ヤフーニュースに「若者のブログ離れ」とか「ダダ漏れ女子」とかっていう記事が出ていて、なんかいろいろ考えさせられた。僕はもう時代遅れらしいブログの地点にすっかり居ついてしまい、それ以降のツイッターやダダ漏れにはものすごい拒否感がある。
レコード好きの中年とかがよく、「CDやデータの音楽では、圧縮された最低限の音しか再現できていないから、軽いんだよね。レコードには人の耳では聴こえない音域まで入っているから、それが聴いていて身体全体に心地よさを与えてくれるんだ」みたいなことを言うが、それとまったく同じように、ブログを賛美してツイッターやダダ漏れを貶めたい。ツイッターやダダ漏れでは、目に見える最低限の表層部分までしか表現できない。つながりとか情報とかデータとか、そういう浅ましい部分しか掬い取れない。
これは本の辞書と電子辞書にも似ていて、よく言われることだが、電子辞書は指定した言葉を的確にピタッと示してくれるだけなのに対し、本の辞書ではページをめくって探し出し、その途中で別のおもしろい言葉を発見したりできるだろう。そしてそういうのを見つけたときに頭に入ってくるのは、情報とか知識とかっていうつまらない言葉で呼ぶものじゃなく、エキサイティングな快感なのだ。情報や知識が大河なら、それは言わば支流で、でも支流があちこちにできると、そこに人がやってきて集落ができる気がする。雑学と言ってしまうと非常につまらないのだけど、脳の中でそういうことが起こっている感じがたしかにあるのです茂木先生。
ブログの文章ってたしかに冗長なところがある。どう考えても読むのがだるいブログというのはある。クチバシダイアリー筆頭に、むしろそっちのほうが多い。文章を書く奴というのはどうしたって書いているうちに調子に乗って、自分が書きたいだけのこと、閲覧者のほとんどが知りたくもないだろうことまでを書いてしまうものなのだ。それがあまりにもひどいときは読まなければいいだけの話で(足跡なんかつかないので安心です)、でもがんばってそういうのを読むと、けっこう辞書の途中のページで見つけたおもしろい言葉的な、なんか自分にとっておもしろく感じられるものがけっこう書いてあったりする。そういうのがブログの味わいだろうと思う。
そう考えるとブロガーというのは、編纂者みたいなものなのだと思う。辞書だって、同じ日本語について書かれたものでも編纂者によって内容が大きく変わったりする。同じ日を生きていても、編纂者によって世界は変容するのだ。「朝青龍の引退ショック」とか「『アバター』観てきた。感動」とか、最低限の情報を伝えるだけだとみんな同じになっちゃうじゃないか。
俳句って17文字しかなくて、しかも季題俳句だとみんなで共通の季題を入れなくちゃならなくて、じゃあ他の人と17文字まったく同じ句っていうのもできちゃわないのかな、と思うが、これが意外とできない。ビギナーばかり集めたカルチャーセンターの実作とかでは、みんな月並のつまんないのしか作らないから、「陽が差して梅のつぼみが笑ってる」みたいなのが思いっきり被ったりするのかもしれないけど、でも基本的には滅多にない。これはなぜかと言えば、俳句には情報がなくて、ほぼ支流そのものだからなんだろう。誰かに伝えようとも思わず、自分の言いたいことを言うだけなので、内側の研ぎ澄まされた部分だけなのだ。詩なんだもの。自分とまったく同じことを考えている人なんていないのだから、それなら被るわけがない。
しかしそれと同じ文字量で情報を伝えようと思ったら、それは被るに決まってる。被って、そしてぜんぜんおもしろくなくなる。お前とお前とお前は発言しなくてもよくなる。
リアルタイムで話し合いができるから企業などで便利、というのはまあ分かる。ビジネスツールのことなんてぜんぜん知らんから、勝手にすればいいと思う。じゃあツイッターのなにが嫌って、「情報」とか「意見」とか「ログ」とか、本当は単なるチャットへの書き込みに過ぎないくせに、このブログ様の「記事」というすんばらしいものと、ちょっと同等、あるいはそれ以上みたいな扱いだったりするじゃないか。編纂してないくせに。工夫してないくせに。ただ漏らしているだけのくせに。ああだこうだ言ったが、要するにツイッターのそこが嫌だ。ぽっと出のお前が口のうまさだけでお殿様に重用されてしまったら、実直に米を作ってきた我々の立場はどうなる。