つまり「初めて着ける日」でありながら、翌年以降は一年で「唯一の外す日」になるのだ。少女にとり浴衣姿で過ごす祭の夜というのはブラジャーを。そういうことなのだ。そしてまたちなみに言えば、このことを詠むのは季題俳句では不可能である。なぜなら季題では夏を詠むだけだからだ。1年周期で同じものが巡り来たる季節やイベントに対し、少女の時間的な成長、それによる行動や心境の変化というのは、学年題俳句の詠むところである。ここに学年題俳句の存在価値は生まれると言うこともできよう。
次に言いたいのはやはり、浴衣はもともと下着のようなものであったということだ。正確に言えば下着とも違って、どういう扱いだったのかと言えば、夏の行水あとにサッとそれを羽織り、そのままで過ごすというものだったのだ。もちろん裸に布を1枚着けただけのものであるから、危険きわまりないことは言うまでもない。とは言え当然これで外に出るようなことはなく、自宅で過ごすためだけの格好だったから問題がなかったわけである。浴衣とはそういうものだった。それが紆余曲折を経て今のものになった。
それではこのエピソードを知ったとき、僕らは一体どうすればいいだろうか、ということである。裸の上に羽織るもの、それで堂々と外へと繰り出す少女たち、そしてその下にはショーツが穿かれもし、さらには上記のようにブラの問題に頭を悩ませたりもする。なんだか実にゴチャゴチャしている。下着として受け取れば、「下着が堂々と公開されている!」という悦びを感じることもできよう。ただしその下にはショーツがあるわけだ。さらには「下着が堂々と公開されている!」で思い出すのが、これまでもさんざん述べてきた問題としての「下着と同程度の面積しかないのに堂々と公開される水着」の存在である。そして水着の下に下着は着けない。制服の下に水着を着けることはある。じゃあ水着は下着なのか。ならば浴衣の下に水着もありか。しかし浴衣は下着ではないのか。
僕らは一体どうすればいいのか。