2008.10.23

 結局のところ、話はちんこに尽きるのであろうと思う。
 純粋理性批判において主人公の男子の設定は、もちろん金持ちであったり王子であったりする場合はあるものの、それはむしろ少数派で、長けた能力もなければ裕福でもない、ごく一般的な少年である場合が多い。
 しかしごく一般的な少年であるならば、なぜ彼はそんなにも、三人とか四人とかの少女たちから熱烈に求愛されるのか。
 この理由づけにたびたび登場するのが、ちんこのサイズなのだ。
 基本的に「優しい」だけでしかない主人公は、気の強い少女たちによる逆レイプのような破目に往々として陥る。
 腕ごと身体を柱に縛り付けられ、無抵抗にされた上で、主人公のズボンとトランクスは、どうしたって一気に脱がされる運命にある。逆にこうも言えるだろう。脱がされないトランクスはない、と。
 そしてトランクスを脱がされることによって現れるのは、平均よりもはるかに巨大なサイズのちんこなのである。
 これを見て、彼を虐げようとしていた少女はおののく。
 な、なによこいつのサイズ、こ、こんなの見たことないんだけど、となる。
 それでも少女はすぐに屈服するわけではない。まずは強がって、やはり彼のちんこを苛めなければいけない。
 しかし勇気を振り絞って巨大なちんこを苛める少女に、喘ぎながらも主人公はさらなる試練を与えるのだ。
 そう、そのちんこはさらに巨大化するのである。
 ま、まだおっきくなるの、お、おかしいよ、こいつの……、となる。
 そうなってしまえばもうこっちのものである。かくして少女は主人公の下に陥落する。
 純粋理性批判の主人公は、このようにして複数の少女から同時に、違和感なく求愛されることになるのだ。
 この「ちんこが大きい」という手段こそ、純粋理性批判の画期的な部分だろう。
 それ以外のそんじょそこらのレーベルの小説では、主人公は「優しさ」のみで少女を虜にすることが多い。しかしそれに現実味がないことは、純粋理性批判の読者である大多数の優しき青年たちが、身をもって証明しているのである。優しいだけでモテるのならば、俺がモテてないのはおかしいだろ、となる。
 それゆえの「ちんこが大きい」という発明である。
 高校生の頃モテていた奴は、ぜんぜん性格がよくなかったけど、たしかにちんこが大きそうだった、実際に見たことはないけど、おそらくはちんこが大きかったのだろう、それゆえにモテていたのだろう、読者はそういう風に考える。
 そして「ちんこが大きい」という発明のもうひとつの長所として、「俺のちんこも割と大きいのではないか」という疑いが拭いきれない、ということが挙げられると思う。
 俺、最大勃起時のちんこはまだ誰にも見せたことがないし、さらに言えば俺自身も知らない勃起、例えば柱に縛り付けられて複数の女の子たちからトランクスを脱がされるような、そんな状況だったら、ちんこは俺史上最高の勃起を見せ、それは少女たちをおののかせ、陥落させるのではないか、と読者は思うことができる。
 だから純粋理性批判の女の子たちは、ちんこばかりを尊ぶのだと思う。ちんこを褒められることだけが、読者に残された最大にして最後の希望なのではないだろうか。