それにしても僕は、季語を肯定したり否定したり、意見をコロコロ変えていると思う。これは一体どうしてなのかと考え、以下のような結論を出した。
「季語のシステム的な有用性は認めるけれど、季節感はそれほど重要だと考えていない」
要するにこうなのだ。なにしろ先日から述べているように、僕の詩のテーマは「少女」である。そして少女において季節感というものは、たしかに必要ではあるのだけど、でも1年はまた巡ってくるのだし、季節だけ詠んでいては真の意味での少女は詠み込めない。つまり大事なのは限られた年数しかない少女という存在の、年齢なのではないかと思うのだ。
そこで提案したいのが、「学年題」という考え方である。
連続する時間を区切る1年という単位を、「春」「夏」「秋」「冬」そして「新年」という5つに区分けする季語に対し、こちらは少女期というものを「中1」「中2」「中3」「高1」「高2」「高3」の6つに分けるのである。そしてそれで示される言葉を用いて575を作れば、それが新しい概念としての「学年題」を詠み込んだ俳句ということになるのではないだろうか。