2008.6.27

 とは言えこの場で言いたいのはそういうことじゃなくて、なにかと言うと、僕が区役所へ向かって歩いていた時、僕を抜かしていった自転車の女子高生の、シャツを羽織っただけの背中には、水色のブラジャーが割とはっきりと透けていた、ということであり、しかしただブラジャーが透けていただけでは僕だってさすがにもう、24歳で、籍を入れるための戸籍謄本を取りにゆくその状況で、それほどまでは興奮しないのだけど、それでは僕は一体どこで心が動いたのかと言えば、僕が労働を3時で切り上げ、その日その場所にいたのはまったくもって偶然であり、だがその偶然があったからこそ僕は彼女の透けるブラジャーを見ることができた、そうでなければそのブラジャーは見られなかったのだ、という到達にこそである。
 この「見られなかったブラジャー」という概念は発見であると思った。
 もう2ヶ月くらいも前になるが、GWにファルマン3姉妹がさほど広くもないというペンションの風呂に一緒に入ったというエピソードを聞いて、いてもたってもいられない気持ちになった僕は、「世界は「実らなかった甘酸っぱさ」であふれてる」という真理を得ることで気持ちを落ち着けたわけだが、今回もそれと同じ事情だ。「世界は「見られなかったブラジャー」であふれてる」。
 この「見られなかった」には、僕視点からの「不可能」と、ブラジャー視点からの「受身」というふたつの意味が含まれている。世の中には、見ることができなかったブラジャーと、見られないままお風呂のとき外されたブラジャーばかりがある。「甘酸っぱさ」の時と一緒で、僕は今回もそれをたまたま獲得したことによって、その背後にある圧倒的な喪失に思い至ったのだった。
 現時点で僕はこう思う。世界は「実らなかった甘酸っぱさ」と、「見られなかったブラジャー」にあふれてる(これはきっとそのうちもっと項目が増えてゆくことだろうと思う)。
 2ヶ月前の前者の発見の記事では、僕はそのことに対し、いいとも悪いとも書いていない。ただ発見したことだけを書いている。自分でもよく分からなかったのだろう。でも今の僕なら分かる。これはいいことだ。存在しない豊穣こそが、目の前にある芽生えを輝かせるのである。
 そのことを踏まえつつ、しかし限られた人生の期間で、僕はなるべく「見られなかったブラジャー」を潰してゆきたいと思う。そうして「ブラジャーが見られた」ところで、どうせその背後にある桁違いの「見られなかったブラジャー」には敵わないのだとしても、それでもなお僕は、自分がこの世に生きている意味とかを確かめるために、僕は――。