少女の人数は何人が適当なのか。
これは純粋理性批判について考える上で、永遠につきまとう命題だ。
ある者は「三人だ」と言う。
これはつまり最終的な大団円で、ひとりは主人公とセックスをし、ひとりは主人公にクンニされ、もうひとりは主人公のアヌスを舐めればよいのである、という考えである。
それに対し「四人だ」と唱える人たちがいる。
これは主人公とセックスする少女をひとり増やし、ふたりの少女はまるで正常位でことを行なうように一方が一方に覆いかぶさり、主人公は上下にふたつ並んだ女陰に、思い思いのタイミングで好きなように男根を挿れればよい、という考えである。
大体はこの二派に分かれる。
そしてこのセックスの仕組みだけを見れば、三人よりも四人のほうが優れていると見る向きは多い。挿れる女陰がひとつしかないより、ふたつあったほうが都合がいいのは言うまでもない。
しかし話がフェラチオに至った場合、四人派は少々分が悪くなると言わざるを得ない。
もっとも、時おり四人で行なうフェラチオが小説内に登場することはある。しかし実際の問題として、ひとつのちんこ、亀頭から陰嚢までのすべてを含んだとしても、それを四人で分配することは可能だろうか。どのようなチームワークを発揮したところで、どうしたって頭が密集してしまい、お互いがお互いを邪魔し、少女らの舌はちんこまで届かなくなってしまうのではないか。
その点三人の場合のフェラチオは考えやすい。棒担当ふたり、陰嚢担当ひとりと考えてもいいし、またはその逆でもいい。どちらにせよ少女らの頭はギリギリでぶつかることなく収まる。収まるはずである。実験した上で記述できればよかったのだが、残念ながら機会に恵まれなかった。これに関しては純粋に読者諸兄に謝りたいし、今後の人生で貪欲にチャンスを求めてゆきたいと思っている。
話を進めるが、つまり図式としては、三人派と四人派は、それぞれフェラチオ派とセックス派に分けられる、ということになる。逆に言えば、フェラチオを尊ぶならば三人だし、セックスを尊ぶなら四人だ、とも言える。
これならこれで単純な話だった。あとは好みの問題だからだ。
しかしここへ来て四人派からの反論が出た。
彼らの主張はこうである。
「三人にフェラチオされながら、そこからあぶれたもうひとりには、アヌスを舐めてもらえばよいのである」
言われてみればその通りであった。これにより三人派の立場はきわめてまずくなった。三人派は自分のちんこに群がる三人の少女を見下ろしながら、ノータッチの肛門の切なさに思い至り、討ち死んだ。
アヌスが勝敗を決しただけに、これぞまさに天下分け目の戦いであった(うまい気がする)。勝利の二文字は四人派のもとに舞い降りた、かのように思われた。
しかしここへ来て、これまで沈黙を守ってきた五人派が台頭してくる。
五人派の主張はこうである。
「三人にフェラチオされ、ひとりにアヌスを舐められ、もうひとりとキスをすればよい」
それを聞き、四人派は唇の切なさを恥じながら死んだ。
奪い取った頂点へ安穏とする五人派へ、しかし今度は七人派が挑んでくる。
曰く、「三人にフェラチオされ、ひとりにアヌスを舐められ、もうひとりとキスをし、さらにあとのふたりからは乳首をいじくってもらえばよいのではないか」
五人派は両乳首の切なさに耐え切れず、ことごとく自害することとなった。