2005.6.10

 形而上とはもっと漠然とした概念、たとえば愛情だの正義だのといったものに与えられるべき称号なのではあるまいか。なるほどそれらに形らしい形は一切ないし、居場所も頓と不明である。そもそも間違いなく存在するのかを証明することさえ不可能である。にも関わらず言葉として発すれば、それを受けた各人はそれぞれの思索により、それらの概念を漠然と理解するのである。
 こうして考えると、やはりそれらは形而上の真たるものだ。それらの諸概念に較べれば、吾輩とはよほど具体的な存在であり、こうなっては形而上であるなどとは口が裂けても言うことができぬ。それに吾輩の真実なる口は思いのほか小さく、弁論にはまるで向いていない。そのためこんな自己立脚点にゆらぎの生じた非常時にこそ、クチバシたる生命体である吾輩の一大特徴と認めざるを得ない頭上の嘴状の毛塊がパカリと開き、舌鋒鋭くアイデンティティを主張すればよいものを、と思わずにはいられないが、残念なことに、それのせいで餌を得ることができず吾輩を形而下の世界に住まわせぬその物体は、ただただ沈黙を貫くのみである。