2009.9.5

 ファルマンが「うわのそら」に書いた内容に関し、知らない人からメールで苦言を呈されたそうで、荒れていた。その荒れはそのまま一緒に暮らす僕のほうにやってくるので、いい迷惑だ。
 それにしてもファルマンの日記に苦言を呈するとは怖いものなしだ。怖いものなしと言うか、そのメールの送り主は名前もメアドも記載していなかった(メールフォームからの投稿)らしいから、ずいぶんと無責任な話だと思う。明日からカナダに引っ越す寺井君が出発前の最後の日にグループ内の陰口をぜんぶぶちまけていった、みたいな、そのくらいの無責任さ。めんどくさいことになるに決まってるじゃないか。ファルマンがどれだけ「うわのそら」に依存していると思っているんだ。それによって迷惑を被った立場として、どうしたって文句のひとつも言いたくなる。
 ネットは開かれた場なのでネチケットを、とか、そういうのは、交流目的サイトのみでどうか適用していただいて、そうやって誰にもに不満の存在しない調和世界を構築していっていただいて、悪い部分を糾弾廃絶してゆくことにより空間はどんどん浄化され、嫌われ役を買って出たあなたはいつの日か聖人と崇められればいいのであって、どうか「うわのそら」や僕のサイトのような、コメント禁止の放言日記ブログのことは放っておいてほしいと思う。なにかひとつ頑迷な常識を持っている人っていうのは、個別の事例に関して柔軟に捉え方を分けることができず、その作業をすぐに怠けようとするから、バラつく無数の事例を混同してしまい、おかしなことを言い出す。
 じゃあネットで公開せずにノートに書けばいいだろう、というのはよくある反論で、さらに、じゃあなんでメールフォームを設置しているんだ、コメント禁止を誇らしげに唱えつつ閲覧者との交流を完全には閉じていないのは中途半端じゃないか、というのもすぐに思い浮かぶ安易な否定なのだけど、このふたつのピーチクパーチクには同時に答えることが可能である。
 つまり僕らはウェブ上に公開することによって褒められたいのであり、メールフォームはそのための、閲覧者が褒め言葉を送るための場所である。そういうことなのだ。さらに言えばこれは僕のみの意見だけど、褒めるという言葉さえも嫌いで、なぜかと言えば、それだと褒める側の人のほうが上みたいになってしまうからで、俺のことは褒めるんじゃなくてむしろ称賛してほしいとさえ、以前にも言っている。だからとにかくメールフォームって言うのは、決して内容に関して気分を害した人が苦言を呈するためのツールではない。
 そもそも個人ブログというのは、書いている人の心の中が表出されたものだろう。普通、他人の心の中は覗けないが、いろいろな条件が満たされることにより、文章化され目に見えるようになる場合がある。それが個人ブログである。だとすればそれを糾弾されるのはおかしい。もしも他人の心が覗けるようになったとして、街に出た場合、道行くまじめそうなサラリーマンが、心の中で女子高生へのレイプ願望をたぎらせていたとしても、それを口に出して責めていては、自分のほうが狂ったと思われてしまう。人なんて心の中では非道徳的なことをいくらでも考えているのだ。そんなこと当然で、だってそれが本能なのだし、それを責められるのだとしたら人類なんて存在できなくなってしまう。個人ブログへの苦言とはつまりそんな、アクロバティックな筋違いの離れ業をやっているということなのだ。実はサーカスでいちばんテクニックが必要なのはピエロなのだ。
 でもこんなこと、ずいぶん時代遅れな話だよな。なんでいまさらこんな低レベルな話なのだ。まったく恥ずかしい。高校2年生の書く小論文のようだな、この文章はまるで。
 でも「うわのそら」に依存している(「うわのそら」はファルマンの心なのだからしょうがないが)ファルマンは、あのメールのせいで相当に精神を掻き乱されたようで、それがどれほどかと言えば、歯をだいぶ食いしばってしまったため歯が痛み出し、今日の午前中に歯医者に行くはめになるほどだったので、他人の心に対して一方的に苦言を呈するということがどういうことか、その人に伝えるためではぜんぜんなくて、妻をなぐさめるためにこうして書いた。優しい夫だと称賛されたい。