そんなわけで卒論についてぼんやりと考えているわけだが、僕がそれで題にも置くところの「逆にくだらないジョークとしての漢詩」について、それとはつまり性を詠っているもののことなのだな、とさいきんになって気付いた。要するにそういうことだ。
ジョーク自体は性に限らずいろいろなテーマのものがあるけれど、やっぱり人種や時代に関係なく愉しめるジョークといったら性を扱ったものをおいて他にない。やっぱり下ネタが最強なのだ。
そして性とは往々にして恋というものと深い関わりを持つ。恋が発展しての性であったり、恋を隠れ蓑にした性であったり、恋と言い換えられた性であったり。どちらにせよ恋と性は切り離せない。
そして恋と言えば和歌が思い浮かぶ。いちばんはじめの万葉集から恋は山のように詠われてきて、それとはすなわち性の歌でもある。それを詩的に言っている。要するにそういうことだ。
この動物的な性の高まりを、57577の形に当て嵌めるため、レトリックを弄してあれやこれやする。これは文学的であると同時に、非常にくだらないジョークであると思う。逆に。まじめにやっていればやっているほど逆にくだらない。性にまつわるいろいろな用語を、ほかの風流な言葉で言い換えたりするのとか、やっていることは官能小説においてそれらのことを「蜜壺」とか「つぼみ」とか言うのとまったく同じだ。
そして一連の中でもっともくだらない部分は、そういうエロジョークみたいな和歌を、文法を学習したりして必死に現代の学生が勉強している、という点であると思う。平安時代のキモい貴族のおっさんが詠んだほとんどセクハラみたいな和歌の、その理解度で成績がつけられるのだ。本当にこれこそ逆にくだらないタチの悪いジョークみたいだよな、と思う。
卒論ではこういうことを書きたい。