ファルマンから実家のほうでの話をいろいろ聞いて、そのなかで特に印象に残ったのが、最終日の岡山のペンションにて、3姉妹で一緒に風呂に入った、というエピソードだ。
ちなみに風呂は温泉とかそういうわけではなく、割と普通の風呂だったそうだ。おそらく一般家庭のそれのひと回りかふた回り大きいくらいだったんだろう。ペンションなんてそんなもんだ。
そんなぐらいの規模のお風呂に、18歳と21歳と25歳の3姉妹が、一緒に入ったのだ。
その事実を聞いたとき僕の胸に去来したのは、なにか圧倒的な喪失感と言うか、もったいないことをしたという後悔みたいな気持ちだった。これは考えてみればおかしな話である。だって、一体なにがもったいないというのか。たとえ僕がその情報をリアルタイムで掴んでいたとしても、またたとえそのペンション宿泊に僕が参加していたとしても、3姉妹のその入浴に僕が介入する可能性は皆無なのである。現実は現実なのであって、純粋理性批判ではないのだ。それなのに、僕はいったいなにを失ったと感じたのか。
今日1日それについて考えて、4時ぐらいにやっと、それとは「甘酸っぱさ」ではないかと看破した。僕が失ったのは「甘酸っぱさ」、いや正確に言うとそうではなく、これまでの人生で「甘酸っぱさ」を失っていた自分を発見したということなのだ。
つまり上の出来事を例にとって考えると、存在したかもしれない展開は以下の4通りである。
A:3姉妹が風呂に入るのを事前に知り、僕も一緒に入った場合
B:3姉妹が風呂に入るのを事前に知り、僕は入らなかった場合
C:3姉妹が風呂に入った事実を、知らずに終わる場合
D:3姉妹が風呂に入った事実を、あとから知った場合
このとき、僕が「甘酸っぱさ」を感じるのは、BとDのふたつである。Aの状況は想像もつかないし、Cはなにも感じようがない。そして実際はDだった。
つまり僕は今回の場合において、「甘酸っぱさ」を獲得している。それは幸いなことである。「甘酸っぱさ」とは文字通り、人生における果実のようなものだと思う。なるべくなら多いほうがいい。
けれど実際のところその収穫はあまり容易というわけではないのだ。なぜなら土地がなければ果実は育たないからだ。この場合で言うと僕にファルマンという恋人がいて、彼女には妹がふたりいて、家族でGWにペンションに行ったという、そこまで揃ってようやく土壌となる。とは言えそこまでがとにかく難しい。
ただ豊かな土壌さえあれば、あとはそこに「3人で一緒にお風呂に入ったことを知る」という果物が実るかどうかだけの話である。つまり土地を得ることこそが肝要なのだ。
そして無数にある人生の選択肢の中で、人が実際に得られる土地は全体のごく一部で、それに巡り合うことは奇跡的な確率だということになる。得られる土地よりも、得られる可能性はあったのに結果的に得られなかった土地のほうがはるかに多い。
だとすれば、「世界は「実らなかった甘酸っぱさ」であふれてる」ということだ。
今回僕は圧倒的な「甘酸っぱさ」を獲得したことにより、その背後にあるさらに圧倒的な、「実らなかった甘酸っぱさ」の存在に思い至ったのである。これはそういう話だったのではないか。