に途中で退屈になることだろう。下手したら誰も読まないかもしれない。そういうときはたまに派手なジャンプを試みるとよい。ブログにおけるトリプルトウループがいったい何を指し示すのかは、それは各自で考えてもらうとして。
 そしてそのふたつの得点を合計して、最終的な順位が決定する。順位上位者は晴れてエキシビションに出場だ。エキシビションでは完全になにをやっても自由で、ユーチューブを貼ったりしてもいい。これは浅田真央が実家の犬を抱いて演技したみたいな、そんな感じの飛び道具ということである。いっそ本当にそのときの演技の映像を貼ってもいい。
 そういうブロググランプリ。ただしひとつ問題なのは、ブロガーって実は常にエキシビションのリンクの上を滑っている、ということだろう。わざわざ場を用意されるまでもなく、ブログはいつだってエキシビジョン。女の子は誰だってプリンセスなのよ。
 つまり何が言いたいかと言えば、なんかたまにそういう企画が立てられ、腕に覚えのあるブロガーたちが集ってそれぞれが記事を書いたりするけど、そういうのって本当にウザいよね、ということだ。あれ? そういうことだったのかな。本当はただ純粋に、織田信成がとっても愉快でしあわせな気持ちになったってことだけが言いたかったような気もする。
 そう言えば以前、「SNSなんかクソ喰らえだ」「フォロワーとかマジでキモい」といつものように管を巻いていたらファルマンが、「でもああいう場ができることによってコミュニティを作りたい目的の人はあちらに行ったから、ブログ界そのものは浄化されたのだ。そして私はそれをとてもいいことだと思う」と、マザーみたいなことを言い出し、その場では「ああ、俺の奥さんやっぱりキモいなあ」とだけ思ったのだけど、上に書いたような「腕に覚えのあるブロガーたちが集結してやる企画」みたいな、そういうのはたしかに純粋なブログ媒体ではあまり見かけなくなったような気がするので、キモ神様の言う通りでいいことなのかもな、ともちょっと思う。

2009.12.6

 「校内写生大会」と「咥内射精大会」みたいな、読みが一緒で漢字が違う、というのは好きなのだけど、その逆で漢字が一緒で読みが違う、というのは嫌いだ。これって普通に機能的じゃないと思う。そういうのをこれからの人生でひとつひとつ潰してゆきたい。
 そんなわけで最初の標的は「最中」だ。これって「さいちゅう」とも「さなか」とも読むじゃないか。これが嫌。「さなか」のつもりで書いたのに「さいちゅう」って読む人がいるんだろうな、と思うと本当にすごく嫌になる。ちなみに和菓子の「もなか」に関しては気にしない。それは平仮名でも片仮名でも自由にやればいいと思う。
 そんなわけで提案したいのが、「最中」は「さいちゅう」とだけ読んで、「さなか」は新しく「乍中」という表記を充てる、ということだ。「ながら」の「なか」なので意味的にもぴったりだ。
 これはいい。これで明るくなったらう。日本語特有の問題点、テンション下がるポイントが、これでひとつ改善された。いいことをしたので気持ちがいい。もう僕のパソコンでは辞書登録も済ませた。これからは書いているすべてのブログで、普通の日本語のようにサラリと使ってゆこうと思う。今日の日記を読んでいない人にとっては「それこそ読めねえよ」って話だけど気にしない。読めないのなら読まなければいいと思う。言っとくけど「ブログは読まれなければ読まれないほど愉しくなる」という真理を喝破した僕に、怖いものなんてなにもないのだ。