2008.1.10

 学年題を制定する作業をしていると、たまに「どうして俺はその題をその学年にしたのだろう」と思う時がある。おそらく決めた際は熟慮の末の確信をもってやったのに違いない。しかし時間が経つとその根拠がぜんぜん分からなくなるのだ。一体なんでだろう。なんで僕は「跳び箱」を高校2年生としたのだろう。本当に分からない。
 ところでそれに関連して今日思いついたことに、cozy rippleに何年ぶりかの掲示板を復活させ、そこに閲覧者の方々からの「この言葉を中3の学年題に!」みたいなリクエストをもらってみてはどうだろうというのがある。それに対し管理人たる僕は「採用」か「却下」、あるいは「(もとい)高2」といった2文字のみの返信をしてゆくのだ。
 これは実現すればとっても素敵なアイディアだと思う。一向に高まらない学年題俳句の気運が一気に息を吹き返し、ついでに1000詠も活性化するかもしれない。
 だけどきっと実現しないだろうなと思う。掲示板やコメント欄の理想通りにいかなさを、僕はもう実感しすぎてしまっている。理想通りに事を運びたくてサイトを運営しているのだ。「理想通りの世界には、団体行動じゃ決して届かない」んだよ。
 いいこと風にどうしようもないことを言ってみた。
 そんなわけなので独りコツコツ学年題をあさるため、「nicola」や「SEVENTEEN」を眺めている。やっぱり学年題のテキストとしてはこの2誌が相応しい。
 眺めながら「恋バナ」とか「プリ帳」といったキーワードを紙に書き出す僕を、ふと目を上げるとファルマンがじっと見下ろしていた。
「哀しいかい?」僕が訊ねると、
「もの哀しいよ。もの哀しくも、愛しいよ」