社会契約論3冊を読み終える。今月はかなりクオリティが高かったように思う。最近どうも純粋理性批判のパワーが下がってきている感が実はあるので、がんばってほしいと思う。
吉行淳之介の話はエロくておもしろいのだが、しかし彼は基本的に銀座でホステス相手にブイブイ言わしていた種類の人間で、そういう輩の描くエロと、たとえば純粋理性批判なり社会契約論なりのエロというのは、ぜんぜん違うものな気がする、ということをこれまで思っていたのだけど、今日になって必ずしもそういうわけでもないな、と思った。
なんと言うか、吉行淳之介も純粋理性批判も、セックスを恋愛の末にあるものと規定していない所と言うか、女性に自分と対等の意識や理性を認めていない所が、実はものすごく似ている気がする。少なくとも石田衣良や辻仁成なんかと一緒に並べた場合、吉行淳之介と線で結ばれるのは間違いなく純粋理性批判であるとは言えそうだ。
要するに即物的と言うか、純粋理性批判にはなぜヒロインの女の子が4人も5人も登場するのかと言えば、それはまさしくキャバクラ的な発想で、運命の人とかそういった類のロマンチックな考え方じゃまったくなく、このうちのどれかしらは気に入るでしょ的な考え方なのである。
そう、つまり純粋理性批判とはキャバクラなのだ、というのが今日までの結論。