2009.6.25

 梅雨の季節に水玉模様のホックを着ける女子高生のことを考えていた。
 許容量を超えた昨日の感激が、昨日のうちに処理しきれなかったのだ。それは今日まで後を引き、僕は労働をしながら反芻するようにその事実を味わった。
 昨日の日記に書いたように、なぜ僕がその水玉を目にすることができたかと言えば、雨が上がったからである。雨が上がって気温が高まったから、少女はブラウスだけになって、僕の目に下着を晒すことになった。だとすればそのが柄が水玉というのはなんとも皮肉な話だ。
 あるいは世界中の雨が少女のおっぱいに集中した結果、世界は晴れ、少女のホックは水玉になったのかもしれない。「をとめごのCカップめがけ世界中の雨雲集う梅雨の放課後」「もしかしてあの子のホックの水玉はやっと上がった雨なのかもね」唐突な短歌2首。
 とは言え少女のホックの水玉に持たせられる水気のイメージは、雨だけにはとどまらない。少女が「ブラウスはブラが薄うく透けるからブラウスだっていとこうそぶく」ばりにホックを晒しながら町を闊歩することによって発生する水分というのが、他にもあるだろう。
 カウパー氏腺液である。
 「をとめごが晒すホックの水玉は男子の零す我慢汁かも」
 光線を浴びて、光合成して、芝生を萌えさせ、汁が出る。この自然な流れ。あのポンキッキとかでよくあった、種を植えた朝顔が発芽し、棒に蔦を絡ませ、やがて花開くまでを、高速早送りで、昼と夜が目まぐるしく入れ替わるなか展開される、あの映像くらいに自然な流れ。
 ここまで考えて、ああそうか、僕は勃起を芝生と捉えているから、芝生から汁が出ることが自然に受け止められるのだな、と思った。と言うか朝もやの中の芝生、あの夜露を限界まで含んだ生臭い草の臭いというのは、生命そのもの、精液そのものと言ってもいい。ああ、やっぱり勃起って芝生なんだ。そう考えるとうまくいくことがあまりにも多すぎる。
 平安貴族の短歌における「朝露」は精液のことだ、という話があるだろう。同時にそのことも思い出された。平安貴族はちんこから垂れる精液を、朝露を滴らせる草(芝生)と言い換えた。ずいぶんとおしゃれで阿呆な言い換えである。なんだ、1000年も前に平安貴族がすでに、勃起ちんこのことを芝生と表現していたんじゃないか。だとすれば芝生論は別に新しい考え方ではない。勃起につながるちんこの変化を「萌え」と草冠で表現することになったのも、まるで違和感がない。ちんこはずっと前から芝生だったんだ。草木だったんだ。