2006.2.7

 依然として色々とそわそわしているわけで、そのせいで落ち着いて勉強することができないだとか読書ができないというのはまだ分かるのだけど、しかしこの日記に取り組めないというのは間違っていると思う。たった今そう気付いた。心が平穏でない状態においては文章表現ができないなどという人間は、そのまま心が平穏に戻っても文章表現を再開するべきではないのだと思う。
 生活というものはたしかに色々と大変なものなわけだが、しかしそれは身近に存在する誰もがやっているものなわけで、それをしているだけではその人という個人がこの宇宙に自我を持って生存している意味なんてないのだと思う。遺伝子を繋ぐだけなら単細胞生物だってやってるのだ。人は、単細胞生物はおろか大抵の哺乳類でさえ持っていない自意識というものを持っていて、それは人という生きものの生涯をひどく複雑にしているのだから、そんなものを課されているリスク分をリターンさせるためには、人は単細胞生物にはできないことをしなくちゃいけない。そしてそれこそが表現というものなんだと思う。
 だから僕はどんな状況にあっても沈黙してはいけない。
 そしてこういうことを考えたとき俳句という手段は、生きるということを諸手を挙げて全肯定したくなるほどに尊いものであると思う。俳句の難しい理屈を考える必要はとりあえずない。たった17文字の定型詩という認知で十分だ。17文字で切り取られる世界があって、人は17文字で生きた意味を獲得できると考えただけで、世の中のあらゆることは肯定的に思えてくると思う。