しかしこれまでも薄々感じていて、今回の記事の邁進で確信になったのだが、僕の記事たちはやけに入り組んでいて、パッピローニが『女の子すらんぐ』について言及したり、雪子が夢でクチバシに出会ったりするわけだが、それらというのは僕がそういうリンクが好きだから発生するというのももちろんあるものの、真の理由というのは結局のところ、「世界が狭いから」なのではないかと思う。描こうとする世界の狭さが、書こうとする事象の重複を生み、そしてそこにリンクという言い訳が出来上がるのだ。
そう考えて思い出されるのはファルマンの日記、「うわのそら」だ。あれって数年前から毎日、変わらぬテンションで日々の彼女の精神が綴られているが、この論で言えばもはや超絶的なリンク度合ということになると思う。まあ日記なんだから、日々の連なりなんだから、事象がリンクしてるのは当然なんだけど。
結局この話の結論になかなかたどりつかないな。
と言うかファルマンのそれは普通リンクとは言わないのか。世界が広いも狭いもなく、それは彼女の日常なのだから。僕の場合はブログに多分にフィクションが含まれるので、世界とかリンクとかいった言葉が彼女のそれよりも使いやすくなっているのだろう。
しかし僕とファルマンのブログに共通している大きな特徴として、「ずっと自分の話しかしていない」というのがあると思う。重複はこれゆえに起こるものであって、だとすれば重複はリンクなどと卑怯に言い換えるまでもなく自然なことなのかもしれないとも思う。それは書けば書くほど、重ねれば重ねるほどに輪郭や厚みを生んで、それぞれの人間の世界の形を作り上げてゆくのではないかと思う。だとすればそれはもしかしたら日記を書くことそのもの、引いては生きることそのものの目的になりうるかもしれない。そしてそのように考えると、むしろいつまでも記事が重複することのない、自分以外の世の中のニュースとかについて言及しているブログの意義とは一体なんなのだろうかとも感じられてくる。ああいうのをやってる人は、どんどん世界が茫洋としてきやしないのだろうか。
そんなこんなで要するに何が言いたいのかということだが、先日から触れている「I★PP」バッヂに関し、これの「★」をなんと読むかと言えば、それは「ラブ」でもなければ「ほし」でもなく、正解は「peep」なのだ、ということだ。I peep purope papiro、私はプロペパピロウの世界を覗き見ます、ということなのだ。これはそこに着地するための話なのだった。このバッヂを付ける者は、破皮狼の重複にまみれた狭い世界を、隅々まで覗き倒す者。だから誰よりもまず先に僕が、鞄の目立つ位置に付けて毎日労働に行っている。