学年題俳句とは 上
ネットを利用しての題詠というのが、主に短歌のほうでなされているわけだが、俳句をやる人間としてその状況を眺め思うこととして、俳句における「季題」という装置のことがある。
考えてみればそちらのようにわざわざ銘を打つまでもなく、俳句においてはその成り立ち上、季節の用語をその内に詠みこむという概念が公然として在る。それは絶対的なルールというわけでは決してないが、しかし実際的にかなりの力を持っていることはたしかだ。
その理由について考えた場合、由来という観点からすると、そもそも連歌を発祥とする俳句の来歴というものが大きく関係するのだ、ということになる。しかしその一方で、類別という観点よりこの状況を捉えることも可能なのではないかと思う。
すなわち同じく575の句形を有する川柳との差別である。季語はそのために、俳句の独自性を高めるためにこそ、声高に叫ばれているのではないか。
俳句と川柳の違いというのは、過去さんざん語られ続けてきたテーマであって、突き詰めればその結論は季語のあるかないかである、というようなことでは決してない。しかし世間ではわりとそれでまかり通っている感があると思う。575で語られた文言があり、その作者がそれを「俳句だ」と述べた場合、多くこのように言われる。「それは俳句じゃなくて川柳である。なぜなら季語が入ってない」
果たしてこの認識が、いかなる立場における者の魂胆によるものなのかはよく分からない。だが誰が仕組んだものにせよ、あるいは自然発生的なものにせよ、少なくとも世間において、俳句は季語により認識されている、というのは言えそうだ。
そこまで考えて、頭の中には季語というものに対する不信感が湧き上がってくる。
俳句と川柳という同形の詩を分類するためにのみ俳句における季語が重要視されるというのであれば、季語とは一体なんとくだらない装置であろうか。詩の質にはまるで有機的に結びつくことなく、認識や前提としてのみ存在している。17という文字数しか持たない詩形式においてそれを詠みこむことは、ひとつの句の実に3分の1を無駄にする行為である。
ここに無季句という考え方も生まれるだろう。述べたように俳句と川柳の違いは季語によるものではないから、理論があれば無季で俳句を作ることも十分に可能である。
もちろんこの文章の論旨は、季語はまったくもって愚なるシステムである、ということではない。来歴から見ればそれを句に含ませようとすることは不自然なことではないし、そのように季節の情趣を詠むという芸術的な意味合いでなくとも、共通の単語を用いることにより他者との比較がしやすくなり、座の文芸たる俳句として好都合であるという要素もある。そのように考えれば季節および時候とは、「話題が切り出しにくいときや見つからないときは天気の話をすればいい」というような、最大公約数的な無難なテーマであり、だからこそこうも俳句のルールとして罷り通っているのかもしれない。なるほどそれはそれで有用であると思う。