学年題俳句とは 下
しかし堂々と宣言することでもないが、誰にも共通の話題としての季節および時候と言いつつ、植物や天候や生きものといったものに、僕などはそれほど関心がないと思う。生まれた頃から道路はすべてコンクリートだし、食べものの旬というのもよく分からない。季節の変化とはすなわち気温の変化、またそれに伴う少女の衣服の表面積の大小であるというくらいの認識で生きてきた。
こんな人間が季語をテーマにして詩など詠めるはずがないのである。「季節感の素養」という言葉はいかにも世も末な風味があるが、僕にはまさしくそれがない。
それでもしばらくは少女に発生する季節感を頼りにして俳句を作ってきた。少女は夏には水着になり冬にはダッフルコートを着るので、それを季語と結びつけて詠むのである。
これはこれとしておもしろかった。しかしやっているうちにひとつ気付いたことがあり、すなわちそれは、季語は必要ない、ということだった。詠みたいのは女の子だけだったのだ。水着も詠みたければダッフルコートも詠みたいが、それは女の子の可愛さについて詠みたいわけであり、別に季節について詠みたいわけではなかった。それなのに季語はひとつの句の3分の1もの容量を奪うのだ。なんという無駄か。しかもダッフルコートは季語でない。
また仮にそれをどうにかしたとしてもまだ問題がある。それは、季語は往々にして永遠性を詠うのに対し、少女美とは一瞬性であるということだ。そのためそれをひとつの句の中に内包させることは、句がちぐはぐなものとなることを意味する。
もちろん、自然界の悠久さを引き合いに出すことにより生の短さを強調するのだ、という意見もあるだろう。もちろんそのことが分からないわけではない。
ただしことはそれほど簡単ではない。季節は365日周期でいつまでも巡り、その中に生きる人間の生命は短く、そして少女の美しさはきわめてはかないが、しかし少女にはその一瞬の中で、季節にも人間にもない特殊な区切りが、春夏秋冬を巡る少女期の彼女たちには、存在するだろう。
すなわちそれは学年という。
この概念を明確にしないことには、少女たちを詩に詠むことなど不可能である。なぜなら巡りくる春は毎年なにも変わらないが、中学1年生の感じる春と高校1年生の感じる春では大きく異なるからだ。
つまり限られた文字数の中でルール設定しようとする場合、少女美を詠むにあたり明確にしなければならないのは季節ではない。学年なのだということになる。
そこでここに季題俳句とは異なる新しい俳句概念を提案したい。
中学1年生、中学2年生、中学3年生、高校1年生、高校2年生、高校3年生という6つのカテゴリに分けられた学年題を詠みこみ、その年頃の少女美を詠うための俳句形式だ。
すなわちこれこそが学年題俳句である。