だから要するに、悪いのは「擬態」という言葉だ、ということだ。この言葉の醸し出す自力感とでも言うべきものが、昆虫の自由進化の能力をにおわせているのだと思う。違うんだ、自力じゃないんだ。たまたま似た感じの外見に生まれたら、他の昆虫が喰いかかってこなくて、子孫を残せただけなんだ。
だからそれは、「擬態」と言うよりは「勘違い」であると思う。
意志は喰われる側ではなく、喰われる側は常に待ちの姿勢なのであり、これまで擬態と呼ばれていた毒のある昆虫とそれにそっくりな昆虫という現象は、常に捕食者によって形作られるのだ。現象は捕食者の意志によってしかできあがっていない。
だからこれまでの書籍で、
「○○ムシは△△ムシに擬態することによって、××ムシの目を欺きます」
などと書かれていた文章は、
「××ムシは、○○ムシがあまりに△△ムシに似ているので、わりと勘違いします」
と直すべきではないかと思う。
そしてこの話はなんだか、そのまま人間社会のさまざまな場面において言えるのではないかな、と思う。本人が擬態したつもりでも、本当は周りから勘違いされているだけだ、といったようなことは往々にしてある。